季節の変化

活動の状況

チュニジアの通知表

2009-10-25 08:43:10 | Weblog
“世界の表彰・評価”から、“指標”を定めて、“数値”で、
日本の通知表”をみたが、同じ指標で、
チュニジアの通知表”は、どうなるだろうか?

チュニジアは地中海に面した北アフリカの国である。
首都チュニスの高台にあるレストランのテラスから眺めた地中海。

地中海の群青と空の青が溶け合う、その先はイタリアとフランス。
そのイタリア、フランスとは、直行便があって、
地理的に、ヨーロッパとの結びつきが強い。

ケニアは同じアフリカでも、直行便はない。
歴史的にも、イタリア、フランスとのかかわりが強い。
ケニアはイギリスの植民地で、チュニジアはフランスの植民地だった。

「季節の変化」では、チュニジアについて、いくつか書いてきた。
「フェニキア人が都市国家“カルタゴ”を築いてから、
チュニジアは歴史の表舞台に上がった」

「カルタゴは地中海貿易を支配して栄華を極め、700年続いた。
しかし、ローマとのポエニ戦争に敗れて、600年間支配された。
カルタゴは、ローマの属州アフリカの首都としてよみがえり、
ローマ、アレクサンドリアにつぐ3番目の都となった」

「そのローマ帝国は、オスマン・トルコに滅ばされて、
チュニジアは350年間支配されてイスラム国家となり、
最後は、フランスに75年間植民地にされた」
チュニジア人が言うチュニジアの歴史である。

フェニキア人が都市国家“カルタゴ”を築いてから、
チュニジアは歴史の表舞台に上がった」
チュニジア人はロマンあふれ話をする。
「“交易”と“航海”に長(た)けたフェニキア人は、
レバノンの海上都市テュロスを本拠地にして、
“地中海貿易”で繁栄していた。
女王“エリッサ”が、現在のチュニジアに到着して、
都市国家カルタゴを建設した(紀元前814年)」

「カルタゴの建設に、女王エリッサはアフリカの先住民ベルベル人に、
牛の皮1枚分の土地の購入を求めた。エリッサは牛の皮を細いひもに裂いて、
その皮ひもで土地を囲んだ。それがビュルサで、ビュルサとは“”のことです」

カルタゴの中心地、ビュルサの丘。住居跡がある。

その先の海辺には、カルタゴの丸い軍港と長方形の商港の跡があった。

「カルタゴは、地中海貿易で栄華を極め、地中海を支配していた。
ヨーロッパの歴史の初期は、地中海で、イギリスもフランスも、
歴史に登場する前のことです」
と、歴史の古さを誇る。
カルタゴの地中海支配は、日本の縄文時代である。

「地中海貿易を支配して栄華を極めて、700年続いたカルタゴは、
ローマに滅ぼされた。ローマとのポエニ戦争に敗れて600年間支配された」
「カルタゴによる地中海貿易は、イタリアを制圧したローマと、
衝突するようになり、ついにポエニ戦争(BC264~BC146)になった」
「1世紀にわたるポエニ戦争では、カルタゴの英雄ハンニバルが、
ローマに勝利した。ハンニバルは、カルタゴの領土であったスペインから、
象でピレネー山脈を越え、さらに、アルプスを越えて、
北からイタリアに入り、ローマ軍を破った(紀元前216年)」

「最後は、カルタゴは破れた(紀元前146年)。
カルタゴの復興を恐れたローマ軍は、カルタゴを徹底的に破戒し、
焼き尽くした。最後は塩をまいて、草木も生えないようにした。
しかし、100年後には、ローマの属州アフリカの首都としてよみがえって、
ローマ、アレクサンドリアにつぐ3番目の都として繁栄した。
ローマの属州のときの遺跡が、カルタゴやドゥッガなどにある」

ドゥッガDouggaのキャピトル。ローマ帝国時代の遺跡。

手前の公共広場フォーラムには、円柱の土台“柱基”が並んでいる。
この円柱が建っていた公共広場は、さぞかし、リッパだったに違いない。
ドゥッガは、4世紀に最盛期を迎える。

しかし、ローマ帝国はオスマン・トルコに滅ばされた。
カルタゴはオスマン・トルコに350年間支配されて、
イスラム国家となり、最後は、フランスに75年間植民地にされた。
チュニジアがフランスから独立するのは、1956年である。

支配される民族の常として、言葉も支配された。
チュニジア人の家族4代には、言葉の歴史が刻まれている。
「祖父は、アラビア語だけで、フランス語はほとんど話せない」
「父の世代は、フランスの政策で、途中からフランス語を強制された」
「私は、小学校入学からアラビア語とフランス語で教育された」
「娘は、フランスから独立していたから、アラビア語を見直すようになって、
小学校はアラビア語だけになった。
中学校で、フランス語か英語を選択するが、
ビジネスの重要性から、英語を選択している」

家族4代は、家ではアラビア語、ビジネスや外とは、
祖父はアラビア語、父はフランス語、本人はフランス語と学んだ英語、
娘は、英語となった。民族の支配の歴史は、言葉の変遷になって、
アラビア語→フランス語→フランス語と英語→英語、
と、家族4代の言葉に刻まれている。

モザイク。ローマ時代で日本の弥生時代のころ。

ビュルサの丘にあるカルタゴ博物館。

フェニキア人が築いた“カルタゴ”(紀元前814年)で、
チュニジアは歴史の表舞台に上がり、
“地中海貿易”で栄華を極めて、地中海を支配し、文化を発達させ、
ローマ帝国、オスマン・トルコ、フランスに支配された歴史をもつ、
チュニジアの通知表”をみたい。

ランク…AA=3位以内 A=10位以内 B=20位以内 C=30位以内 D=40位以内。
1)創造力: ノーベル賞の受賞者はなし→ランクF。
2)芸術力: カンヌ映画祭でパルム・ドール受賞作品はなし→ランクF。
3)学力:  PISA2006の15歳の知識と技能は54位→ランクF。
4)文化力: 文化遺産7は24位→ランクC。
5)運動力: サッカーのランキングは54位→ランクF。
陸上競技世界記録はない→ランクF。
6)経済力: 国民総生産は76位→ランクF。
7)援助力: 政府開発援助はなし→ランクF。
8)総合力: ランクE。


チュニジアのレーダーチャート(2009年10月)。

[総合評価]
“文化力”の文化遺産7は24位だけが突出したレーダーチャートで、
面積にならなかった。
チュニジアの国土は日本の5分の2で、人口1,020万人を考えると、
文化遺産7は、りっぱである。日本の文化遺産は11で9位。

チュニジアの文化や遺産に触れる。
ドゥッガの劇場。ローマ帝国時代の遺跡で世界遺産。

こんなに大きな劇場は、ローマにも残っていない。
舞台を見下ろすと、ドイツからの観光客が小さく見える。

この劇場のほかに、キャピトル、公共広場、神殿、凱旋門、貯水場、
倉庫、奴隷市場、金持ちの住居、公共浴場、娼婦の館、アテバンの霊廟、
水洗トイレット……と、古代都市がそっくりそのままある。
カルタゴにも、劇場、公共浴場、競技場、軍港、墓があるが、飛びとびだ。
ドゥッガのように壮大な都市が、まとまって残っている遺跡は珍しい。

首都チュニスの南西100キロメートルにあるドゥッガまで、
車で2時間かけて来たかいがあった。

ドゥッガまでは、土漠(どばく)の中に、畑や果樹園がある。
平らなところは小麦、起伏のあるところはオリーブやアーモンドの果樹園で、
ローマの穀倉地帯であったことがうなずける。
ぶどう畑は見なかった。ぶどうは、北寄りの地中海沿岸部で生育する。

オリーブ・オイル。

オリーブ・オイルは、“ハリサ”に使われていた。
チュニスの昼飯は魚料理にワインだが、うまかった。
「ワインは小麦、オリーブとともにチュニジアの主産業です。
地中海でとれた魚に、ハリサで味つけをしてグリルする」
と、チュニジア人は言う。

「ハリサは、唐辛子(とうがらし)に、オリーブ・オイルと塩を混ぜたペースト。
ハリサは、チュニジアでは、あらゆる料理に使う。パンにもつける」
パンはフランスパンだった。チュニジア人の真似をして、
小鉢の赤いハリサを、スプーンですくって、フランスパンにぬって食べてみた。
辛さとしょっぱさで、フランスパンがしまる。

「ワインを飲み始めたのはフェニキア人です。
当時のギリシャ人はビールしか知らなかったから、
ワインを飲むフェニキア人を奇妙な目で見ていた」
と、文化の高さが自慢である。

ドゥッガでは、限られた時間だ。効率よく見たい。ガイドを雇った。
ベテランで、チュニジアの帽子、黒いシャシーヤをのせている。
キャピトルの三角形の屋根の下、ペディメントを指した。

「中央に鳥のレリーフが見えるでしょう?
わしが皇帝を乗せて、不死の世界へ飛んでいく」
と言われると、皇帝が乗っているように見える。
皇帝の究極の願いは、不死だった?

キャピトルの円柱には、縦の“溝(フルーティング)”が走る。
“柱頭”には、“アカンサスの葉”がデザインされている。
“コリント式の円柱”を、見ているだけで、うれしくなる。

「アカンサスとはハアザミです」
と言うが、ぶどうの葉のようだ、と見ていた。
アカンサスを偶然、見ることができた。東京、三鷹市の中近東文化センター。

「ヘレニズムの華 ペルガモンとシルクロード」展。2009年3月。

「栽培している人が持ち寄ってくれました」
と、スタッフが説明してくれた。
ぶどうの葉よりも大きく、つやがあった。
アカンサスはギリシャの国花になっている。

「ドゥッガは4世紀に最も栄えたが、ローマ帝国が東西に分割して衰亡し、
やがて、オスマン・トルコに滅ぼされて、ドゥッガも衰退した。
フランス人によって発掘されたのは100年前で(1899年)ある」
と、ガイドは言うから、ドゥッガは1,600年も忘れ去られた。

水洗トイレット、ドゥッガ。

穴の上に座って用をたすと、水が洗い流す。
手は、足元にあるU字溝の水で洗う。

ドゥッガには、水洗トイレットもあり、劇場もキャピトルも公共広場も、
公共浴場も、金持ちの家にはモザイクもある文化の高い都市だった。
「ドゥッガは、ローマの穀倉地帯だった」
と、ガイドは言う。
穀物のもうけで造ったこの世の“天国”は、日本の弥生時代になる。

白い家のチュニス市街。


チュニジア人は郊外を走ると、車のスピードをゆるめた。
警察官が、街の入口で目を光らせていたり、
パトロール・カーが走っているときだ。

「不法な入国の取り締まりをしている。
テロリストが街に入ることを、警戒している」
と言う。

ケニアの首都、ナイロビのアメリカ大使館が、自爆テロリストによって爆破された。
世界のどこもがテロの舞台なり得る“国際テロ”のはじまりである(1998年8月7日)。
2001年9月11日、アメリカ本土で発生した“同時多発テロ”の3年前である。

ナイロビのアメリカ大使館が爆破されてから、アメリカは、在外大使館の、
“安全性”を見直した。建物は道路から30メートル以上、離れなければならない。
「チュニスのアメリカ大使館も、これまでの中心街から外れた海辺の埋立地に、
新大使館を建設している」
見に連れて行ってもらった。

フランスのスーパー・マーケット、カルフールがチュニスに進出した。
これまでは、旧市街地(メディナ)のにぎやかな通りを、歩きながら買い物を、
していたが、中心街から外れた広い敷地に車で行って、ショッピングする。
そのカルフールへ行く途中に、アメリカの新大使館の建設現場があった。

海辺の埋立地の敷地は広い。それに、周りに雑踏はない。
厚い塀でぐるりと囲んで、その中で、建設を進めていた。
「建築資材は、全部アメリカから輸入して、厳重な警戒のもとで建設している。
照明や家具のインテリアまで、アメリカからの輸入です」
と言うのは、ケニアとまったく同じだ。

歩哨が塀の周囲に、警戒の目を光らせている。
車から降りて、カメラを向ける雰囲気ではなかった。

シディ・ブ・サイドのカフェ・デ・ナット。チュニス。

シディ・ブ・サイドは、白い壁にチュニジアン・ブルーの窓や扉が映える、
美しい街並みの保存地区。
つきあたりのカフェ・デ・ナットに、
チュニジア人と夜、ミント・ティーを飲みに出かけた。

高さが60センチメートル、2メートル四方の高床が、
通路に区切られるように、いくつかある。高床の四隅には、
天井までの円柱があって、赤と緑のラセンの縞模様に彩色されている。
天井も赤と緑の縞模様だ。まるで、クリスマスの配色。

高床には“ござ”が敷いてあって、靴を脱いで上がる。
「カフェ・デ・ナットのナットnatteは、ござのこと」
と言うから、“カフェござ”である。

小さなグラスに注がれたミント・ティーはやや緑色。砂糖を入れて甘くする。
カフェござのお客は、男性ばかり。
片足を横に曲げ、片足を縦に曲げた半あぐら状態でくつろいでいる。
女性客がいない。ウェイトレスもいない。女王エリッサの子孫はどこへ行った?
「女性は、家でこどもの世話や、仕事をしている」

「フェニキア人が発明した“フェニキア文字”が、
アルファベット”の原型になった」
「ギリシャ人は、フェニキア文字の22文字に、
α(アルファ)やβ(ベータ)などを加えてギリシャ文字とした」
と、チュニジア人は言う。

「フェニキア人の交易は、エジプトから北アフリカ、ヨーロッパまで、
広範囲だったから、フェニキア文字は広まった」
「ローマ人もアルファベットを使ったし、
ヨーロッパの全民族の文字になっている」
と、チュニジア人は誇らしげである。

「日本語は、何文字ですか?」
「およそ2,000字です」と答えると、
「2,000字! それで“文盲”がいないのが不思議だ」
と、感心していた。
「漢字は表意文字で、意味があり、読みがあり、書き順が決まっている」
ことは、チュニジア人の想像を超えた世界のようだ。

アルファベットは表音文字で、意味をもたない。
「アルファベット26文字の組み合わせで意味をもつ言葉は、
学習するのが簡単だから、一般の人が文を書けるようになった。
そして、商用の手紙や記録、文章や詩を残せるようになった。
それまでの楔(くさび)形文字や象形文字は複雑で、
記録を残すには、書記という専門家がいた」

フェニキア人の発明アルファベットの恩恵を、いま受けている。
PCの日本語入力である。キーボードは、2,000字分のキーではなく、
アルファベットで、日本語はローマ字で入れて漢字変換している。

生活が格段に便利になり、文化の発達に大いに寄与しているから、
アルファベットの原型であるフェニキア文字の発明という、
祖先の偉業を、チュニジア人はもっと宣伝していい。

アルファベットの原型である“フェニキア文字”をつくり、
古くから文明を発展させ、降りそそぐ太陽と地中海、
砂漠があるチュニジアには、休暇を過ごしに、研究に、
映画の撮影に、ヨーロッパや世界から人が集まってくる。


ユノ・カエレスティス神殿、ドゥッガ。
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アイルランドの通知表

2009-10-18 16:00:00 | Weblog
“世界の表彰・評価”から、“指標”を定めて、“数値”で、
日本の通知表”をみたが、同じ指標で、
アイルランドの通知表”は、どうなるだろうか?

アイルランドは、人口440万人、国土は日本の5分の1の島国である。
「季節の変化」で、アイルランドについて、いくつか紹介してきた。
カナダのデパートメント王、チモシー・イートンは、
アイルランドが“じゃがいも飢饉”のときに、カナダに逃れた。
そして、品質とサービスの良さが特徴のデパートメントを、
カナダ中に築いて、デパートメント王となった。

イートン・センター。トロント、カナダ。

クリスマス・セール。寒い冬でも、イートン・センターの中は、
快適にショッピングができる。
「カナダの通知表」、2009年7月1日。

ラグビーの第5回ワールド・カップ、オーストラリア大会で、
1次リーグを突破して、決勝トーナメントに進出した8チームは、
アイルランド、イングランド、ウェールズ、スコットランド、
ニュージーランド、南アフリカ、地元オーストラリア、
そして、フランスだった。
フランス以外は、イギリス連邦に関係する国や地域だ。

決勝戦は、地元オーストラリアと盟主イングランドの対決となって、
オーストラリアは3連覇がかかり、イングランドは初優勝かかっていた。
結局、イングランドが勝って、“ラグビー発祥の地”の面目を保った。

テルストラ・スタジアム(オリンピック・スタジアム)。シドニー。

ラグビーの第5回ワールド・カップの主会場。
決勝戦翌日で、テルストラ・スタジアムでは、跡かたづけをしていた。
「オーストラリアの通知表」、2009年5月31日。
「南アフリカの通知表」、2009年9月13日。

「日本人はイギリスというが、イギリスという国はありません。
連邦王国United Kingdom(UK)で、イングランド、北のスコットランド、
西のウェールズ、それに、北アイルランドから成り立っています」
と、イングランド人は言う。

ワールド・カップと名がつくサッカーやゴルフでも、
イングランド、ウェールズ、スコットランドは独立チームとして出場する。
民族も歴史も違う地域を、無理やり束ねて、1つの国にすることはしない。
それに、アイルランドが独立国として加わる。

アイルランドは、イギリスに800年間も植民地にされていて、
内120年間は統合されていた。つまり、一つの国だった。
征服された者として、イギリスへの憎悪、敵がい心は強い。

アングロサクソンのイギリスによる、カトリックへの“差別法”で、
土地の所有や、公職に就くこと、大学への進学が禁止され、
アイルランドの言葉、ゲール語(アイルランド語)は奪われ、
学校では、英語教育が行われた。

アイルランドは、イギリスに蜂起や反乱を繰り返し、
独立したのは1922年である。

アイルランドの北側は、イギリスの国土の一部、北アイルランドで、
カトリックのアイルランドにプロテスタントの住人が多い地区を、
北アイルランドとして独立させた。少数の住人となったカトリックと、
多数の住人がいがみあう紛争、「北アイルランド問題」が発生した。
IRA(アイルランド共和軍)とイギリスは、憎悪を繰り返していたが、
ロンドンに住んでいるときに、IRAによる爆破事件があった。

イギリス、ロンドン北部、スタンモアの教会。

教会の裏にあるイギリス空軍の宿舎Royal Air Force Stanmore Parkを、
ねらったIRAの爆破で、教会の外壁が、一部崩れて焦げた(1990年)。
すぐ近くに住んでいたから、「ドカッーン!」、「ビリッビリッー!」と、
強烈な音と衝撃が伝わってきた。そして、警察と救急車の、
けたたましいサイレンで、騒然となった。
国際紛争を身近に感じた事件だった。1998年に和平合意ができた。
「日本人のアイデンティティを生む、日本の5つの特徴」、2009年4月22日。

日本人にとって、イングランド人、スコットランド人、
ウェールズ人、そして、アイルランド人の見分けはむずかしい。
ところが、彼らにとって“人種”の違いは重要で、一目で見分ける。
「あそこに座っている髪が赤く、体の大きい人は、スコットランド人だよ」
と、多くの人種が集まるパーティの席で、イングランド人が言う。

ロンドンのゴルフ・コースでアイルランド人と回ったことがある。
着いた順番の組み合わせで、1人の日本人と、
同じく1人で来たアイルランド人と回った。

「アイルランドでは、手近にゴルフ・コースがたくさんある。
それに、グリーン・フィーが、イングランドより格段に安い。
周りは、もっと緑があり、住宅も混んでいない。それに、
ロンドンの空気は汚れている。アイルランドはきれいだ」
と言う。

どうやら、イングランドは、それほど好きではない。
“職”と“食”のために、やむを得ずロンドンに来ているが、
イングランド人とは、肌が合わない、ようだ。

これは、ポートマーノック・ゴルフ・クラブ。アイルランド。

アイルランドに多い海辺に広がる“リンクスLinks”。
リンクスとは、海辺の荒れたオープン・スペースのゴルフ・コース。
ハザードが多い。フェアウェイはでこぼこと波打ち、
ラフは、ひざまであるヒースとイバラのハリエニシダ(緑色)が群生している。
それに、なによりも吹きすさぶ風がゴルファーを悩ませる。

日本人にとって、見分けがむずかしい人種の違いは、
当時活躍していたゴルファー、
ウェールズ人は、イアン・ウーズナム、
イングランド人は、ニック・ファルド、
スコットランド人は、サンディ・ライルやコリン・モンゴメリ、
そして、アイルランド人は、ローナン・ラファティ、
の体格や風貌、雰囲気から推察するようにした。

フィンランドの世界的な情報通信会社ノキアは、
アイルランド大学と“産学連携”を進めていた。
これはノキア・ハウス(本社ビル)。ヘルシンキの隣町エスポー。

国内のフィンランド大学に限らず、アイルランド大学とも、
共同研究し、頭脳、知恵を積極的に活用していた。
「フィンランドを林業から情報機器産業にしたノキア」、2008年10月15日。

イギリスに800年間も“植民地”にされ、
“じゃがいも飢饉”で、多くのアイルランド人が国外に逃れ、
そして今、“知能”が活用されている、
アイルランドの通知表”をみたい。

ランク…AA=3位以内 A=10位以内 B=20位以内 C=30位以内 D=40位以内。
1)創造力: ノーベル賞の受賞者は1で21位→ランクC。
2)芸術力: カンヌ映画祭でパルム・ドール受賞作品はない→ランクF。
3)学力:  PISA2006の15歳の知識と技能は15位→ランクB。
4)文化力: 文化遺産2は51位以下→ランクF。
5)運動力: サッカーのランキングは34位→ランクD。
陸上競技世界記録はない→ランクF。
6)経済力: 国民総生産は33位→ランクD。
7)援助力: 政府開発援助は17位→ランクB。
8)総合力: ランクD。


アイルランドのレーダーチャート(2009年10月)。

[総合評価]
“芸術力”のカンヌ映画祭でパルム・ドール受賞作品がなく、
“文化力”の文化遺産2は51位以下のために、
いびつなレーダーチャートになっている。

しかし、国土が日本の5分の1、人口が440万人を考えると、
“経済力”の国民総生産GDPが33位であり、しかも、経済援助国で、
援助力”の政府開発援助ODAが17位になっているのは、りっぱである。

さらに、“学力”のPISA2006の15歳の知識と技能は15位と高い。
PISAは調査した読解力、数学、科学の点数を公表している。
その点数を合計した総合点を求めて、ランキングを作成した。
PISA2000、PISA2003、PISA2006のランキングの推移はつぎである。

アイルランドは、PISA2006、PISA2003は15位であるが、
PISA2000は8位だった。

PISA2006で1位フィンランド、2位韓国、10位日本、15位アイルランドの、
推移はつぎになる。

フィンランド、韓国は、PISA2000からPISA2006まで、順位が安定している。
日本は、調査をするたびに、1位→5位→10位と順位を落としている。
アイルランドは、8位→15位→15位である。

アイルランドの読解力、数学、科学の推移はつぎである。

アイルランドは、特に読解力が優れている。
PISA2006が6位、PISA2003が7位、PISA2000が5位である。
問題を理解し、解決する能力は、ノキアとアイルランド大学の、
共同開発に生かされている。
それに、マイクロソフト、インテル、オラクルなどのIT産業、
ジョンソン&ジョンソン、ファイザー、ワイエスなどの医療・製薬などは、
アイルランドの頭脳、知恵を活用している。
外資の誘致によって、アイルランドの経済は大いに発展した。
また、外資はアイルランドをEUへの窓口として、事業を展開している。

アイルランドの教育費を調べてみた。
教育費が財政支出に占める割合を調査したデータが、
OECDにあるので、教育費の表を作成した。

メキシコが1位で教育費は財政支出の23.4パーセントを占める。
スロヴァキア2位、ニュージーランド3位、アイスランド4位、
チリ5位が続く。

アイルランドは10位で、14.0パーセントである。
アイルランドには自然資源がない。あるのは人的資源である。
その人的資源を活用することなくして、アイルランドの明日はない。
教育費が財政支出に占める割合14.0パーセントに、国興隆の意気込みがある。




アイルランドの14.0パーセントは、イギリスの11.9パーセントを上回る。
日本は30位で、9.5パーセントである。
OECD加盟国の下から2番目である。

「アイルランドには多くの発明があります」
と言うのは、アイルランド人の誇りが込められている。

「ウィスキーはアイルランドの発明です。
アイルランド語で、Uisce Beaths(イシカ・バハ)を、
イギリス人は発音しづらくて、ウィスキーwhiskyとした。
Uisce Beathsは、命の水Water of Lifeという意味です。
ブッシュミルズBushmillsは、ジェームズ1世から認可された、
最古の蒸留所です(1608年)」
ウィスキーの元祖、ブッシュミルズBushmills。

ブッシュミルズは、さわやかな味、口に甘みが残る。
うまいから、また飲む、そして、いい気分になる。命の水だ。

「ベイリーズBaileysは、ウィスキーにクリームを、
ブレンドすることに成功した、アイルランドの発明品です」

ベイリーズは、ドロっと甘かった。ベイリーズをコーヒーに入れて、
アイリシュ・コーヒーの代わりとして飲む人もいる。

「ギネスの黒ビールGuinness Stoutも、アイルランドの発明です(1759年)。

ギネスは、うまいからグイグイと進む。

キリンビールが世界のビールの消費量を公表している。
一人あたりのビールの消費量を作成した。

アイルランドはチェコにつぐ2位である。
ドイツ3位、オーストリア4位、オーストラリア5位が続く。
日本は36位。アイルランドは、日本の2.4倍のビールを飲んでいる。
そして、ギネスの売上を伸ばし、アイルランドの経済を押し上げている。

発明は、酒ばかりではありません。
気圧の「ボイルの法則」も、誘導コイルも、
アメリカ海軍で最初に使われた潜水艦も、アイルランドの発明です。

「日本でおなじみの作家、小泉八雲は、
アイルランド人のパトリック・ラフカディオ・ハーンです」

「歴代のアメリカ大統領には、多くのアイルランド出身者がいます。
ケネディ大統領、クリントン大統領、レーガン大統領、
それに、オバマ大統領の母方の祖先はアイルランド人です」

「プロテスタントの国アメリカでは、カトリックは大統領にはなれない、
という不文律を破って、カトリックのケネディが大統領に選ばれた。
しかも、ワスプWASP(White Anglo-Saxon Protestant)
(白人で、イギリス系で、プロテスタント)中心の国アメリカで、
アイルランド出身者から大統領が誕生したのです」

「アイルランド系のアメリカ人は、4千万人いる。
イギリスの植民地化による圧政で逃げた人が100万人、
じゃがいも飢饉(1945年~1949年)で逃れた人が100万人、
そのじゃがいも飢饉で餓死した人が100万人、
その後、アメリカに渡った人が500万人で、合計700万人になる。
そして、1世紀たって、アイルランドの子孫は4千万人になっている」

「アメリカに4千万人、世界では7千万人のアイルランド系住人がいる。
アメリカのほかに、カナダ、オーストラリア、途中で立ち寄ったイギリスにも、
多くのアイルランド人が逃れ、住みついている」

移住したアイルランド人は、最初は、低下層の労働者だったが、やがて、
企業家が生まれた。自動車王のヘンリー・フォードや、
金融のメリル・リンチのチャールズ・メリルとエドマン・リンチ。
それに、映画監督のジョン・フォード(駅馬車)、アルフレッド・ヒッチコック(鳥)、
映画俳優のジョン・ウェイン(黄色いリボン)、グレゴリー・ペック(ローマの休日)、
アンソニー・クイン(ノートルダムのせむし男)、
モナコ王妃となったグレース・ケリー(真昼の決闘)、
ヴィヴィアン・リー(風と共に去りぬ)」
むかし、わくわくして見た西部劇やサスペンス、ドラマは、
アイルランド系の監督や俳優だった。

ビートルズの4人のうち、3人はアイルランド系です。リンゴ・スターを除く、
ポール・マッカトニー、ジョン・レノン、ジョージ・ハリソンです」

アイルランドの一人あたりのGDPはどのくらいだろうか?
Honkawa Data Tribuneが社会実情データ図録として公表している。
世界のランキングはつぎになる。あわせて日本を1として比較した。

1位はルクセンブルグUSドル99,881である。
2位ノルウェー、3位カタール、4位アイスランドにつぐ、
アイルランドは5位、USドル58,396である。
ヨーロッパでは、4番目である。日本の1.70倍。


イギリスは13位、USドル44,693である。アイルランドの5位、USドル58,396は、
かって支配され、さげすまされていたイギリスよりも、豊かになった。


経済大国日本であるが、一人あたりのGDPは23位、USドル34,254である。

アイルランドはイギリスよりも豊かになった。
そして、EUの一員として発展をし、優等生となっている。
日本に友好的な国アイルランドは、EUの窓口として、
ますます重要さが増している。
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コスタリカの通知表

2009-10-11 08:04:44 | Weblog
“世界の表彰・評価”から、“指標”を定めて、“数値”で、
日本の通知表”をみたが、同じ指標で、
コスタリカの通知表”は、どうなるだろうか?

コスタリカは、コロンブスが1502年に発見した中央アメリカの国。
通貨の単位コロンに、コロンブスの名残がある。
北アメリカと南アメリカを、廊下のように結ぶ細長い国で、
北はニカラグア、南はパナマに接し、
西は太平洋、東はカリブ海に面している。

「コスタリカは、“Morning Industry”の国だった」
「コスタリカは、“平和憲法”で軍隊を持たない」
「コスタリカは、“環境保護国”で、国立公園や自然保護区は、
国土の26パーセントを占める」
これらは、コスタリカ人がコスタリカを紹介する言葉であり、誇りである。

“Morning Industry”と聞かされて、なんのことかわからなかったが、
「コーヒー、バナナ、砂糖がコスタリカの主産業で、
どれも朝食のときの食材だから、Morning Industryと呼んでいる」
と言う。
Morning Industryは辞書を引いてもないから、“朝食産業”と名づけた。

コスタリカには、純正品“ブリットBritt”がある。
コーヒー豆の栽培から収穫、豆挽(ひ)き、乾燥、
焙煎(ばいせん)、梱包まで、全ての作業をコスタリカで行って、
高品質のコーヒーを提供し、価格競争に陥ることを避けている。
純正品のコーヒーが味わえるカフェー・ブリットを、サン・ホセの街で見かける。

これは、食後のコーヒー。首都サン・ホセのレストラン。

昼食はチキン。グリルしたチキン、蒸したチキン、詰め物をしたチキン。
色、形、そして味が違ったチキンは、どれもうまかった。
チキン三昧のあとは、もちろんコスタリカ名産のコーヒー。

ウェートレスが、コーヒーを淹(い)れるセットを、
テーブルまで運んで、目の前でコーヒーを淹れる。

トレイには、木で組み立てたスタンドがあり、その下にはカップが置いてある。
スタンドの上には、コーヒーの粉がたっぷりと入ったフランネルの袋があって、
最初に少しのお湯を袋にそそいだ。そして、しばらく蒸らした。
それから、お湯を注ぐ。泡が立つと、ウェートレスは、写真のように、
スプーンでつっついて、さらに、中までねじり回した。
いい香り、アロマがただよってくる。

ドリップが終わると、フランネルの袋をスタンドから取り外して、
ねじるようにしてコーヒーを、カップに絞り出した。

さて、味は……? うまい! コスタリカ純正品の味は格別だ。
コスタリカ人は、砂糖をスプーンに3杯入れて飲んでいた。
甘いと思うが、コスタリカは砂糖の産地である。

このコーヒーを淹れるセットを、客のテーブルまで運んで、
目の前で淹れるパーフォマンスは、コスタリカ以外では経験がない。
コスタリカ純正品のコーヒーがあるからできる。

コーヒーの木は高温多湿を嫌うから、中央高地で栽培している。
東のカリブ海と西の太平洋にはさまれた海抜1,000メートルの、
中央高地が適している」
と、コスタリカ人は言う。

「コーヒーが輸出の90パーセントを占めたときがあって(1890年)、
コーヒーで経済はうるおい、コスタリカが近代化された。
中央高地の首都サンホセには、パリを見習って、
国立劇場ができ、図書館ができ、博物館、病院ができた」

「しかし、第1次世界大戦でコーヒーの輸出は激減した。
さらに、コーヒー豆の輸出価格は、1960年当時に比べて、
25パーセントまで下落してしまった。これは、
コーヒー生産国のブラジルが生産量を増やしたほかに、
ヴェトナムやインドネシアが新たに栽培国として参入したから、
コーヒー豆がダブついて、価格が下落した」

「コーヒーの木が実をつけて収穫できるまでには、3年かかる。
ほかの作物に切り替えたら、簡単に戻すことはできない。
コーヒー価格の下落によって、農家は収入が激減し、
土地を手放したり、国によってはコカインの栽培に、
走ることもあって、コーヒー生産国の政治、経済、社会問題である」

「コーヒー生産国が結束した国際コーヒー機関(ICO)が、
豆に含まれる水分量と、300グラム中の不良豆の上限を定めた、
品質水準をつくり、良質のコーヒー豆だけを輸出する決議をした。
粗悪品の輸出を防止して、値段が下がることを防止している」

「しかし、輸入業者は品質がいいコスタリカの豆と、
品質が悪いコーヒー豆をブレンドして、
味がいいコーヒーとして消費者に販売するから、
品質水準の決議は効果が薄い。それに、
日本やヨーロッパの輸入業者は品質水準の決議に縛られない」
日本のコーヒーの消費量は、アメリカ、ドイツについで世界3位である。

「コスタリカでは、気候、高地、土地に最適なアラビカ種のみの生産を、
法で定めた。さらに、コーヒー豆の栽培から梱包まで、全ての作業を、
コスタリカで行う独自ブランド、“ブリットBritt”を1980年代に作った。
高品質を確立して、価格競争におちいることを避けている」

バナナは高温多湿を好むから、カリブ海側で栽培している。
熱帯雨林に開拓したバナナのプランテーションが広がって、
1890年にはコーヒーを抜いて、輸出総額の1位になった。
コーヒーとバナナがコスタリカの経済を支えてきた」

「しかし、コーヒーもバナナも価格変動が大きい。
それで、朝食産業からの脱出をはかってきた。
パイナップルやメロン、観葉植物が輸出産業になってきた。
日本には、クリスマス用にポインセチアを輸出している」

「ほかに、朝食産業からの脱出には、半導体、医療製品が育ってきている。
アメリカの半導体会社、インテルを誘致できたことが大きい」

「それに、コスタリカは、“平和憲法”で軍隊を持たない。
軍事費を、教育費、社会福祉に回して国民の生活を向上させてきた。
時の大統領オスカー・アリアスに、ノーベル平和賞が授与された(1987年)」

「コスタリカの国土の26パーセントは、国立公園や自然保護区である。
ヒメウミガメの産卵を見ることができるし、ジャングルのツアーもある。
映画ジュラシック・パークは、コスタリカで撮影された。
自然環境を壊さないエコロジー・ツアーが盛んで、
ツアー・ガイドが、少人数でツアーをする」

“Morning Industry”で近代化をはかり、
“平和憲法”で軍隊を持たず、
“環境保護国”で、エコロジー・ツアーが盛んな、
コスタリカの通知表”をみたい。

ランク…AA=3位以内 A=10位以内 B=20位以内 C=30位以内 D=40位以内。
1)創造力: ノーベル賞の受賞者はない→ランクF。
2)芸術力: カンヌ映画祭でパルム・ドール受賞作品はない→ランクF。
3)学力:  PISA2006の15歳の知識と技能は参加せず→ランクF。
4)文化力: 文化遺産と複合遺産17はない→ランクF。
5)運動力: サッカーのランキングは39位→ランクD。
陸上競技世界記録はない→ランクF。
6)経済力: 国民総生産は82位→ランクF。
7)援助力: 政府開発援助はない→ランクF。
8)総合力: ランクF。


コスタリカのレーダーチャート(2009年10月)。

[総合評価]
残念ながら、面積のあるレーダーチャートにはならなかった。
人口が450万人で、福岡県504万人よりも少なく、
国土が日本の7分の1のコスタリカが、
各指標で高得点をあげるのは、困難である。

コスタリカ人が誇りにする、
平和憲法”で軍隊を持たない、
Morning Industry朝食産業”から半導体、医療製品への転換に注目したい。

「平和と友好の国を目指して、軍隊の廃止を盛り込んだ、
平和憲法を制定した(1949年)。
軍事費を減らして、教育や福祉、通信に回している。
教育立国をめざして、国家予算の20パーセントを教育費にあて、
要塞よりも学校を、兵士よりも学生を、警察官よりも先生を増やしている」

平和外交に徹して、国民のエネルギーを経済復興に注ぐのは、
日本と共通している。それで日本は経済大国になり、
コスタリカも同じ道を歩んでいる。

世界の国別の“軍事費”はどのくらいだろうか?
SIPRI(Stockholm International Peace Research Institute)、
ストックホルム国際平和研究所に軍事費のデータがある。

SIPRI Year Book 2009を参考にして、世界の軍事費のランキングを作成した。
あわせて、日本の軍事費を1として、各国と比較した。

アメリカが断然の1位で、シェアは41.5パーセントである。
2008年の特徴は、2007年に比べて、中国が2位に進出したことである。
フランスがイギリスをわずかに抜いて3位、イギリス4位、ロシア5位が続く。

日本は7位、463億USドル、5兆円に近い。
1989年にベルリンの壁が崩壊し、1990年に東西ドイツが統一、
1991年にソ連が崩壊して、“東西冷戦”は終了した。
戦争の脅威が薄れてから、中国を除く世界は軍事費を縮小しているが、
日本は軍事費を伸ばし続け、防衛庁を防衛省に格上げしている。

コスタリカの軍事費は119位と推定される。そして、日本との比率は0.002。
つまり、コスタリカの軍事費は、日本の軍事費の500分の1である。
平和憲法で軍隊を持たないことが、少ない軍事費に表れている。

コスタリカが国際政治の手段としての戦争を禁ずる平和憲法を持つのは、
日本も同じだが、敵国の脅威を感じたり、攻撃されたらどうするのだろう?
「いざというときには、軍隊を再整備し、国家防衛の戦争をすることができる」

「しかし、軍隊を廃止し、平和教育を徹底し、清潔で公正な選挙制度で、
政治の腐敗を防ぎ、平和外交を展開しているから、
外国から突けこまれる隙(すき)がない」
と、自信にあふれている。

ノーベル平和賞が、時の大統領オスカー・アリアスに授与された(1987年)。
これは、平和憲法制定から数10年の戦争のない平和外交の実績と、
世界への平和宣言が評価されたからである(1982年)。

コスタリカは、軍事費を日本の500分の1にして、
「教育費、社会福祉に回して国民の生活を向上させてきた」
教育費に、国家予算の20パーセントをあて、
「コスタリカを中央アメリカのシリコン・バレーに」
をスローガンに、高等教育に力を入れ、“技術立国”をめざす。
日本は教育費に、国家予算の9.5パーセントをあてている(2005年)。
これは、OECD加盟国の最下位である。

銀行で会議をすると(国民銀行Banco Popularと相互銀行Mutual Alajuela)、
出席者は仲間内でも英語で話す。いちいちスペイン語に変えないから、
会議はスムーズである。
“コスタリカは教育水準が高い”といわれているが、それを感じた。

銀行では、もうひとつ感じたことがあった。
比較的、“治安”がいいのである。
日本では当たり前のことだが、銀行の周りを囲む“鉄柵”がない。
だから、だれでも、銀行のカウンターに近づくことができる。

ほかの中南米では、銀行は高い鉄柵で囲われて、侵入を防いでいた。
腰に“銃”をつけた警備員が、顧客が来るたびに、
鉄柵の内側から、いちいち用件を聞いて、
問題がなければ、一人ずつゲートを開けていた。

コスタリカは社会福祉に国家予算の47パーセントをあてている。
まだ国民の20パーセントが貧困層にあることから、
医療制度や年金制度を整え、障害者の支援に力を入れている。

つぎに“Morning Industry朝食産業”から半導体、医療製品への転換である。
「コスタリカを、中南米のハイテク産業の集積地とする」
という大統領のスローガンのもと、
半導体のインテル社を誘致することができた。
それに、医療製品会社の誘致にも成功した。

インテルが、中南米の半導体の生産拠点として、
コスタリカを選んだのには、わけがあった。
まず、政治が安定している。そして比較的、治安がいい。
フリー・ゾーン制度という、税制の優遇措置の地域があった。
教育水準が高く、コスタリカ大学はハイテク技術者の供給基地になる。
半導体の生産に使う多量の水は、豊富な地下水があった。
それに、温暖な気候、距離的にアメリカに近いのも魅力である。それで、
インテルは、ファン・サンタ・マリア国際空港の近くに工場を建設した(1998年)。

ファン・サンタ・マリア国際空港。中央高地にあって、山に囲まれている。

首都サン・ホセの中心街、国民銀行まで16キロメートルとアクセスがいい。

「コンコルドが来るというので、見に行った。
着陸して、滑走路の端、ぎりぎりのところで、やっと停まった。
集まっていた観衆から、歓声が上がり、拍手がわき上がった」

「3,000メートル級の滑走路が1本で、
利用客が増えているので、新しい滑走路を、造ろうとしている」
と言う。

さて産業は、半導体、医療製品は輸出額の27パーセントでトップとなり、
バナナ9パーセント、コーヒー3パーセント、パイナップル3パーセント、
観葉植物1パーセント、メロン1パーセントを抜いた(2002年)。

それに、観光の収入はコーヒー、バナナの輸出額を抜いている。
温暖な気候で、アメリカに近いから、カリブ海と太平洋に面した、
ビーチのリゾートや国立公園はアメリカ人観光客でにぎわっている。

「アメリカのバスケット・ボール・プレイヤーのマイケル・ジョーダンは、
太平洋側のビーチにテニス・コート、ゴルフ・コースのリゾートを造って、
休暇を過ごしている」
と言う。

コスタリカ人は、人がよかった。そして、
Morning Industry朝食産業から脱出して、ハイテク産業に転換し、
平和憲法で軍隊をなくして、平和と友好を進め、
環境を大切にしながら、自然そのものを楽しむエコロジー・ツアーで観光客を集め、
世界から注目される国造りをしている。
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ケニアの通知表

2009-10-04 04:33:50 | Weblog
“世界の表彰・評価”から、“指標”を定めて、“数値”で、
日本の通知表”をみたが、同じ指標で、
ケニアの通知表”は、どうなるだろうか?

国際テロ”のはじまりはケニアからである。
2001年9月11日、アメリカで同時多発テロ9・11が起きる3年前、
1998年8月7日、ケニアの首都ナイロビのアメリカ大使館が爆破された。
世界のどこでもがテロの舞台なり得る“国際テロ”のはじまりである。
さらに、アメリカの同時多発テロ9・11の翌年の2002年に、
ケニア第2の都市モンバサが、テロ攻撃された。

最初のナイロビのアメリカ大使館の爆破(1998年8月7日)は、
爆薬を満載したトラックがアメリカ大使館に突っ込んだ。
5階建ての大使館は破壊され、死者291人の大惨事となった。

同じ日にケニアの南、タンザニアの首都ダル・エス・サラームの、
アメリカ大使館も、同様にトラックによる自爆テロの爆破にあって、
死者10人、重軽傷者77人の犠牲者がでた。
ともに、アル・カイダが犯行声明を出している。

ナイロビのアメリカ大使館跡地。

5階建てのビルディングはなく、空が広がっていた(2003年)。

付近は裁判所、議会、市役所などの荘厳な建物や、ホテル、
銀行などの、高層ビルディングが並ぶナイロビの中心街。
角地で、前と横は車が頻繁に行き交う幹線道路。
多くの人がバスを待っている。

アメリカ大使館の跡地は、記念公園になっていた。

AUGUST 7TH MEMORIAL PARK(8月7日記念公園)”、
というアーチがかかっているから、ここが、
アメリカ大使館の跡地であることがわかる。
新しいアメリカ大使館は、雑踏を離れて、郊外に引っ越した。

高い鉄柵で囲われた記念公園の中は、盛り土の芝生。

まるで、犠牲者を悼(いた)む墓のようだ。
入場料20ケニア・シリング(約30円)を払えば、中に入ることができるが、
中まで入って爆破現場を見学する人はいない。

警備員が中の監視小屋から鋭い目を光らせて、こちらを追っている。
現場に向けて悠然とカメラを構えるのは、はばかられる雰囲気である。
犠牲者の多くがケニア人であるから、行き交う大勢のケニア人にとって、
この大惨事はいい記憶ではない。

つぎに2002年、ケニア第2の都市モンバサでは、
イスラエル系のホテルが攻撃され、15人の犠牲者がでた。
同じ日に、モンバサから飛び立ったイスラエルの民間機が、
ミサイル攻撃を受けた。こちらは、機長の気転で“フレア”という、
閃光弾(せんこうだん)を発射したために、民間機は爆撃をまぬがれた。
ミサイルは赤外線を追尾するが、フレアをエンジンからの赤外線と、
勘違いしてフレアを追尾したために、イスラエル人の乗客261人は無事だった。
イスラエルでは、民間機であってもフレアを装備して、テロに備えている。

「どうして、ケニアが立て続けにねらわれたのだろうか?」
まるでケニアが、テロリストの標的のようだ。
ケニア人と南アフリカ人に聞いてみた。

ケニア人は言う。
「ケニアは紅茶とコーヒーの農産物や砂糖、それにサファリの観光が主産業の国です。
紅茶やコーヒーのプランテーションは、イギリスの植民地時代に開発された。
ケニアに隣接する国は内戦が続いていますが、ケニアには内戦もなく、
テロとは無関係な“平和”で、“穏やかな国”だったんですよ」

サファリの観光の一つ、ナイロビ国立公園。

サバンナでキリンと、しばらく見つめ合った。
赤道直下、キリンの頭の影は肩でとまる。

「平和な国ケニアでは、出入国管理の警戒がおろそかだった。
まさか、アフリカがテロリストに、ねらわれることはないだろう、
という油断があった。テロリストにとっては、
ヨーロッパやアメリカの方が、はるかにニュース性が高いから。
もしケニアがねらわれるとしても、最後だろうと思っていた」

アフリカ大陸の最南端の南アフリカも、イギリスの植民地であった。
けれども、南アフリカのアメリカ大使館は爆破されていない。

南アフリカへ入国するときに、ビザは要らなかった。
しかし、ケニアではビザも必要で、入国審査は厳しかった。
それなのに、南アフリカは爆破されないで、ケニアばかりが、
攻撃されている。なぜだろうか? 南アフリカ人に聞いてみた。

「ケニアは、隣り合う国との国境警備が無警戒で、穴だらけだった。
このために、内戦状態にある隣国のゲリラ・グループにとって、
ケニアへの入出国は容易だった。それに、物資の輸送も楽であった。
この状況はテロリストにとっても同じであった」
と南アフリカ人は説明する。

「南アフリカでは、国境の警備を含めて出入国の管理は厳しい。
それと、不審者への警戒は厳重で、常に動向を追っている」

「それに、ケニアのアメリカ大使館は、繁華街の交差点に面していた。
建物が道路から30メートル以上離れなければならないという安全基準を、
満たしていなかった」

ナイロビ国立公園。

なわばり争い。「これはオレの木だ」、「ワシが先に来た」

紅茶やコーヒーの農産物、それにサファリの観光が主産業で、
テロとは無関係な平和で穏やかな国、ケニアから国際テロがはじまった。
その“ケニアの通知表”をみたい。

ランク…AA=3位以内 A=10位以内 B=20位以内 C=30位以内 D=40位以内。
1)創造力: ノーベル賞の受賞者はなし→ランクF。
2)芸術力: カンヌ映画祭でパルム・ドール受賞作品はなし→ランクF。
3)学力:  PISA2006の15歳の知識と技能は参加していない→ランクF。
4)文化力: 文化遺産と複合遺産2は51位以下→ランクF。
5)運動力: サッカーのランキングは104位→ランクF。
陸上競技世界記録11は2位→ランクAA。
6)経済力: 国民総生産は81位→ランクF。
7)援助力: 政府開発援助はなし→ランクF。
8)総合力: ランクE。


ケニアのレーダーチャート(2009年10月)。

[総合評価]
“運動力”が突出したレーダーチャートである。
陸上競技世界記録11の2位は、すばらしい。

iaaf.orgから陸上競技世界記録 国別ランキングを作成した。

ケニアは11の陸上競技世界記録で、2位である。
1位ロシアの16に次ぐ。
3位アメリカ10、4位エチオピア9、5位日本8が続く。

日本の世界記録の種目は、男子は、2万5千メートル、3万メートル、
30キロメートル、100キロメートル、女子は、15キロメートル、
25キロメートル、30キロメートル、100キロメートル、である。

ケニアの世界記録の種目は、
男子は、1,000メートル、3,000メートル、10キロメートル、15キロメートル、
ハーフ・マラソン、25キロメートル、4×800メートル・リレー、
ロード・リレー、である。

女子は、20キロメートル、25キロメートル、30キロメートルである。
この3つの世界記録は、テグラ・ロルーペがもっている。
男子も、女子も中長距離は、ケニアのものである。

ケニアの北の国、4位エチオピアの世界記録をみると、
男子は、5,000メートル、1万メートル、15キロメートル(ケニアと同タイム)、
2万メートル、20キロメートル、1時間走、マラソン、
女子は、5,000メートル、1時間走、である。
エチオピアもケニアと同じように、中長距離が強い。

正月の、東京箱根間往復大学駅伝競走で、ケニア人が大活躍している。
ぜい肉のない胴から、長くてまっすぐ伸びる手足は、
走るために生まれてきたような身体だ。
日本人ランナーをつぎつぎと追い抜く。
ケニア人が1区を走ると、差がつきすぎて、
駅伝の興味がなくなるために、禁止された。

ケニア人は高校駅伝でも大活躍である。
大学駅伝と同じように1区を走ることはできない。
これは、長野県の佐久長聖高校が駅伝で優勝した(2008年)ときの報告会。

ケニア人を含まない日本高校最高記録で優勝した。

報告会で、生徒さんは、2時間2分台を目標に練習してきたことを話す。
内に秘めた闘志は大きいが、話しぶりは、おだやかだったな。
やがて、世界記録を出し、オリンピック選手に育ってほしい。

グレイト・リフト・ヴァレーGreat Lift Valley”は、
人類の発祥の地”である。
アフリカ大陸を南北に走る裂け目で、“大地溝帯”と呼ばれ、
ケニアの西部を通っている。
この大地溝帯ができて、それまでジャングルにいた猿は、
大地溝帯のサバンナの草原に下りてきた。
ジャングルで木の実を食べるという生活から、
サバンナで動物をハンティングするという、生活の“劇的な変化”である。

そして、猿は動物に襲われないように、サバンナでときおり立ち上がっては、
周りを見通した。これが劇的な“2足歩行”の開始である。
空いた両手にこん棒を持ち、道具を扱うようになる。
現代人の発生はアフリカ起源説が一般的だが、
それはケニアからエチオピアへ続く、この大地溝帯が舞台である。

ケニア、エチオピアが共通して中長距離に強いのは、人類の起源、
それに、サバンナで動物をハンティングする生活に関係しているのだろう。

大地溝帯の民族、ケニア、エチオピアが中長距離に強いのに対して、
8位ジャマイカは、短距離が強い。
ウサイン・ボルトが男子100メートル、200メートル、
4×100メートル・リレーと、すべての世界記録をもっている。
身長が196センチ、体重が94キロの頑強な身体で、短距離を弾丸のように走る。
大地溝帯の民族がスリムな身体で、中長距離をひたひたと走るのとは違う。
頑強な身体とスリムな身体、民族の違いが、得意種目の違いになっている。

ケニアの西の“カレンジン族”は足が速い。
カレンジン族は、ケニアの西の大地溝帯グレイト・リフト・ヴァレーで、
牛を追う牧畜民で、闘争心が旺盛で、牛の争奪戦をする。カレンジン族から、
オリンピックで優勝し、中長距離の世界記録を持つアスリートが輩出している。

大地溝帯の民族マサイ族、左と公園保安官レンジャー。ナイロビ国立公園。

マサイ族のぜい肉のない胴から伸びた、長くてまっすぐな手足。
腕に触らしてもらうと、しなやかな筋肉だった。汗をかかない肌。
ムダのないバランスがとれた身体は、草原を駆けるにはピッタリだ。

「標高1,500~2,400メートルを、はだしで駆け回る少年たちは、
有酸素運動で鍛えられたアスリートの卵です。
ケニア人には走る能力が遺伝子として伝わっている」
と、ケニア人は言う。

「カレンジン族の中長距離ランナーの才能が認められて、
ヨーロッパやアメリカ、そして、日本からもスカウトにやって来る。
学校やコーチ、施設、競技会、賞金、それに企業に就職できるという、
環境ができて、ケニア人にアスリートとなる道が開けた」

「これまでの世界記録保持者は、環境に恵まれた先進国の選手だったが、
同じ環境を手にしてからは、ケニア人がオリンピックで優勝し、
世界記録を打ち立てるようになった」

ケニア女子の3つの世界記録の全部をもつ、テグラ・ロルーペは、
足が速いカレンジン族の少数民族ポコトの出身である。
夜になると牛泥棒が横行して、殺し合いになるところ。

小学校までの10キロは、はだしで走って通っていた。
家に帰ると牛の世話をし、家事をし、兄弟の面倒を見る生活だったが、
ジュニアのときに800メートルと1500メートルで優勝した。
しかし、身長153センチ、体重39キロというきゃしゃな身体で、
女性だということで、ケニアの陸上競技会からはまったく無視された。

ケニアにいては将来が見込めないテグラ・ロルーペは、
父親の猛反対を押し切って、19歳のときにドイツへ行き、
コーチについて鍛錬した。そして、21歳のときに、
ニューヨーク・シティ・マラソンに初参加して、初優勝した。
アフリカ女性として初めてのマラソン優勝である。
そして、翌年も優勝した。

その後、ロッテルダム・マラソンで3連勝し、ベルリン・マラソン、
ロンドン・マラソンで優勝し、マラソンの女王といわれた。
マラソンのほかに、長距離走をあわせて、8つの世界記録を打ち立てた。
そのうち3つが、いまでも世界記録になっている。

そのテグラ・ロルーペ。

第10回長野マラソン(2008年4月20日)。競技施設エムウェーブで。
写真の撮りやすい、スタートから17キロのエムウェーブで待ちかまえて、
さわさわと走ってくるテグラ・ロルーペに、夢中でシャッターを押した。

34歳というが、ムダがないアスリートの身体だ。
テグラ・ロルーペは12位であった。
優勝は、ロシアのアレブティナ・イワノワ(32歳)で、2連覇である。

男子の優勝は、ケニア人のネファト・キニャンジュ(30歳)。

先頭集団の右端、黄色のゼッケン1。
ムダがない身体だ。長野マラソン3連覇である。

ケニア人で、長野マラソンで優勝経験がある、
エリック・ワイナイナ(34歳)は、13位だった。

テグラ・ロルーペは、祖国ケニアでテグラ・ロルーペ平和財団を築いて、
平和マラソン”を開催している。
闘争の真っただ中にあるケニアやウガンダ、スーダンで、
部族の戦士を参加させ、スポ-ツによる平和を呼びかけている。
さらに、部族間の抗争で親を失った孤児のために学校を建て、
貧困からの救済や女性の地位向上の活動をしている。そして、
国連のスポーツ大使に任命されて、平和の訴えを世界に繰り広げている。

人類発祥の地ケニアは、中長距離のアスリートが育ち、
オリンピック、世界記録に輝かしい記録を残している。
そして、世界の平和のために努力し、貢献している。


ナイロビ市街。
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