季節の変化

活動の状況

満蒙開拓団の集団自決

2015-08-30 00:00:08 | Weblog
満蒙開拓団では、集団自決が起きた。
長野県満洲開拓団関係図の北西部。

「ノノさんになるんだよ」。高山すみ子著、銀河書房から。
は開拓団。
は主な集団自決地。
満蒙開拓団の集団自決は、あちこちで起きた。

集団自決をしたが、死を免れた人がいた。
K高社郷(こうしゃごう)開拓団の高山すみ子さんである。
長野県の北部、下高井郡、瑞穂 (みずほ) 村で生まれた。

1940年、17歳の時に、母、兄とともにK高社郷開拓団に移住した。
高社郷という名は、下高井郡の中央にある高社山からとった。
高社郷開拓団には、下高井郡の14カ村が参加し、
瑞穂村、市川村、木島村…が含まれている。

そこで、先に移住していた小林庄司さんと結婚する。
満洲に渡って3カ月のことである。
忍の一字で一生懸命働いた。
1男1女をもうけた。

1945年(昭和20年)、太平洋戦争の戦局が悪化すると、
根こそぎ動員」で、夫は召集された。
T牡丹江(ぼたんこう)1448部隊へ。
母子3人が残された。高山すみ子さんは21歳、
長男の旭(あきら)は4歳、長女の怜子は2歳だった。

1945年8月9日、ソ連が満洲に進攻してきた。
それから、母子3人の死の逃避行が始まった。
B勃利(ぼつり)方面に逃れ、S佐渡開拓団跡まで来た。
そこで、高社郷開拓団は集団自決をする、「生き地獄」を味わう。

死の逃避行、集団自決、生き地獄は、手記にされている。
ノノさんになるんだよ」。1987年、銀河書房発行。

満蒙開拓奈落の底から」。

1945年、太平洋戦争の戦局が悪化して、
満蒙開拓団の18歳から45歳の男子は、
すべて召集される、「根こそぎ動員」。

満蒙開拓団は、関東軍に食糧を供出するのが使命であり、報国であった。
自分たちは粗食をしても、良質な品をそろえて、
軍からの割り当てをこなしてきた。

農民として満洲に渡った男子が召集されるとは夢にも考えていなかった。
関東軍の精鋭は、南方のグアム、パラオ、レイテ、ルソンへ、
投入されていった。「根こそぎ動員」は、その穴埋めだった。
兵器や軍需品は欠乏して、応召兵に渡す小銃さえ不足していた。

団は働き手を失い、女性と子ども、老人が残された。
そして、1945年8月9日、ソ連が満洲に進攻した。
ソ連とは中立条約があって、ソ連の進攻は絶対にないと、
教え込まれていた。それが、団から伝令がきた、
「ソ連が攻め込んできたので、すぐ団本部に避難しろ」

「1週間分の食糧と着替えなどの身の回り品を持って」
という命令に従って、あわてて、大車に積み込み、
その上に、2人の子どもを乗せて、団本部へ向かった。

1945年8月9日の午後からになり、
1945年8月10日の夜は、激しい雨になった。
晴れる日が多い満洲だが、この雨が、逃避行を困難にした。
道はぬかるんで、大車はなかなか進まなかった。
道は急な登り坂になった。大車がどうしても上がらない。
大車を捨てざるを得なかった。食糧、衣類、怜子のおしめなど、
ほとんどのものを捨てた。4歳と2歳に満たない子を背負って、
逃げ続けなければならなかった。

ソ連や満人(中国人)の攻撃を避けながら逃げた。
足の弱い者や年寄りが大勢自決した。
年寄りばかりの家では、おばあちゃん、かあちゃんが、
孫を抱き、子を抱いて、背後から銃殺してもらった。
死体をそのままにして、B勃利(ぼつり)を目指して逃避行を続けた。

雨のほかに、もう一つの困難は、
守ってくれるはずの関東軍は、ソ連の進攻の前に、いち早く逃げていた。
逃げるときに、兵舎や食糧庫を爆破していったので、
避難民は逃げるところさえ、まったくなかった。

しかし、ヨウカンや当時1個2円だったキャラメルなどがたくさんあった。
それをとりにいって子どもに食べさせた。子どもは恐怖の中にも、
初めての幸福感を味わったのではないかと思う。

倭肯河(わいこうが)にさしかかった。
川幅40メートル、水深1メートル20センチあまりで、流れが急だった。
そのうえ、雨が降りどうしだったので濁流が渦巻いていた。
関東軍は、橋という橋を破壊して逃げていたので、渡れなかった。

渡ることができずに、たくさんの人が死んでいった。
双子の子どもを銃殺する母。子どもを濁流の中へ投げ込む母。
子どもは浮いたり沈んだりしながら、口をパクパクさせていた。
子どもを流れの中に投げ込もうとするのを、
止めさせようとする人は、だれもいなかった。

倭肯河に、長いロープを渡して、文字どおり命綱につかまって、川を渡る。
命綱につかまって渡っても、何人もの子どもが流された。
ここで40数人が死んだという。

「なんとしてもこの川を渡らなければならない」
「この川さえ渡れば、牡丹江(ぼたんこう)が近くなる。
どんなことをしても牡丹江までいくぞ」
牡丹江は主人の入隊した部隊があるところ。

背負ってきた帯でぎりぎりと子どもを、自分の頭に巻きつけた。
渡り始めると子どもは水を飲み始めた。
それでもなんとか対岸に着いた。
ほっとして対岸を見ると、置いてきた子どもが泣いている。
もう一人を渡すために引き返した。
足がつかないほど深いところを、
それこそ死にもの狂いで2度目の渡河を終わった。

休む間もなく、びしょぬれのまま2人の子どを背負って逃避行を続けた。
昼は危険なため、夜歩き続けた。食糧の持ち合わせはまったくないので、
道路の水たまりの水を飲み、草や木の芽を食べて歩き続けた。

しばらく歩いて、S佐渡開拓団跡に着いた。
高社郷を含めて、8つの開拓団、総勢3,000人が集結した。

ここで事件が起きた。
満洲最大の悲劇である佐渡開拓団事件になる。
1945年8月22日、ソ連の飛行機が近くの麦畑に不時着した。
開拓団は、飛行機を攻撃し、炎上させ、搭乗員3人のうち2人を射殺した。

この時は、だれも日本の敗戦を知らず、ソ連とまだ交戦中だと思っていた。
私たちは、関東軍から屯田兵としての教育を受け、
「皇国に殉ぜよ」と教えられていた。
つまり、敵とみれば立ち向かうことが「忠義」と信じ込んでいたし、
ソ連を心から憎いと感じた。

しかし、逃がしてしまった1人の通報によって、
ソ連軍の報復が予想される事態になって、
こんどこそ、死の宣告を受けたと思った。
「ソ連軍に、男子は皆殺し、女子どもは暴行される」という話が広まった。
みんな絶望的になり、全員自決という気持ちになっていった。

翌日の1945年8月23日、各団長会議が開かれ、
だんだん集団自決という方向に向かっていった。
その夜から、ソ連軍の攻撃が始まった。

1945年8月24日、高社郷の人々の間に、暗黙のうちに自決の覚悟が決められていった。
澄みきった空に白雲が流れ、満洲はすでに秋になっていた。
その空の下で最後の慰霊祭と団の解散式がおこなわれた。
(本の表紙の空は、この時の満洲の空を表している、と思った)

1945年8月25日、高社郷の副団長により自決計画が発表された。
「我々は万一の僥倖をたのみにここまで逃げてきた。しかし、もう逃れる道はない。
生きてはずかしめを受けるより、死んで祖国を守ろう」
この佐渡開拓団跡で何千人の人が死んだのかわからない。そのほとんどが銃殺だった。
高社郷だけでも570余人が死んだといわれている。

井戸の中へ子どもを投げ込んだ人もいる。
井戸はたちまちいっぱいになって、死にきれない人もいた。
そういう人は上から銃で撃って殺してやった。
どの家もどの家も、自決した人たちの死体でいっぱいになった。

日本人同士、敵味方の殺し合いを見ているうちに、
私も覚悟を決めるよりほかはなかった。
旭(あきら)を背負い、怜子を抱いて馬小屋へ入った時には、
仲間のほとんどが自決していた。

2人の子どもを胸に抱き、最後のキャラメルを食べさせた。そして、
ノノさん(仏さん)のところへつれていってあげるから、
かあちゃんのいうとおりにするんだよ」
といい聞かせた。
4歳になる旭は、
「ノノさんのところへいけば誰がいるの」
と聞いた。
「ノノさんのところには内地のおじいちゃんもいて、
白いごはんがたくさん食べられるんだよ」
と答えた。

子どもたちはにっこり笑った
「じゃあ、早くノノさんのところへ連れていって」
と旭がいうと、怜子もうなずいていた。
「おじいちゃんのところへいくには、どうすればいいの」
と聞くので、
「こうやって手を合わせていればいいんだよ」
と、東の方を向いて手を合わせてみせると、
子どもたちは私のマネをして手を合わせた。

私を中にして、右に怜子、左に旭を座らせると、
間髪を入れず副団長の撃った銃声が聞こえた。
怜子は瞬間、兎のようにピョンと2メートルも飛び上がり、
旭も血しぶきを上げて絶命した。
私は今でも、私をじっと見つめていた2人の子どもの顔と姿が、
脳裏に焼きついている。
(書いていても、涙が出てくる)

2人の死体を片づけて、私の死ぬ番がきた。
「かあちゃんもいっしょにいくからな」
とつぶやき、副団長に、
「お願いします」
と声をかけ、座りなおして両手を合わせ、目を閉じた。
念仏を唱えたのか、両親の名前を呼んだのか、
夫に先にいくことをわびたのか、この時のことは覚えていない。

その時、ソ連の戦車が戦車砲を撃ちながら突進してきた。
運がいいのか悪いのか、戦車砲は私を撃ってくれようとした、
副団長を撃ってしまったのだ。倒れた副団長は私の足をたたき、
「逃げろっ」
と叫んだ。
しかし、ソ連軍が近づいてきて、逃げるに逃げられなかった。

死体はすでに天井に届くほどに積み上げられていた。
まだ生きていた人たちも、ショックや何かで動けなかった。
私はそこで意識をなくしてしまった。

記憶がないので日付もわからない。
少なくとも2日ぐらいは経っていただろう。
夢から覚めたように、ふと目を覚ましてみると、
小屋中死体がぎっしり詰まっていた。

生きているのが不思議だった。
「ああ、生きていたんだ」と思い、
もう一度辺りを見回すと、子どもは2人とも死んでいた。

私は自分にいい聞かせた。
「子どもたちと一緒に死ねない運命なんだから、
生きなくちゃいけないんだ」と。

女一人になった、死の逃避行は続く。
1年後の1946年9月下旬に、日本に帰るまで。

長野県は、全国で一番多く満蒙開拓団を送り出した。

長野県は、全体の14.2%を占めて、断トツ。
長野県の戦没者は15,000人近くだから、半数が亡くなった

満蒙開拓団は国策だった。
拓け満蒙! 行け満洲へ!」。

拓務省 満洲農業 移民募集
「資格 33歳以下(徴兵検査未了者を除く) にして
     身体強壮の者」
「政府の補助 一戸に付1,000円、その他諸種の便宜あり」
「締切 7月15日」
「申込所 町村役場、又は軍人分会」
「満洲移住協会 東京、日比谷、大阪ビル内」

写真を見ると、広い平原、肥沃な土地で、
大規模な農業ができ、幸せな生活が送れることを示している。

満州は日本の生命線」、食糧の確保として、1936年、
20年で100万戸、500万人の移民計画」を建てた。
全国的に、村の財政が行き詰まっていた、それに、
耕地が少ないために、次男・三男には継ぐ土地がない。
冬になると出稼ぎをして、何とかしのいだ。これらで、
分村移民をしたり、移民計画を建てた。
全国の共通した決断や、思いは、
「狭い土地にしがみつくよりも、新天地で」だった。

長野県の事情は、盛んであった養蚕業が、
昭和5年の生糸の暴落で、繭(まゆ)の価格が、
3割ほどになってしまった。
養蚕業がダメになったことが、
満洲への移住につながっている。

高山すみ子さんの下高井郡をみる。
満洲移民の市町村別比率」。

高社郷開拓団には、下高井郡の14カ村が参加し、
瑞穂村、市川村、木島村…が含まれている。
瑞穂村は、飯山に組み込まれ、市川村は野沢温泉に、
木島村は木島平に組み込まれている。
地図で、満洲移民の比率は、
飯山は2.8%、木島平は3.5%、
野沢温泉は6.2%と高く、赤色で表示されている。

この市川村については、渡満者比率、帰国者比率のデータがある。
市町村の渡満者比率」。

渡満者の内訳で、
義勇軍は、満蒙開拓青少年義勇軍、
勤労奉仕隊は、移住ではなく、お手伝いに満蒙開拓団に行った人。

下から2行目の市川村は、
人口1,901人の内、195人が満州に渡った。
渡満者比率は、10.3%である。

市町村の帰国者比率」。

市川村は、195人が満州に渡り、
生きて帰ってきた人は51人である。、

帰国者比率は26.3%である。
帰国者比率が極めて低いのは、
高社郷開拓団の集団自決による。

市川村の死亡者ほかを見ると、
死亡者は137人、
残留者は6人、
不明者は1人で、
合せて144人になる。

1番下の豊丘村も、集団自決があった。
そのために、帰国者比率が38.1%と低い。
豊丘村は、河野(かわの)村と神稲(くましろ)村が合併した。
このうちの河野村の分村移民は、集団自決した。
男性は緊急補充兵として「根こそぎ動員」されたから、
犠牲者は、残されて逃避行をしていた女性と子ども。
お母さんたちは、つぎつぎと自分の子どもの首を絞めた。
仲間の首を絞め合った。73人が亡くなった。2人が生き返った。
満蒙開拓団を送り出した河野村の村長は、集団自決を知って、自殺した。
「集団自決の責任をとった」とされている。

「市町村の帰国者比率」をみると、
満洲を逃げ惑うだけで、50%が亡くなっている。
集団自決の満蒙開拓団は、さらに20%ほど低下する。
集団自決の犠牲者は母と子どもで、帰国者比率は0%に近づく。
男性は、「根こそぎ動員」で召集されて、戦闘で死亡か、
生存者は、捕虜としてシベリアの収容所で、飢え、極寒、
発疹チフス、重労働で、バタバタと死んでいった。
満蒙開拓団で帰国できた人は、半数だった。
家族は、半数になった、と考えればいい。

「満州は日本の生命線」として、国策で渡った満蒙開拓団だが、
待ち構えていたのは、ソ連の進攻、中国軍の襲撃、
家族はバラバラ、死の逃避行、集団自決、飢え、極寒、
発疹チフス、アメーバ赤痢…。地獄が待っていた。
守ってくれるはずの関東軍は、いち早く逃げていた。

死の逃避行を生きながらえた人は、アメリカが差し向けてくれた、
貨物船を改造した輸送船に乗ることができて、帰国することができた。
満蒙開拓団の残りの半数の人は、死亡、行方不明、残留孤児、残留婦人として、
満洲にとり残された。さらに、残留者2世、3世…を生んだ。

国策、「拓け満蒙! 行け満洲へ!」は、あったが、
「助けよう、満蒙開拓団を! 救おう、残留者を!
の国策は、なかった。
満洲に渡った阿智村の長岳寺の住職、
山本慈昭さんが、残留孤児の調査をして、
国に残留者の実情を伝え、訪日調査を要望した。
国は重い腰を上げて、「中国残留日本人孤児」の訪日調査が実現した。
1981年3月のことで、敗戦から36年が過ぎていた。
全国から集まった身寄りの人と、「中国残留日本人孤児」は、代々木で面会した。
「わたしは、だれですか?」の問いかけに、日本語と中国語で会話して、
薄れゆく記憶をたどり、一致点を見つける肉親捜しが始まった。

満蒙開拓団生き地獄を味わった。
戦争に反対し、平和を願う気持ちは、ことのほか強い。
子どを失った母は、一生、癒えない傷を負っている。
「私は今でも、私をじっと見つめていた2人の子どもの顔と姿が、脳裏に焼きついている」
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米英撃滅へ

2015-08-23 00:01:12 | Weblog
鉄銅 出して米英撃滅へ」は、
戦争ポスターの標語である。
家庭の金属回収」。

鉄銅 出して米英撃滅へ
「長野県、大政翼賛会長野県支部、長野県翼賛壮年団本部、
 大日本婦人会長野県支部、長野県青少年団、財団法人 戦時物資活用協会」

戦争ポスターから、戦争遂行の重要度がわかる。
戦争遂行の最重要課題は、戦費のねん出だった。
それは、国民が持っている金属の回収であり、
国民が蓄えているお金を貯蓄させたり、国債を買わせること、
労務動員して工場で働かせて、外貨を獲得することであった。

貯蓄達成運動」。

120億」の鉄槌を掲げている。
「大蔵省、道府県発行」

貯蓄は、戦費をねん出する手段だった。
阿智村ポスターから。

終戦時の昭和20年8月21日に、
戦争ポスターは焼却せよ」、という国の命令、
「大東亜戦争関係ポスター類焼却の件」が出された。
しかし、長野県阿智村の当時の村長は、
「尊い教材になると考え、命がけで蔵に保管した」

それで、1937年~1945年までの戦争ポスター135枚が、
阿智村の元村長の土蔵から、まとまって見つかった。
戦後半世紀たった1994年のことである。
阿智村ポスター」と呼ばれる。

この「阿智村ポスター」と常会の記録を見ると、
戦争を遂行するためには、戦費をねん出することに、
死命をかけていたことがわかる。

松本文書館には、常会の記録がある。
元町区長から常会への通達。
1941年9月14日。
国民貯蓄組合への加入促進運動実施に関する件。
国民貯蓄組合法が施行されたことから、
国民貯蓄組合を結成し、未加入者の絶無を行うこと。

1941年11月4日。
町内会婦人部設置に関する件。
婦人部を設置して、町内会の組織運営の強化を計る。
婦人部は貯蓄の励行をする。

1941年11月20日。
婦人常会開催に関する件。
戦費と国債」の小冊子は、大蔵省が編纂に係わったもので、
各戸に回覧すること。

1941年11月25日。
一般家庭金属類特別回収に関する件。
回収物件は、各人の荷札を付けて、隣組長宅まで、差し出すこと。
買出人が鑑定し、買上伝票に記入すること。

また、新村地区の常会には、月々の協議事項の記録がある。1941年。
9月の常会協議事項として、
1.国債、債券の消化に関する事項、
2.国民貯蓄組合の設立に関する事項、
3.家庭用砂糖配給に関する事項、
5.配給に関する事項、
9.海軍志願兵徴募割当に関する事項、
 などの記載がある。

12月常会に取り上げる事項として
1.新生活様式の実践に関する事項、
2.国債、債券の消化に関する事項、
3.貯蓄実践強調期間に関する事項、
4.防火に関する事項、
12.兵役法の改正に関する事項、
13.一般民間金属類の回収に関する事項、
 ほかの記載がある。

これらの常会の記録は、松本市文書館講座、
「文書にみる戦時下の松本」で知った。
戦時下で生きる重要事項、徹底事項で、
みなさんの常会でも残っていると思う。

つぎに、「阿智村ポスター」。
135枚を分類してみる。
1)国債の購入を促す戦争ポスターが、30%を占める。
2)貯蓄を促進する戦争ポスターが、8%を占める。
3)金属の回収やの買上げの戦争ポスターが、11%を占める。
合わせて5割が、国民が持っている財産の吸い上げになる。

日本は、生糸が外貨獲得の稼ぎ頭で、
つぎに、お茶、そして、マッチだった。
生糸、お茶、マッチで稼いだ金で戦争に挑んだ。
国力は、アメリカの10分の1の日本が、米英に勝とうと戦争をした。
「阿智村ポスター」をみると、5割が戦費のねん出をしようとするもの。
国民が蓄えた財産に目を付けて、戦争を遂行したことがわかる。
姫路市立美術館の田島奈都子さんの資料から、分類してみた。

1)国債の購入を促す戦争ポスターについては、
つぎに掲載したので、参照してください。
「国債を買って 戦線に弾丸を送りましょう」、2015年8月16日。

2)貯蓄を促進する戦争ポスターは、8%。
貯蓄 120億

アリが日章旗をくわえている。
興亜の力
「大蔵省」

230億」。

目標に向けて、230億と兵士が邁進する。
我らの攻略目標
国民貯蓄230億円

断じて360億を貯蓄せよ」。「この4月から」。

もっと働き もっと切詰め
見よ! 力強きこの貯蓄力
「明治初年から 支那事変前までに
われわれは464億円の貯蓄をした」
「それが 支那事変勃発以来
 この3月までの6年9ヶ月間に
 堂々1千億円を突破したのだ」
「大蔵省 都道府県」

3)金属の回収や金の買上げの戦争ポスターは」、11%。
戦果に応えよ 金属回収」。

戦闘機が、アメリカ国旗の上を飛ぶ。
アメリカ国旗は破られている。
年内に供出することが 戦力増強上最も大切だ
「回収対象 官庁公共団体、指定施設、非指定施設、神社・寺院、教会・その他」
「長野県、長野県翼賛壮年団本部、大政翼賛会長野県支部、財団法人 戦時物資活用協会」
これで、神社・寺院のこま犬、灯ろう、鐘は、なくなった、という。

お国の為に金を政府に売りましょう」。

金の指輪や、ネックレースを掲げている。
金も総動員」のタスキをかけている。
「買上げ値段 1匁(もんめ)14円43銭7厘5毛」
「手続はすべて銀行信託会社で致します」
「大蔵省 内務省 後援」
「政府へ/金売却取扱店」

4)工場への労務動員、生産向上の戦争ポスターが、12%を占める。
兵士への物資供給であったり、外貨獲得をねらったものである。
後方支援が戦争遂行のために、重要な課題であった。

労務動員」。

集れ 輸出繊維工業へ
「厚生省、財団法人 職業協会」

まゆ生産 1100万貫 確保」。

「長野県」、
「長野県蚕糸業同盟会」
1100万貫 は4.2万トンになる。
生糸は、外貨獲得のトップ。
生産額は長野県がトップで、
増産の割り当てを確保しようとした。

労務動員」。

行け! 人絹 スフ工場へ
「外貨獲得10億円」
「厚生省、財団法人 職業協会」

青壮年国民登録」。

「要登録者」
「男子 16歳以上 40歳未満の者で、
 職業能力申告手帳及び国民労務手帳を持たぬもの」
「女子 16歳以上 25歳未満の未婚者」
「申告期日・10月末日現在で11月10日まで」
「詳細は市役所、町村役場、国民職業指導書へ」
「厚生省」

婦人は、農業で食糧の確保をしたり、工場労働者になった。
青壮年も、労働者として、生産に充てたい。

5)軍の募集、満蒙開拓青少年義勇軍の募集などが、10%。
戦争を遂行する兵士が要る。
「昭和21年度採用 海軍志願兵徴募」。

「1.丙種と年齢 14歳、16歳以上
 2.身体検査
 3.学力試験
 4.願書提出先
 5.願書締切期日」
「願書の様式その他詳細については
 市区役所町村役場に問合すこと」
「海軍省」

往け若人! 北満の沃野へ!!」。

満蒙開拓青少年義勇軍募集」。
「詳細は市町村役場へ」
「長野県」

「満蒙開拓青少年義勇軍」とは、
15歳~19歳の青少年を募集し、
茨城県の内原訓練所で、3ヶ月訓練してから、
「北満」、つまり、ソ連国境の奥地へ送り込み、国境警備にあてた。

長野県が独自に製作したポスター、
「満蒙開拓青少年義勇軍」の募集に、
長野県は、力を入れていたことがわかる。

満蒙開拓青少年義勇隊」。

「シベリア俘虜記」。穂苅甲子男 著、光人NF文庫から。

「満蒙開拓青少年義勇軍」は、満洲では、
「満蒙開拓青少年義勇隊」と呼ばれた。
「関東軍」のほかに、また「軍」が来た、
と思われるの避けるためだった。
実際の「満蒙開拓青少年義勇隊」は、
洗濯もせず、汚れた衣服を着ている、
打ちひしがれている、喜びや希望に満ちた顔ではない。

半数以上が亡くなった部隊があった。
斉藤中隊は、217名中、121人が亡くなった。
昭和20年8月 国境を突破したソ連軍の怒涛の進攻の前に、
なんら、なす術もなく 全員捕虜となった。銃口を背に、
過酷な重労働を強いられ、寒さと飢えと疲労のため、
つぎつぎに病に倒れた。14~15歳の少年達だった。

6)戦死者への名誉、傷病兵の更生などが、13%。
戦死者を国の誉としてたたえ、傷病兵には手当、更生を行う。
誉の遺族へ挙国の援護」。

遺族が戦死者のかぶとを持っている。
「厚生省」。

7)国民精神総動員、心身の鍛錬など、軍国主義への傾倒が、7%。
戦意の高揚を徹底し、意識の変革を促す。
国民精神総動員」。

金地に日の丸。
「帝国政府」

国民精神総動員強調週間」。

特輯放送番組
「2月11日から 2月17日まで」
「日本放送協会(NHK)」

8)そのほか、米の節約、学童疎開の受け入れ、
赤十字デー、国勢調査、植樹祭、お祭りなどが、7%。

「米英撃滅」に向かって進めた戦争には、
国民総動員で臨み、戦費のねん出が重要事項だったことを、
阿智村ポスターが教えてくれた。

「米英撃滅」のアメリカとイギリスに赴任した。
戦後40年のことで、アメリカとイギリスから、
「日本撃滅!」、「仕返しだ!」とばかりに、
嫌な思いをさせられることはなかったな。

「来るもの拒まず、アメリカ人になるならば」
とウエルカムで、技術を持ってくるか、
アメリカ人の雇用の機会を増やすならば、
ワーキング・ビザは下りた。イギリスも同じ。
隣人も親切で、生活の面倒までみてくれた。
アメリカでテニス、イギリスでゴルフをした。

プライベートの旅行を含めて、世界50ヵ国以上を訪問したが、
戦後の廃墟の中から立ち上がった日本人に、驚嘆し、尊敬して、
「これは聞こう!」、「これは話そう!」と、寄ってきて、
本音で話す人がほとんどだった。

70年前は、「米英撃滅」で兵士は死んでいった。
「イタイ!」、「苦しい!」、「おかあさ~ん!」と言いながら。
70年後の現在は、「米英撃滅」の代わりに、
Win Win”で、双方が勝つ形態を探していく。
弾を打ち込めば、相手も打ち返してくるに決まっている。
儲かるのは、軍需産業?
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国債を買って 戦線へ弾丸を送りましょう

2015-08-16 00:01:10 | Weblog
国債を買って 戦線へ弾丸を送りましょう」。

これは戦争ポスター。1941年、大蔵省、逓信省発行。
国債で戦費を集めて、戦争(支那事変)を推し進めようとした。
「支那事変国債 郵便局売り出し」、
「10月24日⇒11月4日」

日本の戦争は、日中戦争(支那事変)、1937年7月7日~、
太平洋戦争(大東亜戦争)、1941年12月8日~1945年9月2日へ突入した。

日本は、生糸が外貨獲得の稼ぎ頭で、
つぎに、お茶、そして、マッチだった。
生糸、お茶、マッチで稼いだ金で戦争に挑んだ。

石油ほかの資源は侵略で手に入れ、
食糧は、銃後を守る農村婦人の活動に頼り、
満蒙開拓団にも、厳しい生産が割り当てられた。
国民の貯蓄に目を着けたり、国債の売り出しに力を入れて、
戦争を推し進めてきた。

国債の売り出しに関する資料として、
☆国債の収納袋
常会で国債の周知徹底、
戦争ポスターによる宣伝がある。

国債の売り出しには、郵便局が主体で進めている。
支那事変国債」、収納袋の表。

「国債へ挙国一致の力こぶ」
「銃とる心で国債報国」
「国債でせめて銃後のご奉公」
「十円券から千円券まで6種類 枚」
「小淵沢郵便局」

この収納袋は、
「変わったものが保存してあったよ」
と、友人が見せてくれたものである。
厚めの封筒で、大きさはA4。

「支那事変国債」、収納袋の裏。

「ぜひ御一読ください」
「△郵便貯金をしている人は、郵便局から買った国債を、
特に低い金利で安全に保管してもらえます」
「△国債の元利金は全国の郵便局、
日本銀行本支店および代理店で支払います」
ほかが、書いてある。

しかし、敗戦で、国債は紙くずとなった。
大空襲、原爆で国土は焦土と化し、310万人が命を失い、
国民に希望はなく、その日、その日を生きていくのがやっとだった。
それに、ハイパーインフレで、国債の価値はなくなった。

大日本帝国は崩壊した。
そして、日本が更生するまで、
7年近く、日本は連合軍の占領下にあった。

つぎに、松本文書館には、常会の記録がある。
いかにして、国債を集めるかは、町内の常会の協議、徹底事項だった。
新村地区の常会の月々の協議事項の記録がある。1941年。
9月の常会協議事項として、
1.国債、債券の消化に関する事項、
2.国民貯蓄組合の設立に関する事項、
3.家庭用砂糖配給に関する事項、
5.米配給に関する事項、
9.海軍志願兵徴募割当に関する事項、
 などの記載がある。

12月常会に取り上げる事項として
1.新生活様式の実践に関する事項、
2.国債、債券の消化に関する事項、
3.貯蓄実践強調期間に関する事項、
4.防火に関する事項、
12.兵役法の改正に関する事項、
13.一般民間金属類の回収に関する事項、
 ほかの記載がある。
いかにして、国債を集めるか、
いかにして、貯蓄させるかについては、
砂糖の配給、米の配給などの物資の統制とともに、
常会の重要事項、徹底事項で、繰り返し取り上げている。

この常会の記録は、松本市文書館講座、
「文書にみる戦時下の松本」で知った。
戦時下で生きる重要事項、徹底事項で、
みなさんの常会でも残っていると思う。

つぎに、戦争ポスター
戦争ポスターは、長野県の阿智村から見つかった。
戦争ポスターは焼却せよ、という国の決定、
大東亜戦争関係ポスター類焼却の件

昭和20年8月21日に出されている。松本文書館。
戦争ポスターの焼却を命じている。
そして、学校や各種団体に通達すること、
この通達そのものも焼却することを命じている。
このために、全国のすべての戦争ポスターは焼却された。

「戦争ポスターは焼却せよ」、2012年8月19日、
を参照してください。

当時の阿智村村長は、
「尊い教材になると考え、命がけで蔵に保管した」。
1937年~1945年までの「戦争ポスター」135枚が、焼却を免れた。
阿智村ポスター」と呼ばれ、阿智村が管理している。

阿智村には、「満蒙開拓平和記念館」があり、

満蒙開拓団や、満蒙開拓青少年義勇軍の資料が、
保管され、展示されている。2013年4月25日にオープン。
「阿智村ポスター」は、数点ほどが展示されている。

「阿智村ポスター」には、
「支那事変国債」の戦争ポスターがたくさんある。
支那事変国債」。1938年、大蔵省発行。

航空兵が砲弾をかついでいる。
「郵便局売り出し」
「12月13日より 12月24日まで」
「十円券より千円券までの6種類」
「この國債は郵便局で何時でも買上げます」

第3回 4回 貯蓄債券」。1938年、大蔵省、日本勧業銀行発行。

戦車を使って、キャタピラーに標語がある。
「売出期間 6月10日より 25日まで」
「1枚10円」、「1等割増金千5百円」

支那事変国債」。1939年、大蔵省発行。

狙撃する兵士の前で、銃後を守るエプロンの婦人が、
タスキをかけて、支那事変国債の購入を呼び掛けている。
「郵便局売り出し」
「2月21日より 3月4日まで」
「十円券より千円券までの6種類」
「この国債は郵便局で何時でも買上げます」

支那事変国債」。1940年、大蔵省発行。

日の丸の地球上を、無数の戦闘機が飛ぶ。
戦線へ弾丸を!
「郵便局売出し」
「8月22日より 9月2日まで」
「この国債は郵便局で無料で預ります」

支那事変国債」。1941年、大蔵省、逓信省発行。

戦闘機が飛ぶ。
「郵便局売出し」
「6月20日より 7月1日まで」

支那事変から大東亜戦争へ突入する。
大東亜戦争国債」。1942年、大蔵省、逓信省発行、日本銀行発行。

戦艦が走る。
勝利だ 戦費だ 国債だ
「郵便局売出」
「4月23日より 5月4日まで」

国債の戦争ポスターは、次から次へと作られた。
135枚の阿智村ポスターの内、41枚が国債である。
1941年に11枚、1940年に9枚、1939年に8枚、1938年に8枚、
1942年に4枚、1937年に1枚、合計41枚を発行した。135枚の3割を占める。
姫路市立美術館の田島奈都子さんの資料から、国債関係を抽出した。
戦費のねん出に、国は躍起になっていたことがわかる。

そして、いづれの戦争ポスターもカラー印刷、
グラデーションと手が込み、金がかかっている。
食糧が不足し、1939年にが「配給制」になる。
物資も足らなくなり、1940年に「贅沢品禁止令」がでて、
ぜいたくは敵だ!」の風潮が徹底されていたときである。

欲しがりません、勝つまでは」は1942年の標語。
国民は、窮乏生活を強いられたときでも、
「戦争ポスター」には、潤沢に金をかけた。

モノクロの、みすぼらしい戦争ポスターを作れば、
戦局は思わしくない、負けるだろう、と国民に思われる。
負けることはわかっていた戦争でも、豪華な戦争ポスターに、
しなければならなかった。

支那事変国債、大東亜戦争国債は戦時中の話。
ここからは、戦後70年の現在の話、赤字国債
日本には、国債、借入金を含めた膨大な借金がある。
1057兆2235億円(2015年6月末)。
国民1人当たりにすると、832万円になる。

返済のメドがないこの借金は、増え続けて、
2015年の末には、1167兆円に増えるという。
この借金の状況は、「借金時計」ほかが、
インターネットにあるので、参照してください。

「東山魁夷が想う京都」、2012年2月19日から引用すると、
日本の借金は、つぎのようになる。
「島国の決定的打撃は、2011年3月11日に起きた。
東日本大震災原発事故である。
トヨタ、ホンダ、キャノンでもうけた金は、
箱物、道路、ダム、そして原発に注いできた。
それでも物足らずに、赤字国債を発行して、
ムダな箱物を造り続けてきた。国力は低下した」

「赤字国債のツケは、つぎの世代にバトンタッチされる。
膨大な赤字国債は、つぎの世代では返済しきれない。
さらに、つぎの世代までかかりそうだ。
原発の廃炉には、半世紀かかる。
廃炉には、国民の税金を使う」

福島第一原発、1~4号機の廃炉費用は、いくらかかるのだろうか?
試算不能という。
いったい、どれだけの税金が、使われるのだろうか?
天文学的数字になるという。

廃炉に向けて、
そして、戦争参加に向けて、
赤字国債の標語は、つぎになる。
「国債を買って、廃炉を進めましょう」
「国債を買って、戦線へ弾丸・兵器を送りましょう」
70年前の、戦争した狂乱期と同じになる。
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槍ヶ岳をもっと楽しみたい

2015-08-09 00:00:15 | Weblog
槍ヶ岳をもっと楽しみたい。
2015年7月22日に槍ヶ岳に登った。
足場を確保しながら、岩場をよじ登る楽しみと、
岩の割れ目に咲く、高山植物を眺める楽しみがあった。

せっかく槍ヶ岳に来たからには、槍ヶ岳をもっと楽しみたいと思った。
上高地からは22キロメートル、10時間以上もかけて登ってきた。
槍ヶ岳に登って、すぐに下山してしまうには、
あまりにも、もったいない。

スイスのマッターホルン4,478メートル。1995年10月。

ホテルレストランのテラスの観客は、マッターホルンに魅入っている。
そして、至福の時間を、じっくり味わっていた。

ゴルナー氷河

正面はリスカム4,527メートル。
間近に見る氷河に、感激した。

ふもとの街ツェルマットで買った赤ワインを雪に刺した。
そして、適度に冷えた赤ワインを取り出して、乾杯!
マッターホルンからモンテローザ4,643メートの山並み、
流れ出るゴルナー氷河…を、飽かずに眺めていた。

槍ヶ岳では、2015年7月22日に槍ヶ岳山荘に泊まった。
槍ヶ岳をじっくりと楽しもうと、さらに2泊した。
7月23日のヒュッテ大槍と、7月24日の殺生ヒュッテ。
いづれも、槍ヶ岳山荘から、1時間ほどのところにある。

槍ヶ岳東鎌尾根。槍沢から。

⇒は槍ヶ岳山荘、→は殺生ヒュッテ、右の東鎌尾根の→の先にヒュッテ大槍がある。

雪渓があちこちにある。右手前はナナカマド。
松本から持ってきた赤ワイン1,000mlで、
姿を現してくれた槍ヶ岳に乾杯!

東鎌尾根にあるヒュッテ大槍

写真で見ると、東鎌尾根の絶壁にあることがわかった。
絶壁を右に下りれば、槍沢へつながり、
手前の東鎌尾根を登ってくれば、
槍ヶ岳山荘へつながる。

東鎌尾根から見た殺生ヒュッテ

→は槍沢の登山道で、ここを登っていくと、槍ヶ岳山荘に出る。
右の→から槍ヶ岳山荘までは、ジグザグの急な登りになる。
その右の→を、手前に分岐すれば、殺生ヒュッテに着く。

ヒュッテ大槍では、つぎがあった。
東鎌尾根~槍ヶ岳山荘のルートを登った。
表銀座の燕岳~槍ヶ岳を目指す人と知り合った。
学校登山で槍ヶ岳に登る大町高校生が昼食に寄った。
上高地を朝出発して、夕食がお目当てで、
10時間かけて、たどり着いた人がいて、
チキンのホイル焼き、白ワインを見ると、顔がほころんだ。

まるで、街のレストランにいるようだ。まだ、おまけがある。
「空飛ぶサラダの日」で、タップリの野菜が別にサービスされた。
ヘリコプターの荷揚げが予定通りできたから、とオーナーから説明があった。
生ビールの黒を飲んだ。日本で一番高いところにあるカフェとのこと(2,884メートル)。

殺生ヒュッテでは、つぎがあった。
早朝に、槍ヶ岳や、周囲の山を眺めることができた。
夕食のときに、スウェーデン人に会って話をした。
東南アジア、5週間の旅は、北京から始まり、日本、
香港、マレーシア、シンガポールを回って、帰国する。
日本では山に登る。槍ヶ岳~奥穂高岳、そして富士山。
日本の特徴は、山が素晴らしいことを聞き、うれしくなる。
岐阜県の30代の人と知り合い、上高地へ一緒に下山した。

これらを、写真で追ってみる。
ヒュッテ大槍に泊まって、
東鎌尾根~槍ヶ岳山荘へのルートを登る。
東鎌尾根は、文字通り尾根が→登山道。


岩場を→垂直に上がり、くの字の⇒はしごを登る。

槍沢のルートは、ジグザグの急な登りで、疲れた。
東鎌尾根のルートは、岩場の登り降りで、緊張感がある。

東鎌尾根から槍ヶ岳を目指す登山者。

東鎌尾根は、高山植物が豊富だった。
お花岩。お花畑ではなく、ロックガーデン。

黄はイワオウギ、赤はタカネシオガマ

タカネヤハズハハコ


露のミヤマゼンコ


キバナシャクナゲ

東鎌尾根から、殺生ヒュッテに向かって下りると、
ハクサンイチゲの中に、キバナシャクナゲがポツンと咲いていた。

さらに、槍沢に近づくとフジハタザオ


槍ヶ岳高山植物


そして、夕暮れの槍ヶ岳

早い雲の流れと、変化する岩肌を、ズ~ッと眺めていた。

殺生ヒュッテに泊まって、
東鎌尾根から、早朝の槍ヶ岳や、周囲の山を眺める。
殺生ヒュッテのスタッフから、
「東鎌尾根に登れば、眺望が素晴らしい」
と教えてもらった。
朝の3時半に殺生ヒュッテを出た。
暗闇で、ライトを頼りに登る。4時に着いた。
それから、5時半まで、ゆっくりと眺望を楽しんだ。

浅間山が明るくなってきた。


八ヶ岳が現れた。


富士山が浮かび上がった。

右は南アルプスで、左は甲斐駒ヶ岳、右端は北岳。

表銀座の燕岳大天井岳。槍ヶ岳を見ながらの縦走になる。

左から▽唐沢岳、▽燕岳、▽大天井岳、▽東天井岳。

北鎌尾根の奥に立山鹿島槍ヶ岳

▽立山、▽針ノ木岳、▽白馬岳(雲の下)、▽鹿島槍ヶ岳、▽爺ヶ岳。

大喰岳(おおばみだけ)。


穂高連峰

M前穂高岳、H北穂高岳、O奥穂高岳、Gジャンダルム。

明けていく山並みを眺めていると、
東鎌尾根を下山する人が通りがかった。
山の名前を確認し合いながら、しばし眺めた。
山並みの眺望に堪能して、東鎌尾根を降りていった。

槍ヶ岳では、槍ヶ岳山荘、ヒュッテ大槍、それに、
殺生ヒュッテと3泊して、ゆっくりすることができた。
夕暮れや朝の槍ヶ岳や周囲の山並みを眺めることができた、
東鎌尾根を登ることができた、高山植物を見ることができた、
食事もビールもワインもうまかった、山の仲間と知り合うことができた。

前穂高岳

遠方は中央アルプス。

さて、殺生ヒュッテから上高地に下山するが、
スタッフから、
「季節が変われば、槍ヶ岳は違いますから、また来てください」
と、言われた。

あこがれの槍ヶ岳は、テリトリーに入った。
槍ヶ岳を楽しんで、今は、感慨にふけっている。

「もっと楽しみたい!」
「新たな発見をしたい!」
「燕岳~槍ヶ岳の表銀座を縦走したい」
「さらに、大キレットまで足を伸ばしたい」
と思う気分が、みなぎってくるのを待とうと思う。

槍ヶ岳


槍ヶ岳には、2015年7月22日に登った。
足場を確保しながら、岩場をよじ登る楽しみと、
岩の割れ目に咲く、高山植物を眺める楽しみがあった。
これは、つぎに記載してあるので、参照してください。
「槍ヶ岳は高山植物のお出迎え」2015年8月2日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/51faac8771db20a457d5d9c5163601cb
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槍ヶ岳は高山植物のお出迎え

2015-08-02 00:02:00 | Weblog
槍ヶ岳では、岩の割れ目に咲いた高山植物が迎えてくれた。
いつかは、登ってみたいと、あこがれの槍ヶ岳が目の前にある。3,180メートル。

肩にある⇒の槍ヶ岳山荘から登る。手前の→は殺生ヒュッテ。

槍ヶ岳の頂上

手前の崖にかかる鎖、はしごを登っていくと頂上。2015年7月22日。
祠の先は崖。左右も崖で、ここが槍の穂先。
ついに、槍ヶ岳に登った! 夢のようだ!
頂上は雨と強風で、誰もいない。

これで、よく比較される槍の穂先のような尖峰3つを、間近で見たことになる。
ネパールのマチャプチャレ、6,993メートル。2014年3月。

サランコットから。ハイキングをしていると、遊覧飛行が目指す。

スイスのマッターホルン、4,478メートル。1995年10月。

ゴルナーグラートから。ふもとの街ツェルマットから登山電車であがる。

高さは、マチャプチャレが一番高い6,993メートル。
マッターホルン4,478メートルは、マチャプチャレの64%の高さ、
槍ヶ岳3,180メートルは、マチャプチャレの45%の高さ、半分以下になる。

⇒の槍ヶ岳山荘を目指して登っていた。
午前は晴れていたが、やがて、曇り、そして、
ポツンポツンと降り始めた雨は、本降りになった。

槍ヶ岳山荘の近くまで登った。
すると、下山してくる人が声をかける。
「槍ヶ岳に登ろうとしたが、槍ヶ岳山荘の人に、
雨で滑りやすい、と言われて、登るのをあきらめた」

それから、槍ヶ岳山荘に着いた。予約をしていないので、
早速チェックインをして、重いザックをおろした。
1枚の敷き布団に1人だった。ありがたい。
そして、ホールで休んだ。

朝5時に横尾山荘を出発して、7時間以上もかけて登ってきた。
つらい登りだった。槍ヶ岳山荘までは、たどり着いた。
あとは、槍ヶ岳に登るというメインが残っている。
槍ヶ岳は、天候が悪くて断念する場合がある、
2度来たが、ダメだった人も聞いている。

槍ヶ岳山荘から外を見るが、視界はまったくない。
強い雨足を眺めるだけ。今日は、ダメかな?
下山した人が言うとおりだ。

1時間ほど待つと、小降りになった。
登るチャンスを逃がすわけにはいかない。
山の天気は、晴のち曇り、雨か雷雨と変わりやすい。

槍ヶ岳山荘のフロントに聞くと、
の発生はない」
それで、すぐに登ることにした。

槍ヶ岳の鎖も、はしごも怖くなかった。
岩だけよりも、むしろ、鎖や鉄杭、はしごが、あった方が安全だ。

手袋をして、→鎖や、⇒はしごを、しっかりつかむ。そして、足場を確保する。
3点を確実に確保できて登るわけだから、安全は保証できる。
怖いのは気のゆるみ、足の踏み外しや、強風に備えて、
手でしっかり鎖や、はしごを確保しながら登る。
素早く判断しながら、よじ登る楽しみがある。

はしごの垂直に近い角度にも恐怖心はない。

はしごが倒れない限り、大丈夫だから。
2段のはしごを登り切ると、そこは、頂上。
右のはしごは下山用。右も左も、誰もいない。

鎖や、はしごの垂直には、ほかの山でも体験してきた。
槍ヶ岳の鎖や、はしごよりも、雪渓のほうが、はるかに怖い。
アイゼンを着けるが、滑りだしたら、止めることが難しい。
素早く腹ばいになって、ピッケルで止める技術はない。
どこまでも転げ落ちる。特に、下りは怖い。

涸沢カールの雪渓へ行った2015年5月に、

遭難を見ている。この上の急斜面で、男性が数百メートル滑落して、
長野県警のヘリコプターで収容されたが、死亡が確認された。

槍ヶ岳の頂上は、吹きさらし。強風をさえぎるものがない。
立っていられない。座るか、はいつくばって移動する。
強風で体が冷えてくる。雨で眺望はまったくない。
祠に賽銭をあげて、これまでの無事を感謝する。

そして、下山。
岩の割れ目に、高山植物が咲いているのに気がついた。
登る時には、高山植物に目をやる余裕がなかった。そして、
登りも下りも、人がいないから、写真を撮る余裕がある。

高いところにあった高山植物から、順番に掲載していく。
ミヤマシオガマ

「風が強いのよ!」と、揺れている。
その下に見える緑は、イワベンケイ。

槍ヶ岳に、高山植物がへばりついているとは予想しなかった。
岩の割れ目に、よくもまァ、咲いたものだ!
強風で、いつも揺れている。
それに、標高は3,100メートル。
槍ヶ岳山荘の標高3,060メートルと、
槍ヶ岳の頂上の3,180メートルとの間。

ミヤマシオガマイワツメクサ

岩の間に、寄り合うように、咲いている。
「槍ヶ岳の花束よ!」と、いっている。

イワベンケイ

「ちょうど咲いたよ! 見てください!」と、いっている。

ミヤマキンバイ

こんもりとある。
「槍ヶ岳の盆栽よ!」と、いっている。

イワツメクサ

「ここは、垂直でしょう!」と、いっている。

そして、槍ヶ岳山荘まで下りてきた。標高3.060メートル。
ミヤマオダマキ

「見事に咲いたでしょう?」と、自慢げである。

ハクサンイチゲ

「目立つ白でしょう?」と、いっている。

槍ヶ岳と、ほかの、
マチャプチャレや、マッターホルンとの違いは、
高山植物が咲く、ということじゃないかな、と思う。
のミヤマシオガマ、のイワツメクサやハクサンイチゲ、
のイワベンケイやミヤマキンバイ、のミヤマオダマキが咲き誇る。

槍ヶ岳山荘にもどった。
びしょ濡れの衣服を乾燥室にほす。
着替えた。そして、飲んだ生ビール
うまかったなァ! 生きていてよかった!

明日の7月23日は、朝3時起きして、再び頂上を目指し、
ご来光を拝もうと、消灯の8時前には寝ていた。
早朝だけは、晴れる予報だったから。

しかし、翌朝は大雨。止む気配がない。
昨日のうちに登っておいてよかった。

槍ヶ岳のすそにも高山植物が広がる。
槍ヶ岳高山植物

右奥は東鎌尾根。

世界の3つの美しい尖峰、マチャプチャレ、マッターホルン、それに、
槍ヶ岳を見ることができた。槍ヶ岳では登頂することができた。

槍ヶ岳は、足場を確保しながら、岩場をよじ登る楽しみと、
岩の割れ目に咲く、高山植物を眺める楽しみがあった。
槍ヶ岳の花束や盆栽が、垂直になって出迎えてくれた。
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