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井戸尻遺跡群の土偶が重要文化財に

2015-03-29 00:00:55 | Weblog
井戸尻遺跡群の坂上遺跡から出土した土偶が、重要文化財になる。
「造形が優れ、保存状態も良好で、縄文中期の土偶として貴重」と評価された。

高さ23センチ。井戸尻考古館所蔵。絵はがきから、2011年。

「さァ、明るい、陽を迎えよう!」
と、大らかに、両手を広げ、上向きが、いいではないか!
造形バランスや細密な文様も評価された。
この土偶の愛称はない。

八ヶ岳山麓の土偶とその仲間は、
国宝が2点、重要文化財が2点になる。
国宝は、「縄文のビーナス」と「仮面の女神」、
重要文化財は、「土偶」(坂上遺跡)、
土偶の仲間として、井戸尻遺跡群の藤内遺跡から出土した、
「巳を戴く神子」(へびをいだくみこ)がある。

土偶の時代と地域2015年の表を作成した。


土偶の「」をみると、最初は破片だったり、十字形の板状だった。
それが、「縄文のビーナス」に見るように、
縄文時代中期から、立像になった。

土偶の「地域」をみると、東日本である。
西日本からは、縄文時代晩期にわずかにある。
これは海底火山が大爆発して、火山灰が積もり、
植生がなくなって、縄文人が住むことができなかった。
6300年前の「鬼界カルデラ」(きかい)の大爆発である。

八ヶ岳山麓からは、
「縄文のビーナス」国宝、
「巳を戴く神子」重要文化財、
「土偶」(坂上遺跡) 重要文化財、
「仮面の女神」国宝、
と、造形美に優れ、精神性の高い土偶が、
1,000年~1,500年にわたって生まれている。

縄文のビーナス」、日本最古の国宝。

高さ27センチ。棚畑(たなばたけ)、遺跡。尖石(とがりいし)縄文考古館所蔵、茅野市。
「ふくよかで、どっしりしていた!」

仮面の女神」、国宝。

高さ34センチ。中ッ原(なかっぱら)遺跡。尖石縄文考古館所蔵、茅野市。
「堂々として、歩きだしそうだ!」

井戸尻考古館へ行った。富士見町。2015年3月25日。

入口にある⇒黒曜石は、そのままだった。

八ヶ岳山麓から出る黒曜石から、狩猟生活には欠かせない矢じりを作った。
矢の先に着ける石鏃(せきぞく)は、生活必需品である。

井戸尻考古館が変わっていたのは、
坂上遺跡の土偶が重要文化財になることを祝う、ポスターがあった。


国重要文化財に指定されます!
と、喜びにあふれている。
「坂上(さかうえ)遺跡出土 土偶」

スタッフが土偶の説明をしてくれた。
「坂上遺跡は、井戸尻遺跡群の一つです」
井戸尻遺跡群」。富士見町井戸尻考古館発行の「井戸尻」から。

色で囲われたところが縄文遺跡。
土偶が出土したS坂上遺跡が載っている。
こうして、きちんと調査をしてあった。
出どころがはっきりしている。

「S坂上遺跡は、JR中央東線の西で、国道20号線の間にある」
「現地に坂上遺跡の標識はないから、知っている人でないとわからない」
「反対側の、JR中央東線の東で、中央自動車道の間には、T藤内遺跡がある」

「T藤内遺跡からは、199点の土器類が重要文化財に指定されている」
巳を戴く神子」(へびをいだくみこ)、重要文化財。

藤内遺跡(とうない)。井戸尻考古館所蔵。絵はがきから、2011年。
土偶の仲間としたが、どうでしょうか? 祭祀に使われた。

神像筒形土器」(しんぞうつつがたどき)、重要文化財。

縄文時代中期(約4700年前)、藤内遺跡。井戸尻考古館所蔵。絵はがきから、2011年。
単なる入れ物ではなく、祭祀に使われた。

スタッフは、さらに説明してくれた。
「S坂上遺跡は、◆井戸尻考古館の近くにあるI井戸尻遺跡、
R曽利遺跡などとともに、井戸尻遺跡群を形成している」
井戸尻遺跡。2011年12月撮影。

竪穴住居の先に富士山Fが見える。Hは鳳凰三山。

「土偶は、頭、胴、下半身の3つに分かれていた」
「農面道路を拡張、整備しているとき(1974年)に、
の跡とみられるくぼみから見つかった」
このことから、「土偶」は祭祀(さいし)に使われた。
「4500年前で、縄文時代中期になります」

坂上遺跡の土偶が、「縄文のビーナス」や「仮面の女神」に共通するのは、
集落から一つだけ出土する大型の土偶で、シャーマンが保有した。
「縄文のビーナス」は安産や子孫繁栄、豊穣、
「仮面の女神」は、死や再生の祀りに使われた、
シャーマンが亡くなり、副葬品として埋葬された。

「重要文化財に指定されるニュースで、問い合わせや訪問者が増えている」
「4月21日~5月10日まで、上野の国立博物館に展示される」
「5月中旬から、井戸尻考古館に展示される」

「井戸尻遺跡群」の東北は八ヶ岳、南は富士山になる。
八ヶ岳

中央は編笠岳。井戸尻考古館付近から。2015年3月25日。

富士山南アルプス

富士山F、鳳凰三山H、甲斐駒ヶ岳K。井戸尻考古館から。2015年3月25日。

「井戸尻遺跡群」は八ヶ岳山麓にあって、
富士山を望み、付近には湧水が豊富だった。
井戸尻とは井戸が湧き出す終端という意味です。
縄文人には、生活しやすいところだった。
と、スタッフは説明する。

縄文時代に、もっとも優れた芸術を生んだ、八ヶ岳山麓の、
縄文王国諏訪を上から眺める。杖突峠(つえつきとうげ)から。

八ヶ岳は、北八ヶ岳の蓼科山T、北横岳K、
南八ヶ岳の天狗岳N、横岳Y、主峰の赤岳A、権現岳Gなどが見える。
蓼科山Tの左は、黒曜石の出る和田峠~霧ヶ峰に連なる。
街は、左が茅野市で茅野駅C、右(南)へ原村、富士見町と続く。その先は山梨県。
茅野駅Cの手前には、中央自動車道が左から右に伸びている。

土偶の遺跡の位置
①は、国宝「縄文のビーナス」の「棚畑遺跡」、茅野市。
②は、国宝「仮面の女神」の「中ッ原遺跡」、茅野市。
③は、「縄文のビーナス」と「仮面の女神」を所蔵する、
 「尖石縄文考古館」、茅野市。
 標高は1,085メートル(EPSONのWristable GPSで)。
④は、重要文化財「土偶」の「坂上遺跡」、
 重要文化財「巳を戴く神子」の「藤内遺跡」、標高は973メートルと、
 所蔵する「井戸尻考古館」、富士見町。

①~④の距離を測った。
①「縄文のビーナス」の棚畑遺跡 ⇒ ②「仮面の女神」の中ッ原遺跡は、
 車のメーターで4.7キロメートル、
②「仮面の女神」の中ッ原遺跡 ⇒ ③「尖石縄文考古館」は、
 車のメーターで4.6キロメートル、
③「尖石縄文考古館」 ⇒ ④「井戸尻考古館」は、
 地図上から15キロメートル。
八ヶ岳山麓から、優れた芸術性を持つ土偶、精神の「道具」が創造された。

①~④の土偶や土器は「祭祀」に使われた。
祭祀として、目ざましいものに「阿久(あきゅう)遺跡」がある。
巨大な「祭祀場」は、縄文の時代観をくつがえすものとなっている。
⑤は、国の史跡、「阿久遺跡」。5000年~6500年前の縄文時代前期

「阿久遺跡と縄文人の世界」、長野県立歴史館発行から。
阿久遺跡の後方は八ヶ岳。

⑤「阿久遺跡」原村、6500年前は、
北の③「尖石縄文考古館」、茅野市と
南の④「井戸尻考古館」、富士見町の間にある。そして、
⑤「阿久遺跡」の文化は、北の①「棚畑遺跡」と②「中ッ原遺跡」や、
南の④「井戸尻遺跡群」の縄文時代中期~後期、5000年~4000年前の、
文化の隆盛へと、つながれていった。

直径120メートルの桁外れの規模の「祭祀場」が見つかって、
縄文の時代観をくつがえすものとなった。
規模が、あまりに大きいことから、
阿久遺跡だけにととまらずに、八ヶ岳山麓一帯の、
「祭祀場」であり、人が集まって交流したところとされている。
広場には、シンボルとして、高さ1.2メートルの立石と、
蓼科山に向かって、直線的に並ぶ8つの列石があった。

「阿久遺跡」には、
大環状集石群(ストーンサークル)のほかにも、
縄文の時代観をくつがえすものがある。
高床式掘立柱建物である。

長野県立歴史館(千曲市)に、阿久遺跡を復元した阿久ムラがある。2012年撮影。
高床式の掘立柱建物が、縄文時代前期に存在していたことは、全国から注目された。

縄文時代中期の日本の人口は27万人で、
八ヶ岳山麓は山梨県を含めて17万人だった。
諏訪地方は日本一で、全体の10パーセントを占めていた。

八ヶ岳山麓は、縄文人が住むのに必要な、
太陽が注ぎ、水が湧き、食料が豊富にあった、
それに、道具「やじり」を創る「黒曜石」が、
和田峠、霧ヶ峰、八ヶ岳山麓から出た。

人口のほかに、縄文時代中期の「遺跡数」は、長野県が日本一だった。
長野県が2,700で、岩手県が500弱、山梨県が300強だから、
長野県は突出している。長野県でも、
特に八ヶ岳山麓の諏訪が多い。

八ヶ岳山麓の縄文人は、
生活の「道具」を作り、
精神の「道具」を作った。
ともに画期的で、美的に優れ、
国宝になり、重要文化財になっている。

優れた「縄文文化」を生んだ「縄文王国」諏訪は、
2500年、すばらしい美術品を創造して、
日本の文化の中心地だった。
縄文時代の文化の頂点を極めた八ヶ岳山麓の、
「縄文王国」は、世界遺産にしてほしい。
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福島市の放射線量2015年

2015-03-22 00:03:22 | Weblog
福島市放射線量2015年


2011年の東京電力の福島第一原発のメルトダウン以前には、
福島市へは、行ったことがなかった。それが、毎年のように行って、
放射線量を測るようになったのには、きっかけがあった。

2011年6月に南相馬市へ、ボランティア活動へ行ったときである。
常磐線は不通だったから、南から南相馬市へは行くことができない。
東北新幹線で仙台まで北上して、北から南相馬市へ行ったが、
東北新幹線の中で、郡山から福島にかけて、放射線量が高かった。
なんかの間違いだろうと思った。東北新幹線は日本の大動脈である。
多くのお客さんが毎日乗っている東北新幹線が汚染されているとは、
思えなかった。それで、東北新幹線の沿線の駅を測ることになった。

つぎに、南相馬市からの帰りに、福島市に泊まった。
南相馬市からバスを乗り継いで福島駅に来た。
福島駅の東にあるホテルへ向かう途中、
ポケットの放射線量計が、ピッピッ鳴った。
毎時の被ばく量が、0.50マイクロ・シーベルト毎時[µSv/h]を超えて、
この場所から、すぐに退避しろ!
と、警告されたのである。
まさか、福島市が、汚染されているとは思わなかった。
福島第一原発から、南相馬市は近いが、福島市は、はるかに遠い。
それに、県庁所在地が汚染されているとは、思わなかった。

上表の「福島市の放射線量 2011年~2015年」で、測定した経過がわかる。
最初の2011年6月30日は、福島駅からホテルへ行くときである。
ポケットの放射線量計が、ピッピッ鳴って、その場を測った。

つぎの2011年9月6日からは、測定する範囲を、福島市の中心街に拡げた。
繁華街を歩いて、ピッピッ鳴るところで、放射線量を測った。
2012年1月14日、⑥紅葉山公では、最高の放射線量、
23.6マイクロ・シーベルト毎時[µSv/h]を記録した。
南相馬市よりも、はるかに高かった。

福島市の2015年1月29日は、除染作業が進んでいた。
「福島市の放射線量2015年」の表で「-」は、
除染作業中であったり、
新たに警備員が監視するようになったり、
もう低いだろう、と予測したところは測らなかった。
表には記載していない、新たな10か所の放射線量は、
「福島市の放射線量2014年」、2014年7月20日、を参照してください。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/ddcfc40d161e7d10a4a85f1890767322

2015年は、除染作業が目についた。
除染作業を行っています」。

県庁舎等除染業務委託。

「道路除染をしています」。

道路除染作業業務委託(除染)渡利1工区。

除染作業中」。

中央6~9工区。

「道路除染作業中」。

中央6~9工区。

作業者と話ができた。
を入れ替えている」
縁石は噴射して、洗浄する」
側溝の中も洗浄する」
「歩道のポールは、雑巾で拭く」
飯豊山まで除染する」
飯豊山(いいでさん)とは、新潟県、山形県、福島県にまたがる山ではないか。
それに、標高は2,105メートルもある。

大変な作業だが、
「除染は、いつごろまで、かかりますか?」
と聞いた。

「除染は、いつまでかかるか、わからない
「福島市中にが降ったから」
「それに、担当は道路沿いだから、全体はわからない」
とのことです。

福島市の東にある「弁天山」に登った。標高は142メートル。


弁天山公園北口」を上がる。

犬と散歩、デイト、駆け上がって鍛えている人がいる。

頂上の展望台は除染してあった。

0.168マイクロ・シーベルト毎時µSv/h]を示している。
地上50センチで測定か?

しかし、相手は山である。やり切れるものではない。
斜面や木立の中は、除染の手がつけられない。
ピッピッ鳴るところは、いたるところにある。道沿いで、
1.60マイクロ・シーベルト毎時[µSv/h]を示した。

弁天山を下りると渡利(わたり)地区になる。
除染で出た廃棄物が置かれたままであった。


緑のビニール・シートを見た時には、除染の廃棄物とは思わなかった。
家の庭先、家の横、駐車場、燐家との境、畑…にある。
危険なものを、身近に置いておくわけがない。

各家庭やアパートメントに、
放射線量の高い廃棄物があるとは思わなかったから、
通りがかりの人に聞いてみた。
「これは、なんですか?」

「除染したときに出た廃棄物です」と言う。
それで、「どうして、家に置いてあるのですか?」には、
持っていってくれない
せっかく除染したのに、廃棄しなければ意味がない、
と、不満であった。

除染の廃棄物を受け入れる中間貯蔵所がない。福島市で、その現実を見た。
それに、中間貯蔵所が、そのまま最終貯蔵所になる恐れがあるから、
除染の廃棄物を受け入れるところがない。

除染した廃棄物の放射線量は測らなかった。おそらく高いだろう。
道路、公園、駅、官庁、山のように、公共の場所ではなく、
個人の敷地だから。測定の許可を得ればいいだろうが。

2015年の除染の状況は、福島市民が語ってくれた。
「除染は、いつまでかかるか、わからない」
「福島市中に灰が降ったから」
そして、除染したときに出た廃棄物は、
「持っていってくれない」
福島市民から、笑顔が消えている。

弁天山から市街にもどると、西に「吾妻山」が見えた。

こんなにきれいなんだ!
福島では、下ばかり見ていた。
今度は、上を見よう! 明るいうちに。
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奇跡の一本松と希望のかけ橋

2015-03-15 00:01:01 | Weblog
2011年3月11日の東日本大震災から4年になる。
陸前高田の「奇跡の一本松」を見たい。
それに、復興の様子も見たい。
希望のかけ橋」があり、
巨大なベルトコンベアーがあるという。

奇跡の一本松」。

モニュメントになっていた。2015年3月6日。

近くで工事をしている人に声をかけると、
「高田松原には7万本の松の木があって、
1本だけが生き延びた。高さは27メートル」
「それも枯れたから、人工の保存処理をした」
「奥の盛り土は堤防で、高さ12.5メートルになる」
「右はユースホステルで、津波で破壊された」
と、説明してくれた。

吊り橋、「希望のかけ橋」。

大津波は、手前の気仙川を右の上流に、8キロメートルもさかのぼった。

奥の山を削って、土石を「希望のかけ橋」で運ぶ。
ベルトコンベアー専用で、人や車は渡ることができない。

奥にある高さ130メートルの山を削って、高さ45メートルの台地にする。
おむすびのようだった山は、今では、平らに削られていた。
山が削られて、後ろの山並みが見えるようになった。

⇒の高台の上で、ショベルカーが山を切り崩している。
→の破砕設備で岩石を粉砕して、ベルトコンベアーで運ぶ。
→の破砕設備がある位置まで、山を切り崩して、高台にするという。
山一つを削って、その土石で沿岸部をかさ上げし、
高さ12メートルの市街地を造成するという大工事だ。

海側から見た「希望のかけ橋」。

⇒は、切り崩されている山、
→は、岩石を30センチ以下に粉砕する破砕設備。

「希望のかけ橋」は立派でも、あくまで仮設
2014年3月に稼働して、2015年5月まで。
作業終了後に取り壊される。

「見るなら、早い方がいい」
と、建設関係の人から言われて、やって来たが、
仮設が、こんなに立派で、大がかりだとは思わなかった。

吊り橋の塔と塔の間は220メートルあり、
塔の高さは42.6メートルと、説明板にある。
吊り橋を架けています」。


山を削り取って、今泉地区を高台の住宅地にする。
削り取った土石は、ベルトコンベアーで沿岸部の高田地区に運んで、
かさ上げして、市街地を造成する。

説明板の写真では、⇒のおむすび山は、まだ残っている。
樹木はすでに伐採されて、赤茶けた山の地肌が出ている。
そして、今では、山自体が削り取られて、なくなっている。
それで、陰になっていた後ろの山が見えるようになった。

写真の右には、「希望のかけ橋」という名前は、
陸前高田の小学生から募集して、選んだとある。

工事は大がかりにした方が、大きな復興費が得られる。
ベルトコンベアーは、総延長3キロメートルになって、
大蛇のように沿岸部を走り回る。

手前は、津波で破壊された「しおさい橋」。
ベルトコンベアーを下から見ると、ベルトが高速で走っていた。

かさ上げする沿岸部。


かさ上げの高さは12メートルという。
この沿岸部には、大型商業施設が建設されるが、
建設には、長いパイル(杭)を何本も打ち込む必要がある。

12メートルのかさ上げ地は、住宅地には向かない。
地震に耐えるように、長いパイル(杭)を何本も打ち込んで、
その上に住宅を造ることは、大がかりで、建設費がかかり過ぎる。

BRT(バス輸送高速システム)で、

「気仙沼」駅から、「奇跡の一本松」駅へやって来た。

2012年6月に気仙沼まで来ている。気仙沼が大船渡線の終点だった。
その先は不通で、陸前高田へ行くことができなかった。BRTはなかった。
気仙沼港から北に800メートルまで打ち上げられた漁船「第18共徳丸」。

BRTはなかったころで、気仙沼の人が車で連れて行ってくれた。

この気仙沼のことは、つぎの記載を参照してください。
「気仙沼に打ち上げられた漁船」、2013年8月11日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/c0345513824e6906e59b2ff51b9c8142

BRTはBus Rapid Transit。
大船渡線の気仙沼から先の盛(もり)間は、
2014年3月から運行を開始した。
鉄道ではなく、開通した国道を走る。

「第18共徳丸」があった場所を見回した。
面影はなかった、2013年に撤去されていた。
気仙沼市の犠牲者は1,212人、行方不明は226人。
1,438人は、気仙沼市の人口73,500人の2%が失われたことになる。

BRTはBus Rapid Transit。
気仙沼から45分で、「奇跡の一本松」に着いた。

国道45号に340号がつながるコーナー。
仮設の観光物産施設と大きな駐車場がある。

震災の前は、繁華街だったが、平になっている。
商店も病院も陸前高田駅も民家も、何もかも、津波に流された。

それに、人の命までも流された。犠牲者は1,601人。
4年経った今でも、まだ207人が行方不明という。
1,808人は、陸前高田市の人口23,300人の8%が失われたことになる。

「奇跡の一本松」への案内図があった。
経路のご案内」。陸前高田市。


下の現在地から、黒の点線に沿って、
右上の◎「奇跡の一本松」へ向かう。
途中に「希望のかけ橋」がある。
帰りに、◎「展望台」に上がる。

展望台から見るベルトコンベアーと「奇跡の一本松」。


新しくできた「陸前高田駅」近くの、
高台の造成地へ行ってみたくなった。
案内図で下方向(北)になるが、かなり距離がある。
BRT(バス輸送高速システム)に乗って、5分ほど上がる。
新駅には仮設の「陸前高田市役所」があった。

道路の左には、新築された「陸前高田防災センター」(消防署)がある。
高台にある新「陸前高田駅」には、この2つの施設とコンビニがあった。

ここから、高台の造成地を見る。

右奥は高田第一中学校だろう。

上の写真の左手前の造成工事

ショベルカーが落ちそうだ。

高台の造成地のすぐ右に仮設住宅があった。

ここに4年も押し込められていたのか。
⇒のさらに先が、「奇跡の一本松」駅がある沿岸部。

仮設住宅に入っている人は、命からがら助かった人だ。
そして、多くの人は、身内を亡くしている。
極限状態を体験した人で、当初は、
生かされたんだから、亡くなった人の分まで頑張ろう! だった。

震災から4年たって、
生活の苦しさと将来の不安から、
これから、どうやって生きていこうか?
生きていることがつらい、
に変わってきた。

「頑張ってきたのに…」、突然 折れる心
PTSD心的外傷後ストレス障害のおそれが39.6%になる。
(Post Traumatic Stress Disorder)
これは、NHKが2015年3月8日に放映した、
震災4年 被災者1万人の声 - 復興はどこまで進んだのか」。
NHKと早稲田大学が、岩手県、宮城県、福島県の仮設住宅などで暮らす人に、
アンケート調査をして(2015年の1月~2月)、1万人から回答を得た。

半数の人が「気持ちが前向きになりつつある」一方で、
43.5%が「生きていることがつらいと感じることがある」。

うつ状態の要因は、相談者がいない、経済状況に困っている、
体調が心配、住宅・まわりの環境に不満がある、である。

「経済的に困っている」人が68.5%。
震災前と震災後の「世帯の年収」。

年収200万円以下の人が、震災前の22%から、38%に激増している。
収入が減った人が42%。失業した人が36.5%。

業種による「売り上げの回復状況」。

地域産業の回復が遅れている。
建設業は、数年で収束するが、
その後の産業の育成が目に見えない。
災害で土木会社がもうかる構図が、陸前高田に見えてくる。

被災者は、生活に困窮し、先が見えない不安に苦しみ、
長い仮設暮らしで心の病気を抱えて、ここには希望はないと、
16.1%の人が流出した。それに、若い人はもどらない。

陸前高田市で、命が助かった人にとっては、
早く地域産業を復興させ、次の産業を育成し、
困っている経済状況から抜け出したい。
4年も住み続けた仮設住宅から抜け出し、
陸前高田に住み続ける希望を見出したいが、
見えてくる光明はなんだろうか?
支えはなんだろうか?
大工事だろうか?
知りたい。
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鹿島槍ヶ岳はスキー場から

2015-03-08 00:03:08 | Weblog
真冬鹿島槍ヶ岳鹿島槍スキー場から見る。

天気予報は、2015年2月16日だけは晴れる、前後は雪の予報だった。
それで、当日の朝、北アルプスを見ると、晴れていた。
鹿島槍スキー場へ急いだ。松本から2時間ほど。

鹿島槍スキー場で、スタッフに絶景ポイントを聞くと、
リーフレットで説明してくれた。

絶景ポイントは3か所ある。
右上の絶景ポイント1はノースMt. 1,550メートルで、
 北信(北信州)の山、それと木崎湖が見える、
左上の絶景ポイント2はウエストMt. 1,335メートルで、
 鹿島槍ヶ岳や爺ヶ岳、それに、八ヶ岳、南アルプス、中央アルプスが見える、
中央の絶景ポイント3からは、鹿島槍ヶ岳や爺ヶ岳が見える、
と説明してくれた。

下の中綱駐車場Pに駐車して、今はにいる。
先ず、第6リフトで絶景ポイント3に上がる。
次に、リフトを乗り継いで、絶景ポイント1に行くことにする。
すると、スタッフは、
「絶景ポイント1は、リフトが途中までで、上がれません」
それならば、
「リフトで途中まで行って、その先は、スノーシューで上がる」と言うと、
「今日は晴れているから、遭難の心配はないでしょう。
雪崩(なだれ)が起きやすいから気を付けて」
と、アドバイスされた。そして、
「下りは、スキーヤーの邪魔にならないように、
ゲレンデの端を歩いてください」
了解です。

先ず、第6リフトで絶景ポイント3に上がる。


鹿島槍ヶ岳爺ヶ岳が目の前に現れた。

何という景色だ! 来てよかった!

ボーダーが並んで座って、
さっそく滑る準備をしている。
はやる気持ちを抑えているようだ。

鹿島槍ヶ岳


爺ヶ岳(じいがたけ)。


次に、絶景ポイント1、ノースMt.に向かう。

途中までリフトで上がり、

後方は爺ヶ岳。

スキーヤーのいないゲレンデを、スノーシューで上がる。

シュプールの右端を上がると、ノースMt.はさらに先で、
ここからは、人が足を踏み入れていないところを登る。

スノーシューでも、膝まで埋まり、歩幅が狭くなる。
ゼイゼイいいながら上がる。積雪は230センチという。

頂上はこの先だが、直登は避ける。
スタッフが、
「雪崩(なだれ)が起きやすいから気を付けて」
というのは、こういうところなのだろう。
動物の足跡のように、左へ迂回してから、
足跡をたどってノースMt.の頂上へ上がった。

動物はわきまえていて、雪崩の起きないところを通るだろうから。

木の間から五竜岳が見える。


鹿島槍ヶ岳の反対側の東側には、北信の山が見える。

中央は黒姫山。

さらに南に連なる北信の山。

中央は斑尾山。

写真を撮りながら、ノースMt.を下りる。
青木湖

青木湖は中央が開き、南北が凍っている。

爺ヶ岳


鹿島槍ヶ岳


スタッフが近寄って来た。
「自分も写真を撮りました、リフトからですが」
と言いながら、いくつかを見せてくれた。
峻厳な鹿島槍ヶ岳が撮れていた。
「午前中の天気は最高でした」
「2月よりも、3月の方が晴れる日が多い」とのこと。
いろいろと、ありがとうございました。

絶景ポイント21が見える。

スキーヤーの邪魔にならないように、ゲレンデの端を下りる。
そして、絶景ポイント1からリフトで、左側に下りる。

中綱湖

左に、握りしめていたストックが映っている。

鹿島槍スキー場では、スタッフのおかげで、
4時間の雪歩きを楽しむことができた。


絶景ポイント3から。

真冬の鹿島槍ヶ岳を見るならば
鹿島槍スキー場へ行くといい。
峻厳な姿を見せてくれる。
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真冬の西穂山荘

2015-03-01 00:01:00 | Weblog
真冬西穂高岳を見る。

西穂山荘へ行けばいい。冬でも営業している西穂山荘に1泊する。

松本から新穂高ロープウェイまで2時間ほど。
新穂高ロープウェイで、山頂駅の西穂高口へ上がる。

2階建てのゴンドラは、定員121人。
冬の始発は9時15分。韓国、台湾の団体客でにぎわっていた。2015年2月9日。

山頂駅の展望台

只今の気温-18℃。寒かったな!
⇒が西穂高岳2,909メートル、
→が目指す西穂山荘2,367メートル。

この山頂駅には、みやげものや、レストラン、カフェがあって、
団体客でごった返している。
お店の人によると、
「冬はお客さんが来ない」と言う。
団体客がいない翌日は、全て閉店だった。展望台もクローズ。

展望台から雪の回廊を見る。

観光客が雪の壁を楽しんでいる。
雪の回廊の先は除雪中で、雪が上がっている。

目指すは→西穂山荘

左に丸山が見える。そこからの眺めを楽しみたい。
しかし、翌日は吹雪だった。

西穂山荘の標高は2,367メートル、山頂駅は2,156メートルだから、
標高差は211メートル。だが、平坦ではない。一旦下りて、最後は登る。
西穂山荘を目指したのは、3つのパーティだった。
雪中行進

標識や、赤い布があるので、助かる。それに沿って登ればいい。
それに、リーダーは西穂山荘に毎冬来ているので、迷う心配は少ない。

西穂山荘に向かう途中に、眺望がきくところがある。シラビソの先に、
西穂高岳と左は蒲田富士


登るにつれて、吹雪いてきた。

赤い布はルートを示す。

アイゼンは着けなかった。凍ってはいないし、滑らないから。
深い雪をズボズボと埋まりながら進む。先頭はラッセルで。
それで、スノーシューを履いていたことが役に立った。
先頭を代わって、道をつけた。

西穂山荘の手前は、登りになる。それに、吹雪。強風で体感温度は-20℃以下。
休んでいると、手が冷たくなる。我慢できないくらいに。
こうして、凍傷になるのかな? と思った。
ゆっくりでも登っていたほうがいい。
手が冷たいことを忘れるから。

雪中の2時間半の行進は、全員無事に西穂山荘に着いた。

まつ毛につららができている。
頬が凍傷のように赤紫になっている。
石油ストーブに手をかざす。しばらくボーっと休む。
昼食には、熱いラーメンがいい。西穂山荘の自慢である。

西穂山荘の泊りのお客さんは、3つのパーティだった。
外では、テントを張る2人がいた。

雪の壁を作って、強風をしのぐ。

吹雪いていたから、丸山はあきらめた。
歩いて30分だが、強風にさらされるし、視界を失う。

せっかく真冬の穂高に来た。
真冬の厳しさ、寒さを味わいたいと思った。
それで、西穂山荘の周りで、吹雪の写真を撮ることにした。
時に、が出る吹雪。


サングラスをしていたが、地吹雪で目が開けていられない。
すぐに、西穂山荘に入る。また、外に出る。これを繰り返した。

夕陽に吹雪。


その晩は、風が凄まじかったな!
寝ていると、小屋が揺れた。

翌朝、テントの2人に聞くと、
「寒くはなかった」
「風のビュービューで目が覚めた」
「西穂高岳を目指したが、強風で引き返した」
「これから下山します」

気温は-15℃。西穂山荘の入口で、朝7時20分。

寒暖計の下は、木のボックスで囲われていた。
球部に雪や氷結が着かないようにするためだった。

時に、太陽が出た。

しかし、吹雪。それに、新雪が積もっている。
待っていても、眺めは期待できない。

新穂高ロープウェイまで、早く、無事に戻りたい。
そして、動いているロープウェイに飛び乗りたい。
冬期の新穂高ロープウェイは、団体客がいない限り、
時刻表通りに運行していないと考えて、行動した方がいい。
リーダーの決断で下山する。

下山の先頭は、スノーシューの私がすることになった。
昨日登ったときの道は、吹雪でかき消されていた。
道筋をつけるのに、スノーシューはピッタリだ。
埋まらない。それに、幅の広い道ができる。
急な下りは、スノーシューを滑らせる。
赤い布の目印に沿って下りてきた。

西穂山荘付近では、吹雪と寒さで写真を撮る元気はなかったが、
新穂高ロープウェイに近づくと、吹雪も風もなくなった。
それに太陽が出てきて、写真を撮る余裕が出てきた。
シラビソの間に太陽。


シラビソに青空


青空にシラビソのクリスマスツリーが並ぶ。


新穂高ロープウェイの山頂駅に着いた。
新穂高ロープウェイは、動いていなかった。
西穂山荘から下りてきたお客さんが待っている。
上がってくるお客さんがいない、団体客もいない。
時刻表では30分間隔なのだが、2時間近く待った。
冬期の新穂高ロープウェイは、時間の余裕が必要。

真冬の西穂山荘への雪中行進で、西穂高岳を見ることができた。
それに、3千メートル級の穂高の、真冬の厳しさを味わった。
深い雪、凄まじい風と寒さ、吹雪、まつ毛につらら、地吹雪。
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