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大陸の花嫁の養成所

2013-06-09 00:03:50 | Weblog
満蒙開拓青少年義勇軍」を満州に送れば、
つぎは、伴侶として、「大陸の花嫁」を送る必要がある。それには、
「満州開拓民の伴侶として確固たる信念を有する女子の育成」
をしなければならない。
「大陸の花嫁」を養成する、訓練所」が必要である。
女子拓務訓練所」。

「長野県歴史教育者協議会」による、
満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会」を読むと、
つぎのように、「信濃教育会」は「大陸の花嫁」の養成に力を入れている。

信濃教育会」は、
「長野県桔梗ヶ原女子拓務訓練所」(ききょうがはら)を設置し、
「大陸の花嫁」の養成に力を入れる。

「長野県桔梗ヶ原女子拓務訓練所」とは、何だろう?
飯田市歴史研究所、現代史料出版の、
「満州移民 飯田下伊那からのメッセージ」に書いてあった。
長野県桔梗ヶ原女子拓務訓練所」。

建物は茨城県の「満蒙開拓青少年義勇軍」内原訓練所に、
設置されていた円形の日輪兵舎が2棟あった。
奥は鉢伏山。
全国各地から20歳前後の女性が長期1年、
短期間1か月共同生活をして訓練を受けた。

「長野県桔梗ヶ原女子拓務訓練所」へ行ってみたくなった。
松本市の南隣である塩尻市広丘野村へ行くと、
国道19号の東に農地が広がる。
レタスやアスパラガスの畑や、ブドウ園、桃園がある。

手前はレタス畑、左はブドウ園。鉢伏山は鉄塔の左奥。

長野県桔梗ヶ原女子拓務訓練所跡」。

訓練所の施設の面影はなかった。
礎石と看板があるだけ。
看板には、つぎのように書いてある。
長野県桔梗ヶ原女子拓務訓練所跡
戦時中、中国東北区(旧満州)への開拓移民の配偶者(花嫁)を養成する施設として、
長野県が全国にさきがけて昭和15年9月に開所した。
大陸への花嫁学校」として全国に紹介された。

つぎに、上 笙一郎著、中公新書発行の「満蒙開拓青少年義勇軍」には、
「桔梗ヶ原女子拓務訓練所」のことが、つぎのように書いてある。

昭和15年7月に長野県東筑摩郡広丘村に開かれた
桔梗ヶ原女子拓務訓練所がその嚆矢である。
同訓練所の開設趣旨に、
「満蒙開拓青少年義勇軍ならびに農業開拓団員の送出において、
全国に冠たる我が信州は、率先これら配偶者養成の急務を痛感し、
ここに本訓練所を開設するに至れり」と記されている。
いかにも、義勇隊送出数全国一の長野県らしい反応であるといえよう」

これにつづいて、昭和15年11月には農林省が全国35か所に、
翌昭和16年5月には拓務省が7か所に設置を決定した、
とある。

「大陸の花嫁」の養成の内容は、つぎである。
指導者と生徒が起居を共にする塾風訓練を基本にして、
「満州開拓民の伴侶として確固たる信念を有する女子の育成」をする。
訓練内容は学科と農業実習で、学科は調理、生け花、裁縫のほかに、
「皇国臣民道」という精神講座に特に力を入れた。

満州にも同様の訓練所が「開拓女塾」として、16か所に設けられた。
日本国内の「女子拓務訓練所」をやや小規模にしたもので、
訓練内容もほぼ似たようなものであった。

さらに、信濃毎日新聞は、戦争体験者に関する記事、
足元を見つめて」を連載した、その中で、
「桔梗ヶ原女子拓務訓練所」は5回掲載された。

地元の旧広丘村は、訓練所を誘致するために、
5千坪(約1万6千500平方メートル)の畑と山林を買い上げ寄付した。
県は旧満州の家屋を模した寮舎や炊事場、2階建ての講堂などを建設した。

設立の目的は、
その2年前から旧満州に送り出された満蒙開拓青少年義勇軍などの若者たちの、
「配偶者養成」だった。県内外から主に20歳前後の女性たちが入所。
対象者として「新時代建設の推進力たらんとする」。

訓練所で暮らした女性たちの記憶を載せている。
訓練所に行く動機について。
男子は義勇軍に-という時代。
女子であっても国のために役立ちたいという思いもあった」
入所を決めたのは、青年学校教員の突然の一言だった。
「花嫁訓練所に行くように」。
日ごろから、
「銃後を守る体と精神を鍛えなさい」と教えられていた2人は、
ほかに指名された3人とともに迷わず「はい」と答えた。

「ここは、原野が広がり冬は凍るほどの寒冷地だった。
満州で暮らすために訓練する場所としては、
ちょうどよかったんだろうか」

一期生は28人。訓練期間が1年の長期生と、1か月の短期生がいっしょだった。
「お国のために、この中から何人が花嫁になるか。満州に行かない手はない」
と、訓練所の先生に言われた。
この年の秋、一期生たちは奉仕隊として旧満州を訪問。
県内から渡った開拓団の生活を垣間見た。
家を建て自ら育てた作物を食べ、
手つむぎの太い毛糸で編んだ暖かい服を着る人たち。
満州へのあこがれを膨らませていった。

訓練所で「先生」と呼ばれた職員たちは、
小学校や農蚕学校などの元教員が目立った。

1年間暮す長期生は、堆肥作りや家畜の世話など、
本格的な訓練を受けた。
長期生たちは「集団見合い」をした。
相手は満州から一時帰省した開拓団員の若い男性たちだった。

そして、結婚して満州に渡った。
「大陸の花嫁」はどうなったか?
戦局が悪化した。
開拓民を守る「関東軍」は南方に渡って、いなかった。
それに、開拓民の男は、ねこそぎ動員で、非常召集された。
残された女、子どもに待っていたのは「地獄の逃避行」である。
この「地獄の逃避行」で、
多くの「大陸の花嫁」は子どもとともに、
死亡したり、残留婦人、残留孤児となった。

「大陸の花嫁」とは、話に聞くだけだったが、
こんなに近くに「大陸の花嫁」の養成所、
「女子拓務訓練所」があったとは、
思いもよらなかった!

そして、「満蒙開拓青少年義勇軍」や、
「大陸の花嫁」がより身近になった。
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