季節の変化

活動の状況

ビーナスラインの放射線量

2011-06-26 00:11:11 | Weblog
美ヶ原高原とビーナスラインの放射線量。
ツール・ド・美ヶ原」は6月19日に開催された。
松本の浅間温泉から、美ヶ原高原まで21.6キロ、
高低差1,270メートルを駆け上がる最強激坂自転車レース大会。

ゴール前の登りを4人が競り合う。手前はレンゲツツジ、まだつぼみ。

驚いたことがいくつかあった。
チャンピオンは、1時間0分0秒で駆け上がってきた。

時速21.6キロ。平地ではない、最強激坂だよ。高低差1,270メートルの。
技術、強靭な体、それに苦しみに耐え抜く強い精神力を、
チャンピオンは、兼ね備えているにちがいない。
1,800人の頂点。

最も過酷なスポーツに、80人以上の女性が参加していた。

右は女性。宮城県からの参加者がいた。

女性チャンピオンは1時間17分59秒。
総合で173位。よくやるもんだ!

女性の最高年齢は、62歳。
男性の最高年齢は、なんと78歳。完走している。

この過酷なスポーツは、若者の競技とばかり思っていた。
しかし、技術、体力、精神力を兼ね備えているシニアがいる。
チャンピオンクラスのほかに、年齢別にクラス分けされていて、
61歳以上のクラスでは、64人の男性が完走している。驚いたね。

ゴールしたレーサーの写真を再び掲載。

満足そうだ。2011年6月19日。売店のうしろが自然保護センター。

美ヶ原高原のトレッキング
「ツール・ド・美ヶ原」が終わっても、
車は、すぐには下山できない。レーサーが下りたあとになる。
それで、美ヶ原高原をトレッキングし、そして、放射線量を測った。

美ヶ原高原の案内図。

現在地は王ヶ頭(おうがとう)、2,034m。
美ヶ原高原で一番高いところ。
その左に示された赤い三角形の遊歩道を歩いた。
それぞれが、およそ20分。右下は茶臼山(2,006m)。

案内図の左上の青い道路は「美ヶ原林道」。
「ツール・ド・美ヶ原」を行う道路。
右上の青い道路は「ビーナスライン」。

遊歩道の三角形のトップにあるのは、自然保護センター(1,910m)。
王ヶ頭から見た自然保護センター(右中央)。撮影は2011年6月22日。

「ツール・ド・美ヶ原」のゴール。
美ヶ原林道は左に延びて松本市街へ。左後方は北アルプス。

三角形の左下は、王ヶ鼻(おうがはな)、2,008m。2007年5月。

王ヶ鼻の頂上の石仏。正面は北アルプス。
北アルプスの手前が安曇野、左は松本市街。

美ヶ原高原の王ヶ頭と王ヶ鼻の位置関係がわかる3枚の写真がある。
自然保護センターの下から、王ヶ頭(左)と、西に出っ張った王ヶ鼻。

手前はレンゲツツジ。2011年6月22日。

2枚目は、茶臼山(2,006m)方向から、
王ヶ頭(中央のテレビ塔)と、西に出っ張った王ヶ鼻。2007年7月。


3枚目は、王ヶ鼻から、王ヶ頭(左のテレビ塔)と茶臼山(右)。

茶臼山の後方には、左に蓼科山、右に八ヶ岳が薄く見える。2011年6月22日。

美ヶ原高原で一番高い王ヶ頭(2,034m)。
王ヶ頭の西は、王ヶ鼻、さらに先の北アルプスを望む。2011年6月22日。


王ヶ頭の東は、美ヶ原高原を見渡すことができる。2011年6月22日。

中央の2つの山は右が牛伏山(うしぶせやま)1,990m、
左が鹿伏山(しかぶせやま)1,976m。
鹿伏山の左奥に浅間山が薄く見える。

牛伏山の右がビーナスラインの終点。
そこから王ヶ頭までは、歩いて1時間かかる。
一方、美ヶ原林道は、終点の自然保護センターから、
王ヶ頭まで歩いて20分だから、べんりである。

そして、美ヶ原高原の放射線量
測定した場所は、つぎの三か所、
美ヶ原高原で一番高い王ヶ頭(2,034m)、王ヶ鼻(2,008m)、自然保護センター(1,910m)。
測定した日は、つぎの2日。
「ツール・ド・美ヶ原」が行われた2011年6月19日と2011年6月22日。
毎時の被曝量は、

0.08マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)から、
(自然保護センター、2011年6月19日)


0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)の範囲だった。
(王ヶ頭、2011年6月22日)

国際放射線防護委員会(ICRP)が定めた、毎時の被曝限度、
0.52マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)を超えていない。

美ヶ原高原への2つのアクセスは、
案内図の左上の青い道路の「美ヶ原林道」と、
右上の青い道路の「ビーナスライン」。

美ヶ原林道は、自然保護センターから松本へ下りる。
ビーナスラインは、七島八島、霧ヶ峰、白樺湖につながる。

2つの道路、「美ヶ原林道」と、
「ビーナスライン」は美ヶ原高原で、つながっていない。

それで、美ヶ原林道とビーナスラインを使い分けている。
北アルプスを見る場合は、美ヶ原林道。歩いて王ヶ鼻へ。
白樺湖、霧ヶ峰、七島八島から美ヶ原に行く時は、
ビーナスライン、というように。

ビーナスラインからの眺め。
白樺湖。右奥は蓼科山。2010年8月。


霧ヶ峰。ニッコウキスゲが咲く。2005年8月。


七島八島。2011年6月24日。

七島八島は湿原。右後方は霧ヶ峰の車山。手前はレンゲツツジ。

そして、ビーナスラインの放射線量
測定した場所は、つぎの5か所、
白樺湖畔、白樺湖を望む展望台、富士山を望む富士見台、
霧ヶ峰(車山肩)、それに、七島八島。
測定した日は、2011年6月24日。
毎時の被曝量は、

0.08マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)から、
(七島八島、2011年6月24日)


0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)の範囲だった。
(七島八島、2011年6月24日)

国際放射線防護委員会(ICRP)が定めた、毎時の被曝限度、
0.52マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)を超えていない。

美ヶ原高原もビーナスラインも、安心して自転車レース、
トレッキング、キャンプ、ドライブを楽しむことができる。
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安曇野と松本の放射線量

2011-06-19 15:59:01 | Weblog
「放射線測定器」DP802iが、一時、2台になった。

左が旧、右が新で黄色のストラップをつけてある。

これには、わけがある。
「放射線測定器」DP802iによる「毎時の被曝量」の測定値が、
長野県発表による測定値より、かなり大きかった。

「おひさまの安曇野と松本の放射線量」、6月16日では、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/e2b21b62ac0b5fb1fadb05517cfbfcbf
「放射線測定器」DP802iで測定した放射線量を、つぎのように書いた。

毎時の被曝量」は、
0.08マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)から、
0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)で、
国際放射線防護委員会(ICRP)が定めた、毎時の被曝限度、
0.52マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)を超えることはなかった。

そして、「累積の被曝量」については、計算すると、
1年で、1.18ミリ・シーベルト/年(mSv/y)になって、
国際放射線防護委員会(ICRP)が定めた、1年間の被曝限度、
1ミリ・シーベルト/年(mSv/y)を超える。
と書いた。

信濃毎日新聞には、「空間放射線量の最大値」が、
グラフ付きで載っている。6月14日。長野県環境政策課の発表。


グラフは、横軸が3月13日~6月13日、
縦軸が、空間放射線量の最大値を示す。
赤線が長野、青線が松本。

6月13日の「毎時の被曝量」は、
松本は、最大値が0.05マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)、
長野は、最大値が0.044マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)で、
ともに健康には影響ない、としている。

グラフの中央に、「最高」とある。
約0.083マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)の横線は、
長野市の2010年4月~2011年2月の最高を示す。
つまり、福島原発事故が発生する前、1年の最高である。
アメリカや旧ソ連の核実験、チェルノブイリ原発事故、
による影響と思われている。

松本、長野の「毎時の被曝量」は、
福島原発事故以前の状態にもどっている。
2011年3月にあった福島原発事故の影響は、今はない。

さて、「放射線測定器」DP802iで測った松本の、
最大値0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)は、
長野県発表の松本の最大値0.05マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)より、
0.19/0.05⇒4倍も高い。

「DP802i」は、「県発表」よりも4倍も高くなっているが、
これは、どうしてだろう? 疑問だった。
それで、つぎのように考えた。
1) 測定場所: 「DP802i」は地表で測っているが、
 「県」は、松本では地上4メートル
 長野では地上15メートルで測っている。
2) 測定器: 「DP802i」は市販品の簡易測定器。

それで、1)測定場所のちがいのほかに、
2)測定器のちがいがあるのではないか? とも予想できる。
つまり、「DP802i」」の精度が悪いのではないか? と。

精度が悪いのではないか? と思う記事を載せるわけにはいかない。
それで、6月12日「おひさま」の安曇野と松本を測定し、
「おひさまの安曇野と松本の放射線量」として、
掲載したブロブは、翌日6月13日に削除した。
まちがった値を出してはいけないから。

「放射線測定器」DP802iの販売先に、連絡をした。
測定値が、「県」の発表よりも4倍も高い、と言うと、
販売先は、1)測定場所の高さのちがいを説明した。やはりだ。
でも、交換してくれるという。
それで、一時、「DP802i」が2台になったというわけである。

庭で、「毎時の被曝量」を、新旧で比べた。それが最初の写真。
結果は、新旧とも、
0.09マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)から、
0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)の間を変動することに、
変わりがなかった。

それに、「累積の被曝量」も、
新旧ともに、0.02マイクロ・シーベルト(μSv)を示している。
1日たっても、0.32マイクロ・シーベルト/日(μSv/d)で、
変わりがなかった。
これで、「放射線測定器」DP802iの個体差はないことがわかった。

そうすると、「放射線測定器」DP802iが、
「県」よりも4倍も高い値になるのは、
1) 測定場所: 「DP802i」は地表、「県」は地上4メートル~15メートル。
2) 測定器: 「DP802i」は市販品の簡易測定器。
のうち、1)測定場所の地表と地上4メートル~15メートルは、
大きく関係しているようだ。
2)測定器、「DP802i」による個体差はない。
測定値が、やや高くでる可能性はあっても。

「DP802i」を使って、危険なホット・スポットや、
高濃度の放射能で汚染された危険な場所がないか?
と探して、早めに危険予知をし、防衛しようとした。
一方、県は、チェルノブイリ原発事故ほかの影響を、
キャッチしようとしたもので、測定値の差になったと思う。

新しい「DP802i」を使って、6月15日に、
「おひさま」の安曇野と松本の放射線量を測った。
そして、6月16日に結果を掲載した。

旧の「DP802i」で6月12日に測った、
「おひさまの安曇野と松本の放射線量」と、
新しい「DP802i」で、6月15日に測った、
「おひさまの安曇野と松本の放射線量」を、
比較してみる。そうすると、
差がなかったことがわかる。とうぜんのように。

旧の「DP802i」で6月12日に測定した値と、
新の「DP802i」で6月15日に測定した値を書く。
「おひさま」の安曇野と松本の安全がより、はっきりするから。

旧の「DP802i」で、6月12日に測定した、毎時の被曝量は、
0.08マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)から、
0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)だった。
新の「DP802i」で、6月15日に測定した、毎時の被曝量は、
0.08マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)から、
0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)だったから、
同じ値だった。

つぎに、場所ごとにみる。

まず、松本の我が家。2階、南の窓側。
2011年6月12日、旧で測定した、毎時の被曝量は、

0.08マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)から、
0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)だった。
右上の時刻は8時47分、
下の累積の被曝量はゼロにリセットしてある。

6月15日、新で測定した、毎時の被曝量は、
0.08マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)から、
0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)で、
新旧、同じだった。

「碌山美術館」、安曇野。
6月12日、旧で測定した、毎時の被曝量は、

0.08マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)から、
0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)だった。

6月15日、新で測定した、毎時の被曝量は、
0.09マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)から、
0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)で、
新旧、ほとんど同じだった。

「大王わさび農場」。2011年6月12日。

「おひさま」の家のセット。
左に雲の上に顔を出しているのが常念岳(じょうねんだけ)、
セットの屋根の右が有明山(ありあけさん)。

大王わさび農場。2011年6月12日、旧で測定した、毎時の被曝量は、

0.08マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)から、
0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)だった。

6月15日、新で測定した、毎時の被曝量は、
0.09マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)から、
0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)で、
新旧、ほとんど同じだった。

「美ヶ原高原」。2011年6月12日。
「ツール・ド・美ヶ原」に備えて、試走するレーサーが大勢いた。

ゴール直前を登るレーサー(左)と、
試走を終えて下るレーサー(右)。
奥のテレビ塔は、美ヶ原高原の王ケ頭(おうがとう)、2,034m。

美ヶ原高原。2011年6月12日、旧で測定した、毎時の被曝量は、

0.08マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)から、
0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)だった。

6月15日、新で測定した、毎時の被曝量は、
0.08マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)から、
0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)で、
新旧、同じだった。

「開智学校」。2011年6月12日。


「開智学校」。2011年6月12日で、旧で測定した、毎時の被曝量は、

0.08マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)から、
0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)だった。

6月15日、新で測定した、毎時の被曝量は、
0.09マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)から、
0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)で、
新旧、ほとんど同じだった。

「松本城」。2011年6月12日。

常念岳は、雲のあいだから、かすかに見えた。

松本城。2011年6月12日、旧で測定した、毎時の被曝量は、

0.08マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)から、
0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)だった。

6月15日、新で測定した、毎時の被曝量は、
0.09マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)から、
0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)で、
新旧、ほとんど同じだった。

「旧制松本高等学校」。2011年6月12日。


「旧制松本高等学校」。2011年6月12日、旧で測定した、毎時の被曝量は、

0.08マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)から、
0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)だった。

6月15日、新で測定した、毎時の被曝量は、
0.09マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)から、
0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)で、
新旧、ほとんど同じだった。

「おひさま」の安曇野と松本の放射線量の測定を終えた。
そして、家にもどった。約100キロの走行。
2011年6月12日で、旧で測定した、毎時の被曝量は、

0.08マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)から、
0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)だった。

6月15日、新で測定した、毎時の被曝量は、
0.08マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)から、
0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)で、
新旧、同じだった。

「毎時の被曝量」は、新旧の「DP802i」で差異はなかった。
つぎに、「累積の被曝量」を計算する。

6月12日、旧で測定した、「おひさま」の安曇野と松本めぐりは、
朝の8時47分~14時33分まで、5.77時間の累積の被曝量は、
0.79マイクロ・シーベルト(μSv)だった。

6月15日、新で測定した、「おひさま」の安曇野と松本めぐりは、
朝の6時~11時55分まで、5.92時間の累積の被曝量は、
0.80マイクロ・シーベルト(μSv)だった。

1年間の累積の被曝量を計算すると、
6月12日、旧で測定した、5.77時間の累積の被曝量、
0.79マイクロ・シーベルト(μSv)を、
1日にすると、0.79X24/5.77⇒3.29マイクロ・シーベルト/日(μSv/d)。
1年にすると、3.29X365日⇒1.20ミリ・シーベルト/年(mSv/y)になる。

6月15日、新で測定した、5.92時間の累積の被曝量、
0.80マイクロ・シーベルト(μSv)を、
1日にすると、0.80X24/5.92⇒3.24マイクロ・シーベルト/日(μSv/d)。
1年にすると、3.24X365日⇒1.18ミリ・シーベルト/年(mSv/y)になる。

1年間の「累積の被曝量」も、新旧で差異はないとみていい。

「おひさま」の安曇野と松本の放射線量測定の感想。
[ 毎時の被曝量 ]
国際放射線防護委員会(ICRP)は、毎時の被曝限度を、
0.52マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)としている。

ICRPの国際標準に基づいて、
「放射線測定器」DP802iのアラームの設定を、
0.5マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)とした。

新旧の「放射線測定器」で、6月12日と6月15日に測ったが、
「おひさま」の安曇野と松本めぐりでは、
1回もアラームが鳴ることはなかった。
0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)が最高だった。

[ 累積の被曝量 ]
国際放射線防護委員会(ICRP)は、1年間の被曝限度を、
1ミリ・シーベルト/年(mSv/y)としている。

ICRPの国際標準に基づいて、
「放射線測定器」DP802iのアラームの設定を、
1ミリ・シーベルト/年(mSv/y)とした。

旧の「DP802i」では、1,000/3.29⇒304日で、アラ-ムが鳴ることになる。
新の「DP802i」では、1,000/3.24⇒309日で、アラ-ムが鳴ることになる。

さて、計算通りにアラームが鳴るのか?
新の「DP802i」をいつでも携帯して、
「毎時の被曝量」と、
「累積の被曝量」を、
ウォッチしていこう。

今年(2011年)の「ツール・ド・美ヶ原」は、6月19日に行われた。
ヤッター! かなり上位だ! バテター!

美ヶ原高原。

まもなく、このゴール地点は、つぎつぎと上がってくる選手、
歓談する選手、下山の準備をする選手で埋め尽くされた。

今年は、雨が降らなかった。それに、放射線の影響もなかった。
そして、最強激坂の「ツール・ド・美ヶ原」は無事に終わった。
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おひさまの安曇野と松本の放射線量

2011-06-16 00:41:37 | Weblog
「おひさまの安曇野と松本」6月5日で、
NHKの朝の連続テレビ小説「おひさま」は、
雄大な北アルプスと川に抱かれた安曇野と松本が舞台である、
そして、
「修学旅行生が、もどって来たということは、安曇野が、
地震や放射線汚染がない、安全な地として確かめられた」
と、書いた。

「おひさま」の安曇野と松本の放射線量は?
そして、どのくらい「安全」か?

この目で確かめてみたい。
放射線測定器」DP802iを持って、
「おひさま」の安曇野と松本へ行った。
つゆの晴れ間をねらって(6月15日)。

結果は、
「おひさま」の安曇野と松本の、毎時の被曝量は、

0.08マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)から、


0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)だった。

国際放射線防護委員会(ICRP)は、毎時の被曝限度を、
0.52マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)としている。
(ICRP: International Commission on Radiological Protection)

「おひさま」の安曇野と松本の、毎時の被曝量は、
最高が、0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)だった。
0.52マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)を被曝限度とする、
ICRPの国際標準以下であるから、
「おひさま」の安曇野と松本は安全である。

菅谷(すげのや)松本市長が、福島の子に、
夏休みを松本のペンションで過ごし、リフレッシュしてほしい。
安全な空気を吸い、水や牛乳を飲み、野菜や肉を食べてもらい、
夏休みが終わっても、松本に長期に滞在してもらいたい、
という計画に、松本はピッタリである。

まず、松本の我が家。2階、南の窓側。2011年6月15日、午前6時。

毎時の被曝量は、
0.08マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)から、
0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)だった。

右上は、時刻で朝の6時00分を示す。
下はこれまで受けた被曝量の累計で、
ゼロ(0.00)にリセットしてある。

「放射線測定器」DP802iをもって、「おひさま」の安曇野と松本へ。
「美ヶ原高原」→「大王わさび農場」→「碌山美術館」→
「開智学校」→「松本城」→「旧制松本高等学校」、
の被曝量を、自分の足と目で確かめよう。

美ヶ原高原展望台」。2011年6月15日。

北アルプスのほぼ中央の黒い三角が槍ヶ岳(3,180m)。
槍ヶ岳の手前が常念岳(2,857m)になるが、見難い。
安曇野と松本市街は、北アルプスの手前の雲海の下。

左が穂高連峰(西穂高岳、前穂高岳、奥穂高岳3,190m、涸沢岳、北穂高岳)、
キレットをへて、白い山が続くが南岳、中岳、大喰岳(おおばみだけ、
槍ヶ岳をへて、右端が大天井岳(おてんしょうだけ)。

自転車レース大会、「ツール・ド・美ヶ原」が、6月19日に行われるが、
「美ヶ原高原の展望台」は、「ツール・ド・美ヶ原」のゴールの、
4キロ手前である。

ツール・ド・美ヶ原」は、
松本の浅間温泉から、美ヶ原高原まで21.6キロ、
高低差1,270メートルを駆け上がる自転車レース大会。
全国から2,000人が参加する。

「美ヶ原高原の展望台」。2011年6月15日。

毎時の被曝量は、
0.09マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)から、
0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)だった。

地表と高さ1メートル近辺で、被曝量を測ったが、
より厳しい値となる地表で測ることにした。

なぜ、美ヶ原高原で被曝量を測定したのか?
安曇野と松本は、周囲を山に囲まれている。
東は美ヶ原高原(2,034メートル)、
西は北アルプス(3,000メートル級)。

福島からの放射線は、東の美ヶ原高原に、舞い落ちるのではないか?
それで、局所的に大きな値になるホット・スポットがあるのではないか?
また、標高が高くなれば、宇宙からの放射線は増加する。それに、
6月19日の「ツール・ド・美ヶ原」が安全であるか? も知りたいから。

美ヶ原高原」。2011年6月15日。

「ツール・ド・美ヶ原」のゴールは、
テレビ塔がある王ケ頭(おうがとう)、2,034mの手前である。

「美ヶ原高原」。「ツール・ド・美ヶ原」のゴール。2011年6月15日。

毎時の被曝量は、
0.08マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)から、
0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)だった。

大王わさび農場」。2011年6月15日。

水車小屋と蓼川(たでがわ)のスケッチをする。

「大王わさび農場」。2011年6月15日。

毎時の被曝量は、
0.09マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)から、
0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)だった。

碌山美術館」、安曇野。

今回は入り口だけで、中には入らなかった。
この写真は、2011年6月1日に撮ったもの。

「碌山美術館」の入り口。2011年6月15日。

毎時の被曝量は、
0.09マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)から、
0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)だった。

開智学校」。2011年6月15日。

右の門柱の左下に、「放射線測定器」DP802iを置いた。

「開智学校」。2011年6月15日。

毎時の被曝量は、
0.09マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)から、
0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)だった。

松本城」。2011年6月15日。


「松本城」。2011年6月15日。

毎時の被曝量は、
0.09マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)から、
0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)だった。

旧制松本高等学校」。2011年6月15日。


「旧制松本高等学校」。2011年6月15日。

毎時の被曝量は、
0.09マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)から、
0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)だった。

「おひさま」の安曇野と松本の放射線量測定を終えた。
そして、家へもどる。105キロの走行だった。

庭で毎時の被曝量は、
0.09マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)から、
0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)だった。

そして、「おひさま」の安曇野と松本めぐりの累積の被曝量は、
0.80マイクロ・シーベルト(μSv)だった。

時刻は、11時55分を示している。
測り始めたのは、6時00分だから、5.92時間になる。

「おひさま」の安曇野と松本の放射線量測定の感想。
[ 毎時の被曝量 ]
国際放射線防護委員会(ICRP)は、毎時の被曝限度を、
0.52マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)としている。

ICRPの国際標準に基づいて、
「放射線測定器」のアラームの設定を、
0.5マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)とした。

「おひさま」の安曇野と松本めぐりでは、
1回もアラームが鳴ることはなかった。
0.19マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)が最高だった。

毎時の被曝限度は、
「おひさま」の安曇野と松本は安全だ。
福島の子、安心して松本に来てほしい。
「ツール・ド・美ヶ原」、安心できる。

去年(2010年)の「ツール・ド・美ヶ原」。霧雨の中、最後のひとガンバリ。

[ 累積の被曝量 ]
国際放射線防護委員会(ICRP)は、1年間の被曝限度を、
1ミリ・シーベルト/年(mSv/y)としている。

ICRPの国際標準に基づいて、
「放射線測定器」のアラームの設定を、
1ミリ・シーベルト/年(mSv/y)とした。

6時00分から11時55分までの、5.92時間の累積の被曝量は、
0.80マイクロ・シーベルト(μSv)だった。

さて、累積、1ミリ・シーベルト/年(mSv/y)のアラームは、
いつ鳴るのか?

5.92時間の被曝量、0.80マイクロ・シーベルト(μSv)を、
1日にすると、0.80X24/5.92⇒3.24マイクロ・シーベルト/日(μSv/d)。
1年にすると、3.24X365日⇒1.18ミリ・シーベルト/年(mSv/y)になる。

ICRPの1年間の被曝限度、
1ミリ・シーベルト/年(mSv/y)を超えることになる。
1年たたずに、(1,000/3.24⇒)309日で、
アラ-ムが鳴ることになる。
この計算でいいと思うが。

日本が、ICRPの被曝限度、
1ミリ・シーベルト/年(mSv/y)を、
20ミリ・シーベルト/年(mSv/y)に、
引き上げた理由がわかってきた。
健康上というよりも、
日本には、住む場所がなくなるから?
それに、地上7メートルで測定しているが、
地表よりも甘くなっている。

これからは、外出には「放射線測定器」を持ち歩こうと思う。
そして、累積被曝をチェックしていきたい。
「放射線測定器」の精度もみたい。

全国には、「放射線測定器」を持っている人が、大勢いると思う。
みなさんの場所の累積被曝は、どんなだろうか?

「放射線測定器」のデータを集めれば、
日本の「放射線量の地図」ができる。それに、
放射線汚染が高いホット・スポットも見つけやすい。

子どもをかかえている人、
妊娠、授乳中の子どもがいる女性、
近くに原発があるところに住まわれている人、のために。
福島に安心・安全が、いつもどるのか、だれにもわからない。
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おひさまの安曇野と松本めぐり

2011-06-14 11:20:07 | Weblog
6月12日(日曜日)、雨が上がったので、
おひさまの安曇野と松本めぐりをした。
そのときと、ほかの写真を掲載します。

安曇野は、「碌山美術館」と「大王わさび農場」、
それに、「天蚕(てんさん)センター」へ。
そして、松本は、ツール・ド・美ヶ原の「美ヶ原高原」、
「開智学校」、「松本城」、それに「旧制松本高等学校」へ。

碌山美術館」、安曇野。2011年6月1日。

何度も訪れている「碌山美術館」だ。
父に連れられて。子どもを連れて。そして、一人で。

「荻原守衛(碌山)の絶作《女》の全貌」展をしている。9月4日まで。
碌山は1910年に没しているから、没後100年になる。


何度もみた「女」だ。
碌山美術館のほかでも、
2011年2月に、長野の信濃美術館で、
2011年3月に、東京国立近代美術館で。

「碌山美術館」の「女」を、借りてくるわけではない。
それぞれの美術館が所有している「女」を展示している。

大王わさび農場」の「おひさま」の家のセット。2011年6月12日。

左の雲の上に顔を出しているのが常念岳(じょうねんだけ)。
セットの屋根の右が有明山(ありあけさん)。
家の右は、清流の蓼川(たでがわ)。

蓼川(たでがわ)で、ボート遊び。2011年6月12日。

三連の水車小屋、蓼川、堤防の右が万水川(よろずいがわ)。
ボート遊びは人気で、列ができていた。

天蚕(てんさん)センター」。安曇野。2011年6月1日。
野生の蚕(かいこ)、天蚕の展示と手よる機織りの実演。

パンフレットの中央上部に、クルクルと巻かれたのが、実際の天蚕糸。

手による機織り。職女? はショールを織っていた。写真を撮らせてくれた。


「じょうぶですよ」と言われて、
天蚕糸を40センチほどもらって、左右に引っ張ってみた。
伸びるけれど、切れにくい。それに、青くつやがあった。

「1日にいくらも織れない」
「根気のいる仕事です」
「20年やっている」

「職女は、やがて鶴になる?」と笑い合った。
「おひさま」効果で、天蚕センターを訪れる人が増えた、と言う。

さて、私、天蚕はどこにいるでしょうか?

左からクヌギ、コナラ、ブナ、カシワの木。

私、天蚕は黒い幼虫で、
葉っぱがかじられたところを探してみると、
左のクヌギと右のカシワにいます。

左のクヌギ。

脱皮して、みどりになり、まゆのさなぎになり、ガになるのをみたい。
「幼虫をあげる」と、スタッフは言うが、
家の周りにクヌギやブナはない。
あきらめた。

美ヶ原高原」。2011年6月12日。
美ヶ原高原のヒル・クライム、「ツール・ド・美ヶ原」は、
松本の浅間温泉から、美ヶ原高原まで21.6キロ、
高低差1,270メートルを駆け上がる自転車レース大会で、
来週の6月19日に開催される。

大会に備えて、試走するレーサーが大勢いた。

ゴール直前を登るレーサー(左)と、
試走を終えて下るレーサー(右)。
奥のテレビ塔は、美ヶ原高原の王ケ頭(おうがとう)、2,034m。

埼玉からきたレーサーは、
「標高が2,000メートルだから、上は涼しい」
「スタート直後の登りがきつい」
「来週の大会には出る」
と言う。

大会には2,000人が参加するが、
レーサーの脚力と心肺機能は並外れている。メタボがいない。

試走を終わったレーサーが、美ヶ原高原から松本市街へ駆け下りていく。

北アルプスの眺めが、レーサーのごほうび。大会当日は、晴れてほしい。
右の木の上が大天井岳(おてんしょうだけ)2,922m、
その左、三角が槍ヶ岳(3,180m)。
常念岳(2,857m)は、槍ヶ岳の手前になるが、見難い。
雲海の下が、安曇野と松本市街。

安曇野と松本は、山に囲まれている。
東は美ヶ原高原(2,034メートル)、
西は北アルプス(3,000メートル級)。

ツール・ド・美ヶ原」のポスター。美ヶ原高原の売店で。


開智学校」。2011年6月12日。
美ヶ原高原から、高低差1,270メートルを松本へもどった。
自転車ではない、車で。

多くの観光客が訪れる。松本城に近い。

松本城」。2011年6月12日。

常念岳は、雲のあいだから、かすかに見えた。
雨上がりの日曜日、多くの観光客が訪れる。
近くの駐車場は、列ができていた。

旧制松本高等学校」。2011年6月4日。

「おひさま」の陽子が通った「松本女子師範学校」には、平成の陽子の声が響く。

松本-安曇野-美ヶ原高原-松本は、およそ100キロのドライブ。
アルプスを見ることができれば、言うことなし。
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おひさまの安曇野と松本

2011-06-05 00:03:50 | Weblog
NHKの朝の連続テレビ小説「おひさま」は、
雄大な北アルプスと川に抱かれた安曇野松本が舞台である。
「どこが写るかな?」
と、ときおり見ていた。

「おひさま」のポスターを、安曇野でも松本でも見かける。

安曇野の「天蚕(てんさん)センター」で。2011年6月。

長野県外の人から、連絡が入る。
「安曇野(あずみの)が写った。松本が写った」
「あれはどこだ?」

そして、「おひさま」の視聴率が一番高いのは福島県と、報道された。
「福島原発事故の被災地、福島県が全国一を記録している」
「福島県の視聴率は30%を超えた日もあった」
「地元よりも視聴率が高い」

「こんなに高視聴率は異例の出来事」
と、NHKは驚いている。

人の優しさがあり、
つらい時でも、おひさまのように、
明るく生きている姿が、共感を呼ぶ。

「おひさま」は、
ヒロイン陽子が結婚し、
これから、太平洋戦争に入り、
家族の出征エピソードなどが展開される。

戦後になると、自分が育ったときにつながってくる。
それに、「おひさま」の舞台は安曇野と松本だ。
これからは「おひさま」を、毎日見ようと思う。

「おひさま」の安曇野と松本は、にぎわっている。
そのにぎわいは、「安曇野」、「松本城」、そして、
「旧制松本高等学校」でみることができる。

安曇野の「大王わさび農場」に行くと、目の前を、
「福島」ナンバーの車が入っていく。
どんな気持か?
「災害に遭わなかった人かな?」
「それとも、信州に避難しているのかな?」
「「おひさま」を見ているのかな?」

松本には、被災者110人が避難されている。
インターネットや報道で、松本の受け入れ施設や、
菅谷市長の内部被曝の発言を知って、避難された福島県の人がいる。

福島では、子どもを外で遊ばせることができなかったが、
安曇野では、「おひさま」とたっぷり遊ばせることができる。
ようこそ、「おひさま」の郷へ。

安曇野では、ほんわかとした「道祖神」(どうそじん)がある大王わさび農場を、

修学旅行生が訪れる。千葉の中学3年生。2011年6月。
貸し自転車で、北アルプスを眺めながら安曇野めぐりをし、
「碌山美術館」も訪れるという。

修学旅行生が、もどって来たということは、安曇野が、
地震や放射線汚染がない、安全な地として確かめられた。

「おひさま」に使用された家のセットがある。大王わさび農場。2011年6月。

陽子が昔のことを話す家として使われている。
家からは、雄大な北アルプスを望み、
前には透き通る蓼川(たでがわ)がある。
蓼川(たでがわ)を、(たでかわ)と、濁らない安曇野人もいる。

左のピラミッドが常念岳(じょうねんだけ)。雪が融けてきた。
右の蓼川(たでがわ)では、ボート遊びをしている。

蓼川(たでがわ)の下流には、三連の水車小屋がある。2011年6月。

黒澤明監督の「夢」に使用された水車小屋。
「おひさま」の家のセットは、この三連の水車小屋のすぐ先。

蓼川(たでがわ)に手をつけると、ヒンヤリと冷たい! 水温は12℃という。
北アルプスの雪解け水が、伏流水となって、わさび田に湧いた水で、
「わさび田湧水群」の一つで名水。

2キロ先から流れてきて、三連の水車小屋の下流で、

蓼川の右に見える土手の右の万水川(よろずいがわ)に合流する。

写真を撮る人。スケッチをする人。
スケッチをする人は、場所を変えて、
安曇野をシリーズで描いているという。
安曇野には、描くところがいっぱいある。
それに、季節の変化も楽しむことができる。

蓼川の清流と水車小屋、それに北アルプスを見るたびに、
「いいところだな!」と思う。

松本城北アルプス。2011年4月。

北アルプスに見とれる。そして、
北アルプスと松本城を入れて写真を撮る。

中央の白いピラミッドが常念岳(じょうねんだけ)、2,857m。
北アルプスのふもとが安曇野。陽子が住んでいる町。
安曇野と松本は続いている。

福島原発事故当時は、お客さんも少なかったが、
桜が咲くとともに、松本城にお客さんがもどってきた。
それに、「おひさま」のツアーに松本城は外せない。

旧制松本高等学校」は、「あがたの森公園」にある。2011年6月。

信州大学文理学部として使用されたときもあった。重要文化財になっている。

旧制松本高等学校は、
陽子の兄、春樹が通う「松本高等学校」であり、
陽子が受験し、通う「松本女子師範学校」にもなった。

旧制松本高等学校がある「あがたの森公園」は、
毎年「クラフト展」の会場になっているが、

今年は、例年より人出がグッと多かった。2011年5月。
「おひさま」効果だろう? ありがたいことだ。

松本は「三がく都」として、個性豊かな街づくりをしている。
「三がく都」の「がく」とは、「学都」、「岳都」、「楽都」。

学都」は、学びの都。
松本は、教育に力を入れる伝統がある。
明治元年に開校した「開智学校」。2011年5月。

日本で最も古い小学校の一つで重要文化財。松本城から歩いて数分。
「おひさま」効果で、訪れる人が多い気がする。

旧制松本高等学校は、現在、信州大学に発展している。
信州大学には、「市民開放授業」がある。
1,300科目が用意され、学生に交じって、
一般市民が学ぶが、盛況だという。

信州大学には、全国から学生が集まっている。
信州大学の学生100人のアンケートの結果がある。
松本平タウン情報、2010年1月から。



多くの学生が、学生生活に満足し、
学生生活を夢中で過ごしていることがわかる。

岳都」は、山岳の都。
東は美ヶ原高原、西は北アルプスの穂高連峰まで松本市である。

上高地。手前から梓川(あずさがわ)、
河童橋(かっぱばし)、穂高連峰(北アルプス)。
上高地は外国人観光客にも人気である。
上高地は、北アルプスへの登山口になっている。

「おひさま」のツアー、それに修学旅行の生徒さんにとって、
上高地は外せない。このあと、安曇野、そして松本城へと向かうことになる。

安曇野から蝶ヶ岳(ちょうがたけ)2,677mに登ると、
目の前は北アルプスの屏風が連なる。

左の穂高連峰から、右の槍ヶ岳が見える。
(前穂高岳、奥穂高岳(3,190m)、涸沢岳、北穂高岳、
キレット、南岳、中岳、大喰岳、槍ヶ岳(3,180m))
全国から登山客が訪れる。外国の登山客も。

楽都」は、音楽の都。
スズキ・メソッドによる「才能教育」がある。
鈴木鎮一先生(故)が始めた音楽による才能の育成で、
ちびっ子から学生まで、全国からヴァイオリンを抱えて、

松本の夏期学校にやってくる。

そして、夏の1カ月は音楽祭、「サイトウキネン・フェスティバル」がある。
小澤征爾さんが総監督で、サイトウ・キネン・オーケストラが演奏する。
市民も歌劇の合唱に参加する。全国からファンが集まり、
チケットはすぐに売り切れる。

「おひさま」は、
これから太平洋戦争に入り、家族の出征に入るが、
昔、松本は「商都」、「学都」、そして「軍都」だった。

軍都」は、「松本50連隊」。
「松本50連隊」は、明治38年(1905年)に編成されて、
場所は松本に定まる、明治40年(1907年)。
松本の北、現在の信州大学医学部のある所。
この明治40年(1907年)に、松本は松本市になる。

松本文書館長、小松芳朗さんの講座に参加すると、
「松本 歩兵第五十連隊之図」(明治41年、1980年)
という、当時の地図を見ることができた。

兵舎と練兵場があり、これを囲うように、
本部、営倉、講堂、集会所、酒保、厨浴室、
医務室、病院、雑米庫(ぞうまいこ)、がある。

松本50連隊」の痕跡を、なんとか探したい、と思った。
「雑米庫(ぞうまいこ)だけが残っている」
と、小松芳朗館長からお聞きして、
信州大学医学部へ行ってみた。

雑米庫(ぞうまいこ)は、忘れ去られたようにあった。2011年5月。

ここだけがレンガ造りの倉庫。

場所はわかりにくい。
信州大学のホームページに地図がある。左が北。
東にある19が医学部保健学科。その西で、灰色の駐車場の北端との間の緑が雑米庫。

南に大きな場所を占める12が医学部付属病院。

さらに、「松本50連隊」の痕跡を探した。
信州大学の北300メートルに碑があった。
美須々ヶ丘(みすずがおか)高校の北西になる。
「旧歩兵第五十連隊跡」とある。2011年6月。

碑の右側には、「松本50連隊」の歴史が刻まれていた。

安曇野の有明(ありあけ)には、「松本50連隊」の演習地があった。
その「有明演習地」の痕跡を見に行った。2011年6月。

「有明演習地兵舎跡」の案内だけがあった。あたりは住宅地。

松本から20キロほど離れているが、歩いたという。上官は馬だったが。
場所は、JR穂高駅から西へ約4キロ。穂高温泉を目指すといい。
ジャンセン美術館の手前200メートル。

「松本50連隊」は、常念岳に登る訓練もある。
そして、シベリアへ、満州へ、中国へと出征した。
最後は、マリアナ群島のテニアンへ出征している。

昭和5年、1930年の松本の地図、「日本アルプス大概図」がある。
その「日本アルプス大概図」で、大きく描かれているのは、
「松本城」、「松本50連隊」、「片倉製糸工場」、「日本銀行支店」、
「(旧制)松本高等学校」(信州大学に発展)、「開智学校」がある。

この「日本アルプス大概図」から、松本は、
「松本城」の「城下町」であり、
生糸で日本の富を築き、日本銀行の支店がある「商都」であり、
(長野県では松本だけに日本銀行の支店がある)
「松本50連隊」がある「軍都」であり、
「松本高等学校」、「開智学校」がある「学都」であることがわかる。

第二次世界大戦も終わり、「松本50連隊」はなくなって、
松本医学専門学校になり、信州大学医学部になった。
そして、松本は「軍都」から、「学都」、「岳都」、「楽都」の、
「三がく都」になっている。

「三がく都」の松本を、信州大学の学生は好きだ。
運転マナーが悪い、という問題はあるが。


これからは、「おひさま」を見よう。
雄大な北アルプスと川に抱かれた安曇野、
それに、住んでいる松本が舞台で、
時代が、私の生まれる前から激動の昭和につながる。

子どものころは戦後で、貧乏だったな!
つぎはぎだらけの服を着ていたな!
すいとんはマズカッタな!
「おひさま」と、だんだん重なってくる。

常念岳の頂上(2,857m)。

槍ヶ岳が正面に見える。
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