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中国残留者2世の幸せは?

2012-07-15 00:00:15 | Weblog
満蒙開拓団」には、
日本に引き揚げることができなくて、
そのまま中国へ残った人、「残留者」がいる。
その中国残留者の「2世」の講演を聞く機会があった。

長野県立歴史館の企画展「長野県の満洲移民」の一環で演題はつぎ。
「二つの祖国を生きて
-中国帰国者二世の経験から-」

受講券。2012年7月7日。

講演が終わって、講師の女性に近づいた。そして、
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
と、聞くことができた。
「中国残留者2世」の幸せは、
日本中国活躍できることです」。
うれしくなるではないか。

日本の文化を知り、中国の文化を知っている。
そして、外から日本を見ることができる。
それに、内からも日本を見ることができる。
これは貴重な特性を身につけている。
「中国残留者2世」のアイデンティティは、
両国の文化を知る日本人であり、中国人である。

ところで、「中国残留者2世」とは?
「中国残留者2世」の女性の2世代前に遡(さかのぼ)る。
長野県の「豊丘村」から、夫婦2人が満州に渡った(1938年)。
「満蒙開拓団」である。

豊丘村」はどこにあるか?
満洲移民の市町村別比率」。

長野県の満洲移民」。長野県立歴史館発行から作成。

「豊丘村」は長野県南部にある、赤い地域。
赤い地域は、渡満者比率が6.0%以上である。

「豊丘村」から、どのくらいの人が満州に渡ったか?
市町村の渡満者比率」。


「豊丘村」は、人口9,244の内、614人が満州に渡った。
渡満者比率は6.4%である。

農業開拓移民が539人、
義勇軍が63人、
勤労奉仕隊が12人。

豊丘村から「満蒙開拓団」として満州に渡った夫婦に、
男の子が生まれる。入植地は南五道崗(みなみごどうこう)。
入植地一覧図」。

「長野県の満洲移民」のリーフレットから作成。

は豊丘村が入植した南五道崗。
 東のソ連との国境に近い。あとで、ソ連に侵攻される。
は集団自決をした主な場所。12か所ある。
「地獄の逃避行」をした「満蒙開拓団」は、
南西にある胡盧(ころ)島から、日本に引き揚げることになる。

満州で生まれた男の子が9か月のとき、
父は病死する(24歳)、過酷な自然と労働で。
だから、男の子は父の記憶がない。
男の子は豊丘村も知らない。
長野県も日本も知らない。

この男の子が、あとで、
「中国残留者2世」の女性の「父」となる人である。
「母」は中国人である。

日本人男性と中国人女性の結婚のいきさつは、つぎである。
この男の子、つまり「父」となる人が、
3歳のときに敗戦となる(1945年)。

市町村の帰国者比率」。


豊丘村から614人が満州に渡り、
生きて帰ってきた人は234人である。
帰国者比率は38.1%。半数以下である。

「満蒙開拓団」は、中国人や朝鮮人の土地と家を取りあげて、
入稙したから、「侵略者」となって、恨みをかった。
敗戦とともに、「満蒙開拓団」は襲撃され、殺戮された。
青酸カリで集団自決する「満蒙開拓団」もあった。

集団自決の一つに河野村(かわの)村(現:豊丘村)もあった。
河野村の村長は、分村移民で送り出した「満蒙開拓団」が、
つぎつぎに首を絞める集団自決で、ほぼ全滅した責任から自殺した。

豊丘村(河野村と神稲(くましろ)村が合併)の死亡者ほかを見ると、
死亡者は355人、
残留者は21人、
不明者は4人で、
合せて380人になる。

残留者は21人、その内の1人が
女性の「父」となる男の子である。
男の子は中国人に救われる。当然、中国語で育つ。

しかし、中国人は、どうして「侵略者」の日本人を救い、養い、
育てたのだろうか? この疑問が残る。
「中国人は心が広い。日本人にはないものである」
「日本人には、なかなか理解できないことである」
と、一般的なことが言われているが、
具体的なものはない。
あとで、聞いてみることになる。

中国人に救われた男の子は成人し、中国人女性と結婚する。
そして、3人の男の子と1人の女の子(1970年)が生まれる。
この女の子が、「中国残留者2世」でる。

日本人の父、中国人の母、それに4人の子どもの6人は、
日本に帰ることにした(1978年)。
女の子が8歳のときである。
どこに帰ったか? 長野県の豊丘村である。

帰国の動機は「文化大革命」だった。
多くの人民を巻き込んだ粛清と虐殺があった。
「侵略国日本」に近い人たちがスパイ容疑で迫害され、
「日本人」の父も、人民公社の会計係の職を追われた。

日本への帰国には、中国人の「母」は猛反対した。
母の親戚も猛反対だった。

「母」は日本をまったく知らない。
このまま中国にいれば、職業も家もある。
「豊丘村」に行けば、職業も家もない。
家族は誰も日本語を話せない。
「ゼロ」からのスタートではない。
「マイナス」からのスタートである。

中国の家と土地は売り払って日本に来たが、
蓄えは、日本の半年の生活で底をついた。
物価水準の違いが大き過ぎた。

家族6人は日本語、日本文化、習慣の知識を、
まったく持たずに日本の社会に飛び込んだ。
家族は日本語を一生懸命に学んだ。必死に。
広告の裏に、日本語を書いて覚えた。
女性の日本語は上達してきた。

しかし、大きく傷つくことがあった。
「あっ、中国人だ」と友達から言われた。
うまくなったつもりの日本語でも、発音にちがいがある。

「あっ、中国人だ」は、当初は、
「中国人」と「日本人」の違いを言っていると思っていた。
しかし、日本での生活が長くなると、
中国からの帰国者の多くが、地位的にも経済的にも、
社会の底辺に位置づけられている現実を知るようになった。
開発途上国の人は、文化的に低く、劣っているとみられた。
「中国人」という言葉に違和感を覚え、避けるようになった。

そして、日本で生きていくには、日本人になりきらないと、
社会の底辺で生活することになる。
底辺の生活はしたくない。
高校、大学では、友人にも、
「中国残留者2世」であることを明かさなかった。
「日本人」になりきろうとした。
「中国人」を消し去った。

しかし、偽(いつわ)ることに苦しみ、
自分は何者?」と、葛藤した。
「自分は何者?」の「封印」を解くことが起きた。

英文学を学び、英語教師として長野県にもどった。
赴任した中学校に「中国残留者3世」が、
入学してくることになった。
「満蒙開拓団」を日本一多く送り出した長野県には、
「中国残留者」がもどることが多い。

学習交流会の場で、ある教師が発言した。
「中国人の帰国者は、中国から来たことを知られまい
苦しんでいます。どうしたら救えるのでしょうか?」

「中国残留者2世」の女性は、
自分のことを言われているようで、
心臓がバクバクし、冷や汗が流れた。
そして、手を挙げて、
「私も帰国者です!」
と発言していた。

「中国残留者2世」の女性は続けた。
「先生方が帰国者の気持ちを理解しようと、
してくださっていることに、とても感激しました」
身体が震え、全身の血が逆流したかのように鳥肌が立った、
「封印」が解かれた。長い間、かぶっていた「殻」が解き放たれた。

「中国残留者2世」の女性は、
「中国残留者3世」に、中国語で話しかけて、
日本復帰への力になっている。

「中国残留者2世」の女性は、
中国の北京師範大学の博士課程に留学した。
比較教育学を学ぶとともに、聞く、話すは、
問題がなかった中国語に、書きを修得した。
今は、小学校の教師のかたわら、中国に行って、
「中国残留者」の相談にも乗っている。

「中国残留者2世」の女性につぎの3つを聞いた。
1)「中国人は、どうして『侵略者』の日本人を救い、養い、
育てたのですか?」
2)「中国人のお母さんは、日本に来て、良かったと思っていますか?」
3)「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」

1)「中国人は、どうして『侵略者』の日本人を救い、
養い、育てたのですか?」
お金持ちの中国人が救ってくれたのではない。
貧乏な農家が救ってくれたのだ。
家にはプライベートな部屋はなく、雑魚寝である。
粗末な食事、こうりゃん、じゃがいも、とうもろこし。

しかし、中国人は「侵略者」の日本人を育てた。
「もし、中国人が助けてくれなかったら、私は生きていなかった」
と、「中国残留者」が言われている。
映像情報「満蒙開拓団の真実」。

「中国残留者2世」の女性は、つぎのように答えられた。
「中国人は子どもを大事にします」
「子どもには罪はないと思っています」
「為政者を当てにせず、自分の考えで行動しています」

2)「中国人のお母さんは、日本に来て、良かったと思っていますか?」
中国人のお母さんは、日本に来ることに猛反対だった。
親戚からも猛反対された。
親類縁者がいない日本では、苦労されているはずだ。
日本に来て良かったか?  幸せであるか? 気にかかる。

「中国残留者2世」の女性は、つぎのように答えられた。
「日本に帰国したときに、
父はすぐに日本の国籍を取りましたが、母は取りませんでした」
「生活できなければ、帰りたいと思っていたかも知れません」
「満州では平原でしたが、豊丘村は山の中です」
「山の圧迫感がたまらなかったようです」
「あの山を越えれば中国だ、と言っていました。また山なのに」
「日本の国籍を取ったのは、帰国してから10年後でした」
「子どもたちが、日本に順応していることを喜んでいます」

3)「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
「中国残留者2世」の女性の幸せは、
日本中国活躍できることです」。

よかったな!
うれしいではないか!
「自分は何者?」と、葛藤があった。苦しかったと思う。
今は水を得た魚のように生き生きしている。

「中国残留者2世」の女性のアイデンティティは、
両国の文化を知る日本人であり、中国人である。
日中の「架け橋」となって、活躍されている。

つぎの100年は中国の時代である。
世界は、中国の動向に注目している。
「中国残留者2世」の女性のアイデンティティである、
両国の文化を知る「日本人」であり、「中国人」が生きてくる。
文化的にも、経済的にも日中の「架け橋」になる。

日本の文化を知り、中国の文化を知っている。
そして、外から日本を見ることができるし、
内からも日本を見ることができる。
これは貴重な人材である。

「中国残留者2世」の女性は、
「中国残留者3世」を教育することができるから、
日中の「架け橋」として、貴重な人材がさらに生まれてくる。
「中国残留者3世」は、日本語ができればチャンスは広がる。
「中国残留者2世」の女性の日本語は、すばらしかった。

「満蒙開拓団」、「満蒙開拓青少年義勇軍」の送出に、
長野県、そして信濃教育界は積極的に進めた。
そして、全国一の成果を出した。

しかし、生きて帰ってきた「満蒙開拓青少年義勇軍」は、
「先生は夢のある満州だと言って、だまして送り込んだ」
「先生自身は満州に行かなかった」
と、非難する。

当然である。
実際の満州は希望の大地ではなかった。そして、
ソ連に襲撃され、シベリアに抑留された。
遺族は、もっと納得できないだろう。

村長によっては、「満蒙開拓団」を1人も送り込まなかった村がある。
満州を下見して、「これは大変なところだ」、
それに「日本の土地ではない」。

「満蒙開拓青少年義勇隊」の写真がある。
「シベリア俘虜記」。穂苅甲子男 著、光人NF文庫から。

希望はない、無念さがただよっている。
それに、汚れた服だ! 何日も洗ってない。

「中国人の帰国者は、中国から来たことを知られまい
と苦しんでいます。どうしたら救えるのでしょうか?」
と、学校が「中国人の帰国者」の苦しみに気がついている。
そして、手を打っている。
「中国人の帰国者」への「いじめ」をはらんでいる。
学校は、「いじめ」の防止に取り組んでいる。


「満蒙開拓団」は、
「残留者」が中国で生きている。
その「中国残留者」に家族ができる。そして、
「中国残留者2世」、「中国残留者3世」・・・と、
日系中国人は広がっていく。
「『満蒙開拓団』には、こんなに広がりがあるのか?」
「引揚者と死者と残留者、行方不明者だけではなかった」
「満蒙開拓団」の傷跡広がりを、長野県立歴史館は教えてくれた。
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