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東山魁夷の安曇野への旅

2012-02-26 00:01:11 | Weblog
東山魁夷は信州の安曇野(あずみの)へ旅している。

左から井上靖川端康成東山魁夷の3人の巨頭が、
安曇野に会した。長峰(ながみね)山で、1970年5月12日。

どんな「魔法」を使って、安曇野に、
3巨頭を、お呼びしたのだろうか?
「きっかけ」は、なんだったんだろう?
そのわけを、「」で知ろうと思った。
それに、安曇野に、
どんな感想を持たれたのか? も。

横浜生まれの、神戸育ちだった東山魁夷の、
信州との「巡り合い」は、18歳である。
東京美術学校(現在の東京藝術大学)1年の夏に、
10日間のテント旅行で、信州の木曽を訪れ、御嶽山に登った。

霧ヶ峰から望む冬の御嶽山。

東山魁夷には、初めて接する山国の厳しい自然だった。
そして、雨にあって、見知らぬ村人に泊めてもらっている。
人々の生活に深い感動を受け、
自然の深さにひかれて、東山魁夷は、
風景画家」を志すことになる。

東山魁夷は、信州を多く描いている。
蓼科、八ヶ岳、野尻湖、上高地、奥穂高、
志賀高原、軽井沢、安曇、乗鞍、木曽・・・。

緑響く」。奥蓼科。

東山魁夷館所蔵。絵はがきから。

東山魁夷は、育ててくれた「故郷」信州に、
500点の作品と図書を寄贈された。
これがきっかけで、東山魁夷の美術館、
東山魁夷館」が長野市にできた(1990年)。
善光寺の近くにある「信濃美術館」のとなりである。

「東山魁夷館」。

「信濃美術館」はこの右手前にあって、レストランでつながっている。
いま、東山魁夷は、「東山魁夷館」を望む善光寺の霊園に眠っている。

東山魁夷と川端康成の親交は厚かった。
川端康成は、東山魁夷に進言している。
「京都は、今描いていただかないと、なくなります。
京都のあるうちに、描いておいてください」

そして、東山魁夷は「京洛四季」を描かれたが、
川端康成がノーベル賞を受賞されたお祝いに、
「京洛四季」の一つである「北山初雪」を、
川端康成に贈られている(1968年)。

北山初雪」。

「現代日本の美術」、「東山魁夷」。集英社、1976年発行から。

東山魁夷の著書、「東山魁夷画文集」を偶然に、
松本の古本屋、「青翰堂」(せいかんどう)で見つけた。

「東山魁夷画文集」の第5巻、「美の訪れ」の中に、
「安曇野への旅」という章と、
「井上靖さんと私」という章があった。

安曇野への旅」。
「『まことに唐突ながら御誘い申上げます』
という書き出しで、川端康成先生から、
信州穂高行きの勧誘のお手紙を戴いたのは、
昭和四十五年四月半ばのことであった」
と、「安曇野への旅」をはじめている。

やったぁ!
と思った。
3巨頭が一堂に会した「文」を見つけた!

「その手紙には、井上靖さんご夫妻と御一緒に、
ということが書き添えられていたので、
私の喜びはいっそう大きかった」

「穂高町が山麓一帯を開発するに当って、
自然保護の立場から川端先生に相談を持ちかけて来たが、
写真などを見ると美しい景観の土地であるから、
五月に現地に見に行かれる時に、
私達も一緒にというお誘いであった」

「穂高町での二泊の旅は、幸いに晴天に恵まれ、
楽しい想い出となった」

「その二年後に川端先生が急逝されているので、
あの旅のことは、今も心に深く刻み込まれている」

「私達は町の東方の小高い丘の上に立って、
雄大な景観を飽かずに眺めた」
(東方の小高い丘は、長峰山)

「五月の新緑の若緑に蔽われた安曇野(あずみの)を、
上高地から流れ出る梓川が高瀬川と合流し、
犀川となって北に流れる。
平野の西を塞いで高く連なる残雪の山々を、
常念、東天井、大天井、燕(つばくろ)と、
案内の人が指し示す」

「わさび田を流れる清冽な水と、
ポプラやアカシヤの並木が美しかった」


清冽な水、「蓼川」(たでがわ)とスケッチをする人。大王わさび農場で。

「明治の優れた彫刻家、荻原守衛の作品を蒐めた碌山美術館を訪れ、
三十二歳で世を去ったこの人の才能を惜しんだ」

碌山(ろくざん)美術館」。

「穂高神社、小岩岳城址、松尾寺、
渓流の傍での昼食と、思い出は尽きない・・・」
と書かれていた。

つぎに、「井上靖さんと私」。
「ここに一枚の写真がある。
残雪の輝くアルプスを背景にして、
緑の安曇野(あずみの)を見下す高台に、
川端康成先生と、井上さんと私の三人が立っている」

「四十五年の五月に川端先生の誘いで、
それぞれ夫妻同伴で長野県安曇野へ、
旅したときのものである」

これで、東山魁夷の安曇野への旅は、
川端康成のお誘いであったことがはっきりした。
川端康成のご夫妻と、東山魁夷ご夫妻、井上靖ご夫妻が、
安曇野に一堂に会したのである。

こうなると、川端康成からの、
「まことに唐突ながら御誘い申上げます」
という「手紙」を探したくなる。
それに、安曇野へ旅したときの、
「ここに一枚の写真がある」も探したい。

川端康成と東山魁夷 響きあう美の世界」がある。

求龍堂、2006年発行。

「川端康成と東山魁夷 響きあう美の世界」に、
川端康成からの「手紙」と、
安曇野で撮った「写真」があった。

「ここに一枚の写真がある」は、
最初に載せた3巨頭の写真である。
長峰山から安曇野とアルプスを眺めた。

川端康成から東山魁夷への「手紙」は、つぎである。
「拝啓、まことに唐突ながら御誘い申上げます。
先日信州穂高町の町長その他が、
鎌倉市長の案内で拙宅に見え、
穂高山麓の一帯を、自然をよく保存しながら開発したい計画で、
私にその相談に乗れとのことでした」

「その人達は自然保全の真の願望を持ち、法人組織とするようです。
それで私は五月に現地を見に参る事にいたしました」

「多くの写真などを見ますと余りに美しいので、
御誘い申上げたく存じました」

「家内も参ります。
奥様もごいっしょに御越し下さると楽しい事と存じます。
ほかに井上靖氏御夫妻を誘います。
五月十二日、十三日の予定です。

四月十五日     川端康成
東山魁夷様」

どんな「魔法」を使って、
3巨頭を、安曇野にお呼びしたのだろうか?
「きっかけ」は、なんだったんだろう?
は、これでわかった。

穂高町(現在の安曇野市)が穂高山麓を開発するにあたり、
自然保護にお考えがある川端康成に助言を仰いだ。

川端康成は、東山魁夷と井上靖に、
安曇野訪問の、お誘いの手紙を送った。
それで、3巨頭はご夫妻で安曇野に会した。

長峰山には、東山魁夷の「安曇野を想う」の碑がある。

碑の写真を撮っている。

東山魁夷の「安曇野を想う」の碑には、つぎのように刻まれている。


 安曇野を想う
        東山魁夷

五月の若緑に蔽われた安曇野はなんと美しかったことか
上高地から流れ出る梓川が高瀬川と合流し
犀川となって北に流れる平野の上に高く連なる北アルプスの山々
常念、東天井、燕と
長峰山の上で案内人の指し示す残雪の嶺々を仰ぎながら
飽かず眺めたひとときが忘れられない

長峰山から、安曇野と朝焼けの北アルプス。2011年11月。

左のピラミッド型が常念岳、右の赤い三角が横通岳(よこどおしだけ)、
東天井岳(ひがしてんしょだけ)、中央の大天井岳(おてんしょだけ)をへて、
右端の燕岳(つばくろだけ)へと連なる。
燕岳の手前の富士山型は、有明山(ありあけさん)。
ふもとは安曇野。

長峰山から、北アルプスの続き。2011年11月。

左から鹿島槍ヶ岳、五竜岳(ごりゅうだけ)、唐松岳(からまつだけ)、そして、
白馬三山(しろうまさんざん)の白馬鑓ケ岳(はくばやりがたけ)、
杓子岳(しゃくしだけ)、白馬岳(しろうまだけ)が連なる。

そして、文豪と画伯の安曇野の感想は?
残したい 静けさ 美しさ」、川端康成。
安曇野は、なんと美しかったことか」、東山魁夷。
(敬称を省略しました)


3巨頭が安曇野に参集したことは、
前に、似たような記載があったことに、
気がつかれた読者もいるかと思います。

それは、つぎです。
「東山魁夷、川端康成、井上靖の安曇野」、2011年11月27日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/e0ec23bbd5be088a697624dd222d06bc

「東山魁夷の『安曇野を想う』」、2011年12月4日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/6b4d0e185dffac26dde0160f895e6f31

3巨頭が安曇野に一堂に会した「写真」を、
JR明科(あかしな)駅で見つけた。
それから、歩き回って調べた。
3巨頭が一堂に会した「わけ」を知りたくて。

JR明科(あかしな)駅のほかに、
つぎにも行って、聞いたり、調べた。
明科の保養センター「長峰荘」、
長峰山にある宿舎「天平の森」、
「明科高校」。
そして、何度か「長峰山」へ登った。
まだ、「文」にたどり着く前のブログです。

3巨頭が一堂に会した「わけ」のほかに、
「ツェルマットの景観」、
「電線の埋設率の国際比較」と、
「景観」、「電線の埋設率」も書きました。
参照していただければ、と思います。
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東山魁夷が想う京都

2012-02-19 00:09:24 | Weblog
東山魁夷が想う京都を、「」と「」からみる。
東山魁夷が想う京都の絵に、「年暮る」(としくる)がある。1968年。

山種美術館創立45周年記念特別展、
「ザ・ベスト・オブ山種コレクション」で、
「年暮る」を、見ることができた。2012年1月。

「本物に逢えた!」
うれしかったね。

東山魁夷が「年暮る」を描いたきっかけは、
川端康成の進言であった。
「京都は、今描いていただかないと、なくなります
京都のあるうちに、描いておいてください」

それで、東山魁夷は「京洛四季」を描いた。
本もある。87の絵とエッセイの「京洛四季」、東山魁夷小画集。

東山魁夷著、新潮文庫。

都のすがた――とどめおかまし

「京洛四季」に寄せた川端康成の序文である。

「山崎、向日町(むこうまち)あたりの竹林も、
やたらと宅地造成に掘り返され、切りひらかれて、
京都の味の筍(たけのこ)産地もなくなってゆく・・・。
嵐山(あらしやま)の松が何千本か、かれるにまかされた・・・」
「来るたびに私は『看都満眼の涙』である」

「京都は今描いていただかないとなくなります。
京都のあるうちに描いておいて下さい、
と私は数年前しきりと東山さんに言ったものである。
その私のねがいが、東山さんの『京洛四季』のみごとな連作大成に、
いささかの促しになったのは、私の幸い、よろこび、言葉につくせない

「『京洛四季』の東山さんの数々の絵は、
都のすがた、とは(永久)にとどめん、になってもらえるだろう」
と、川端康成は結んでいる。

「京洛四季」の一つが「年暮る」である。
「東山魁夷の『花明り』」、2011年11月6日では、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/5d2fb467f0b2f445c4612087812e077d
「京洛四季」のシリーズとして、
「花明り」や「北山初雪」について書いた。

「花明り」。1968年。

春になると、玄関に飾る私の宝物。

「北山初雪」。1968年。

「現代日本の美術」、「東山魁夷」。集英社、1976年発行から。

「北山初雪」は、川端康成がノーベル文学賞を、
受賞されたお祝いに、東山魁夷が贈られている。

「花明り」も「北山初雪」も、
「京都の自然」である。
京都に残っている、あるいは、
京都に残しておきたい「自然」である。

「年暮る」は「京都の街」である。
東山魁夷は、川端康成から、
「京都のあるうちに、描いておいてください」
と言われて、東山魁夷が、京都に残っている、
京都に残しておきたい「街」である。
東山魁夷が想う京都を描くと、「年暮る」になった。

自転車で京都の街を探し回った。
「年暮る」と、似たところがないか?
面影がないか? なかなか見つからない。

これが、探しあてた「年暮る」のイメージ。

瓦屋根に雪が降り、夜になって、静まり返れば、
「年暮る」の世界になる。

さて、つぎは、東山魁夷が想う京都の「」を探そう。
東山魁夷が、京都についていたものがないか?

松本には、いい古本屋がある。
松本城近くの「青翰堂」(せいかんどう)。

松本駅から松本城に向かうメインのルート、
大名町を行くと、左にお城の形の書店がある。

「青翰堂」には、美術書の掘り出し物がある。
浮世絵や美術書が目当てで、
近くへ行ったときには、立ち寄る。
ちなみに、店の前のチャリは私のもの。

松本城を訪れた外国人も、掘り出し物を探している。
書店の前の台には、仏画、浮世絵、郷土本が置いてある。

「青翰堂」で、「東山魁夷画文集」を見つけた。
新潮社、1978年発行、全11巻のうち、7巻があった。
定価は1巻1,500円から1,900円だが、1冊250円だった。

迷わずに買った。店にあった7巻全部を。
ありがたいことに、ご主人は値引いてくれた。
「1978年発行の本だから、もう手に入らないだろう?」

あとで、松本や諏訪の図書館を探したが、なかった。
東山魁夷画文集」は、ありがたいもので、私の「宝物」になった。


「京都は、今描いていただかないと、なくなります。
京都のあるうちに、描いておいてください」、
という川端康成の進言で、
東山魁夷は、「年暮る」を描いた。

そして、東山魁夷が想う京都の「」がないか?
いたものがないか? 探してみた。

「東山魁夷画文集5」、「美の訪れ」の中にあった。
「遠い京都」という章と、
「ある美しかった国の物語」という章である。
およその予想がつくでしょうか?

遠い京都」。
「京都が今日に伝え得たものの中には、
世界的に貴重なものが沢山ある。
京都の誇り、日本の誇りということを越えて、
人類全体の重要な文化的な遺産なり、
日本の伝統美を伝え発展させた多くの
技術的なものを持っている」

「京都が京都として、より生きるためにも、
日本国中どこにでもあるような都市になってしまうことなく、
京都のみ存在する価値あるものを失わないことだと思うのだが、
京都の此頃の様子を見ていると、どうも、
特色のない地方都市になり下がるように、
努力している傾向も見える」

「京都自身が、京都から遥か遠くへ離れていくことを感じる」

「観光ということほど、
その地元側からも、観光客の側からも、
間違った意味で行われていることが、
今日の日本ほど甚だしい例を私は知らない」

「美しい自然建築や町の風致破棄することに、
全力を挙げているのが日本の現状である。
こんな馬鹿々々しいことがあるものかと、
嘆く一部の人々の声は、
土地開発とか、レジャーブームという騒々しさの中に、
掻き消されてしまっている」

「『看都満眼の涙』とは、
川端先生が、私の画集『京洛四季』のために、
書いてくださった序文の中の言葉である」
で、「遠い京都」は終わっている。

「看都満眼の涙」とは、なんだろう?
「京都をみると、眼にはいっぱいの涙があふれてくる」
じゃないだろうか?
川端康成を嘆き、泣かせた京都、ということになる。

つぎに、「ある美しかった国の物語」。
「昔、美しい風景の島国が東方の海上にあった」
と、物語がはじまる。

「人々は、遠い昔から自然を愛し
自然とともに暮らしてきた」

「こまやかな感覚を持つ女性の美意識が磨き上げられて、
今でも世界の宝といわれる優れた文芸作品が書かれた」

「ある日、西洋から黒い船がやって来た。
西洋の文明が押し寄せ、西洋におくれまいとして、
自国の優れたものを見失いがちなことが多かった」

「その小さな国と、ある大きな国との間に戦争が起こった。
空から降ってくるで、町という町は灰になってしまった」

「さて、それから後が問題である。
昔、中国の詩人が、国が敗れても山河はあると歌ったように、
はじめのうちは美しい自然はちゃんと残っていた

「もう戦争はやめて、経済を発展させ、平和に暮らそうとした。
経済の発展に、前後のわきまえもなく、熱中した。
エコノミックアニマルと名前をつけられ、
その国の美しい自然をも食い尽してしまった」

「自然の開発とか観光ということも、
ただ目先きだけの利益で、
かんじんの自然美を護る心が見棄てられた」

泥海のそばの砂漠のような乾ききった土地に、
ただ四角な高い建築ばかりが建っていた」

「そこには、意味のない叫び声を挙げながら、
ただやたらに忙しく動き廻っている群集があるだけだった」

「昔、美しい風景の島国があったと、
今ではものの本に書いてあるだけである」
と、「ある美しかった国の物語」を閉じている。

それから、半世紀たった。
「ある美しかった国の物語」の続編はつぎにようになるだろう。
「経済のすさまじい膨張は、バブルがはじけると、しぼんでしまった。
世界のヒノキ舞台で、主役を演じてきたが、その座からすべり落ちた。
『日いずる国』と、もてはやされた主役の座は、30年だった」

「つぎの主役は、中国が演じるようだ。
アメリカやEUを訪れた中国の要人は、世界の発展のためには、
互いの協調が必要であると、大いに歓迎され、もてはやされている」

「島国の決定的打撃は、2011年3月11日に起きた。
東日本大震災原発事故である。
トヨタ、ホンダ、キャノンでもうけた金は、
箱物、道路、ダム、そして原発に注いできた。
それでも物足らずに、赤字国債を発行して、
ムダな箱物を造り続けてきた。国力は低下した」

「赤字国債のツケは、つぎの世代にバトンタッチされる。
膨大な赤字国債は、つぎの世代では返済しきれない。
さらに、つぎの世代までかかりそうだ。
原発の廃炉には、半世紀かかる。
廃炉には、国民の税金を使う」

「昔、美しい風景の島国があったと、
ものの本に書いてあったが、
原爆ドーム原発の廃炉が、
記念碑のように残されていた。
人々は、汚染された土地で、
汚染された空気にさらされて、
健康障害におびえながら暮らしていた」

これは、笑えない。
日本人がやってきたことだ。
日本は、どこぞの大国の植民地で、
宗主国の命令に従って、やってきたのではない。

東山魁夷と川端康成の叫び、警告、
「日本人は、なにをしているのだ!」
「早く眼を覚ませ!」
を、半世紀も無視してきた。

東山魁夷がいた「年暮る」(1968年)、
東山魁夷がいた「遠い京都」と、
「ある美しかった国の物語」(1969年)、
「京都は、特色のない地方都市になり下がるように努力している」
「美しい自然や建築や町の風致を破棄することに、全力を挙げている」

それに、川端康成がいた、「都のすがた――とどめおかまし」(1969年)、
「京都は今描いていただかないとなくなります。
京都のあるうちに描いておいて下さい」、
「看都満眼の涙」は、
「日本人が、京都の町並みを壊している」
と、悲痛の叫びをあげていた。

東山魁夷と川端康成の悲痛の叫びと警告。
「伝統文化と発展を、調和させることができなかった」
「手遅れだが、再生を考えよう」
2011年3月11日は、日本人の眼を覚まさせた。
そして、最後の機会が与えられた。
ポスト2011年3月11日は、変革するのか?
日本人は、試されている。
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御神渡りの神事

2012-02-12 00:02:12 | Weblog
諏訪湖に「御神渡り」(おみわたり)ができた。2012年2月5日。

「御神渡り」は、男の神が、女の神に逢いに行く道である。
「御神渡り」は、対岸の下諏訪に向かっている。
多くの人が「御神渡り」を見に来る。
大人も子どもも、遠方からも。

そして、「御神渡り」の「神事」、「拝観式」が行われた。2012年2月6日。

信濃毎日新聞から。

八剣神社」(やつるぎじんじゃ)の宮司によって、
「御神渡り」の方位が決定され、
年占い」が行われた。
「世相は厳しい中だが、明るい兆しが見える」
「農作物の作柄は中の上」

「御神渡り」ができるまでは、ヤキモキした。
「御神渡り」は、諏訪の関心事である。

この冬は、寒い。
せっかく寒いのだから?
「御神渡り」ができてほしい。
マイナス10℃は、我慢するから。
「御神渡り」ができれば、4年ぶりになる。

諏訪の気温は、1月29日と1月30日は、マイナス11.3℃。
1月31日は、マイナス9.3℃だった。
これは期待ができる。

諏訪湖は全面結氷していた。2012年1月31日。

下諏訪から、対岸の上諏訪と富士山を眺める。

全面結氷したのだから、
「御神渡り」への期待は、いっそう高まった。
氷はまだ薄い。あとは、雪よ、降るな! もっと、寒くなれ!

雪が降れば、氷が隠れてしまう。
日中の気温が上がれば、氷が融ける。
強風が吹けば、氷が割れて、岸に寄せられてしまう。

2月1日はマイナス8.8℃、2月2日はマイナス8.0℃。
真冬日よ、続いてくれ! 2月3日はマイナス13.9℃。よ~し!

「御神渡り」の卵が、左から右へ走る。もうひといき。
上諏訪から、対岸の下諏訪を眺める。2012年2月3日。

2月4日はマイナス9.1℃。
アジアからのお客さんも、氷上でうれしそうだ。

左から右に走る小さい「御神渡り」をバックに写真。上諏訪沖で、対岸は岡谷。

そして、「御神渡り」ができた。

「御神渡り」は、対岸の下諏訪にある女神、
諏訪大社の下社の方向に走っている。

①は諏訪大社、下社の秋宮。
②は諏訪大社、下社の春宮。
下にかかげた「御神渡り」の図、③から撮影。

「御神渡り」の図。信濃毎日新聞から。

諏訪湖をはさんで、南に諏訪大社、上社の本宮と前宮、
北に諏訪大社、下社の秋宮と春宮がある。
「八剣神社」(やつるぎじんじゃ)は諏訪湖の南、1.5キロにある。

「御神渡り」の神事を行う「八剣神社」によって、
一之御渡り(いちのみわたり)、
二之御渡り(にのみわたり)、
佐久之御渡り(さくのみわたり)、
が認定された。

「御神渡り」の最古の公式記録は、
約610年前の室町時代(1397年)で、
諏訪大社が幕府へ報告している。

「八剣神社」。


「八剣神社」には、「八剣神社御由緒」がある。

「諏訪湖の御渡(みわた)り拝観という特殊神事を守りつたえてきた」

「御神渡り」(おみわたり)と、広くいわれているが、
「八剣神社」では「御渡り」(みわたり)といっている。

「諏訪の七不思議の第一にあげられる『諏訪湖の御渡り」は、
諏訪明神が氷の上を渡られた跡といわれ、御渡りができれば、
氷上を人馬が渡っても危険でないとされてきた。
当社には天和三年(1683)以降の御渡り拝観の記録、
御渡り帳』が伝わり、今日まで書き継がれている」

「御渡り帳」の現物は、諏訪市博物館にある。

諏訪市博物館は、「御神渡り」の図でA、
諏訪大社、上社の本宮の前になる。

御渡帳」は左上。

「御渡り帳」は、1683年から約330年の、
「御神渡り」の神事と、
豊作か凶作かの「年占い」が書かれている。

右の3冊は、「当社神幸記」(とうしゃしんこうき)。
「当社神幸記」は1443年から1681年まで、
240年間の「御渡神事」(みわたりしんじ)が記載されている。
240年間の気候変動がわかる、貴重なものである。

右下に、「当社神幸記」が開いてある。
右のページは、1448年12月9日の「御神渡り」の神事、
左のページは、1449年11月24日の「御神渡り」の神事で、
大祝家(おおほりけ)が、奉行所に報告している。
このときの「御渡神事」は、
諏訪大社、上社の大祝家(おおほりけ)の恒例行事であった。

それに、560年前の、昔は寒かった。
1448年は、12月9日に「御神渡り」ができた。
1449年は、11月24日に「御神渡り」ができた。
年末には、真冬日が続いていたことがわかる。
年末に、それも11月下旬や、12月初旬に、
「御神渡り」ができることは、今では考えられない。

右ページの最後には、その年の「できごと」を、書き加えてある。
「明くる年の4月29日、乱世になり下宮(下社?)が焼失した」
「8月24日、塩尻で合戦があり、数えきれない死者がでた・・・」

なお、「当社神幸記」の開いたページを読まれる方は、
拡大した写真を最後に載せておきました。

「御神渡り」の神事、「年占い」は、
「御渡り帳」の330年の記録を見て占う。
「御神渡り」の神事は、
諏訪大社の上社と気象庁に報告される。

「御神渡り」は氷の膨張によるせり上がり。
諏訪湖沿いに住む人は、「御神渡り」ができるときに、
大音響を聞いたそうだ。昔の「御神渡り」は大きかった。

「御神渡り」の音は、諏訪市博物館へ行けばいい。
アーチをくぐると、

最初に氷にヒビが入る音、
次に、氷がわれはじめる音、
最後は、氷が裂けるときの大きな音がする。

ビシッ、ビシッ、メキッ、ゴゥッー、
怖いような、なんとも、神秘的な音だった。
そして、裂け目に氷が盛り上げってきて、
氷の山脈、「御神渡り」ができる。

「御神渡り」は、諏訪大社、上社の男神が、
諏訪大社、下社の女神に逢いに行くである。
男神は、建御名方命(タテミナカタノミコト)、
女神は、八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)。

「御神渡り」と八ヶ岳。「御神渡り」の図、③から撮影。

対岸は上諏訪。男神、諏訪大社の上社は右奥方向になる。

2012年の「年占い」、
「世相は厳しい中だが、明るい兆しが見える」
「農作物の作柄は中の上」
が、あたってほしい。

「当社神幸記」。

この原文は読めなかった。
左にあった活字体の説明は、どうやら読めた。
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三内丸山遺跡のなぞ

2012-02-05 00:12:05 | Weblog
三内丸山(さんないまるやま)遺跡」のなぞ
三内丸山遺跡のシンボルである「六本柱」は、なんのため?

「六本柱」は、屋根のない3層構造の「建物」として復元してある。
右の雪の小山は、「大型竪穴住居」の復元。

三内丸山遺跡の雪は深い! 雪の壁の間を歩く。
雪の壁は、ボランティア・ガイドの肩まである。

三内丸山遺跡へは、新青森駅からシャトルdeルートバス「ねぶたん号」で9分。200円。

左は、三内丸山遺跡のシンボル「六本柱」を5本にした時計。新青森駅。2012年1月。

「ねぶたん号」の乗客は、
運転免許センターへ行く人と2人。
それに、女性ガイドさんが添乗した。

女性ガイドさんは、
三内丸山遺跡や、青森を説明してくれる。

iPadを操作しながら、
三内丸山遺跡の「縄文シアター」では、
6分の「遙かなるまほろばへのいざない」と、
15分の「クリの木の国・三内丸山縄文集落」のビデオがあるから、
最初に見れば、三内丸山遺跡の概要がわかること、
青森の積雪は、市内で116センチ、
それに、真冬日で、
最低気温はマイナス10℃、
最高気温はマイナス3℃であること、
を、すぐに調べてくれた。

そして、三内丸山遺跡のレストランには、
「栗が入ったソフトクリーム(栗夢)があります」
「ほかには、『縄文けの汁』があります」

「『縄文けの汁』には、
どんぐりと栗入りの『すいとん』が入っています」
と、iPadの画面で見せてくれた。

「うまそう!」
「縄文けの汁」とは、青森らしい。
それに、地ビール「縄文の癒」でいこう。

三内丸山遺跡の手前のバス停は、青森県立美術館。
青森が誇る偉大な板画家、
棟方志功の作品が展示されているという。

名古屋の愛知県美術館の企画展「棟方志功展」(2011年)で、
「釈迦十大弟子」を見ることができたから、今回はパス。
三内丸山遺跡に到着するまでの、
9分のうれしいガイド、ありがとうございました。

三内丸山遺跡の案内施設「縄文時遊館」は広い。2010年7月オープン。
観光地のショッピング・モールを、思い浮かべればいい。
ガラス張りの建物には、いろいろな部屋がある。
展示室の「さんまるミュージアム」のほかに、
ミュージアム・ショップ、
体験工房、
「れすとらん五千年の星」、
みやげ物や「北彩館」、
それに、受付と広いロビー。

100人の椅子がある「縄文シアター」で、
女性ガイドさんから紹介されたビデオを2本見て、
三内丸山遺跡の概要を知った。お客は一人だった。

空調は快適で、外の厳しい寒さを忘れさせる。
「さんまるミュージアム」は、解説員による説明があり、
館外の遺跡は、ボランティア・ガイドによるツァーがある。

しかも、「縄文時遊館」の入館料はタダ。
青森県は、財政が豊かだと思う。

信州の「縄文館」には、
暖房設備がないところがあって、
「古い建物で、すみません」
急遽、家庭用の石油ストーブを点けてくれた。

気持ちはうれしいが、
広い館内に暖は届かない。
吐く息が白い。
音声ガイドで見学する。
鼻水がでてきた。久しぶりだ。

三内丸山遺跡は、観光をメインにしている。
となりの青森県立美術館で棟方志功を見るという、
青森の観光ルートに組み込んで、観光バスを呼び込む。

100人の椅子がある「縄文シアター」で概要を知らせ、
解説員のガイドで、
展示室「さんまるミュージアム」の土器、土偶を見学し、
ボランティア・ガイドによって、
公園のように整備された遺跡を見学したあとは、
「れすとらん五千年の星」で食事をしてもらう。
「縄文けの汁」があるし、「ソフトクリーム(栗夢)」がある。
最後に、みやげ物や「北彩館」で、
「縄文せんべい」、「縄文かりんとう」、
地ビール「縄文の癒」などのオリジナル・グッズや、
青森の名産品を買ってもらう。

これに対して、信州の「縄文館」は、
調査、見学をメインにしている。
観光ルートに組み込まれてはいない、
ガイドは予約する、
レストランはない、
みやげ物やはない、
縄文せんべいもない、
暖房のないところもある。

観光をメインにするのか?
調査、見学をメインにするのか? の対照を見た。
三内丸山遺跡は、青森の観光コースに組み入れて、
訪れる観光客を多くしているから、
縄文時代を広める効果がある。

展示室「さんまるミュージアム」の目玉は、重要文化財「大型板状土偶」。

縄文時代中期。

重要文化財「深鉢形(ふかばちがた)土器」。

縄文時代前期(左)と中期。

交易の広さを示す展示があって、
黒曜石から作ったやじり、「石鏃」が、
はるばる、信州の霧ヶ峰から運ばれてきた。

「やじり」は、狩猟生活には欠かせない、矢の先になる。

「やじり」を見ていると、
女性の解説員が近寄って、説明してくれる。
「『やじり』は霧ヶ峰から海路で運ばれてきました。
陸路はまだできていませんでした。それに危険でした」
信州の真ん中、霧ヶ峰から海に出るまでも大変だ。
遠路はるばる、よく運んできたものだ。

定時にボランティア・ガイドによる遺跡ツァーがある。
集合場所のロビーに行ってみると、
お客は、一人だった。

外は、シバレル! それに、
曇り空は、気が向けば吹雪く。
ガイドさんには気の毒な天気だ。

長靴を貸してくれるが、
冬の靴をはいていたので、だいじょうぶ。

案内板は雪に埋まりそう。雪は、150センチはありそうだ。

「縄文時代前期から中期(約5,500年前~約4,000年前)にかけての、
多くの貴重な遺構群や多量の遺物が発見され、日本考古学史上例を見ない、
巨大な縄文時代集落であることが明らかになりました」

「10数棟の大型住居跡、100棟を超える掘立柱建物跡、
多量の遺物が廃棄された泥炭層、約1,000年にもわたって、
土器や土などが捨てられ続けて小山のようになった盛土遺構、
さらには約880基にもおよぶ子供の墓などが発見されています」
とある。

三内丸山遺跡は「大きい」、「多い」、「長い」が特徴である。
大きい」は、「六本柱」に代表され、
多い」は、大量の土器や土偶が出土し、
長い」は、約1,500年も続いたことである。

その「六本柱」の復元にあたっては、
学者さんから、いろいろな意見が出た、
と、ガイドさんは言う。

「祭殿、神殿のような高床建物とか、
物見櫓(ものみやぐら)で、むつ湾の船を見たとか・・・」

「屋根を乗せれば、佐賀県の吉野ヶ里(よしのがり)遺跡と、
同じになってしまう。吉野ヶ里遺跡は弥生時代だが、
三内丸山遺跡は、それより古い縄文時代だから、
屋根は乗せなかった」
「高さは吉野ヶ里遺跡よりも2メートル高くした」

「吉野ヶ里遺跡でも、建物として復元することには、
根拠がないとして、強い反対があった」

「クリの木は、ロシアから輸入した。
日本には、太くてまっすぐなクリの木がないから」

「六本柱」の現物。

展示室「さんまるミュージアム」で。

吹雪くと、視界が悪くなる。2012年1月。

ガイドさんは、たった一人の観光客のために、
およそ1時間も遺跡を案内してくれた。
冬は観光客が少ないという。

吹雪が止んで、なんと、晴れ間が出た。
この晴れ間に、写真を撮ることができた。2012年1月。

三内丸山遺跡の雪景色。旧展示館の屋根から。

左から復元した「六本柱」、復元した「大型竪穴住居」、
3棟の「掘建柱建物」、右に「竪穴住居」と「南盛土(みなみもりど)」。
「六本柱」の左奥の建物は、運転免許センター。

そして、だ~れもいない!

「このアングルで撮った唯一の写真です。
もう二度とあるかないかの北国の雪で、
目の覚めるような写真です」
と、ガイドさんから言われた。

うれしくなるじゃないか。
地元の人にも珍しい写真が撮れた。

さて、「三内丸山遺跡」のなぞ。
三内丸山遺跡のシンボル「六本柱」は、なんのため?

ガイドさんに、の方角を聞いた。
「あちらです」
と、ガイドさんは北を指し示した。
「六本柱」は、北東を向いていることになる。

「六本柱を見て、方角を聞いたのは、
あなたが初めてです」
そして、ガイドさんは、説明された。
冬至には、3本の柱の列の間を、
夕陽が、だんだんと沈んでいきます」

「六本柱」の写真を最初に載せたが、
夕陽は、この「六本柱」の右に沈んでいく。
影を見てください。時間は午後2時近く。
「六本柱」の右は、明るく照らされている。

夏至には、3本の柱の列の間から、
朝日が、昇ってきます」

「六本柱」の写真では、
左から太陽が昇ってくる。

夏至には、3本の柱の列の間から太陽が昇り、
冬至には、3本の柱の列の間に夕陽が沈むとは、
ワクワクするじゃないか!

「縄文時遊館」のミュージアム・ショップで本を買った。
「世界遺産 縄文遺跡」、小林達雄編著。同成社。

「六本柱は大形建物の柱組みではない」と書いてある。

「六本柱はただに6本の巨木柱が天を衝いて立つというだけでなく、
その等間隔の配置が作り出す図形には縄文人の二至二分の原理を、
心得た上での巧みなカラクリがこめられていたのである。
これを大形建物の柱組みと見倣すのは、
縄文人の知、縄文人の世界観を否定する誤りを犯すことになる」

小林達雄 国学院大学教授は、
復元した「六本柱」について、
デーリー東北新聞社のOnline Serviceで、
つぎのように言われている。
「床を三層も張った、見るも無残な姿をしている。
どうにか屋根だけは取れたが、床を張るなんてとんでもない。
縄文人の心を踏みにじるものだ、今のままでは困る」

「六本柱」は、
祭殿、神殿のような高床建物や、物見櫓ではない。
復元は、屋根がないのに、床がある中途半端なものになっている。
これらは、縄文人の知、縄文人の世界観を否定する誤りだ、としている。

小林達雄さんは、さらに、
「六本柱」は、「諏訪大社御柱のような信仰の対象」
と、主張されている。

小林達雄さんは、三内丸山遺跡を中心とした世界遺産登録の、
「縄文遺跡群世界遺産登録推進専門家委員会」の委員として、
「六本柱」は、
「縄文人の知」であり、
「祭祀」のモニュメント、
であることを、方向づけられた。

梅原猛、新潟県十日町市博物館名誉館長は、
「御柱」について、つぎのように言われている。
「柱は天と地を結ぶもの、神が柱を下って人間のところへやってきて、
人間も柱を上がって神のところへ行く。
柱はそういう天と地、神と人間を媒介するものであると思います」

「柱の遺跡が、諏訪神社の6年に一回、巨大な柱を建てる儀式や、
20年に一回、お遷宮をする伊勢神宮の神事と結び付いているに違いない、
と思います」

「六本柱」は「縄文人の知」である。
それに、太くてまっすぐなクリの木を切り出し、
曳いてきて、建てるのは、まるで諏訪大社の御柱だ。

最後に、ボランティアのガイドさん、
凍てつく中を説明していただきました。
おかげで、いい写真が撮れました。
ありがとうございました。

それに、「三内丸山遺跡」のなぞ。
三内丸山遺跡のシンボル「六本柱」は、なんのため? は、
「縄文人の」であり、
祭祀」のモニュメント、
であることがわかりました。

大雪と厳寒の中、体は冷え切ったが、
「三内丸山遺跡」へ来たかいがありました。

さて仕上げは、「れすとらん五千年の星」で、
「縄文けの汁」と地ビール「縄文の癒」でいこう!
しかし、レストランは「飲み物だけになります」。
昼飯をスキップして見学していて、夕方になってしまった。
それに、お客さんがいないから、レストランは食事の提供を止めた。

ホテルから外を見ると、振り続ける雪に、
除雪車と、雪を満載したダンプカーが、
一晩中、格闘していた。青森市内。

ブルドーザー。うしろにもブルドーザーのブレードが見える。

青森らしい大雪と厳しい寒さを見た。
だ~れもいない冬の三内丸山遺跡、いい思い出だ。

「縄文けの汁」にはありつけなかったが、
青森の酒「じょっぱり」にはありつけた。

雪の上で撮った。

「じょっぱり」は、うめかったぁ!
クイクイと進んだが、2日酔いしなかった。なんして?
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