東山魁夷は信州の安曇野(あずみの)へ旅している。
左から井上靖、川端康成、東山魁夷の3人の巨頭が、
安曇野に会した。長峰(ながみね)山で、1970年5月12日。
どんな「魔法」を使って、安曇野に、
3巨頭を、お呼びしたのだろうか?
「きっかけ」は、なんだったんだろう?
そのわけを、「文」で知ろうと思った。
それに、安曇野に、
どんな感想を持たれたのか? も。
横浜生まれの、神戸育ちだった東山魁夷の、
信州との「巡り合い」は、18歳である。
東京美術学校(現在の東京藝術大学)1年の夏に、
10日間のテント旅行で、信州の木曽を訪れ、御嶽山に登った。
霧ヶ峰から望む冬の御嶽山。
東山魁夷には、初めて接する山国の厳しい自然だった。
そして、雨にあって、見知らぬ村人に泊めてもらっている。
人々の生活に深い感動を受け、
自然の深さにひかれて、東山魁夷は、
「風景画家」を志すことになる。
東山魁夷は、信州を多く描いている。
蓼科、八ヶ岳、野尻湖、上高地、奥穂高、
志賀高原、軽井沢、安曇、乗鞍、木曽・・・。
「緑響く」。奥蓼科。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/47/4d98c27204132fa09d1ada988a0bf60b.jpg)
東山魁夷館所蔵。絵はがきから。
東山魁夷は、育ててくれた「故郷」信州に、
500点の作品と図書を寄贈された。
これがきっかけで、東山魁夷の美術館、
「東山魁夷館」が長野市にできた(1990年)。
善光寺の近くにある「信濃美術館」のとなりである。
「東山魁夷館」。
「信濃美術館」はこの右手前にあって、レストランでつながっている。
いま、東山魁夷は、「東山魁夷館」を望む善光寺の霊園に眠っている。
東山魁夷と川端康成の親交は厚かった。
川端康成は、東山魁夷に進言している。
「京都は、今描いていただかないと、なくなります。
京都のあるうちに、描いておいてください」
そして、東山魁夷は「京洛四季」を描かれたが、
川端康成がノーベル賞を受賞されたお祝いに、
「京洛四季」の一つである「北山初雪」を、
川端康成に贈られている(1968年)。
「北山初雪」。
「現代日本の美術」、「東山魁夷」。集英社、1976年発行から。
東山魁夷の著書、「東山魁夷画文集」を偶然に、
松本の古本屋、「青翰堂」(せいかんどう)で見つけた。
「東山魁夷画文集」の第5巻、「美の訪れ」の中に、
「安曇野への旅」という章と、
「井上靖さんと私」という章があった。
「安曇野への旅」。
「『まことに唐突ながら御誘い申上げます』
という書き出しで、川端康成先生から、
信州穂高行きの勧誘のお手紙を戴いたのは、
昭和四十五年四月半ばのことであった」
と、「安曇野への旅」をはじめている。
やったぁ!
と思った。
3巨頭が一堂に会した「文」を見つけた!
「その手紙には、井上靖さんご夫妻と御一緒に、
ということが書き添えられていたので、
私の喜びはいっそう大きかった」
「穂高町が山麓一帯を開発するに当って、
自然保護の立場から川端先生に相談を持ちかけて来たが、
写真などを見ると美しい景観の土地であるから、
五月に現地に見に行かれる時に、
私達も一緒にというお誘いであった」
「穂高町での二泊の旅は、幸いに晴天に恵まれ、
楽しい想い出となった」
「その二年後に川端先生が急逝されているので、
あの旅のことは、今も心に深く刻み込まれている」
「私達は町の東方の小高い丘の上に立って、
雄大な景観を飽かずに眺めた」
(東方の小高い丘は、長峰山)
「五月の新緑の若緑に蔽われた安曇野(あずみの)を、
上高地から流れ出る梓川が高瀬川と合流し、
犀川となって北に流れる。
平野の西を塞いで高く連なる残雪の山々を、
常念、東天井、大天井、燕(つばくろ)と、
案内の人が指し示す」
「わさび田を流れる清冽な水と、
ポプラやアカシヤの並木が美しかった」
清冽な水、「蓼川」(たでがわ)とスケッチをする人。大王わさび農場で。
「明治の優れた彫刻家、荻原守衛の作品を蒐めた碌山美術館を訪れ、
三十二歳で世を去ったこの人の才能を惜しんだ」
「碌山(ろくざん)美術館」。
「穂高神社、小岩岳城址、松尾寺、
渓流の傍での昼食と、思い出は尽きない・・・」
と書かれていた。
つぎに、「井上靖さんと私」。
「ここに一枚の写真がある。
残雪の輝くアルプスを背景にして、
緑の安曇野(あずみの)を見下す高台に、
川端康成先生と、井上さんと私の三人が立っている」
「四十五年の五月に川端先生の誘いで、
それぞれ夫妻同伴で長野県安曇野へ、
旅したときのものである」
これで、東山魁夷の安曇野への旅は、
川端康成のお誘いであったことがはっきりした。
川端康成のご夫妻と、東山魁夷ご夫妻、井上靖ご夫妻が、
安曇野に一堂に会したのである。
こうなると、川端康成からの、
「まことに唐突ながら御誘い申上げます」
という「手紙」を探したくなる。
それに、安曇野へ旅したときの、
「ここに一枚の写真がある」も探したい。
「川端康成と東山魁夷 響きあう美の世界」がある。
求龍堂、2006年発行。
「川端康成と東山魁夷 響きあう美の世界」に、
川端康成からの「手紙」と、
安曇野で撮った「写真」があった。
「ここに一枚の写真がある」は、
最初に載せた3巨頭の写真である。
長峰山から安曇野とアルプスを眺めた。
川端康成から東山魁夷への「手紙」は、つぎである。
「拝啓、まことに唐突ながら御誘い申上げます。
先日信州穂高町の町長その他が、
鎌倉市長の案内で拙宅に見え、
穂高山麓の一帯を、自然をよく保存しながら開発したい計画で、
私にその相談に乗れとのことでした」
「その人達は自然保全の真の願望を持ち、法人組織とするようです。
それで私は五月に現地を見に参る事にいたしました」
「多くの写真などを見ますと余りに美しいので、
御誘い申上げたく存じました」
「家内も参ります。
奥様もごいっしょに御越し下さると楽しい事と存じます。
ほかに井上靖氏御夫妻を誘います。
五月十二日、十三日の予定です。
四月十五日 川端康成
東山魁夷様」
どんな「魔法」を使って、
3巨頭を、安曇野にお呼びしたのだろうか?
「きっかけ」は、なんだったんだろう?
は、これでわかった。
穂高町(現在の安曇野市)が穂高山麓を開発するにあたり、
自然保護にお考えがある川端康成に助言を仰いだ。
川端康成は、東山魁夷と井上靖に、
安曇野訪問の、お誘いの手紙を送った。
それで、3巨頭はご夫妻で安曇野に会した。
長峰山には、東山魁夷の「安曇野を想う」の碑がある。
碑の写真を撮っている。
東山魁夷の「安曇野を想う」の碑には、つぎのように刻まれている。
安曇野を想う
東山魁夷
五月の若緑に蔽われた安曇野はなんと美しかったことか
上高地から流れ出る梓川が高瀬川と合流し
犀川となって北に流れる平野の上に高く連なる北アルプスの山々
常念、東天井、燕と
長峰山の上で案内人の指し示す残雪の嶺々を仰ぎながら
飽かず眺めたひとときが忘れられない
長峰山から、安曇野と朝焼けの北アルプス。2011年11月。
左のピラミッド型が常念岳、右の赤い三角が横通岳(よこどおしだけ)、
東天井岳(ひがしてんしょだけ)、中央の大天井岳(おてんしょだけ)をへて、
右端の燕岳(つばくろだけ)へと連なる。
燕岳の手前の富士山型は、有明山(ありあけさん)。
ふもとは安曇野。
長峰山から、北アルプスの続き。2011年11月。
左から鹿島槍ヶ岳、五竜岳(ごりゅうだけ)、唐松岳(からまつだけ)、そして、
白馬三山(しろうまさんざん)の白馬鑓ケ岳(はくばやりがたけ)、
杓子岳(しゃくしだけ)、白馬岳(しろうまだけ)が連なる。
そして、文豪と画伯の安曇野の感想は?
「残したい 静けさ 美しさ」、川端康成。
「安曇野は、なんと美しかったことか」、東山魁夷。
(敬称を省略しました)
3巨頭が安曇野に参集したことは、
前に、似たような記載があったことに、
気がつかれた読者もいるかと思います。
それは、つぎです。
「東山魁夷、川端康成、井上靖の安曇野」、2011年11月27日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/e0ec23bbd5be088a697624dd222d06bc
「東山魁夷の『安曇野を想う』」、2011年12月4日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/6b4d0e185dffac26dde0160f895e6f31
3巨頭が安曇野に一堂に会した「写真」を、
JR明科(あかしな)駅で見つけた。
それから、歩き回って調べた。
3巨頭が一堂に会した「わけ」を知りたくて。
JR明科(あかしな)駅のほかに、
つぎにも行って、聞いたり、調べた。
明科の保養センター「長峰荘」、
長峰山にある宿舎「天平の森」、
「明科高校」。
そして、何度か「長峰山」へ登った。
まだ、「文」にたどり着く前のブログです。
3巨頭が一堂に会した「わけ」のほかに、
「ツェルマットの景観」、
「電線の埋設率の国際比較」と、
「景観」、「電線の埋設率」も書きました。
参照していただければ、と思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/37/f8d7b2a0a7d64ddf15b095f0c605fd26.jpg)
左から井上靖、川端康成、東山魁夷の3人の巨頭が、
安曇野に会した。長峰(ながみね)山で、1970年5月12日。
どんな「魔法」を使って、安曇野に、
3巨頭を、お呼びしたのだろうか?
「きっかけ」は、なんだったんだろう?
そのわけを、「文」で知ろうと思った。
それに、安曇野に、
どんな感想を持たれたのか? も。
横浜生まれの、神戸育ちだった東山魁夷の、
信州との「巡り合い」は、18歳である。
東京美術学校(現在の東京藝術大学)1年の夏に、
10日間のテント旅行で、信州の木曽を訪れ、御嶽山に登った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/55/f13532c370b5f3d69a1f5520780bd3b7.jpg)
霧ヶ峰から望む冬の御嶽山。
東山魁夷には、初めて接する山国の厳しい自然だった。
そして、雨にあって、見知らぬ村人に泊めてもらっている。
人々の生活に深い感動を受け、
自然の深さにひかれて、東山魁夷は、
「風景画家」を志すことになる。
東山魁夷は、信州を多く描いている。
蓼科、八ヶ岳、野尻湖、上高地、奥穂高、
志賀高原、軽井沢、安曇、乗鞍、木曽・・・。
「緑響く」。奥蓼科。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/47/4d98c27204132fa09d1ada988a0bf60b.jpg)
東山魁夷館所蔵。絵はがきから。
東山魁夷は、育ててくれた「故郷」信州に、
500点の作品と図書を寄贈された。
これがきっかけで、東山魁夷の美術館、
「東山魁夷館」が長野市にできた(1990年)。
善光寺の近くにある「信濃美術館」のとなりである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/a7/21a5b327ea4ddce712be9b7a5c429668.jpg)
「東山魁夷館」。
「信濃美術館」はこの右手前にあって、レストランでつながっている。
いま、東山魁夷は、「東山魁夷館」を望む善光寺の霊園に眠っている。
東山魁夷と川端康成の親交は厚かった。
川端康成は、東山魁夷に進言している。
「京都は、今描いていただかないと、なくなります。
京都のあるうちに、描いておいてください」
そして、東山魁夷は「京洛四季」を描かれたが、
川端康成がノーベル賞を受賞されたお祝いに、
「京洛四季」の一つである「北山初雪」を、
川端康成に贈られている(1968年)。
「北山初雪」。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/32/e910b8b09eb066a19d5d1f50804686c1.jpg)
「現代日本の美術」、「東山魁夷」。集英社、1976年発行から。
東山魁夷の著書、「東山魁夷画文集」を偶然に、
松本の古本屋、「青翰堂」(せいかんどう)で見つけた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/b3/ecd9b4e5bba91301d6975f418f231b89.jpg)
「東山魁夷画文集」の第5巻、「美の訪れ」の中に、
「安曇野への旅」という章と、
「井上靖さんと私」という章があった。
「安曇野への旅」。
「『まことに唐突ながら御誘い申上げます』
という書き出しで、川端康成先生から、
信州穂高行きの勧誘のお手紙を戴いたのは、
昭和四十五年四月半ばのことであった」
と、「安曇野への旅」をはじめている。
やったぁ!
と思った。
3巨頭が一堂に会した「文」を見つけた!
「その手紙には、井上靖さんご夫妻と御一緒に、
ということが書き添えられていたので、
私の喜びはいっそう大きかった」
「穂高町が山麓一帯を開発するに当って、
自然保護の立場から川端先生に相談を持ちかけて来たが、
写真などを見ると美しい景観の土地であるから、
五月に現地に見に行かれる時に、
私達も一緒にというお誘いであった」
「穂高町での二泊の旅は、幸いに晴天に恵まれ、
楽しい想い出となった」
「その二年後に川端先生が急逝されているので、
あの旅のことは、今も心に深く刻み込まれている」
「私達は町の東方の小高い丘の上に立って、
雄大な景観を飽かずに眺めた」
(東方の小高い丘は、長峰山)
「五月の新緑の若緑に蔽われた安曇野(あずみの)を、
上高地から流れ出る梓川が高瀬川と合流し、
犀川となって北に流れる。
平野の西を塞いで高く連なる残雪の山々を、
常念、東天井、大天井、燕(つばくろ)と、
案内の人が指し示す」
「わさび田を流れる清冽な水と、
ポプラやアカシヤの並木が美しかった」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/82/04ffa391813e5633b5ca3b09a767a138.jpg)
清冽な水、「蓼川」(たでがわ)とスケッチをする人。大王わさび農場で。
「明治の優れた彫刻家、荻原守衛の作品を蒐めた碌山美術館を訪れ、
三十二歳で世を去ったこの人の才能を惜しんだ」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/02/7d3f3127f3482d333a233977979f9c7b.jpg)
「碌山(ろくざん)美術館」。
「穂高神社、小岩岳城址、松尾寺、
渓流の傍での昼食と、思い出は尽きない・・・」
と書かれていた。
つぎに、「井上靖さんと私」。
「ここに一枚の写真がある。
残雪の輝くアルプスを背景にして、
緑の安曇野(あずみの)を見下す高台に、
川端康成先生と、井上さんと私の三人が立っている」
「四十五年の五月に川端先生の誘いで、
それぞれ夫妻同伴で長野県安曇野へ、
旅したときのものである」
これで、東山魁夷の安曇野への旅は、
川端康成のお誘いであったことがはっきりした。
川端康成のご夫妻と、東山魁夷ご夫妻、井上靖ご夫妻が、
安曇野に一堂に会したのである。
こうなると、川端康成からの、
「まことに唐突ながら御誘い申上げます」
という「手紙」を探したくなる。
それに、安曇野へ旅したときの、
「ここに一枚の写真がある」も探したい。
「川端康成と東山魁夷 響きあう美の世界」がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/ef/ac47e92b0ed3e1b221c3c9321b01a6f2.jpg)
求龍堂、2006年発行。
「川端康成と東山魁夷 響きあう美の世界」に、
川端康成からの「手紙」と、
安曇野で撮った「写真」があった。
「ここに一枚の写真がある」は、
最初に載せた3巨頭の写真である。
長峰山から安曇野とアルプスを眺めた。
川端康成から東山魁夷への「手紙」は、つぎである。
「拝啓、まことに唐突ながら御誘い申上げます。
先日信州穂高町の町長その他が、
鎌倉市長の案内で拙宅に見え、
穂高山麓の一帯を、自然をよく保存しながら開発したい計画で、
私にその相談に乗れとのことでした」
「その人達は自然保全の真の願望を持ち、法人組織とするようです。
それで私は五月に現地を見に参る事にいたしました」
「多くの写真などを見ますと余りに美しいので、
御誘い申上げたく存じました」
「家内も参ります。
奥様もごいっしょに御越し下さると楽しい事と存じます。
ほかに井上靖氏御夫妻を誘います。
五月十二日、十三日の予定です。
四月十五日 川端康成
東山魁夷様」
どんな「魔法」を使って、
3巨頭を、安曇野にお呼びしたのだろうか?
「きっかけ」は、なんだったんだろう?
は、これでわかった。
穂高町(現在の安曇野市)が穂高山麓を開発するにあたり、
自然保護にお考えがある川端康成に助言を仰いだ。
川端康成は、東山魁夷と井上靖に、
安曇野訪問の、お誘いの手紙を送った。
それで、3巨頭はご夫妻で安曇野に会した。
長峰山には、東山魁夷の「安曇野を想う」の碑がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/ce/a94370a2cd8cea8ff2fd6f89e737850d.jpg)
碑の写真を撮っている。
東山魁夷の「安曇野を想う」の碑には、つぎのように刻まれている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/29/913b4c9980c19ecd393dee3cbbf305b5.jpg)
安曇野を想う
東山魁夷
五月の若緑に蔽われた安曇野はなんと美しかったことか
上高地から流れ出る梓川が高瀬川と合流し
犀川となって北に流れる平野の上に高く連なる北アルプスの山々
常念、東天井、燕と
長峰山の上で案内人の指し示す残雪の嶺々を仰ぎながら
飽かず眺めたひとときが忘れられない
長峰山から、安曇野と朝焼けの北アルプス。2011年11月。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/8e/3e45e86cc572f201dc1d6a945f4eb389.jpg)
左のピラミッド型が常念岳、右の赤い三角が横通岳(よこどおしだけ)、
東天井岳(ひがしてんしょだけ)、中央の大天井岳(おてんしょだけ)をへて、
右端の燕岳(つばくろだけ)へと連なる。
燕岳の手前の富士山型は、有明山(ありあけさん)。
ふもとは安曇野。
長峰山から、北アルプスの続き。2011年11月。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/83/ad7e0dfe6ec811cdc5ea61e74b33eb40.jpg)
左から鹿島槍ヶ岳、五竜岳(ごりゅうだけ)、唐松岳(からまつだけ)、そして、
白馬三山(しろうまさんざん)の白馬鑓ケ岳(はくばやりがたけ)、
杓子岳(しゃくしだけ)、白馬岳(しろうまだけ)が連なる。
そして、文豪と画伯の安曇野の感想は?
「残したい 静けさ 美しさ」、川端康成。
「安曇野は、なんと美しかったことか」、東山魁夷。
(敬称を省略しました)
3巨頭が安曇野に参集したことは、
前に、似たような記載があったことに、
気がつかれた読者もいるかと思います。
それは、つぎです。
「東山魁夷、川端康成、井上靖の安曇野」、2011年11月27日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/e0ec23bbd5be088a697624dd222d06bc
「東山魁夷の『安曇野を想う』」、2011年12月4日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/6b4d0e185dffac26dde0160f895e6f31
3巨頭が安曇野に一堂に会した「写真」を、
JR明科(あかしな)駅で見つけた。
それから、歩き回って調べた。
3巨頭が一堂に会した「わけ」を知りたくて。
JR明科(あかしな)駅のほかに、
つぎにも行って、聞いたり、調べた。
明科の保養センター「長峰荘」、
長峰山にある宿舎「天平の森」、
「明科高校」。
そして、何度か「長峰山」へ登った。
まだ、「文」にたどり着く前のブログです。
3巨頭が一堂に会した「わけ」のほかに、
「ツェルマットの景観」、
「電線の埋設率の国際比較」と、
「景観」、「電線の埋設率」も書きました。
参照していただければ、と思います。