季節の変化

活動の状況

高校野球は背中が熱い

2013-07-28 00:03:20 | Weblog
高校野球背中い。
高校野球への熱い思い入れは、背中が語る
2013年夏、諏訪湖スタジアム、松本市野球場。

俺たちの夢舞台 甲子園」。

目標は定めた。

目標に向けて、ひたすらまっしぐら。
勇往邁進」。

「恐れることなく
己の目標に向かって
ひたすら邁進せよ!」
親子で共有する思い入れ。

一生野球に打ち込め。
生感動 」。

「汗にまみれ 臭くてもイイ
皆でち取れ 白球

存在で、相手をビビらせろ。
強打者」。

「存在だけで
相手をビビらせる。
勝負はそこに
立った時にはじまっている。」

字は創作した! ビビるな!
手で打つんじゃない! 木で打つんだ!

守りのこだわりを持て。
守備一貫」。

守りに対する熱意
こだわりは
誰にも負けない

新たな絆が芽生える瞬間」(左)。

信じることで生まれる絆。
」。

「自分を信じ
仲間を信じ
信じる事で
結ばれる
固い絆」

女性の背中も熱い。
蜻蛉旋風」(とんぼ)。


美しい背中

ワン・ショルダーで魅せるワ。

「美しい背中と背中」。

ペアで魅せるワ。
それに、おそろいのスカーフは、どうかしら?

我人生邁進あるのみ。
夢は己の拳で掴みとれ」。

「我人生邁進あるのみ
未来は己のみぞ知る
己の道に悔いなし」

そして、
理想の花の咲かむまで」。


高校野球にかける熱い気持ちがほとばしる、
私の背中を見てちょうだい!
俺の背中を見てくれ!
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福島市と南相馬市の放射線量

2013-07-21 00:00:05 | Weblog
福島市の放射線量と南相馬市の放射線量を測った。
福島市も南相馬市も、ズボンのポケットに、
放射線量計を入れて街を歩くと、ピッピッ鳴る。
0.50マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]を超えた!
「この場所から、すぐに退避しろ!」の警告である。

それで、立ち止まって放射線量を測った結果が、
福島市の放射線量 2011年~2013年」と、
南相馬市の放射線量 2011年~2012年」である。






南相馬市の「原ノ町駅」は、福島第一原発から北へ24キロになり、
「福島駅」は、福島第一原発から北西へ63キロになる。しかし、
上表で、福島市と南相馬市の放射線量を比べると、
大差がないように思う。距離では大きな差がでていない。

南相馬市では、たくさんの漁船が国道6号まで押し流されてきた。

鹿島駅と原ノ町駅間で。2011年6月29日。

海岸から国道6号まで3.5kキロほどある。
家も田畑も、地震と津波で破壊された。
これらの漁船は、1年後の2012年6月18日には、
取り除かれていた。

福島市と南相馬市の放射線量には大差がないが、
生活ぶりが違っていた。
南相馬市の2011年6月はひっそりとしていた。
災害ボランティア・センターのある福祉会館へは、
原ノ町の駅前通りを行くが、歩いている人がいない。
図書館」。原ノ町の駅前通り。2011年6月29日。

街を歩いているのは私だけだった。
商店のシャッターは降りていた。
開けても、お客さんがいない。

南相馬市の市民は車で移動する。
人は車の中にいて、放射線を浴びないように自衛している。
パトロール・カーが走る。警察官は、2人ともマスクをしていた。
南相馬市の放射線量が高いことは、住人も警察官も、十分知っている。

自衛隊の「災害派遣」車が走る。2011年6月29日。

奥の白い建物は南相馬市役所。

南相馬市の災害ボランティア・センターの案内を読むと、
「各自で宿泊・食事・移動手段等を確保する」ほかに、
「原発問題での知識・理解を得たうえで、現地入りしてください」
とあった。
これは、国際放射線防護委員会(ICRP)による毎時の被曝限度、
0.52マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]を、超えることを示している。

一方、福島市はマスクなし、半そで。
福島市の駅前通り。2011年9月6日。

普段の生活とかわりがないように見えた。
学童も普通に見かける。

最初に南相馬市を訪れた2011年6月から、
1年経った2012に年6月に訪れると、
街では歩いている人を見た、まばらだが。
原ノ町の駅前通りの図書館。

人が歩いている。それも、ゆうぜんと。
警戒しながら、素早く通り去るというふうではない。

でも、南相馬市内では放射線量計がピッピッ鳴り続ける。
図書館の植え込みには、人が入らないように、
ロープが張ってあった。
1年前の2011年6月にはなかったロープだ。
図書館の放射線量は、この植え込みで測った。

商店やレストランも開いていた。ちらほらと。
酒屋さんが開いていた。目についた「元気!東北」を買った。

1年前の2011年6月には、この酒屋さんは開いていなかった。
「去年は避難をしていたのですか?」
と聞いてみた。
「避難はしていなかったです」
「店は閉めていました」
と言う。

こうして、新しいビールが入っているというのは、
お客さんがもどってきているということだろう。
木陰で飲んだ「元気!東北」はうまかった!

小学校から児童の声が聞こえてきた。
原町第一小学校」。2012年6月。

外でボールを追いかけていた。

2011年6月に訪れているが、そのときはひっそりしていた。
南相馬市の市民に、いつから再開したのか? 聞いてみた。
「2011年の10月に再開しました」
「4割ほどの児童がもどった」
まだ周囲の放射線量は高いが、
南相馬市の選択である。

原町第一小学校にあった感謝の「横断幕」。2012年6月。

「自衛隊・警察・消防団・ボランティアの皆さん ありがとう!!

福島市と南相馬市は、同じような放射線量である。
それなのに、避難した人が多い南相馬市と、
避難をしていない福島市とのちがいは、
どこからくるのだろうか?
放射線量の差ではない。

最初は、つぎのように考えていた。
福島市は福島県の県庁所在地である。
県庁所在地をつぶすわけにはいかない。
福島県の崩壊になるし、日本の崩壊につながる。
それは、できない。それに、福島市民28万人を、
受け入れるところがない。

まだある。
福島市は日本の交通網の大動脈が走っている。
東北新幹線があり、東北自動車道が走っている。
福島市がなくなれば、東日本の交通網がマヒする。
交通網の大動脈をなくすわけにはいかない。

これらは、福島市をつぶせない大きな理由で、当たっているだろう。
だが、南相馬市と福島市の大きな違いは、
実際に街を歩いて気がついた。
写真を見てください。

南相馬市では、津波で漁船が流れ着き、家屋や田畑が破壊された。
福島市では、強い地震はあったが、家屋の倒壊や田畑の破壊はなかった。

南相馬市では、地震、津波で死者が650人以上出た。
福島市では、強い地震はあったが、犠牲者はでなかった。
もちろん、津波はない。

南相馬市は、地震と津波のほかに原発災害で、
強制避難、自主避難で、多くの人が避難した。
福島市では、強い地震はあったが、避難した人はいない。
それに、原発災害で避難した人もいないだろう。

南相馬市では、福島原発の爆発により、とるものも取り合えずに逃げた。
「つてを頼って、北は北海道から、南は沖縄まで、避難した」
福島市では、福島原発の爆発で避難はしなかった。

南相馬市では、行方不明者の捜索は、身内であっても、
福島第一原発から半径20キロの避難地域では、
あきらめざるを得なかった。
福島市では、地震と津波による犠牲者はいなかった。

南相馬市では、自衛隊が出動して、災害救助をした。
福島市では、災害救助に出動する自衛隊は見かけなかった。

南相馬市では、感謝の「横断幕」を見た。
福島市では、感謝の「横断幕」を見なかった。

南相馬市では、住む家、職、田畑を失い、避難した。
これまでの生活基盤、生活設計を崩された。
福島市では、住む家、職、田畑は奪われず、
これまでの生活を継続できた、除染すればいい。

家が崩壊し、田畑を失い、身内に死者が出て、
被曝を避けるために避難しなければならなかった南相馬市。
南相馬市では、新たな職を探して、生活の基盤を変えなければならない、
これは、容易なことではない。

一方、これまでの生活基盤をなんとか変えずに、
放射能による汚染は、除染で対処したい福島市。
南相馬市と福島市では、同じ放射線量でも、
避難する、避難しないの違いは、
生活基盤を変えざるを得ないか、
変えずに除染に頼ろう、
の違いに出ている。

福島市の中心街では、「除染」を進めている看板を見かける。
街なか広場」、福島市。2013年6月。

「ご迷惑をおかけします」
除染をしています
「平成25年12月20日まで」

県庁前公園」、福島市。2013年6月。

上の看板。
お知らせ
「この公園は、
除染作業が完了しました。」
(問い合わせ先)  福島市公園緑地課 TEL

下の看板。
県庁前公園 空間放射線量
測定日時 H25 5月1日(水) 午後1時00分頃
 空間線量 0.53μSv/h (地上50cmで測定)
  この数値は1時間当たりの放射線量です。(単位:マイクロシーベルト)
 福島市公園緑地課

福島第一原発の事故から2年以上たった。
福島市の除染はこの先、何十年、半世紀? の戦いが続く。
それに、何兆円、何十兆円? という巨額がかかる。

気が遠くなりそうだが、
元気!東北」で、
生きていてよかった!
耐えてよかった!
を目指している。
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福島市の放射線量2013年

2013-07-14 00:00:01 | Weblog
2013年福島市の放射線量は、
福島駅前が格段に減っていた。
2012年の福島駅前の放射線量は、
1.6マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]だった。

2012年6月19日。

それが、2013年(7月3日)には、
0.19マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]に減っていた。

2012年と比べると、が入れ替わっているのがわかる。

1.60マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]⇒、
0.19マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]へと、
格段の減少で、警告のピッピッが鳴らなくなった。

測定した福島駅前は、東口広場の案内板の下。

案内板の右には、「奥の細道」を旅する松尾芭蕉曾良の像がある。
ここは、福島市で一番人通りが多いところ。

「奥の細道」の像の周りは芝生だった。2012年6月19日。
案内板の左は花時計になる。

どうして、福島駅前で測定したのか?
それは、福島駅前を歩いていると、ポケットの、
放射線量計が、ピッピッ鳴ったからである(1912年6月19日)。
それで、案内板の下で測ると、1.60マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]だった。

国際放射線防護委員会(ICRP)は、毎時の被曝量の限度を、
0.52マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]と定めている。
年間の被曝量は、1ミリ・シーベルト[mSv]である。

毎時の被曝量については、
アメリカ軍は、さらに厳しい限度を定めている。
基地や施設で健康に問題がない被曝量を、
0.32マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]としている。

手持ちの放射線量計は、
0.50マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]を超えると、
放射線量計がピッピッ鳴るように設定しておいた。
「この場所から、すぐに退避しろ!」の警告だ。

2013年7月3日の福島駅前は、
ポケットの放射線量計がピッピッ鳴らなくなった。
奥の細道」の像の周りは除染されていた。

2012年6月19日と比べると、芝生がなくなっていた。
そして、が入れ替わっている。
測ったところは、左の案内板の下。

「奥の細道」の像や案内板の辺りは,
福島市で一番人通りが多いところ。
ここを除染したのは、いいことである。
福島のメインであり、顔である。

2012年の「福島駅前」の放射線量については、つぎのブログに書いた。
「閲覧状況2012年 放射線量シリーズ」、2012年12月02日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/992e709dca99e8db5b03fdae3333764f

福島市の放射線量 2011年~2012年


測定場所」①~⑨。

案内板「福島駅周辺施設案内」に書き入れた。

⑨「福島駅前」の放射線量は、2012年6月19日、
1.60マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]、
だったことが書いてある。

もし、このブログ「閲覧状況2012年 放射線量シリーズ」を、
目にする機会があって、⑨福島駅前を除染したのならば、
ブログが役に立ったようで、うれしい。

私の場合は、福島市の主なところや生活圏を歩き回って、
ポケットの放射線量計がピッピッ鳴ったところを測った。
ピッピッと鳴ることが驚きだった、ドキドキした・・・。

測っていると、しゃがんでのぞきこむ格好が不自然だ。
それに、ピッピッ音がするから、通りがかりの人、
散歩の人、なじみの人が寄ってくる。
そして、反応はつぎである。
「こんなに高いのですか?」
「公式の発表と違う」
「こうして、測ってくれるから助かる」

私はつぎのように応えている。
「地上で測っているから、
地上50cmや地上2mの空中の放射線量を、
測ったときの差ではないですか?」

福島市の放射線量 2011年~2013年」を示す。


最初の測定から2年たつ。
多くの場所は漸減しているが、変わらないところもある、
汚染されたところは除染をしないかぎり、大きな効果はないようだ、
ということを実感している。


2013年の個別の場所の放射線量を示す。
①「福島駅-東」、1.31マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]

一部は除染されているようだ。が除染されていないところもある。

③「福島県庁」、2.03マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]

LEDが赤く点滅しているのは、ピッピッと鳴る音とともに警告で、
0.50マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]を超えた!
「この場所から、すぐに退避しろ!」を示す。

④「天神橋-西」、3.71マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]


天神橋-西には、新たに「看板」が追加されていた。

2013年7月3日。

これまでの看板は2011年9月6日に見ていたもの。

公園を利用する皆さんへ
「環境放射線の影響により、公園利用にあたっては
次の点に留意してください。
 ○ 公園の利用は、1日あたり、1時間を限度としてください。
 ○ 公園の利用後は、手や顔を洗い、うがいをしてください。
 ○ 土や砂を口に入れないように注意してください。
  (問い合わせ先) 福島市公園緑地課 TEL

新たに追加された下の看板。
杉妻町小規模緑地 空間放射線量
測定日時 H25 6月26日(水) 午前9時15分頃
 空間線量 0.82μSv/h (地上50cmで測定)
  この数値は1時間当たりの放射線量です。(単位:マイクロシーベルト)
 福島市公園緑地課

測定日時は、H25 6月26日とあるから、
1週間ほど前に測定したことになる。

地上に黒くあるのは、私の放射線量計で、
地上で測定した3.71マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]は、
地上50cmで測定した0.82マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]よりも、
はるかに大きい。

⑥「紅葉山公園」、13.1マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]

⑥紅葉山公園は市民の散歩道になっている。
それに、となりは「知事公邸」である。


⑧「日本銀行-福島支店」、0.61マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]



除染が行われて、効果が表れているところがある。
一方、手つかずのところもある。
除染は大変な作業だ、それに優先順序がある。

福島には何回か来ているから被曝量は多い。
外に長時間いるし、半袖で肌は露出している。
福島で売っているものを買って食べているし、
ホテルで食事をしている。
それに、南相馬市でのボラアンティア活動がある。

累積の被曝量は2.3ミリ・シーベルト [mSv]と右下にある。
この放射線量計を手に入れたのは、福島第一原発事故があった3ヶ月後の、
2011年6月15日だから、福島を訪れた2013年7月3日はおよそ2年になる。

国際放射線防護委員会(ICRP)は、年間の被曝量の限度を、
1ミリ・シーベルト[mSv]と定めているから、
2年で2.3ミリ・シーベルト [mSv]は、
限度を超えている。

福島の住民は、年間の被曝量の限度である、
1ミリ・シーベルト[mSv]を超えているか?
最大の関心事に対して、公式の発表があると思う。

除染はなかなか困難である。それに、除染には優先順序がある。
福島の住民は、「除染」と「避難」を秤にかけていると思う。
避難しないならば、除染に期待することになる。
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雲の上の北アルプス

2013-07-07 00:07:07 | Weblog
梅雨の真っただ中の6月20日。
朝、昨日までの豪雨は止んでいる。
家から見る北アルプスは雲で隠れている。
雨は止んでいるから、近くの美ヶ原高原へ行こう!
レンゲツツジを見ることができればいいじゃないか。

レンゲツツジ」は満開だった。

「袴越(はかまごし)レンゲツツジ群生地」。
昨日までの雨で、レンゲツツジの赤が緑に映えている。


「袴越レンゲツツジ群生地」から、
さらに上の「思い出の丘」へ上がる。
すると、雲の上に「北アルプス」が見えた。

まさかと思った、北アルプスを眺めることができた。
梅雨の合間に、奇跡じゃないかと思う。

左が穂高連峰3,190 m、中央に突き出ているのが槍ヶ岳3,180m、
右が大天井岳(おてんしょうだけ) 2,922 m。
3,000m級の山並みが連なる。

北アルプスの中腹には、モクモクと雲がある。
その手前の薄い雲の下が、松本市と安曇野市。

家を出るときは、この薄い雲のために北アルプスは見えなかった。
今でも、この薄い雲のベールの下にある松本からは、
北アルプスは見えていない。

槍ヶ岳の手前に三角に広がるのが常念岳2,857 m。
松本からはこの常念岳が大きく見えて、
槍ヶ岳は常念岳の左に小さく見えるが、
美ヶ原高原まで上がると、槍ヶ岳の高さがわかる。

思い出の丘」1,935mから雲の上の北アルプス。

左からN乗鞍岳3,026 m、H穂高連峰3,190m、Y槍ヶ岳3,180m、
O大天井岳(おてんしょうだけ) 2,922 m、そして、
手前にある富士山型がA有明山2,268 m。

里は曇り、山は晴!
「何という幸運だろう!」
里の天気と山の天気は大違いだ。
「里は曇り、山は晴!」の自然のごほうびに、
雲の上の北アルプスの写真を撮っておこう!

レンゲツツジと北アルプス。


枯れ枝と北アルプス。


この、素晴らしい北アルプスを眺めることができる、
「思い出の丘」への行き方は?
「松本 美ヶ原高原ロングトレイル」のガイドマップから。

「思い出の丘」はO。
左(西)にある「松本城」Mから、「美鈴湖」Lを経由して、
林道を上がって「袴越レンゲツツジ群生地」Hへ、
さらに上がると「思い出の丘」O。
車の終点は「美ヶ原自然保護センター」U。

6月30日のヒルクライムレース、
ツール・ド・美ヶ原高原自転車レース」は、
この林道を松本の浅間温泉から上がる。
⇒「美鈴湖」L⇒「袴越レンゲツツジ群生地」H
⇒「思い出の丘」O⇒「美ヶ原自然保護センター」Uまで駆け上がる。

本番に向けてレーサーが練習をしている。

レンゲツツジが迎えてくれる。

「ツール・ド・美ヶ原高原自転車レース」のゴールである、
美ヶ原自然保護センター」U。

6月30日のレースを控えて、情報交換をしているようだ。

王ヶ頭」。

美ヶ原自然保護センターあたりから望む。

梅雨の真っただ中、里からは、
北アルプスは雲のベールで隠れていた。
しかし、2,000mの美ヶ原高原まで上ると、
雲の上から北アルプスが顔を出してくれた。

北アルプス。

北アルプスの空が赤みをおびる、ごほうびもあった。
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