季節の変化

活動の状況

ウェストンが感激した徳本峠

2017-10-29 00:00:15 | Weblog
ウォルター・ウェストンが感激した徳本峠(とくごうとうげ)。
「徳本峠からの展望は、日本で一番雄大な眺望の一つ」
と、ウェストンは言っている。

徳本峠から、穂高連峰が一望できる。2017年10月18日。
N西穂高岳2,909メートル、O奥穂高岳、3,190メートル、
J明神岳、2,931メートル、M前穂高岳、3,090メートル。

晴れそうな日をねらって、上高地へ上がった。
嘉門次小屋に泊まってみたい、そして、
翌日は、徳本峠に登りたい。

沢渡(さわんど)からシャトルバスで、上高地に上がる。
大正池の手前にある最後のカーブを曲がると、
「穂高連峰が目の前に開ける!
のだが、残念、曇っていた。

大正池で降りて、大正池~河童橋を散策する。
焼岳は見えた。

2017年10月17日、8:41。

しかし、大正池から穂高連峰は、雲の中。

穂高連峰は、右端に見えるのだが。
しばらく待ったが、あきらめて、田代池に向かう。

田代池も曇っていた。

少し待つと、霞沢岳がぼんやりと現れてきた。

田代池の手前にある湿原にもどると、穂高連峰も顔を出してきた。

左から西穂高岳、奥穂高岳、吊尾根を経て、前穂高岳、明神岳。
これならば、大正池からも、穂高連峰が見えるはずだ。
もと来た道を引き返した。

そして、大正池から見た穂高連峰

せっかく上高地へ来たんだから、
大正池と穂高連峰の、この景色を見たかった。
田代池から15分かけて、もどってきたが、その甲斐があった。

再び湿原に引き返すと、穂高連峰は明るくなっていた。


田代池も、陽が当たってきた。

霞沢岳も見える。

これで、湿原からの穂高連峰と、田代池と霞沢岳は、
時間をおいて、2度見たことになる。
満足、満足! 河童橋に向かう。

マユミ六百山

手前は、梓川。
梓川の中州から、焼岳を振り返った。

→噴煙が、かすかに上がる。

河童橋から、穂高連峰

上高地に来たら、この穂高連峰と梓川は外せない。
河童橋は、多くのお客さんで賑わっていた。

河童橋から、明神の嘉門次小屋を目指す。
途中にある、岳沢湿原(だけさわしつげん)と六百山


嘉門次小屋

嘉門次小屋では、
岩魚の塩焼きを食べたい、
ウェストンが嘉門次に贈ったピッケルを見たい、
そして、4代目当主、上條 輝夫さんにお会いできれば…、
は、実現することができた。つぎを参照してください。
「嘉門次小屋に泊まってみたい」、2017年10月22日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/4cb4c5f11bfaf5caa86b1aba1149337c

嘉門次小屋の食堂には、
上条嘉門次、根元清蔵、ウェストンの写真が飾ってある。

囲炉裏の、岩魚の塩焼き、ウェストンが嘉門次に贈ったピッケル、
食堂の写真を見に来るお客さんが多い。外国人も。

ウェストンは、世界には、日本アルプスを紹介し、
日本人には、登山の魅力を伝え、近代登山を広めた。
上条嘉門次は、ウェストンの山岳ガイドだった。

ウェストンは、徳本峠から上高地に入り、槍、穂高…に登っている。
ウェストンの日本アルプスにおける足跡」。

「日本アルプス 登山と探検」、ウォルター・ウェストン著、岡村精一訳、平凡社から作成。

ウェストンが目指した、槍、穂高は、横浜から汽車で8時間かけて(1891年)、
碓氷(うすい)峠の手前の横川へ行き、鉄道馬車に乗り換え、
何度も脱線しながら、碓氷峠を越えて●軽井沢へ。
汽車に乗り換えて●上田へ。人力車で、
▼保福寺峠を越えて、◎松本へ。
◎松本から、最初は人力車で、つぎに徒歩で、
▼徳本峠を越えて、■上高地へ。
■上高地を拠点のようにして、槍、穂高へ登っている。
「ウェストンが見る槍、穂高」、2016年11月26日、を参照してください。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/2e15570683825ed792774a3f897aa8f1

さて、念願の「嘉門次小屋に泊まってみたい」が実現した、
その翌日の2017年10月18日は、徳本峠に上がる。
途中の景色を見ていく。

登山道わきの流れ紅葉

木の橋が、この流れにかかる。

木の橋にへばりついた落ち葉と、下は速い流れ。

踊るダケカンバ


ウェストンが通った

徳本峠から、上高地に下りる登山者。左奥は、穂高連峰。

徳本峠を上がるにつれて、振り返ると、西穂高岳が見える。

N西穂高岳、A間ノ岳(あいのだけ)、T天狗ノ頭。

奥穂高岳前穂高岳が現れる。

Gジャンダルム、O奥穂高岳。M前穂高岳。
M前穂高岳の左手前に、J明神岳が連なる。

奥穂高岳の拡大。

Gジャンダルム、O奥穂高岳。

徳本峠、2,135メートルに着いた。
穂高連峰

徳本峠から、槍ヶ岳は見えない。
ウェストンは、槍ヶ岳に登るつもりで、
松本の島々から、この徳本峠に上がってきた。

そして、この穂高連峰の景色を見て、
ウェストンは感激し、槍ヶ岳よりも先に、
穂高岳に登ろうかと、気持ちが一瞬、揺らいだ。
しかし、上高地に下りて、予定どおり槍ヶ岳に挑戦する。
ウェストンは、徳本峠から眺めた、穂高連峰に感激した。
そして、登った日本アルプスを世界に紹介することになる。

徳本峠については、つぎも参照してください。
「徳本峠と霞沢岳」、2016年10月30日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/d7e40ace3a8237c9233818f9b5a825af
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嘉門次小屋に泊まってみたい

2017-10-22 00:09:05 | Weblog
上高地嘉門次小屋に、まってみたい。
岩魚の塩焼きを食べたい。
ウェストン嘉門次に贈った、ピッケルを見たい。
そして、4代目当主、上條 輝夫さんにお会いできれば…。

嘉門次小屋

2017年10月17日。

岩魚の塩焼きを食べたい。
囲炉裏で、岩魚の塩焼き。

岩魚の塩焼き13年のベテラン。芸術品のように並べられていく。
右は塩焼きの岩魚、左端に骨酒(こつざけ)用の岩魚。

昼飯に寄って、岩魚の塩焼きを食べた。

うまかった! ホクホクして、尻尾から頭まで平らげた。
味は、日本一、と常宿にしている千葉のお客さんが言う。
囲炉裏を囲んで、焼くのを見ながら、食べるのがいい。
囲炉裏は、嘉門次小屋のリビング・ルームだった。
夕飯にも、岩魚の塩焼きが出るというが、
こんなにうまいなら、何度でもいい。

ウェストンが嘉門次に贈った、ピッケルを見たい。

囲炉裏に飾ってあった。上は、嘉門次愛用の村田銃。
囲炉裏のピッケルと、岩魚の塩焼きを、
見に来るお客さんが多い。外国人も。

これで、嘉門次小屋で、岩魚の塩焼きを食べた、
ウェストンが嘉門次に贈ったピッケルも見た。

これまで、嘉門次小屋に泊まらなかったのは、松本から近すぎたから。
嘉門次小屋から河童橋まで、歩いて1時間。
河童橋まで来ると、松本に着いた気分になる。
あとは、バスターミナルから、シャトルバスで、
沢渡の駐車場まで30分。それから、車で50分で松本。
嘉門次小屋から、2時間半で、家に着くから、
嘉門次小屋に泊まらずに、帰ることになる。
嘉門次小屋は、松本市の安曇上高地。

それで、嘉門次小屋に泊まる計画を建てた。
翌日に、徳本(とくごう)峠へ行こう。
ウェストンが、松本から上高地に入るときに越えた峠。
徳本峠から眺めた、穂高連峰に感激していた。

嘉門次小屋で、岩魚の塩焼きを食べてから、
夕方まで、明神の周辺を散策。
明神岳。明神橋から。

左は2,263メートル峰と、右は明神岳Ⅴ峰、2,726メートル。

嘉門次の碑。嘉門次小屋の前で。

山の名ガイド上條嘉門次は71歳で没する。

嘉門次小屋」の説明。嘉門次小屋の入口で。

「上條嘉門次が、1880年に建てた山小屋です。
 嘉門次はウォルター・ウェストン氏の山案内をした事により、
 山岳ガイドとして、名を馳せました。ウェストン氏が、
 日本の山を世界に紹介された著書「極東の遊歩道」、
 「日本アルプスの登山と探検」には、嘉門次の事も書かれています。
 ウェストン氏は、日本山岳会の設立に寄与されましたので、
 レリーフがバスターミナルの対岸にあり、毎年6月には、
 ウェストン祭が行われます。
 小屋の囲炉裏に、ウェストン氏から「長い友情の記念に」と、
 贈られたピッケルを、嘉門次が愛用した猟銃と共に展示しています。
  当主は4代目で、嘉門次の曾孫に当たります。」

3時からの風呂に合わせて、嘉門次小屋に戻った。
汗を流して、夕飯の5時半まで間がある。囲炉裏へ行った。

千葉からのお客さんは、岩魚の塩焼きに、ビール。
囲炉裏には、燻した岩魚。骨酒(こつざけ)用。

京都からのお客さんが、岩魚の骨酒を、うまそうに飲んでいる。
それで、骨酒の飲み方をスタッフから教えてもらって、
岩魚の骨酒を頼んだ。

「2~3分置いて、味を出してから、飲んでください」と言われた。
そして、飲む。うまい!
2杯目のお代わりの酒を注いでもらった。
今度は、岩魚を箸で押すようにして、ほぐした。
2杯目も、うまい! やがて、酔った。酔いは、
嘉門次小屋のスタッフ、京都と千葉のお客さんと近くなった。

5時半から夕飯

岩魚の塩焼きは、何度食べてもうまい!

食事中に、香港からのお客さんと目が合った。
ご夫妻と、ご両親の4人で、上高地のあとは、
北海道に行くと言う。
嘉門次がウェストンの山案内人だったこと、
ウェストンが世界に日本アルプスを紹介したこと、
嘉門次小屋の当主は4代目、などの話をしていると、
その4代目の当主、上條 輝夫さんが、お見えになって、
話の輪に加わってから、場が一気に盛り上がった。
香港の人は、当主を囲んで、写真を撮っていた。
日本の、いい思い出になったようだ。

4代目当主、上條 輝夫さんに、お会いできれば…、
は、こうして、実現した。
食事が終わると、当主は囲炉裏に移動され、
京都の人、千葉の人、私と歓談していただいた。
そして、当主の「安曇節」のご披露があった。

焼酎「霧島」を、ごちそうしていただいた。
私は、これで、すっかり酔っぱらった。
当主も嬉しそうで、くつろがれていた。
当主、ありがとうございます。

嘉門次小屋に来てよかった。
日本一うまい、岩魚の塩焼きにありつけた。
岩魚の骨酒を飲むことができた。
香港からのお客さんと、歓談した。
そして、当主と囲炉裏を囲んで、
酒を飲み交わすことができた。
私の山の「思い出」として、
一生、忘れられないものになった。
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安曇野の実りの秋

2017-10-14 20:42:29 | Weblog
安曇野(あづみの)の実りの秋
パンプキン

ハロウィンのランタン用。三郷で、2017年10月9日。
右下の小さいのが、家庭用か。

あとで、道の駅へ行くと、売っていた。
今井 恵みの里」、松本市。

手前が1位で、85kgある。つぎが3位 48kg、4位 43kg…。
いずれも、売約済みになっていた。
2位がないが、売れたのだろう。しかし、
どうやって運んだ? 大勢で持ち上げた?

はぜかけ

実った稲は、バインダーで刈り取って、天日干しにする。
奥の列は、りんごの木。背後は、▽常念岳、▽横通岳。

「写真を撮らせてください」とお願いした。
はぜかけ米は、うまいという。しかし、
手間ひまかかるから、自家用にされている。
2週間ほど天日干ししてから、脱穀して、袋詰めし、貯蔵する。
そして、食べる分だけ精米する。
出荷用は、コンバインで刈り取って、同時に脱穀して、袋詰めする。
農協へ運んで、乾燥機で短時間で乾燥させてから、精米する。

うまい「はぜかけ米」は、農家へのごほうび。それに、
稲刈りに、遠方からお手伝いに来てくれた家族への贈り物。

トリトマ

焚き火は、実りの秋の後片づけ。
トリトマが、「今年もありがとう」と、常念岳に言っているようだ。

実ったが、下に落ちていた。

大きな栗だった。
「持って行きなさい」と言う。
いくつか、いただきました。
ありがとうございます。

安曇野は、西に上がるにつれて、田んぼから、
ソバ畑、りんご畑に代わってくる。
そして、凧揚げを見る。

最初は子どもが、凧を揚げている、と思ったが、
それにしても、あちこちで揚げている。
凧揚げのシーズンではないのに。

農作業をしていた、おばあさんに聞いてみました。
りんごから、鳥を追い払う「鳥おどし」でした。

怖い顔をした鷹が、鳥に襲いかかるようだ。
それに、ヒューと風を切って、鳥を威嚇する。
リンゴを食べる鳥は、ひよどり、という。
カラスは、食べるよりも、遊びに来る。
カラスは来なくなった、ようです。

奥のカスミザクラは、色づき始めた。

カスミザクラとは、住人に聞いて、わかりました。
近寄ると、標識があって、藪を払うと、
「安曇野市 天然記念物」とありました。

この斜面が気に入った。
手前から、ソバ畑、りんご畑、そして、
カスミザクラ。背景は、杉の木が並ぶ。
りんご畑の上に「鳥おどし」が2つ舞う。
養蚕が盛んだった昔は、桑畑だったそうです。

南小倉地区公民館の近くにソバ畑がある。
そこに横たわる枯れ木に座って、眺めていた。

りんご畑の奥に⇒植え込みがある。
しかし、何の木か、わからない。
近寄ると、赤いをつけていた。

住人に聞いても、わかりませんでした。

住人からシメジを、もらいました。

さきにもらった栗、そして、このシメジ。
これで、栗ごはんに、シメジの味噌汁と、
安曇野の実りの秋を、味わうことができるではないか。
ありがとうございました。

安曇野ワイナリー

収穫を迎えた、カベルネ・ソーヴィニョン

赤ワインのメルローと、白ワインのシャルドネは、収穫を終えて、
今週には、カベルネ・ソーヴィニョンを収穫するとのことです。
ショップのお嬢さんが、外に出て、説明してくれました。
ありがとうございました。

下に落ちている粒を、そーっと拾って、食べてみた。
「あま~い」。赤ワインになるから、渋いと思っていた。

ショップで買ったものは、赤ワイン。
フルボディは、メルロー、2015年を勧められました。
「半年置いてください、熟成します」とのことです。
3,500円でした。普段は、チリ産、スペイン産の300円ですが。
半年、倹約します。

実りの秋のおしまいは、食欲の秋。
障害者支援施設 幸泉園が秋に開催する、第24回「いのしし祭り」。

奥の山は室山。ファインビュー室山があって、
温泉につかって、安曇野や松本平を眺めることができる。

幸泉園で、ダチョウと、鹿の刺身。

鹿は、最高級部位を使用とあって、やわらかくて、うまい。
ダチョウは、サッパリしている。各千円。これに、
松茸ご飯が500円、豆腐、ワカメ入りの味噌汁が100円でした。
普段の昼食は、りんご1個。だから、超豪華!

安曇野の実りの秋は、
幸泉園の「いのしし祭り」の10月の連休。
パンプキン、はぜかけ、リンゴと鳥おどし、
カベルネ・ソーヴィニョン、に会える。それに、
安曇野の人の親切! 栗、シメジをもらいました。
食欲の秋は、鹿の刺身がうまかった。

そして、カスミザクラ。私にとって、
安曇野といえば、カスミザクラが加わった。
目印は、幸泉園の近くにある、南小倉地区公民館。
住人は、ここに駐車することを勧めてくれた。
カスミザクラは、季節が変われば、また来たい。
雪の冬もいいだろう、春の桜も期待できる。

南アルプスの夕暮れ。カスミザクラの斜面から。

K甲斐駒ヶ岳、N北岳、S仙丈ヶ岳。
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小布施の訪問者は人口の100倍

2017-10-08 00:04:20 | Weblog
信州の小布施(おぶせ)を訪れる訪問者は、人口の100倍
人口は1万人ほど、訪問者(観光客)は110万人ほど。
栗の小径

北斎館から高井鴻山記念館を結ぶ小径。2011年8月24日。
石畳ではなく、栗の木で舗装されていた(栗畳! )。

信州大学で開催されたセミナーで、
小布施町長の市村良三さんのお話しを、
聴く機会があった、2011年6月24日。タイトルは、
小布施町における協働と交流のまちづくり

まちづくり」 5つのポイント。
1) 人口政策: 公営住宅、宅地造成で、人口の流失を食い止めた。
2) 北斎館: 葛飾北斎の肉筆画を一堂に集めて、1976年に開館。
  当時は、「田んぼの中の美術館」と言われた。
3) 地場産業: 栗菓子の老舗は、小売り・飲食サービスを開始。
4) 町並修景事業: 北斎館周辺を居住・商工業の回遊できる界隈に修景。
  「修景」とは、昔に戻す「町並み保存」でもなく、再開発でもなく、
  全体の景観を生かして、人が住める街にする。
5) 花のまちづくり:: 「ふるさと創生1億円」を、
  住人のヨーロッパ視察研修に充てた。9年間で、200人近く。
  花が生活に溶け込む街を視察してから、花を育て、町がきれいになった。
  庭を開放する「オープンガーデン」につながって、110軒になっている。
  「オープンガーデン」は交流に結びつく。
「住民が楽しく生き生きと暮らしている町にこそ魅力がある」
来訪者が求める「なつかしい、ほっとする、やすらぐ、いやされる」
と、市村良三町長は、小布施の「まちづくり」を話された。

市村良三町長のお話しの、
「田んぼの中の美術館」、
北斎館周辺の「町並修景」、
住人がヨーロッパを視察研修した成果、
「オープンガーデン」…を見たくなった。
小布施に出かけたのは、2011年8月24日。
北斎館周辺

右は、北斎亭。広場をはさんで、反対側に北斎館がある。
北斎館周辺の16,000平方メートルは、回遊できる界隈に修景。
中心部は、「広場」になっていた。電柱、電線はなく、大きな木があった。

屋根は、山々の稜線に合わせて切妻、
壁は白か、土地の砂を混ぜた黄味がかった砂壁。
けばけばしい看板はない。自動販売機は見当たらない。
これらは、景観条例ではなく、住人の自主規制だという。
住人がヨーロッパを視察研修した、その成果を見るようだ。

ヨーロッパでも美しい街に、
ベルギーのブルージュがある。世界遺産。
ブルグ広場。右は市庁舎。1988年12月30日。

石畳。大きな木があった。電灯はあっても、電柱、電線はない。

近くの鐘楼に上がって、
マルクト広場を見下ろした。右は州庁舎。

生活が息づいている。電柱、電線はない。
けばけばしい看板も、自動販売機もない。
小布施の景観は、ブルージュを思い出す。

北斎館

すでに、田んぼの中の美術館ではなかった。
玄関へのアプローチは、栗の木の栗畳。
玄関の青い屋根は、金属?

栗の小径

屋根は切妻、壁は白か、黄色がかった砂壁。
小径は、栗の木の栗畳。右の手前は、高井鴻山記念館。

小さな看板が、オープンガーデンの目印。

“Welcome to My Garden”
“OBUSE Open Garden HOME”

オープンガーデン

床机に座って、「ゆっくり眺めてください」と、いっている。

なんと、市村良三町長のお宅でした!
「町長がオープンガーデン」をされている、
とは思わなかった。全国にも、例がないと思う?
「まちづくり」には、市村良三町長が率先、実施されている。

2回目の訪問は、2017年9月25日。
前回は、日帰りで、忙しかった。
今回は、泊まって、のんびりしようと思った。
北斎館周辺。2017年9月25日。

多くの訪問者(観光客)で、にぎわっていた。

北斎館

玄関の屋根は、黒く色が変わっていたが、瓦?

栗の小径

小径は、栗の木の栗畳。左の奥は、高井鴻山記念館。

オープンガーデン

これは、町長のお宅で見た花。青花ホトトギス。
前回から6年経つから、もう「オープンガーデン」は、
されていないだろう? と思っていました。失礼しました。

街を歩いていると、大きな絵がある。
葛飾北斎の「傘風子図(さんふうしず)。

小布施堂の栗菓子工場の玄関。

裏の小さな道を歩くと、

緑が多い、屋根は切妻、壁は白か、黄味がかった砂壁、
左の白は土蔵…と、見ていると、
「こんにちは」
と、声をかけられた。
振り向くと、住人の女性だった。
「いい街ですね」と言うと、笑みが返ってきた。
住人が、訪問者にあいさつをする街、小布施!

泊まった宿の夕食。
栗おこわは、うまかった。小布施ならではのサービスである。
地のものとして、稚鮎の南蛮漬け。先附、いくら茄子は、初めてだった。
頼んだ小布施の地酒は、うまかった。

翌日、浄光寺へ。ここで、スラックラインの第1回世界選手権が開催された。
そして、小布施の最後は、栗菓子を買うこと。松本でも売っているが、
小布施といえば栗菓子、その本場で買いたい。

市村良三町長は、高井鴻山の子孫になる。
豪農商で文人の高井鴻山は、小布施に葛飾北斎を招いて、
岩松院の天井画や、祭屋台の天井絵を描いてもらっている。
これらは、葛飾北斎の傑作になっている。

高井鴻山の祖父のときに、名字は、
これまでの「市村」から、「高井」に代わった。
天明の大飢餓で、倉を開いて、困窮している民衆を救った。
この功績で、幕府から、名字を「高井郡」からとって、
「高井」が与えられ、帯刀が認められた。
高井鴻山自身も、天保の大飢饉で、
倉を開いて窮民を救済している。

市村良三町長には、高井鴻山の、
文人と慈善の血が流れている。
1976年の「北斎館」の建設、
1982年の「高井鴻山記念館」の建設、

「町並修景」へと、DNAが受け継がれている。

小布施の住人は、
ヨーロッパの視察研修の成果で、
協働で「まちづくり」をし、
派手な広告や、自動販売機を自主規制し、
外の人と交流して、
「なつかしい、ほっとする、やすらぐ、いやされる」町の実現で、
人口の100倍の訪問者を迎えている。
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小布施の葛飾北斎

2017-10-01 00:01:55 | Weblog
信州の小布施(おぶせ)には、葛飾北斎天井画がある。
八方睨み鳳凰図」。1848年。

絵はがきから。岩松院(がんしょういん)。
小布施の豪農商で文人、高井鴻山(こうざん)の求めに応じて、描き上げた。
葛飾北斎、88歳の作品。

本堂で天井画を、見上げる。
「八方睨み」というから、眼を見た。
鮮やかな赤の中に、目が浮き出ている。
確かに、睨んでいる、眼光鋭く。

葛飾北斎は老境というのに、すごいエネルギー、情熱だ!
精巧さがあって、鳳凰が生き生きとしている。迫力に魅せられる。
270年前の作品だが、鮮やかで、色があせていない。
そして、挑戦意欲が、ほとばしり出ている。

岩松院。奥の赤い屋根が本堂。

奥は雁田山(かりだやま)。2017年9月25日。

小布施に高井鴻山記念館がある。そこには、
高井鴻山の書斎、翛然楼(ゆうぜんろう)がある。

高井鴻山は、ここで書画や読書に専念するほか、
葛飾北斎と語り合い、松代藩士の佐久間象山と国事を論じた、
と案内板にある。

高井鴻山の妖怪画

高井鴻山記念館で。2017年9月25日。
夏季特別展、「高井鴻山の妖怪たち」を開催していた。

高井鴻山肖像画、翛然楼で。

1806年~1883年。

15歳~16歳、京都と江戸に遊学する。
1842年、葛飾北斎が、小布施に来訪。
 高井鴻山が36歳、葛飾北斎が83歳のときで、
 高井鴻山は、非常に喜んで、碧漪軒(へきいけん)を、
 葛飾北斎の居室として与える。翌春まで滞在。
1844年、葛飾北斎85歳、再び来訪。
 東町の祭屋台の天井絵、「」と「鳳凰」を完成する。
1845年、葛飾北斎86歳、3度目の来訪。
 上町の祭屋台の天井絵、「怒涛図」にとりかかり、翌年完成する。
 岩松院の「八方睨み鳳凰図」にとりかかる。
1847年、葛飾北斎88歳、4度目の来訪。
 岩松院の「八方睨み鳳凰図」を完成する。
1848年、葛飾北斎89歳、江戸に帰る。翌年、没する。
この高井鴻山と葛飾北斎の年譜は、
高井鴻山記念館に掲げられた略年譜を参考にしました。

葛飾北斎自画像、翛然楼で。

1760年~1849年。

葛飾北斎は70代のとき、江戸で、20代後半の高井鴻山と会っている。
葛飾北斎が江戸から小布施にやって来た1842年は、
水野忠邦の天保の改革で、ぜいたくが禁止され、
浮世絵は、役者、遊女を描くことが禁止された。
住みにくい江戸を離れて、小布施を訪れた。
小布施を4回訪れ、逗留しているが、岩松院の、
「八方睨み鳳凰図」は、4回目のときに完成した。

これまでに、葛飾北斎の浮世絵は、長野市の水野美術館で見ている。
四大浮世絵師展」のチケット。

2009年10月。

凱風快晴」(がいふうかいせい)。1831年。

絵はがきから、水野美術館で。
赤富士といわれ、「富嶽三十六景」の代表。日本を代表する芸術。

赤富士は、松本市の日本浮世絵博物館でも見ている。
イタリア人を案内したが、
「見たことがある」と言われて、
自分のことのように、うれしかった。

葛飾北斎は、1998年、「ライフ」誌の、
「この1000年間に偉大な業績をあげた世界の人物100人」で、
日本人で、ただ一人選ばれている。

神奈川沖浪裏」。1831年。

絵はがきから、水野美術館で。

「神奈川沖浪裏」は、大英博物館の企画展、「北斎-大波の彼方へ」
Hokusai: beyond the Great Waveに、展示されている。大英博物館の所蔵品。
タイトルは、”The Great Wave”。
赤富士も展示されている”Red Fuji”。大英博物館の所蔵品。
企画展は、2017年5月25日~8月13日。

北斎漫画展」を江戸東京博物館で見た。

2008年2月。
北斎漫画は、55歳のときの作品。
力士、雀踊り、動物、妖怪…を描いている。

葛飾北斎の浮世絵は、
ジャポニスム、日本趣味として、
印象派のゴッホ、モネ、ドガ…に大きな影響を与えた。
葛飾北斎もまた、ヨーロッパから遠近法を学んでいる。

私は、葛飾北斎の浮世絵を持っている!
信州 諏訪湖」。1830年-1832年ころ。

「信州 諏訪湖」は、藍のグラデーション。

松本の古書店、青翰堂(せいかんどう)で見つけたもの。
「初摺りは、藍摺(あいずり)といって、藍の濃淡だけで摺ってある」
「後摺りでは、空や祠(ほこら)に色をつけた」
と、青翰堂の店主は説明してくれた。

「諏訪湖を藍にしなくて、周りの景観を藍にした」
「富士山を小さく描いて、遠近感をだしている」
 と、店主はつけ加えた。
前々から探していた「信州 諏訪湖」、
まよわずに買った。2014年11月。
藍摺は、私の宝物になっている。
つぎを参照してください。
「葛飾北斎の諏訪湖を見つけた」、2014年11月23日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/3a7dc9b12a1738147665e35569e47fc8

大英博物館の企画展「北斎-大波の彼方へ」には、
小布施の北斎館から、真筆を貸し出している。
上町の祭屋台の天井絵、「怒涛図」である。
葛飾北斎の波が描かれているから、
大英博物館の企画展には、欠かせない。

北斎館

企画展「北斎漫画の世界」が開催されていた。2017年9月25日。

上町の祭屋台、「男浪」と「女浪」。1845年。北斎館で。
男浪

絵はがきから、北斎館。
上町の祭屋台は、高井鴻山が私財を投じて作り上げた。
天井絵の制作には、葛飾北斎は意気に感じて、挑んだだろう。

女浪

周囲の縁絵は、下絵を葛飾北斎が描き、
高井鴻山が彩色したという。

「男浪」と「女浪」の真筆は貸し出し中で、複製品が展示されていたが、
2011年8月24日に訪れたときには、真筆を見ることができた。

北斎漫画には、波のスケッチがあるのだろうか?
企画展「北斎漫画の世界」で探した。2017年9月25日。

魚、動物、人物、昆虫、木、植物、風俗、妖怪…は、あったが、
波のスケッチは、なかった。

波は、上町の祭屋台の天井絵、「男浪」と「女浪」、
「富嶽三十六景」の「神奈川沖浪裏」、そして、つぎに掲載する、
東町の祭屋台の天井絵、「龍」に見ることができる。

小布施で最も古い、東町の祭屋台。
この祭屋台を、1844年に改造するとき、
高井鴻山の依頼で、葛飾北斎が天井絵を描いた。
「龍」と「鳳凰」。1844年。


絵はがきから、北斎館。縁絵は、波。

鳳凰

絵はがきから、北斎館。縁絵は、ない。
「龍」、「鳳凰」ともに、真筆が展示されていた。

信州の小布施へ行くと、
葛飾北斎が80歳のとき、
「100歳まで生きられたら、まさに神妙の域まで達するであろうか」
死ぬ間際の90歳では、
「天があと五年存命させてくれれば、本物の画家になれただろうに」
と言う、才能と衰えることのない制作意欲で生みだした、
気鋭に満ちた傑作、
鳳凰図の鋭い「睨み」と、
迫力のある怒涛図の「波」を、見ることができる。

葛飾北斎の80歳、90歳の旺盛な挑戦欲と創造力、気概は、
小布施の高井鴻山の援助で、さらに昂進して、
天井画、天井絵の傑作が生まれた、
と、考えてみた。

小布施へ行くと、
「この1000年間に偉大な業績をあげた世界の人物100人」
の、日本人に逢うことができる。
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