2012年も終わろうとしている。
そして、ブログ「季節の変化」は満5年になる。
ありがたいことに、ブログの閲覧数は70万を超えた。
2012年の締めくくりは、「季節の変化」で、
読者はどのシリーズのタイトルに、
興味や関心をもたれたのだろうか?
2012年の閲覧状況をみている。
2012年の「季節の変化」の掲載はつぎである。
「御柱祭、縄文文化」シリーズ、
「放射線量」シリーズ、
「東山魁夷」シリーズ、
「幸せと戦争」シリーズ、
「駒ヶ岳、氷河地形、紅葉」シリーズ、
「草間彌生」シリーズ。
2012年の閲覧状況の6回目になる最終回は「草間彌生」シリーズ。
「草間彌生」シリーズは3回の掲載である。
1)「草間彌生色の松本」、2012年11月4日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/265231232fb768219f03abb6a2e9bd33
2)「草間彌と川端康成」、2012年11月11日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/c6063f4bb531b6c9eca7e63e30bc1dcc
3)「草間彌生と東山魁夷がみる日本」2012年11月18日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/9960b497c11ade2cf353c95b04998048
「草間彌生」シリーズの閲覧状況はつぎです。
「草間彌生と東山魁夷がみる日本」は長いので、
「草間彌生と東山魁夷」でも検索した。
1)「草間彌生色の松本」、2012年11月4日。
松本市美術館では、草間彌生の「幻の華」(まぼろしのはな)が迎えてくれる。
「幻の華」、The Visionary Flowersが雪の上に咲く。2005年2月撮影。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/02/9d1e55d22a31a04694680391d833d79a.jpg)
高さが10メートル、横18メートルある「幻の華」は、草間彌生の最大の作品。
2012年は松本市美術館の開館10周年。
草間彌生の企画展、「永遠の永遠の永遠」が開催された。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/47/9a80538ab8f16b71c6c537153bbaf865.jpg)
松本市美術館はドット、ドット、ドットの草間彌生色になった。
明るくなった。多くのお客さんでにぎわっている。2012年7月撮影。
2012年の企画展、草間彌生の「永遠の永遠の永遠」のメインは、
「わが永遠の魂」と「愛はとこしえ」。
「わが永遠の魂」は66点が展示されている。
「果てしない人間の一生」、Endless Life of People。
絵はがきから。
松本市美術館では、自動販売機も、ベンチも、左のゴミ箱も、
後ろの壁もドット、ドット、ドット。2012年11月撮影。
自動販売機の正面には、YAYOI KUSAMAと、
サインがあるが、見えるでしょうか?
サイン入りの自動販売機は初めてだ。
概して醜い自動販売機だが、草間彌生色は、
美術館や景観に合っている自動販売機だ。
松本市美術館は粋なことをする。
街では、草間彌生色のドットのバスが走る。
「水玉乱舞号」。後方の木は松本市美術館。
松本が明るくなり、観光客も喜んで利用している。松本市も粋なことをする。
クサマ・バス(タウンスニーカー)は、2010年12月1日から走っている。
出発式で、草間彌生はフロントのドットにサインをされた。
「御祝 Yayoi Kusama 2010」。
タウンスニーカーは松本の中心部を周遊する(190円)。
一日乗車券(500円)を買うと、4コースが乗り放題のほかに、
松本市美術館、松本城、開智学校などの入場料が割引になる。
2)「草間彌と川端康成」、2012年11月11日。
草間彌生の作品を作家の川端康成が買っている。
「不知火」(しらぬい)と「雑草」である。
「不知火」Sea Fire。1955年作。
東京国立近代美術館、広島市現代美術館、熊本市現代美術館、
松本市美術館発行、「草間彌生」、2004年から。
草間彌生の「不知火」と「雑草」を観たのは、
山梨県立美術館で開催された2011年の企画展、
「川端康成コレクションと東山魁夷」だった。
「川端康成コレクションと東山魁夷」のリーフレット。
「川端康成は草間彌生の作品を所蔵している」
「どうしてだろう?」
と、いきさつを知りたくなった。
草間彌生は1929年松本市生まれ。
現在の蟻ヶ崎高校を卒業して、
1957年にニューヨークに渡っている。
1993年ベネチア・ビエンナーレの日本館の代表作家になり、
2008年に松本市名誉市民、2009年に文化功労者になっている。
「不知火」は1955年の作、「雑草」は1953年の作だから、
草間彌生がニューヨークへ行く前の初期の作品(水彩画)である。
「無限の網」草間彌生自伝、作品社、2002年発行に書いてある。
草間彌生は1955年3月、東京の求龍堂画廊で、
「不知火」ほか水彩画15点の個展を開いた。
「この個展の会場に訪れた作家の川端康成と、
美術評論化の久保貞次郎が、作品を購入した」
と、草間彌生は書いている。
この「無限の網」草間彌生自伝の最後に、
73歳の草間彌生は、つぎのように書いている。
「人生は真実素晴らしいとつくづく思い、
体が震えるほど、芸術の世界は尽きることなく興味があり、
私にはこの世界しか希望のわく、生きがいのある場所は他にないのだ。
そして、そのためにはいかなる苦労をしても悔いはない。
私はそのようにこれまで生きてきて、これからもそう生きてゆく」
3)「草間彌生と東山魁夷がみる日本」2012年11月18日。
草間彌生と東山魁夷は、海外で生活をした。
そして、外から日本を愛情の目、
客観的な目でみている。
草間彌生と東山魁夷の海外の生活はつぎである。
草間彌生は1957年、26歳のときにアメリカに渡って創作活動をし、
1974年に帰国した。
東山魁夷は1932年、25歳のときにドイツに渡り、ベルリン大学に留学した。
父の病状が悪化し、残り1年の留学を断念して1935年に帰国した。
「永遠の永遠の永遠」のチケット。2012年7月14日~11月4日開催。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/4f/fb99fc194d992a40dfb832243947ac18.jpg)
草間彌生は空間のドットの中に作品とまぎれている。
「無限の網」草間彌生自伝、作品社、2002年発行で、
草間彌生は、アメリカでの生活や創作活動をつぎのように書いている。
「ニューヨークの生き地獄」の章で、
「ニューヨークの生き地獄は凄まじかった。
勉強に明け暮れるだけの日々の中で、
私は次第にドルを使い果たしていった。
そして、極端な貧困へと落ちていった」
「日常の食物を得ること。絵具とカンヴァス代の確保。
移民局の旅券の問題。病気。さまざまな困難が私を襲ってきた」
「大成功のニューヨーク・デビュー」の章で、
「世界的な美術の先鋭的中心地ニューヨークで、
前衛美術家としての確固たる地位を築いていく結果となった」(1960年)。
東山魁夷。信州の安曇野(あずみの)へ旅した。1970年5月12日。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/e1/a3b0f8e24bf42183ca4fb713748aedbd.jpg)
「川端康成と東山魁夷 響きあう美の世界」。求龍堂、2006年発行。
左から井上靖、川端康成、東山魁夷の3巨頭が安曇野に会した。
後方は北アルプス。長峰(ながみね)山で。
東山魁夷はヨーロッパの美術行脚やドイツの留学をつぎのように言っている。
「ただ一通りの美術行脚の旅でなく、
西洋で生活することによって、
そこから日本を振り返ってみたいと思った」
「東山魁夷画文集 美の訪れ」、東山魁夷著、新潮社、1979年、
「心の故郷」の章で、東山魁夷は書いている。
「若いとき、外国での生活という、
道草をくっていたときがありました。
西洋の芸術や、町に親しさを感じたことがありますが、
それは、いまになってみると、
日本の風景や文化に対する愛着を深めるための、
回り道であったように思えます」
「こういう意味からいえば、
私は故郷を見失った人間ではなく、
故郷を心の中に持っているともいえるのでしょう。
そして、逆に、いまの日本には心の故郷を失った人が、
多すぎると考えるときがあります」
草間彌生は、17年におよぶニューヨークの暮らしで、
前衛芸術の世界における「草間彌生」の存在を、
限りなく大きく、揺るぎないものへと発展させて、
1974年に帰国した。
そして、日本をつぎのようにみている。
「街を歩いていても、ここはどこの国だろうか、とまどってしまう。
個性と美を失った、奇妙で醜い建築物がひしめいて、
イタリアでもなく、フランスでもなく、アメリカでもなく、
まして日本でさえない」
「日本は、日本の伝統の良さを失って、醜く近代化していた。
こんなふうに日本は変わってほしくなかった」
「進歩と近代化は、日本人に必ずしも幸福をもたらしている、
と言えるのだろうか。それらはかえって、人々の心と自然とを、
公害と騒音でかきみだしているように思えてならない。
このような中で、彼らの心が荒れていることを、
彼ら自身、きづいていない」
「日本の政治は庶民のためではなく、
政治家や一部の資産家のごまかしであると、つくづく感じた」
「これらに対して、文学者や芸術家や庶民は、一体何をしているのか」
東山魁夷は、日本をつぎのようにみている。
「東山魁夷画文集5」。新潮社、1978年発行に、
「ある美しかった国の物語」という章がある。
「ある美しかった国の物語」。
「昔、美しい風景の島国が東方の海上にあった」
と、物語がはじまる。
「人々は、遠い昔から自然を愛し、
自然とともに暮らしてきた」
「こまやかな感覚を持つ女性の美意識が磨き上げられて、
今でも世界の宝といわれる優れた文芸作品が書かれた」
「ある日、西洋から黒い船がやって来た。
西洋の文明が押し寄せ、西洋におくれまいとして、
自国の優れたものを見失いがちなことが多かった」
「その小さな国と、ある大きな国との間に戦争が起こった。
空から降ってくる灰で、町という町は灰になってしまった」
「さて、それから後が問題である。
昔、中国の詩人が、国が敗れても山河はあると歌ったように、
はじめのうちは美しい自然はちゃんと残っていた」
「もう戦争はやめて、経済を発展させ、平和に暮らそうとした。
経済の発展に、前後のわきまえもなく、熱中した。
エコノミックアニマルと名前をつけられ、
その国の美しい自然をも食い尽してしまった」
「自然の開発とか観光ということも、
ただ目先きだけの利益で、
かんじんの自然美を護る心が見棄てられた」
「泥海のそばの砂漠のような乾ききった土地に、
ただ四角な高い建築ばかりが建っていた」
「そこには、意味のない叫び声を挙げながら、
ただやたらに忙しく動き廻っている群集があるだけだった」
「昔、美しい風景の島国があったと、
今ではものの本に書いてあるだけである」
と、「ある美しかった国の物語」を閉じている。
それから、半世紀たった。
「ある美しかった国の物語」の続編はつぎにようになるだろう。
「経済のすさまじい膨張は、バブルがはじけると、しぼんでしまった。
世界のヒノキ舞台で、主役を演じてきたが、その座からすべり落ちた。
『日いずる国』と、もてはやされた主役の座は、30年だった」
「つぎの主役は、中国が演じるようだ。
アメリカやEUを訪れた中国の要人は、世界の発展のためには、
互いの協調が必要であると、大いに歓迎され、もてはやされている」
「島国の決定的打撃は、2011年3月11日に起きた。
東日本大震災と原発事故である。
トヨタ、ホンダ、キャノンでもうけた金は、
箱物、道路、ダム、そして原発に注いできた。
それでも物足らずに、赤字国債を発行して、
ムダな箱物を造り続けてきた。国力は低下した」
「赤字国債のツケは、つぎの世代にバトンタッチされる。
膨大な赤字国債は、つぎの世代では返済しきれない。
さらに、つぎの世代までかかりそうだ。
原発の廃炉には、半世紀かかる。
廃炉には、国民の税金を使う」
「昔、美しい風景の島国があったと、ものの本に書いてあったが、
原爆ドームと原発の廃炉が記念碑のように残されていた。
人々は、汚染された海と土地で、
汚染された水と空気にさらされて、
健康障害におびえながら暮らしていた」
これは、笑えない。
日本人がやってきたことだ。
日本は、どこぞの大国の植民地で、
宗主国の命令に従って、やってきたのではない。
日本人が進んで「美しい風景の島国」を壊してきたのだ。
草間彌生と東山魁夷の警告、
「日本人は、なにをしているのだ!」
「早く眼を覚ませ!」
を、日本人は半世紀も無視してきた。
そして、日本人に目を覚まさせる衝撃が起きた。
2011年3月11日の東日本大震災と原発事故である。
日本人は、汚染された海と土地で、
汚染された水と空気にさらされて、
健康障害におびえながら暮らしている。
ポスト2011年3月11日、
日本は変革することができるのか?
世界がみている。日本人は試されている。
「草間彌生」シリーズは、おかげさまで、
多くの方から閲覧いただきました。
ありがとうございます。
そして、ブログ「季節の変化」は満5年になり、
閲覧数は70万を超えた。
ブログの総数が170万ある中で、
ランキングが35位になった日もあった。
それに、繰り返し読まれているブログがある。
ありがとうございます。
「季節の変化」は、内と外から日本をみて、
日本を勇気づけるようにしてきた。
現地の声、調査、写真を多くして、
事実に基づいた内容にした。
ブログでは、データや写真を、
出し惜しみをせずに掲載した。
このために、長いブログもあった。
多くの人が「季節の変化」に関心を持っていただけたことを、
うれしく思っています。ありがとうございます。
多くの時間を当てて書いた甲斐がありました。
それでは、よい新年、2013年をお迎えください。
そして、ブログ「季節の変化」は満5年になる。
ありがたいことに、ブログの閲覧数は70万を超えた。
2012年の締めくくりは、「季節の変化」で、
読者はどのシリーズのタイトルに、
興味や関心をもたれたのだろうか?
2012年の閲覧状況をみている。
2012年の「季節の変化」の掲載はつぎである。
「御柱祭、縄文文化」シリーズ、
「放射線量」シリーズ、
「東山魁夷」シリーズ、
「幸せと戦争」シリーズ、
「駒ヶ岳、氷河地形、紅葉」シリーズ、
「草間彌生」シリーズ。
2012年の閲覧状況の6回目になる最終回は「草間彌生」シリーズ。
「草間彌生」シリーズは3回の掲載である。
1)「草間彌生色の松本」、2012年11月4日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/265231232fb768219f03abb6a2e9bd33
2)「草間彌と川端康成」、2012年11月11日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/c6063f4bb531b6c9eca7e63e30bc1dcc
3)「草間彌生と東山魁夷がみる日本」2012年11月18日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/9960b497c11ade2cf353c95b04998048
「草間彌生」シリーズの閲覧状況はつぎです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/eb/0cbcc5b68ef72f7e0dd487cdb11b4977.jpg)
「草間彌生と東山魁夷がみる日本」は長いので、
「草間彌生と東山魁夷」でも検索した。
1)「草間彌生色の松本」、2012年11月4日。
松本市美術館では、草間彌生の「幻の華」(まぼろしのはな)が迎えてくれる。
「幻の華」、The Visionary Flowersが雪の上に咲く。2005年2月撮影。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/02/9d1e55d22a31a04694680391d833d79a.jpg)
高さが10メートル、横18メートルある「幻の華」は、草間彌生の最大の作品。
2012年は松本市美術館の開館10周年。
草間彌生の企画展、「永遠の永遠の永遠」が開催された。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/47/9a80538ab8f16b71c6c537153bbaf865.jpg)
松本市美術館はドット、ドット、ドットの草間彌生色になった。
明るくなった。多くのお客さんでにぎわっている。2012年7月撮影。
2012年の企画展、草間彌生の「永遠の永遠の永遠」のメインは、
「わが永遠の魂」と「愛はとこしえ」。
「わが永遠の魂」は66点が展示されている。
「果てしない人間の一生」、Endless Life of People。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/41/89bb4b96308cb43b748a30e2ffc4df7b.jpg)
絵はがきから。
松本市美術館では、自動販売機も、ベンチも、左のゴミ箱も、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/cf/a06fcc780c4dcec38bff441fba6c6011.jpg)
後ろの壁もドット、ドット、ドット。2012年11月撮影。
自動販売機の正面には、YAYOI KUSAMAと、
サインがあるが、見えるでしょうか?
サイン入りの自動販売機は初めてだ。
概して醜い自動販売機だが、草間彌生色は、
美術館や景観に合っている自動販売機だ。
松本市美術館は粋なことをする。
街では、草間彌生色のドットのバスが走る。
「水玉乱舞号」。後方の木は松本市美術館。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/26/4f17dc96e13bc662c9c546ef3ce80e05.jpg)
松本が明るくなり、観光客も喜んで利用している。松本市も粋なことをする。
クサマ・バス(タウンスニーカー)は、2010年12月1日から走っている。
出発式で、草間彌生はフロントのドットにサインをされた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/61/dc76c6482216a12234534a8ff997803d.jpg)
「御祝 Yayoi Kusama 2010」。
タウンスニーカーは松本の中心部を周遊する(190円)。
一日乗車券(500円)を買うと、4コースが乗り放題のほかに、
松本市美術館、松本城、開智学校などの入場料が割引になる。
2)「草間彌と川端康成」、2012年11月11日。
草間彌生の作品を作家の川端康成が買っている。
「不知火」(しらぬい)と「雑草」である。
「不知火」Sea Fire。1955年作。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/31/9f820a83b8fd04944cd6035ca65fe30f.jpg)
東京国立近代美術館、広島市現代美術館、熊本市現代美術館、
松本市美術館発行、「草間彌生」、2004年から。
草間彌生の「不知火」と「雑草」を観たのは、
山梨県立美術館で開催された2011年の企画展、
「川端康成コレクションと東山魁夷」だった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/a3/d6aa0ac50c6e6b00ff17c5302d903fcd.jpg)
「川端康成コレクションと東山魁夷」のリーフレット。
「川端康成は草間彌生の作品を所蔵している」
「どうしてだろう?」
と、いきさつを知りたくなった。
草間彌生は1929年松本市生まれ。
現在の蟻ヶ崎高校を卒業して、
1957年にニューヨークに渡っている。
1993年ベネチア・ビエンナーレの日本館の代表作家になり、
2008年に松本市名誉市民、2009年に文化功労者になっている。
「不知火」は1955年の作、「雑草」は1953年の作だから、
草間彌生がニューヨークへ行く前の初期の作品(水彩画)である。
「無限の網」草間彌生自伝、作品社、2002年発行に書いてある。
草間彌生は1955年3月、東京の求龍堂画廊で、
「不知火」ほか水彩画15点の個展を開いた。
「この個展の会場に訪れた作家の川端康成と、
美術評論化の久保貞次郎が、作品を購入した」
と、草間彌生は書いている。
この「無限の網」草間彌生自伝の最後に、
73歳の草間彌生は、つぎのように書いている。
「人生は真実素晴らしいとつくづく思い、
体が震えるほど、芸術の世界は尽きることなく興味があり、
私にはこの世界しか希望のわく、生きがいのある場所は他にないのだ。
そして、そのためにはいかなる苦労をしても悔いはない。
私はそのようにこれまで生きてきて、これからもそう生きてゆく」
3)「草間彌生と東山魁夷がみる日本」2012年11月18日。
草間彌生と東山魁夷は、海外で生活をした。
そして、外から日本を愛情の目、
客観的な目でみている。
草間彌生と東山魁夷の海外の生活はつぎである。
草間彌生は1957年、26歳のときにアメリカに渡って創作活動をし、
1974年に帰国した。
東山魁夷は1932年、25歳のときにドイツに渡り、ベルリン大学に留学した。
父の病状が悪化し、残り1年の留学を断念して1935年に帰国した。
「永遠の永遠の永遠」のチケット。2012年7月14日~11月4日開催。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/4f/fb99fc194d992a40dfb832243947ac18.jpg)
草間彌生は空間のドットの中に作品とまぎれている。
「無限の網」草間彌生自伝、作品社、2002年発行で、
草間彌生は、アメリカでの生活や創作活動をつぎのように書いている。
「ニューヨークの生き地獄」の章で、
「ニューヨークの生き地獄は凄まじかった。
勉強に明け暮れるだけの日々の中で、
私は次第にドルを使い果たしていった。
そして、極端な貧困へと落ちていった」
「日常の食物を得ること。絵具とカンヴァス代の確保。
移民局の旅券の問題。病気。さまざまな困難が私を襲ってきた」
「大成功のニューヨーク・デビュー」の章で、
「世界的な美術の先鋭的中心地ニューヨークで、
前衛美術家としての確固たる地位を築いていく結果となった」(1960年)。
東山魁夷。信州の安曇野(あずみの)へ旅した。1970年5月12日。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/e1/a3b0f8e24bf42183ca4fb713748aedbd.jpg)
「川端康成と東山魁夷 響きあう美の世界」。求龍堂、2006年発行。
左から井上靖、川端康成、東山魁夷の3巨頭が安曇野に会した。
後方は北アルプス。長峰(ながみね)山で。
東山魁夷はヨーロッパの美術行脚やドイツの留学をつぎのように言っている。
「ただ一通りの美術行脚の旅でなく、
西洋で生活することによって、
そこから日本を振り返ってみたいと思った」
「東山魁夷画文集 美の訪れ」、東山魁夷著、新潮社、1979年、
「心の故郷」の章で、東山魁夷は書いている。
「若いとき、外国での生活という、
道草をくっていたときがありました。
西洋の芸術や、町に親しさを感じたことがありますが、
それは、いまになってみると、
日本の風景や文化に対する愛着を深めるための、
回り道であったように思えます」
「こういう意味からいえば、
私は故郷を見失った人間ではなく、
故郷を心の中に持っているともいえるのでしょう。
そして、逆に、いまの日本には心の故郷を失った人が、
多すぎると考えるときがあります」
草間彌生は、17年におよぶニューヨークの暮らしで、
前衛芸術の世界における「草間彌生」の存在を、
限りなく大きく、揺るぎないものへと発展させて、
1974年に帰国した。
そして、日本をつぎのようにみている。
「街を歩いていても、ここはどこの国だろうか、とまどってしまう。
個性と美を失った、奇妙で醜い建築物がひしめいて、
イタリアでもなく、フランスでもなく、アメリカでもなく、
まして日本でさえない」
「日本は、日本の伝統の良さを失って、醜く近代化していた。
こんなふうに日本は変わってほしくなかった」
「進歩と近代化は、日本人に必ずしも幸福をもたらしている、
と言えるのだろうか。それらはかえって、人々の心と自然とを、
公害と騒音でかきみだしているように思えてならない。
このような中で、彼らの心が荒れていることを、
彼ら自身、きづいていない」
「日本の政治は庶民のためではなく、
政治家や一部の資産家のごまかしであると、つくづく感じた」
「これらに対して、文学者や芸術家や庶民は、一体何をしているのか」
東山魁夷は、日本をつぎのようにみている。
「東山魁夷画文集5」。新潮社、1978年発行に、
「ある美しかった国の物語」という章がある。
「ある美しかった国の物語」。
「昔、美しい風景の島国が東方の海上にあった」
と、物語がはじまる。
「人々は、遠い昔から自然を愛し、
自然とともに暮らしてきた」
「こまやかな感覚を持つ女性の美意識が磨き上げられて、
今でも世界の宝といわれる優れた文芸作品が書かれた」
「ある日、西洋から黒い船がやって来た。
西洋の文明が押し寄せ、西洋におくれまいとして、
自国の優れたものを見失いがちなことが多かった」
「その小さな国と、ある大きな国との間に戦争が起こった。
空から降ってくる灰で、町という町は灰になってしまった」
「さて、それから後が問題である。
昔、中国の詩人が、国が敗れても山河はあると歌ったように、
はじめのうちは美しい自然はちゃんと残っていた」
「もう戦争はやめて、経済を発展させ、平和に暮らそうとした。
経済の発展に、前後のわきまえもなく、熱中した。
エコノミックアニマルと名前をつけられ、
その国の美しい自然をも食い尽してしまった」
「自然の開発とか観光ということも、
ただ目先きだけの利益で、
かんじんの自然美を護る心が見棄てられた」
「泥海のそばの砂漠のような乾ききった土地に、
ただ四角な高い建築ばかりが建っていた」
「そこには、意味のない叫び声を挙げながら、
ただやたらに忙しく動き廻っている群集があるだけだった」
「昔、美しい風景の島国があったと、
今ではものの本に書いてあるだけである」
と、「ある美しかった国の物語」を閉じている。
それから、半世紀たった。
「ある美しかった国の物語」の続編はつぎにようになるだろう。
「経済のすさまじい膨張は、バブルがはじけると、しぼんでしまった。
世界のヒノキ舞台で、主役を演じてきたが、その座からすべり落ちた。
『日いずる国』と、もてはやされた主役の座は、30年だった」
「つぎの主役は、中国が演じるようだ。
アメリカやEUを訪れた中国の要人は、世界の発展のためには、
互いの協調が必要であると、大いに歓迎され、もてはやされている」
「島国の決定的打撃は、2011年3月11日に起きた。
東日本大震災と原発事故である。
トヨタ、ホンダ、キャノンでもうけた金は、
箱物、道路、ダム、そして原発に注いできた。
それでも物足らずに、赤字国債を発行して、
ムダな箱物を造り続けてきた。国力は低下した」
「赤字国債のツケは、つぎの世代にバトンタッチされる。
膨大な赤字国債は、つぎの世代では返済しきれない。
さらに、つぎの世代までかかりそうだ。
原発の廃炉には、半世紀かかる。
廃炉には、国民の税金を使う」
「昔、美しい風景の島国があったと、ものの本に書いてあったが、
原爆ドームと原発の廃炉が記念碑のように残されていた。
人々は、汚染された海と土地で、
汚染された水と空気にさらされて、
健康障害におびえながら暮らしていた」
これは、笑えない。
日本人がやってきたことだ。
日本は、どこぞの大国の植民地で、
宗主国の命令に従って、やってきたのではない。
日本人が進んで「美しい風景の島国」を壊してきたのだ。
草間彌生と東山魁夷の警告、
「日本人は、なにをしているのだ!」
「早く眼を覚ませ!」
を、日本人は半世紀も無視してきた。
そして、日本人に目を覚まさせる衝撃が起きた。
2011年3月11日の東日本大震災と原発事故である。
日本人は、汚染された海と土地で、
汚染された水と空気にさらされて、
健康障害におびえながら暮らしている。
ポスト2011年3月11日、
日本は変革することができるのか?
世界がみている。日本人は試されている。
「草間彌生」シリーズは、おかげさまで、
多くの方から閲覧いただきました。
ありがとうございます。
そして、ブログ「季節の変化」は満5年になり、
閲覧数は70万を超えた。
ブログの総数が170万ある中で、
ランキングが35位になった日もあった。
それに、繰り返し読まれているブログがある。
ありがとうございます。
「季節の変化」は、内と外から日本をみて、
日本を勇気づけるようにしてきた。
現地の声、調査、写真を多くして、
事実に基づいた内容にした。
ブログでは、データや写真を、
出し惜しみをせずに掲載した。
このために、長いブログもあった。
多くの人が「季節の変化」に関心を持っていただけたことを、
うれしく思っています。ありがとうございます。
多くの時間を当てて書いた甲斐がありました。
それでは、よい新年、2013年をお迎えください。