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季節の変化

活動の状況

閲覧状況2012年 草間彌生シリーズ

2012-12-30 00:12:30 | Weblog
2012年も終わろうとしている。
そして、ブログ「季節の変化」は満5年になる。
ありがたいことに、ブログの閲覧数は70万を超えた。

2012年の締めくくりは、「季節の変化」で、
読者はどのシリーズのタイトルに、
興味や関心をもたれたのだろうか?
2012年の閲覧状況をみている。

2012年の「季節の変化」の掲載はつぎである。
御柱祭、縄文文化」シリーズ、
放射線量」シリーズ、
東山魁夷」シリーズ、
幸せ戦争」シリーズ、
駒ヶ岳、氷河地形、紅葉」シリーズ、
草間彌生」シリーズ。

2012年の閲覧状況の6回目になる最終回は「草間彌生」シリーズ。
「草間彌生」シリーズは3回の掲載である。
1)「草間彌生色の松本」、2012年11月4日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/265231232fb768219f03abb6a2e9bd33
2)「草間彌と川端康成」、2012年11月11日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/c6063f4bb531b6c9eca7e63e30bc1dcc
3)「草間彌生と東山魁夷がみる日本」2012年11月18日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/9960b497c11ade2cf353c95b04998048

「草間彌生」シリーズの閲覧状況はつぎです。

「草間彌生と東山魁夷がみる日本」は長いので、
「草間彌生と東山魁夷」でも検索した。

1)「草間彌生色の松本」、2012年11月4日。
松本市美術館では、草間彌生の「幻の華」(まぼろしのはな)が迎えてくれる。
「幻の華」、The Visionary Flowersが雪の上に咲く。2005年2月撮影。

高さが10メートル、横18メートルある「幻の華」は、草間彌生の最大の作品。

2012年は松本市美術館の開館10周年。
草間彌生の企画展、「永遠の永遠の永遠」が開催された。

松本市美術館はドットドットドットの草間彌生色になった。
明るくなった。多くのお客さんでにぎわっている。2012年7月撮影。

2012年の企画展、草間彌生の「永遠の永遠の永遠」のメインは、
わが永遠の魂」と「愛はとこしえ」。
「わが永遠の魂」は66点が展示されている。
果てしない人間の一生」、Endless Life of People。

絵はがきから。

松本市美術館では、自動販売機も、ベンチも、左のゴミ箱も、

後ろの壁もドット、ドット、ドット。2012年11月撮影。

自動販売機の正面には、YAYOI KUSAMAと、
サインがあるが、見えるでしょうか?
サイン入りの自動販売機は初めてだ。

概して醜い自動販売機だが、草間彌生色は、
美術館や景観に合っている自動販売機だ。
松本市美術館は粋なことをする。

街では、草間彌生色のドットバスが走る。
水玉乱舞号」。後方の木は松本市美術館。

松本が明るくなり、観光客も喜んで利用している。松本市も粋なことをする。

クサマ・バス(タウンスニーカー)は、2010年12月1日から走っている。
出発式で、草間彌生はフロントのドットにサインをされた。

「御祝 Yayoi Kusama 2010」。

タウンスニーカーは松本の中心部を周遊する(190円)。
一日乗車券(500円)を買うと、4コースが乗り放題のほかに、
松本市美術館、松本城、開智学校などの入場料が割引になる。

2)「草間彌と川端康成」、2012年11月11日。
草間彌生の作品を作家の川端康成が買っている。
「不知火」(しらぬい)と「雑草」である。
不知火」Sea Fire。1955年作。

東京国立近代美術館、広島市現代美術館、熊本市現代美術館、
松本市美術館発行、「草間彌生」、2004年から。

草間彌生の「不知火」と「雑草」を観たのは、
山梨県立美術館で開催された2011年の企画展、
川端康成コレクションと東山魁夷」だった。

「川端康成コレクションと東山魁夷」のリーフレット。

「川端康成は草間彌生の作品を所蔵している」
「どうしてだろう?」
と、いきさつを知りたくなった。

草間彌生は1929年松本市生まれ。
現在の蟻ヶ崎高校を卒業して、
1957年にニューヨークに渡っている。
1993年ベネチア・ビエンナーレの日本館の代表作家になり、
2008年に松本市名誉市民、2009年に文化功労者になっている。

「不知火」は1955年の作、「雑草」は1953年の作だから、
草間彌生がニューヨークへ行く前の初期の作品(水彩画)である。
「無限の網」草間彌生自伝、作品社、2002年発行に書いてある。
草間彌生は1955年3月、東京の求龍堂画廊で、
「不知火」ほか水彩画15点の個展を開いた。
「この個展の会場に訪れた作家の川端康成と、
美術評論化の久保貞次郎が、作品を購入した」
と、草間彌生は書いている。

この「無限の網」草間彌生自伝の最後に、
73歳の草間彌生は、つぎのように書いている。
人生は真実素晴らしいとつくづく思い、
体が震えるほど、芸術の世界は尽きることなく興味があり、
私にはこの世界しか希望のわく、生きがいのある場所は他にないのだ。
そして、そのためにはいかなる苦労をしても悔いはない。
私はそのようにこれまで生きてきて、これからもそう生きてゆく」

3)「草間彌生と東山魁夷がみる日本」2012年11月18日。
草間彌生と東山魁夷は、海外で生活をした。
そして、外から日本を愛情の目、
客観的な目でみている。

草間彌生と東山魁夷の海外の生活はつぎである。
草間彌生は1957年、26歳のときにアメリカに渡って創作活動をし、
1974年に帰国した。

東山魁夷は1932年、25歳のときにドイツに渡り、ベルリン大学に留学した。
父の病状が悪化し、残り1年の留学を断念して1935年に帰国した。

「永遠の永遠の永遠」のチケット。2012年7月14日~11月4日開催。

草間彌生は空間のドットの中に作品とまぎれている。

「無限の網」草間彌生自伝、作品社、2002年発行で、
草間彌生は、アメリカでの生活や創作活動をつぎのように書いている。
ニューヨークの生き地獄」の章で、
「ニューヨークの生き地獄は凄まじかった。
勉強に明け暮れるだけの日々の中で、
私は次第にドルを使い果たしていった。
そして、極端な貧困へと落ちていった」
「日常の食物を得ること。絵具とカンヴァス代の確保。
移民局の旅券の問題。病気。さまざまな困難が私を襲ってきた」

大成功のニューヨーク・デビュー」の章で、
「世界的な美術の先鋭的中心地ニューヨークで、
前衛美術家としての確固たる地位を築いていく結果となった」(1960年)。

東山魁夷。信州の安曇野(あずみの)へ旅した。1970年5月12日。

「川端康成と東山魁夷 響きあう美の世界」。求龍堂、2006年発行。
左から井上靖、川端康成、東山魁夷の3巨頭が安曇野に会した。
後方は北アルプス。長峰(ながみね)山で。

東山魁夷はヨーロッパの美術行脚やドイツの留学をつぎのように言っている。
「ただ一通りの美術行脚の旅でなく、
西洋で生活することによって、
そこから日本振り返ってみたいと思った」

「東山魁夷画文集 美の訪れ」、東山魁夷著、新潮社、1979年、
「心の故郷」の章で、東山魁夷は書いている。
「若いとき、外国での生活という、
道草をくっていたときがありました。
西洋の芸術や、町に親しさを感じたことがありますが、
それは、いまになってみると、
日本風景文化に対する愛着を深めるための、
回り道であったように思えます」

「こういう意味からいえば、
私は故郷を見失った人間ではなく、
故郷を心の中に持っているともいえるのでしょう。
そして、逆に、いまの日本には心の故郷を失った人が、
多すぎると考えるときがあります」


草間彌生は、17年におよぶニューヨークの暮らしで、
前衛芸術の世界における「草間彌生」の存在を、
限りなく大きく、揺るぎないものへと発展させて、
1974年に帰国した。
そして、日本をつぎのようにみている。

「街を歩いていても、ここはどこの国だろうか、とまどってしまう。
個性を失った、奇妙で醜い建築物がひしめいて、
イタリアでもなく、フランスでもなく、アメリカでもなく、
まして日本でさえない」

「日本は、日本伝統の良さを失って、醜く近代化していた。
こんなふうに日本は変わってほしくなかった」

「進歩と近代化は、日本人に必ずしも幸福をもたらしている、
と言えるのだろうか。それらはかえって、人々の心自然とを、
公害と騒音でかきみだしているように思えてならない。
このような中で、彼らの心が荒れていることを、
彼ら自身、きづいていない

日本政治庶民のためではなく
政治家一部の資産家ごまかしであると、つくづく感じた」
「これらに対して、文学者芸術家庶民は、一体何をしているのか」

東山魁夷は、日本をつぎのようにみている。
「東山魁夷画文集5」。新潮社、1978年発行に、
「ある美しかった国の物語」という章がある。

ある美しかった国の物語」。
美しい風景の島国が東方の海上にあった」
と、物語がはじまる。

「人々は、遠い昔から自然を愛し
自然とともに暮らしてきた」

「こまやかな感覚を持つ女性の美意識が磨き上げられて、
今でも世界の宝といわれる優れた文芸作品が書かれた」

「ある日、西洋から黒い船がやって来た。
西洋の文明が押し寄せ、西洋におくれまいとして、
自国の優れたものを見失いがちなことが多かった」

「その小さな国と、ある大きな国との間に戦争が起こった。
空から降ってくるで、町という町は灰になってしまった」

「さて、それから後が問題である。
昔、中国の詩人が、国が敗れても山河はあると歌ったように、
はじめのうちは美しい自然はちゃんと残っていた

「もう戦争はやめて、経済を発展させ、平和に暮らそうとした。
経済の発展に、前後のわきまえもなく、熱中した。
エコノミックアニマルと名前をつけられ、
その国の美しい自然をも食い尽してしまった」

「自然の開発とか観光ということも、
ただ目先きだけの利益で、
かんじんの自然美を護る心が見棄てられた」

泥海のそばの砂漠のような乾ききった土地に、
ただ四角な高い建築ばかりが建っていた」

「そこには、意味のない叫び声を挙げながら、
ただやたらに忙しく動き廻っている群集があるだけだった」

「昔、美しい風景の島国があったと、
今ではものの本に書いてあるだけである」
と、「ある美しかった国の物語」を閉じている。

それから、半世紀たった。
「ある美しかった国の物語」の続編はつぎにようになるだろう。
「経済のすさまじい膨張は、バブルがはじけると、しぼんでしまった。
世界のヒノキ舞台で、主役を演じてきたが、その座からすべり落ちた。
日いずる国』と、もてはやされた主役の座は、30年だった」

「つぎの主役は、中国が演じるようだ。
アメリカやEUを訪れた中国の要人は、世界の発展のためには、
互いの協調が必要であると、大いに歓迎され、もてはやされている」

「島国の決定的打撃は、2011年3月11日に起きた。
東日本大震災原発事故である。
トヨタ、ホンダ、キャノンでもうけた金は、
箱物、道路、ダム、そして原発に注いできた。
それでも物足らずに、赤字国債を発行して、
ムダな箱物を造り続けてきた。国力は低下した」

「赤字国債のツケは、つぎの世代にバトンタッチされる。
膨大な赤字国債は、つぎの世代では返済しきれない。
さらに、つぎの世代までかかりそうだ。
原発の廃炉には、半世紀かかる。
廃炉には、国民の税金を使う」

「昔、美しい風景の島国があったと、ものの本に書いてあったが、
原爆ドーム原発の廃炉記念碑のように残されていた。
人々は、汚染された海と土地で、
汚染された水と空気にさらされて、
健康障害におびえながら暮らしていた」

これは、笑えない。
日本人がやってきたことだ。
日本は、どこぞの大国の植民地で、
宗主国の命令に従って、やってきたのではない。
日本人が進んで「美しい風景の島国」を壊してきたのだ。

草間彌生と東山魁夷の警告、
「日本人は、なにをしているのだ!」
「早く眼を覚ませ!」
を、日本人は半世紀も無視してきた。

そして、日本人に目を覚まさせる衝撃が起きた。
2011年3月11日の東日本大震災と原発事故である。
日本人は、汚染された海と土地で、
汚染された水と空気にさらされて、
健康障害におびえながら暮らしている。

ポスト2011年3月11日、
日本は変革することができるのか?
世界がみている。日本人は試されている。


「草間彌生」シリーズは、おかげさまで、
多くの方から閲覧いただきました。
ありがとうございます。

そして、ブログ「季節の変化」は満5年になり、
閲覧数は70万を超えた。
ブログの総数が170万ある中で、
ランキングが35位になった日もあった。
それに、繰り返し読まれているブログがある。
ありがとうございます。

「季節の変化」は、内と外から日本をみて、
日本を勇気づけるようにしてきた。
現地の声、調査、写真を多くして、
事実に基づいた内容にした。
ブログでは、データや写真を、
出し惜しみをせずに掲載した。
このために、長いブログもあった。

多くの人が「季節の変化」に関心を持っていただけたことを、
うれしく思っています。ありがとうございます。
多くの時間を当てて書いた甲斐がありました。

それでは、よい新年、2013年をお迎えください。
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閲覧状況2012年 駒ヶ岳、氷河地形、紅葉シリーズ

2012-12-23 00:12:23 | Weblog
2012年の締めくくりは、「季節の変化」で、
読者はどのシリーズのタイトルに、
興味や関心をもたれたのだろうか?
2012年の閲覧状況をみている。

2012年の「季節の変化」の掲載はつぎである。
御柱祭、縄文文化」シリーズ、
放射線量」シリーズ、
東山魁夷」シリーズ、
幸せ戦争」シリーズ、
駒ヶ岳、氷河地形、紅葉」シリーズ、
草間彌生」シリーズ。

2012年の閲覧状況の5回目は「駒ヶ岳、氷河地形、紅葉」シリーズ。
「駒ヶ岳、氷河地形、紅葉」シリーズは6回の掲載。
1)「駒ヶ岳の白いコマクサ」、2012年9月23日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/744d0e49c1b6d1b18d1a11d72a9a7210
2)「駒ヶ岳と世界の氷河地形」、2012年9月30日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/d79b41f417d8ef47001dfd320cde2ed9
3)「駒ヶ岳のカール地形はお花畑」、2012年10月7日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/fa32ab0423ccfc6f558b37f7d7a75804
4)「駒ヶ岳は「聖職の碑」の現場」、2012年10月14日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/f6832da34a8ecda236f0f362df9e3ff3
5)「駒ヶ岳の紅葉とカナディアン・ロッキー」、2012年10月21日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/f77e7fe6e81a67973baef9a983eaa9be
6)「ビーナスラインの紅葉狩り」、2012年10月28日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/f4a3a9a7896b4a62a9b96386cf863c21

「駒ヶ岳、氷河地形、紅葉」シリーズの閲覧状況はつぎです。


「駒ヶ岳と世界の氷河地形」は長いので、
「駒ヶ岳 氷河地形」で検索した。
「駒ヶ岳のカール地形はお花畑」は、
「駒ヶ岳 お花畑」でも検索した。
「駒ヶ岳は「聖職の碑」の現場」は長いので、
「駒ヶ岳 聖職の碑」で検索した。
「駒ヶ岳の紅葉とカナディアン・ロッキー」は長いので、
「駒ヶ岳 カナディアン・ロッキー」で検索した。

1)「駒ヶ岳の白いコマクサ」、2012年9月23日。
駒ヶ岳の頂上で白いコマクサを見つけた。2012年8月20日。

うれしくなって、
「白いコマクサがある!」
「赤いコマクサの隣りにある」
さっそく、トレッキング仲間や居合わせた家族に知らせた。

駒ヶ岳(中央アルプス)に登るのは3回目だが、
高山植物のパトロールの人は言う。
「今シーズンは大雪のため、雪解けが遅かった」
「高山植物は、今も見ごろです」

おかげで、赤いコマクサも元気だった。


偶然に通りかかった「頂上木曽小屋」の人は、
「コマクサは人工的に植栽している」
と説明する。それに、
「持ち帰っても、里では育たない」
ということなので、持ち帰らずに、
駒ヶ岳で愛らしい姿を見てほしい。
コマクサは信州大学の紋章になっている。

「白いコマクサ」を確実に見るならば、
「駒ヶ岳」の木曽寄りにある「頂上木曽小屋」へ行けばいい。
「植栽している」と言うことなので。

駒ヶ岳」①、2956m。「中岳」の頂上から。

頂上木曽小屋」⑪。左奥は「御嶽山」3067m。
手前の青い屋根は「駒ヶ岳頂上山荘」。

2)「駒ヶ岳と世界の氷河地形」、2012年9月30日。
駒ヶ岳の氷河地形には、
「千畳敷カール」と「濃ヶ池」の「カール地形」がある。
千畳敷カール」。2012年8月20日。

後方の「宝剣岳」(2931m)から手前に、
スプーンで削り取ったようなくぼみが「千畳敷カール」。
「氷河」がゆっくり流れ下るときに、氷河の重みで山を削り取った。
手前は「剣ヶ池」で、最下点にできたくぼみに水がたまってできた。
氷河によって運ばれた「モレーン」と呼ばれる堆積した土砂が、
剣ヶ池の土手になっている。土手の先は急激に落ち込んで崖になる。
そして、この崖に滝ができる。

「千畳敷カール」を「宝剣岳」から見下ろせばわかりやすい。2012年8月21日。

奥は南アルプス。その奥に富士山が見える。

カール地形の終わりに「剣ヶ池」がある。
堆積物モレーンが剣ヶ池の土手になり、
土手の先は急激に落ち込んで崖になる。

「駒ヶ岳」から降りる途中、見下した「濃ヶ池」。2012年8月20日。

馬の背から右側は、氷河にえぐり取られたカール地形。濃ヶ池側には白い雪渓が残る。
左奥は「将棊頭山」(しょうぎかしらやま)、2730m。

駒ヶ岳の氷河地形と世界の氷河地形を比べてみる。
「氷河期」には、アメリカ、ヨーロッパ大陸は
分厚い氷河に何千年も覆われていた。

カナダの氷河地形。
カナディアン・ロッキー」。バンフ。1987年9月。

氷河に削られた「U字谷」。
手前の「ペイト・レイク」は、
氷河に削られたくぼみに水がたまった。

氷河の。ジャスパー。1987年9月。

氷河は、奥から手前に移動してくる。
氷河の端は、溶けて水たまりができる。
氷河に押し流された石が転がっていた。

オーストリアの氷河地形。
ダッハシュタイン山塊」と「ゴーザウ湖」。1989年8月。

「ダッハシュタイン山塊」(主峰は2995m)には氷河がある。
手前は「ゴーザウ湖」。

スイスの氷河地形。
ゴルナー氷河」。1995年10月。

正面はリスカム4527m。
「こんな神秘的な景色があるのか?」
と、自然に畏敬する。

3)「駒ヶ岳のカール地形はお花畑」、2012年10月7日。
駒ヶ岳の「カール地形」には「千畳敷カール」と「濃ヶ池」がある。
駒ヶ岳のカール地形は「お花畑」だった。高山植物の宝庫だ。

千畳敷カール」、2612m。2012年8月20日。

後方の「宝剣岳」(2931m)から手前に、
スプーンでえぐり取ったようなくぼみが「千畳敷カール」。
手前は「剣ヶ池」で、最下点にできたくぼみに水がたまった。

駒ヶ岳のもう一つのカール地形、「濃ヶ池」、2655m。

8月というのに、奥には雪渓が残っている。

ミヤマキンバイ。千畳敷カール。


チングルマの花と種子。濃ヶ池。

チングルマの花(右上)、咲きおわり(中)、それに、
ポヤポヤした種子(下)を、同時に見ることができる。

コマウスユキソウ」。宝剣岳で。

コマウスユキソウのコマは駒ヶ岳の駒で、固有種。
エーデルワイスに近いコマウスユキソウも好きな花だ。

ダイモンジソウ」。三ノ沢岳。

「大」の形をしている。駒ヶ岳では初めてだ。

4)「駒ヶ岳は「聖職の碑」の現場」、2012年10月14日。
およそ100年前の1913年8月26日、
中箕輪尋常高等小学校(現在、箕輪中学校)は、
1泊2日の修学旅行登山で「駒ヶ岳」2956mを目指した。

一行37名は、
赤羽長重(ながしげ)校長をリーダーに引率の先生2名、
高等科2年生(今の中学2年生)の男子25名と、
援助する同窓会員9名だった。

しかし、急に動き出した台風に襲われ、
赤羽長重校長と14歳~16歳の生徒10名が遭難した(1913年8月27日)。

中箕輪尋常高等小学校のあった場所は、
現在、「箕輪中部小学校」が建っていて、
駒ヶ岳遭難の碑」がある。

13回忌の1925年の8月27日に、遭難した同級生が建てた。
奇しくもこの年に、最後の行方不明者、唐沢圭吾さんの遺体が見つかった。

山に囲まれた長野県の学校では、
「学校登山」は当たり前の行事で、
学年ごとに登る山が決まっていた。
小学校では2000m級で、七島八島や霧ヶ峰。ゴシタカッタナ!
中学校では3000m級で、蓼科山(八ヶ岳)を覚えている。

長野県人に、中学校時代の「学校登山」について聞いてみた。
北アルプスの「乗鞍岳」(のりくらだけ、3026m)だった、
北アルプスの「燕岳」(つばくろだけ、2763m)だった、
八ヶ岳の「天狗岳」(てんぐだけ、2646m)だった、
菅平高原の「根子岳」(ねこだけ、2027m)だった、
「仙丈ケ岳」(せんじょうがたけ、3033m)だった、
「御嶽山」(おんたけさん、3067m)だった。
そして、「駒ヶ岳」(2956m)だった、
という人がいた。
「中学校はどこですか?」
と思わず聞いた。
「箕輪中学校です」

まさに、「聖職の碑」の「中箕輪尋常高等小学校」ではないか!
しかも、小学校は「箕輪中部小学校」の卒業生で、そこには、
「駒ヶ岳遭難の碑」があることを教えてくれたのである。

さっそく「箕輪中部小学校」と「箕輪中学校」へ行った。
2校では、ありがたいことに教頭先生が応対してくれた。
それに、「駒ヶ岳遭難の碑」の裏に書いてあった文、
「箕輪町郷土博物館」の話、
「箕輪中学校」の卒業生の話、
新田次郎の小説「聖職の碑」、講談社発行を基にして、


「駒ヶ岳」の登山ルート

「聖職の碑」、新田次郎著から作成。

学校登山の「駒ヶ岳」でどうして、
11名も遭難したのだろうか?
どんなルートだったのだろうか?
「駒ヶ岳遭難」を探ってある。

5)「駒ヶ岳の紅葉とカナディアン・ロッキー」、2012年10月21日。
駒ヶ岳の森林の紅葉は、針葉樹に広葉樹が混じる。2004年10月18日、午前9時。

「駒ヶ岳ロープウェイ」から「千畳敷カール」へ。

赤や黄色が、バックの針葉樹の中に映える。
赤はモミジやカエデ、ナナカマド、
黄色はダケカンバ。

北アメリカとヨーロッパ大陸は、
「氷河期」には、何千年も分厚い「氷河」に覆われた。
そのために、それまでの「植物」は絶滅した。
そして、あとから針葉樹が茂った。
植物多様性」ではなくなった。

日本では、氷河のカール地形は、
3000メートル級の高山にだけある。
日本の「氷河」は限られた場所だったから、
昔からの植物に、新しい植物が増えていった。
日本は「植物多様性」になった。

「植物多様性」は日本の「紅葉」の美しさに、大いに関係がある。
アメリカにもヨーロッパ大陸にも、あざやかな紅葉はある。
しかし、日本の紅葉がきれいなのは、
広葉樹も針葉樹もあって、
赤であったり、黄色であったり、いろんな色で、
しかも、さまざまな葉の形で、つぎつぎに紅葉していく。

カナディアン・ロッキーと日本は、
」に咲く花が一種類か、それとも、
多くの種類があるかの違いである。

「カナディアン・ロッキー」の氷河地形の「植物」と紅葉を見る。
バンフ、1987年9月。草は枯れて、赤や黄色になっている。

草以外は針葉樹。草地の針葉樹はまだ若い。
奥の氷河は、今にもこぼれ落ちそうだ。

バンフ、1987年9月。

氷河地形のまわりは、針葉樹が茂る。風景はモノトーンである。

カルガリー、1987年9月。

氷河地形のまわりは、針葉樹。

「クロウフット氷河」。バンフ、1987年9月。

山には、氷河によってカラスの足跡のような削り跡ができた(クロウフット)。
左に針葉樹が見える。

日本の「植物多様性」は「自然の贈り物」、
秋になると、「紅葉」の美しさを楽しむことができる。

大沼池」、志賀高原、長野県。2012年10月。


小遠見山」(ことおみやま、2007m)から北アルプス。
白馬村、長野県。2006年10月。

左は「五竜岳」(2814m)。

八方尾根」の上に「白馬三山」。北アルプス、長野県。2006年10月。

左から白馬鑓ヶ岳(2903m)、杓子岳(しゃくしだけ、2812m)、白馬岳(2932m)。
その右は小蓮華山(2766m)。

鎌池」(かまいけ)、小谷村(おたりむら) 、長野県。2008年10月。

鎌池は一周の紅葉が楽しめる。

大渚山」(おおなぎやま)、小谷村(おたりむら) 、長野県。2008年10月。

日本では、各種の色の紅葉があって、
紅葉のトンネルをトレッキングできる。

6)「ビーナスラインの紅葉狩り」、2012年10月28日。
ビーナスラインの紅葉狩りの地図。

「信州ビーナスラインNavi」から作成。http://www.venus-line.net/

JR茅野駅S近くから東北に延びる緑の線が「ビーナスライン」V、
その南の赤い線299号は「メルヘン街道」Mと呼ばれ、
八ヶ岳の「麦草峠」を越えて八千穂村へいく。

八島ヶ原湿原」①。2012年10月。

手前の「まゆみ」は、赤い花から赤い実に変わった。後方の左は「車山」A、1925m。

白樺湖」③。2012年10月。

後方は初冠雪した「蓼科山」B、2530m。

蓼科湖」④。2012年10月。

後方は「八ヶ岳」。雪がはっきり見える。

「ビーナスライン」Vの南、「メルヘン街道」Mにある、
白駒池」⑤。2012年10月。

赤、黄色、緑の中に、ダケカンバの白い幹が目立つ。

「メルヘン街道」Mの南の道、奥蓼科へ行く「湯道街道」沿いにある、
御射鹿池」(みしゃかいけ)⑥。2012年10月。

東山魁夷画伯の「緑響く」のモデル。
水が青い。風がないから波が立たず、紅葉が湖面に反射している。

王滝」。2012年10月。

「横谷峡遊歩道」の上部にある「横谷観音展望台」から見下す。
「横谷観音展望台」の近くには駐車場がある。

横谷峡遊歩道」。2012年10月。

紅葉の中を歩く。「横谷観音展望台」近くで。

「駒ヶ岳、氷河地形、紅葉」シリーズは、おかげさまで、
多くの方から閲覧いただきました。
ありがとうございます。
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閲覧状況2012年 幸せと戦争シリーズ

2012-12-16 00:12:16 | Weblog
2012年の締めくくりは、「季節の変化」で、
読者はどのシリーズのタイトルに、
興味や関心をもたれたのだろうか?
2012年の閲覧状況をみている。

2012年の「季節の変化」の掲載はつぎである。
御柱祭、縄文文化」シリーズ、
放射線量」シリーズ、
東山魁夷」シリーズ、
幸せ戦争」シリーズ、
駒ヶ岳、氷河地形、紅葉」シリーズ、
草間彌生」シリーズ。

2012年の閲覧状況の4回目は「幸せ戦争」シリーズ。
「幸せと戦争」シリーズ15回の掲載はつぎである。
1)「幸せを感じるときは?」、2012年6月3日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/2439400dce70acf2abc74aa6d9901b62
2)「満州からの引揚者の幸せは?」、2012年6月10日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/55ac2f7f0cdcd9b131f591a2c1ed0f5b
3)「満蒙開拓団は阿智村に注目」、2012年6月17日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/02ca44747cd22e2cabad80c3b680f36d
4)「満蒙開拓団の幸せは?」、2012年6月24日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/55ed27b7ccf1471fd8369ec4d9791bdf
5)「満蒙開拓団の女性に幸せはない」、2012年7月1日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/5c3b03d1d6f6c716aa85b760a87f2755
6)「世界で一番悲惨な言葉」、2012年7月8日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/fcf4277fc8980498f33ba971795098a6
7)「中国残留者2世の幸せは?」、2012年7月15日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/e54c3361cac3f9c32dcfb5871a3b83c5
8)「満蒙開拓団の痕跡」、2012年7月22日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/7c1d82aa8387ba6c103cb98adbe46918
9)「大日向村は満蒙開拓団のモデルケース」、2012年7月29日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/06fc71750703afcedf419e93fd12aaa7
10)「開拓を知るなら北海道大学の第2農場」、2012年8月5日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/2322e0c4a6941da782c9f295a5aebddc
11)「戦争ポスターは焼却せよ」、2012年8月19日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/178c5a26cf3aa96d7fbdb5eb57653617
12)「戦争ポスターの謎とき」、2012年8月26日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/242a971ae119e2e0c77d5c9188b354b6
13)「戦争の証拠隠滅」、2012年9月2日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/6373e9fcdda2502639dac8eb230adcad
14)「重要書類は疎開から焼却へ」、2012年9月9日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/aa6a80156230a114c0eca482d765fd07
15)「幸せと戦争の閲覧状況」、2012年9月16日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/7e06acc3ac2f8fcfac8691dcf4566d79

「幸せと戦争」シリーズの閲覧状況はつぎです。



「大日向村は満蒙開拓団のモデルケース」は長いから、
「大日向村 満蒙開拓団」で検索した。
「開拓を知るなら北海道大学の第2農場」は長いから、
「開拓 北海道大学」で検索した。



1)「幸せを感じるときは?」、2012年6月3日。
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
と、機会をみつけては、人に聞いてみた。
できれば、過酷な体験をした人、
悲惨な体験した人に聞いてみたい。

極限状態を体験した人が、
感じる「幸せ」は、本物だろう。
自分の「幸せ」の参考にしたかった。

質問は、
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
がいいだろう。
「『幸せ』とは、なんですか?」
では、評論になってしまう。
抽象的なことを言っても、しようがない。

松本には、死線をさまよった人がいる。
召集で満州に行き、ソ連に侵攻され、
捕虜になって、シベリアの収容所に送られた。
収容所では、飢えと極寒の中、重労働を強いられて、
栄養失調、発疹チフス、それに、事故で大量の死者がでた。
シベリア抑留の極限状態を、乗り越えて、
生きて、日本にもどることができた。
穂苅甲子男(ほかり かしお)さんである。1924年生まれ。

シベリア俘虜記」。穂苅甲子男著。「光人社NF文庫。


シベリア抑留という極限状態を体験した「軍人」に、
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」と聞いた。
生きていることに、感謝している」
と、言われた。

「生きていること」は、当たり前だと思っていた。
当たり前のことが、極限状態を体験した人が感じる「幸せ」。
ありがたい言葉にしようと思う。そして、
「その日、その日を精一杯生きよう」と思う。
地震、災害が、いつおきるかわからない。
「今日も、がんばったな!」
「1日が、終わったな!」
と、酒を飲もう。

2)「満州からの引揚者の幸せは?」、2012年6月10日。
満州には、「軍人」(広東軍)、
満州鉄道ほか「仕事の人」、
「満蒙開拓団」(農業移民)、
など、155万人が渡った。

しかし、1945年8月9日のソ連の満州侵攻で、
命からがら日本に逃げもどった「引揚者」と、
死者、行方不明者、中国残留者がいる。
引き揚げるときの飢えと寒さ、発疹チフス、
襲撃、それに、集団自決で「死亡」した人、
シベリアへ「抑留」されて、死亡した人、
引き揚げるときに、親子バラバラになったり、
シベリアへ抑留されて、「行方不明」になった人、
満州に残され、「残留孤児」になった人、
それに、「残留婦人」である。

「仕事関係」では、観象台(気象庁)の家族がいる。
藤原正彦さんである。「国家の品格」の著者。
母、藤原ていさんの著書「流れる星は生きている」には、
母と子ども3人が満州から命からがら引き揚げてくることが書いてある。
父は新田次郎、「聖職の碑」の著者である。

藤原正彦さんの講演を聴くことができた。
わが父、新田次郎を語る」。2012年6月。諏訪市。


満州からの引揚者に聞いてみたい。
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
「わが父、新田次郎を語る」で、
藤原正彦さんは「幸せ」に触れた。
「人間の『幸せ』は貧富とは関係ない。
5人がそろって生活できることが『幸せ』だった」
と、言われた。

4)「満蒙開拓団の幸せは?」、2012年6月24日。
満州からの「引揚者」には、
「軍人」(広東軍)、
満州鉄道ほか「仕事関係」、
満蒙開拓団」(農業移民、武装農業移民)がいる。

満蒙開拓団等送出数上位県」。

「満蒙開拓平和記念館事業準備会」のリーフレットから。

長野県は、最大規模の37,859人を送り出している。
2位、山形県17,177人の2.2倍である。

「満蒙開拓団」は、全国から27万人、
その内、14%を長野県が占めた。
そして、「満蒙開拓団」で、
生きて帰ることができた人は約半数である。

高校の同窓会が松本であった。
参加者は、自己紹介を含めて、
簡単なあいさつをする。

「『満蒙開拓団』で、両親と満州に渡って、
ソ連の満州侵攻に遭い、日本に引き揚げてきました」
と言う大先輩がいた。

「満蒙開拓団」で、
半数の生きて帰ることができた人だ。
生き地獄を体験された方だ!

「満州で生まれて、10歳のときに母と2人の脱出だった」
と言う満蒙開拓団の人に聞いた。
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
日常の生活が、当たり前にできることです」
と、言われた。

5)「満蒙開拓団の女性に幸せはない」、2012年7月1日。
6)「世界で一番悲惨な言葉」、2012年7月8日。
「満蒙開拓団」で、
家族といっしょに満州に渡った15歳の女性は、
20歳のとき、ソ連の満州侵攻(1945年8月9日) によって、
母と6人の子どもの地獄の逃避行が始まった。

「満蒙開拓団」は、農業専従の移民のはずだったが、
父と弟は、戦局が悪化すると、
緊急補充兵として「根こそぎ動員」された。
開拓団には女性、子ども、老人が残された。

母を助け、5人の妹をひきつれて逃げた。
4人の妹は、飢えと病気で死に、家族がバラバラになった。
20歳の女性が日本にもどったときは、1人だけだった。

長野県の伊那で開催されたセミナーで、
その「満蒙開拓団」の女性が、
ゲストで出席されていた。

合間を見て、「満蒙開拓団」の女性に近寄って聞いた。
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」

女性は、カッ! と目を剥(む)いて、
「『幸せ』だ、と感じたことは、一度もない
さらに、念を押された。
これまで生きていて、『幸せ』だ、と思ったことはない」
と、言われた。

「満蒙開拓団」の女性を、もっと知りたい。女性の手記があった。
「隊列は戦いながら、前進していった」
「河にさしかかるが、深い河で馬が渡れない。
ここで馬車や、持っている荷物を捨て、
病人は置き去りにすることになった」

「の門外に出ると、急に左右の高粱(こうりゃん)畑から、
銃弾がピューと、流れるようにうなってくる」
「弾の中をくぐりぬけて、1日中逃げて日が暮れた。
翌日の朝、目が覚めてみると、
湿地の中に子どもが死んで浮いている。
周囲には知らない人が、道路に死んだように眠っている。
昨夜のことが悪夢のように思い出された」

「蜜林に入ることになったが、けわしい山で道がない。
仕方なく、足手まといになる子どもから、
捨てなければならなかった。
1人、2人と、河に捨てる人が多くなっていった。
私も7人まで捨てているのを見ていたけれど、
止めることも、助けることもできなかった」

「『おかあちゃん、いやだ』と泣く我が子を、
無我夢中で河に突き落とす。
濁流にのまれて行く子を、
親は放心状態で見ていた」

「毎日雨が降り、ぬかるみは膝までつかるほどで、
足が痛くなり、もう歩けなくなってきた。
1人、2人と山の中に残される人が増えてきた」

「11月初めごろから発疹チフスが流行した。
収容所の死体置き場が、山のように高くなっていた」

「満人たちはこのころから、お米お金を持って、
子ども主婦買いに来た」
「収容所にこのままいて死ぬか、
満人の家に行くか、2つに1つしか道はない。
生きていれば、日本に帰れるかもしれないと考えた人は、
満人の家へ子どもや娘を犠牲にしてやる人もいた。
また自分が主婦になった人もあり、さまざまであった」

「満蒙開拓団」の女性は、「生き地獄」を見た。
日本にもどった今でも、「怖い夢を見る」
「追われていくときの夢」と言う。

世界で一番悲惨な言葉は、
チェコ人と「満蒙開拓団」の女性である。
チェコ人は、世界から見捨てられ、
「満蒙開拓団」は、国家から見捨てられた。

チェコ人の言葉は、
「世界のだれも、助けてくれなかった!
どうしようもない、つらい時期だった」
と、やりきれなさ、絶望感がある。

プラハのヴァーツラフ広場にある「慰霊碑」。

ソ連が、「プラハの春」を踏みにじったことに抗議して、
2人の学生が相次いで焼身自殺をした。
“IN MEMORY OF THE VICTIMS OF COMMUNISM”
「共産主義の犠牲者たちを記念して」

7)「中国残留者2世の幸せは?」、2012年7月15日。
「満蒙開拓団」には、
日本に引き揚げることができなくて、
そのまま中国へ残った人、「残留者」がいる。
その中国残留者の「2世」の講演を聞く機会があった。

長野県立歴史館の企画展「長野県の満洲移民」の一環で演題はつぎ。
「二つの祖国を生きて -中国帰国者二世の経験から-」

長野県の豊丘村から「満蒙開拓団」として満州に渡った夫婦に、
男の子が生まれる。男の子が3歳のときに敗戦となる(1945年)。

「満蒙開拓団」は、中国人や朝鮮人の土地と家を取りあげて、
入稙したから、「侵略者」となって、恨みをかった。
敗戦とともに、「満蒙開拓団」は襲撃され、殺戮された。
青酸カリで集団自決する「満蒙開拓団」に豊丘村の一部があった。

しかし、3歳の男の子は中国人に救われた。そして、中国語で育った。
男の子は成人し、中国人女性と結婚する。そして、
3人の男の子と1人の女の子(1970年)が生まれる。
日本人の父、中国人の母、それに4人の子どもの一家6人は、
日本に帰ることを決意した(1978年)。女の子が8歳のときである。
家族は誰も日本語を話せない。
日本では、中国からの帰国者であることを悟られないような生活をする。

この中国で生まれた女の子が講演した「中国帰国者2世」である。
きれいな日本語で講演をする。
「中国残留者2世」に聞いた。
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
日本と中国で活躍できることです」。
と、言われた。

うれしくなるではないか。
日本の文化を知り、中国の文化を知っている。
そして、外から日本を見ることができる。
それに、内からも日本を見ることができる。
これは貴重な特性を身につけた人材である。
「中国残留者2世」のアイデンティティは、
両国の文化を知る日本人であり、中国人である。

9)「大日向村は満蒙開拓団のモデルケース」、2012年7月29日。
満蒙開拓団」の出発風景。大日向村。

長野県立歴史館の企画展、
「長野県の満洲移民」-三つの大日向をたどる-
のリーフレットから。
日の丸、鼓笛隊が先導し、移民団が続く。
それに、見送る村人も。

長野県の大日方(おおひなた)村は、
「分村移民」を決断した。
多くの村人を満州に送り込んで、
第二の大日方村をつくるのである。

昭和11年の大日方村の負債総額は36万2千円にのぼった。
これは、村の予算の12年分になる。
財政再建には、「分村移民」に頼ることになる。

分村移民」には、国から「特別助成金」が出る。
昭和12年、13年の2年間で得た特別助成金(4万7千円)は、
昭和12年の村の年間予算(3万3千円)を大きく超えた。
(「長野県の満洲移民」、長野県立歴史館発行から)

市町村の渡満者比率」。

「大日向村」は2,133人のうち、「分村移民」で、
664人が満州の「第二の大日向村」に渡った。

「大日向村」の渡満者比率は31.1%と高い。
「分村移民」のモデルケースとなった村である。

市町村の帰国者比率」。


「満蒙開拓団」は、敗戦で「地獄の逃避行」になる。
「第二の大日向村」は664人のうち、生きて帰国できた人は327人。
帰国者の比率は、満州に渡った人の半分以下の49.2%である。
死亡者ほかは337人で、
死亡者332人、
残留者3人、
不明者2人。

8)「満蒙開拓団の痕跡」、2012年7月22日。
「満蒙開拓団」を送り出した「村」の位置を、
満洲移民の市町村別比率」で示す。

「長野県の満洲移民」。長野県立歴史館発行から作成。

「満蒙開拓団」を送り出した「村」を見ると、
この村は、満州のどこに入植したのか?
と、興味が湧いてきた。それで、
「入植地一覧図」を作って見ようと思った。
入植地一覧図」。

「長野県の満洲移民」のリーフレットから作成。
は「大日向村」の入植地「大日向村」。「第二の大日向村」である。
は「泰阜村」の入植地「泰阜村」。
は「上久堅村」の入植地「上久堅村」。
は「阿智村」の入植地「阿智郡」。
は「富士見村」の入植地「富士見村」。
の「豊丘村」は、東と西の2か所にあって、
東は「神稲(くましろ)村」」の入植地「南五道崗」(みなみごどうこう)、
西は「河野(かわの)村」の入植地「河野村」。
集団自決をした主な12か所。

10)「開拓を知るなら北海道大学の第2農場」、2012年8月5日。
「開拓」なら北海道開拓がある。
「開拓」を知るなら「北海道大学」の「第2農場」がある。
ウィリアム・スミス・クラーク博士が構想する、
酪農家のモデル農場である(1876年)。
モデルバーン」(模範家畜房)。1877年竣工。

北海道農業のモデル(模範)として名づけられた「モデルバーン」。2012年7月撮影。

「満蒙開拓」は、1931年から移民が本格化している。
1936年に「20年で100万戸、500万人の移民計画」、
を、国策として定めている。
クラーク博士を招聘したのは1876年だから、
「満蒙開拓」の半世紀前である。

「モデルバーン」の2階は「農機具」の展示場になっている。
麦の収穫は手で刈り取る鎌(かま)から「リーパー」という機械が導入された。

人力作業から機械化によって、高能率の収穫が可能になった。

「リーパー」は穀類収穫機の元祖となって、
今日のコンバインにまで発展する。
農業技術発展のシンボル的機械である。
写真が撮れただけでも、ありがたい。2012年7月撮影。

「農業機械」の発展過程を示す標本は、
「農業技術史」の貴重な資料になっている。
これほど多くが残されているところはない。

3)「満蒙開拓団は阿智村に注目」、2012年6月17日。
「満蒙開拓団」は「阿智村」に注目したのには、わけがある。
a) 長野県は、「満蒙開拓団」を、
全国一、多く送り出している。
b) 阿智村を含む伊那谷が、長野県の中で、
「満蒙開拓団」を一番多く、送り出している。
c) 阿智村の旧清内路(せいないじ)村では、
村の人口の2割近くが、満州に渡っている。
d) 阿智村の「長岳寺」の住職、、山本慈昭(じしょう)さんは、
「残留孤児」を捜し、帰国のために奔走した。
e) 阿智村に、「満蒙開拓平和記念館」が建設される。
f) 阿智村で、「戦争ポスター」135枚が、見つかった。

満蒙開拓青少年義勇軍」を募集する戦争ポスター。
往け若人! 北満の沃野へ!!」。

阿智村が所蔵する「阿智村ポスター」。

「阿智村の原 弘平 元村長が、
保存していた戦争のポスターで、
国や県から、村に張るように配られた。
ポスターは、終戦直後に破棄を命じられたが、
『尊い教材になると考え、命がけで蔵に保管した』」
と、阿智村役場の課長は説明してくれた。

満蒙開拓青少年義勇軍」の府県別送出の「番付表」。

「終わりなき旅」。井出孫六 著、岩波書店から。

「満蒙開拓青少年義勇軍」の送出も、
長野県が東の「横綱」である。
こんな「番付表」は、もう(蒙)御免だ!

各村の学校長は、
「満蒙開拓青少年義勇軍」を送り出す任務をすすめ、
結果は、郡別の「番付表」で示された。

「中国残留邦人」-置き去られた60余年。
井出孫六 著、岩波新書から。

東の横綱を見ると、下伊那郡である。
阿智村のあるところ。
「満蒙開拓青少年義勇軍」は、
全国から8万6千人、そのうち、
長野県は6,595人、およそ8%を占めた。

11)「戦争ポスターは焼却せよ」、2012年8月19日。
戦争ポスター」は焼却せよ、
と国の決定があって、「戦争ポスター」は焼却された。
焼却されたはずだった「戦争ポスター」は、
長野県の阿智村から135枚が、まとまって見つかった。

機密重要書類」を焼却せよ、という通達があった。

長野県から各市町村長に宛てた通達、
機密重要書類焼却の件」である。松本市文書館で。

政府は1945年8月14日に、
「国や自治体の機密文書の廃棄」を閣議決定した。
戦争はなかったものにしようと、
戦争に関する一切の資料を焼却して、
戦争を歴史から消し去ろうとした。
軍と官僚による戦争の証拠隠滅である。
占領軍GHQの調査が始まるまえに、焼却を急いだ。
そして、軍関係、町村役場、学校、地域では、
数日をかけて重要書類を焼却、廃棄した。

「機密重要書類焼却の件」とは別に、昭和20年8月21日に、
戦争ポスター」は焼却せよ、という通達を、わざわざ出している。
「機密重要書類」は焼却せよ、の通達は昭和20年8月18日だから、
「戦争ポスター」は焼却せよ、の通達は3日後である。

長野県から各市町村長に宛てた通達、
東亜戦争関係ポスター類焼却の件」である。松本市文書館で。

「大東亜戦争関係ポスター類焼却の件」では、
「戦争ポスター」の焼却を命じている。
そして、学校や各種団体に通達すること、
この通達そのものも焼却することを命じている。
「戦争ポスター」があり、焼却することを命じた公式文書である。

阿智村の原 弘平 元村長が、「戦争ポスター」は、
尊い教材になると考え、命がけで蔵に保管したから、
焼却されずに135枚が、まとまって見つかった。
軍・政府の命令に背くから、当時としては、命がけだった。

12)「戦争ポスターの謎とき」、2012年8月26日。
「戦争ポスター」はどこが作ったか?
組織がかりで「戦争ポスター」を作ったにちがいない。

「戦争ポスター」は大プロジェクトである。
ポスターの研究、軍や政府機関との折衝、企画、
著名作家の選定や依頼、公募、許認可、検査や検閲、
印刷会社や紙メーカーなど業者との折衝、スポンサーとの折衝や監修、
効き目の検証、予算の獲得、自治体への配布、そしてポスターの焼却命令・・・。

戦争宣伝のために設置した「情報局」であることがわかった。

法政大学大原社会問題研究所HPより。

「戦争ポスター」の謎ときができた。
1)「阿智村ポスター」はなぜ、残っていたのか?
阿智村の原 弘平 元村長が、
尊い教材になると考え、命がけで蔵に保管したから。
2)「戦争ポスター」はなぜ、なくなってしまったのか?
「戦争ポスター」は焼却せよ、という公式の命令、
「大東亜戦争関係ポスター類焼却の件」があったから。
3)「戦争ポスター」はどこが作ったか?
戦争宣伝のために設置した「情報局」であった。

13)「戦争の証拠隠滅」、2012年9月2日。
昭和20年(1945年)8月15日の終戦の前日、1945年8月14日に、
「国や自治体の機密文書の廃棄」を閣議決定した。

軍・政府は、戦争に関する一切の資料を焼却して、
戦争はなかったものにしよう、
戦争を歴史から消し去ろうとした。

占領軍GHQの調査が始まるまえに、機密文書の焼却を急いだ。
そして、軍関係、町村役場、学校、地域では、
数日をかけて機密書類を焼却、廃棄した。
軍と政府による戦争の証拠隠滅である。
犯罪者は証拠隠滅をする。

戦争の証拠隠滅は、「機密重要書類」を焼却せよ、という通達である。
機密重要書類焼却の件」。松本市文書館で。


長野県から各市町村長に宛てた通達。

「機密重要書類焼却の件」は、
昭和20年8月18日の発行である。
昭和20年8月15日の終戦の3日後で、
昭和20年9月2日の無条件降伏の前になる。
戦争の証拠隠滅に、軍・政府はあわただしく動いた。

「機密重要書類焼却の件」の中身は、
各種機密書類」、「物動関係書類」、
統計印刷物」などの、焼却を命じている。
そして、学校や各種団体に通達すること、さらに、
この通達そのものも焼却することを命じている。

戦争の証拠隠滅は学校にもあった。
職員会の議事録「昭和20年度 職員会誌」である。本城国民学校。


昭和20年8月24日の職員会では、つぎのことが伝達された。
戦争に関する閲覧状況書類焼却の指示が、
校長会を通じて国民学校におろされ、
戦争に関する一切の資料焼却している。
それに、敗戦の責任国民全体にて負うこと、
軍および政府に対する戦争責任の追求はするな、と、
軍・政府は戦争の責任逃れをはっきりと伝えている。

14)「重要書類は疎開から焼却へ」、2012年9月9日。
重要書類」はいったん「疎開」し、
それから「焼却」された。

本城国民学校の職員会の議事録、
「昭和20年度 職員会誌」に載っていた。
昭和20年8月15日に終戦になるが、
敗戦が色濃くなった昭和20年7月18日の職員会の記録では、
重要書類」を「疎開疎開」させることが伝達されている。


七.一八
一、松根隊慰問につき
  20日午後5時より約1時間の予定にて、
  南裁縫室にてなす
二、藤井君壮行会
三、高学年の作業につき
  19日-20日 5、6年 薪だし
  21日-22日 勤労奉仕 (高2男 調査)
  23日    麦脱穀
  24日-25日 家庭作業日
  26日-27日 水田除草 勤労奉仕
四、学校備品の疎開につき
  19日 午後各学校において準備
  20日 高学年を利用した疎開
     大沢分教場 図書および重要機具類
     伊切分教場 重要書類

五、馬の飼育管理につき

ところが、一か月後の昭和20年8月24日の職員会の議事録では、
重要書類」を「焼却」することを伝達している。


八.二四
一、知事の訓令および大臣訓令につき、校長朗読
二、知事の告諭朗読
三、校長会の報告
 1、軍人援護および治安維持に就いて
 2、政府の経過発表は近い中にあるという
 3、戦後社会の輿論の取締を厳重にする由
  ○大御心を奉体し国体護持をすること、
   全国民は親和、臥薪嘗胆の志で処すること、
  ○敗戦の責任国民全体にて負うこと、
  ○上体1人に対し奉りては律統の精神をもって
   壱忠の誠をいたすること、(このように読めたが?)
  ○難局打開を子々孫々に到るまで克復し、
   中途にて斃(たお)れるがごとき事なきこと、
  ○直接行動を戒めること、
  ○共産主義革命的言論を取締ること、
  ○痛憤悲哀の心は認めるし、批判も認める、
   然し、廟議決定に反する戦争継続論または、
   国民の結束を乱すがごとき言論は取締る、
  ○軍か政府に対する戦争責任追求の論議は取締る。
  ○直接行動をそそのかすごとき言論、
   自暴自棄に導くがごとき言論は取締る、
 4、書類の焼却をなすこと
  ○戦力増強のために参加した事の分かるようなもの、
   学徒動員、校舎転用、翼賛会、青年団等の関係書類、 
   その他、義勇隊、学徒隊等の書類、
  ○国力判定に資する統計類および資料
  ○青年学校教練科の年度表

 5、学徒指導に関し
  ○学校工場は至急取り去ること、
  ○中等学校は指示あるまで教科書を停止のこと、
   男子学徒は集団的に増産に、
   女子学徒は家庭に入ること、
  ○国民学校授業休止は7月30日付通牒によること、
  ○高等科、工場出勤学徒は指示あるまで授業を停止すること、
  ○応召軍人教員は順次帰還するにより補充せぬこと
 6、応召者の隊者、現役者、休職者の報告をすること
   形式
   応召月日 資格 財産 俸給 氏名 勤務地(内地、外地) 応召現役の別
  ○青年学校、国民学校は別紙によること
   教学課長宛に提出のこと
 7、学級増加は認める 70人以上
 8、加配米は8月15日以降認めず
 9、増産協力賞誉金 180円配当する
   19年度9月以降至籍せよ(このように読めたが?)
   高等科児童へ等分し貯金すること
 10、焼却書類
   青少年団綴
   通牒中のものを取り去る
   武道用具、銃器類は一括して始末する
   統計年鑑等

「重要書類」は、昭和20年7月18日に、
いったん分教場に「疎開」して、機密を保とうとした。
しかし、GHQの調査が入るまえ、昭和20年8月24日に、
「焼却」に切り替えて、戦争の証拠隠滅をした。

こうして、占領軍GHQの調査が始まるまえに、
軍・政府は、戦争の証拠隠滅を徹底してやった。
国民を恐怖で脅して実施した戦争の証拠隠滅だった。

犯罪者は証拠隠滅をする。しかし、
国際社会は、軍・政府を犯罪者とした。
戦争犯罪が裁かれ、犯罪者は極刑になった。
がなくなった。大日本帝国は崩壊した。
そして、日本が更生するまで、
7年近く、日本は連合軍の占領下にあった。
だれもが思い出したくない戦争の結末。

15)「幸せと戦争の閲覧状況」、2012年9月16日。
月桂冠」のポスター。多田 北烏(ただ ほくう)作。1933年

「大正レトロ・昭和モダン 広告ポスターの世界」、
姫路市立美術館・印刷博物館編、国書刊行会から。

1935年の「月桂冠」、松田富喬作では、
うしろに銃を持つ兵士の像を置いた。

「明治 大正 昭和 日本のポスター」、三好 一著、京都書院から。

酒は月の女神と飲むのがうまいに決まっている。
兵士が銃を持って後ろで構えていたら、うまくなくなる。
ポスターの許可を得るために、銃を持った兵士像を加えた。

1940年に「贅沢品禁止令」がでて、
1942年の標語は、「欲しがりません、勝つまでは」だった。
しかし、この窮乏生活のときでも、
酒のポスターはカラフルで金がかかっていた。
窮乏した世の中でも、ビールや酒を飲める人は?
陸軍(星)、海軍(錨)、ヤミ屋、有力者(顔)だろう。

「世の中は、(イカリ)にヤミ馬鹿者のみが行列に立つ」
これは、陸軍(星)、海軍(錨)、ヤミ屋、有力者(顔)には、
潤沢に米が回り、正直者の庶民は配給米の列に並んで、
米を手に入れる世の中であることを指す戯(ざ)れ歌。

「物が足りないのはガマンできるが、
不平等はガマンができない」
と、いきどおっている。


「幸せと戦争」シリーズは、おかげさまで、
多くの方から閲覧いただきました。
ありがとうございます。
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閲覧状況2012年 東山魁夷シリーズ

2012-12-09 00:12:09 | Weblog
2012年の締めくくりは、「季節の変化」で、
読者はどのシリーズのタイトルに、
興味や関心をもたれたのだろうか?
2012年の閲覧状況をみている。

2012年の「季節の変化」の掲載はつぎである。
御柱祭、縄文文化」シリーズ、
放射線量」シリーズ、
東山魁夷」シリーズ、
幸せ戦争」シリーズ、
駒ヶ岳、氷河地形、紅葉」シリーズ、
草間彌生」シリーズ。

2012年の閲覧状況の3回目は「東山魁夷」シリーズ。
「東山魁夷」シリーズ18回(一部2011年)。
1)「東山魁夷の「花明り」」、2011年11月6日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/5d2fb467f0b2f445c4612087812e077d
2)「東山魁夷の「年暮る」」、2011年11月13日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/a5dac37b237ee890a9b85629131e1808
3)「東山魁夷の「緑のハイデルベルク」」、2011年11月20日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/f7c7523990957d0900cf066cf0984e63
4)「川端康成、東山魁夷、井上靖の安曇野」、2011年11月27日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/e0ec23bbd5be088a697624dd222d06bc
5)「東山魁夷の「安曇野を想う」」、2011年12月4日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/6b4d0e185dffac26dde0160f895e6f31
6)「東山魁夷が想う京都」、2012年2月19日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/ba8c3630ff34fb37eea0fbf652e8f504
7)「東山魁夷の安曇野への旅」、2012年2月26日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/4299107241d287b1069fb4d678761e32
8)「東山魁夷の「年暮る」から半世紀」、2012年3月4日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/4299107241d287b1069fb4d678761e32
9)「東山魁夷の「北山初雪」は残っていた」、2012年3月11日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/2ffa9c842818d587aaa8d8f90d339cd9
10)「東山魁夷のハイデルベルクはドイツの京都」、2012年3月18日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/63fd6769eb683384262393522d7e20b1
11)「東山魁夷のザルツブルク」、2012年3月25日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/65a99ce58c1287c48ccb357e29176a03
12)「東山魁夷の北欧」、2012年4月1日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/d27c6e3e43951a5789a0996817186533
13)「東山魁夷の「行く秋」が生まれた町」、2012年4月8日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/09c25b7272ba08d2403ea3ad61313afe
14)「東山魁夷と信州の絆」、2012年4月15日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/9e52195242e2cea284b414a400fd22d9
15)「東山魁夷の「自然は心の鏡」」、2012年4月22日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/9ff6b846278e55a02e7ee7f05e429595
16)「東山魁夷の「残照」」、2012年4月29日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/88651acd2017d5783aa6c0f4d183cf22
17)「東山魁夷の心の故郷を失った人」、2012年5月6日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/49d960a63fc3dec03c02b81f75574623
18)「東山魁夷のブログの閲覧状況」、2012年5月13日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/2ae595d72a2bc0c938b331f3a573c584

「東山魁夷」シリーズの閲覧状況はつぎです。






1)「東山魁夷の「花明り」」、2011年11月6日。
春になると、東山魁夷の「花明り」を玄関に飾る。1968年の作品。

A4サイズで小さいから525円だった。でも、私の宝物。

2)「東山魁夷の「年暮る」」、2011年11月13日。
8)「東山魁夷の「年暮る」から半世紀」、2012年3月4日。
年暮る」。1968年の作品。

山種美術館のリーフレットから。
東山魁夷が「年暮る」を描いたきっかけは、川端康成の進言であった。
「京都は、今描いていただかないと、なくなります。
京都のあるうちに、描いておいてください」
それで、東山魁夷は「京洛四季」を描いた。
「京洛四季」の一つが「年暮る」である。

東山魁夷の「年暮る」(1968年)から、
半世紀たって、東山方面を眺めた「街並み」(2012年)。

「年暮る」から半世紀たって、
「年暮る」は、なくなってしまった。

半世紀前よりも、建築の「技術」は進歩した。
それに、「美意識」も向上しているだろうから、
京都の街は、半世紀前よりも、きれいになっていい。

ところが、きれいになっていない。
雑然としていた。
半世紀前のほうがきれいだった。
なぜだろうな?

まわりとの調和をまったく考えない建築、
自分だけが主張する建築、
街の景観を考えていない建築、
になっている。

6)「東山魁夷が想う京都」、2012年2月19日。
東山魁夷が「年暮る」を描いたきっかけは、川端康成の進言であった。
「京都は、今描いていただかないと、なくなります。
京都のあるうちに、描いておいてください」

それで、東山魁夷は「京洛四季」を描いた。
本もある。87の絵とエッセイの「京洛四季」、東山魁夷小画集。

東山魁夷著、新潮文庫。

川端康成は、「京洛四季」に序文を寄せた。
「都のすがた――とどめおかまし」
「山崎、向日町(むこうまち)あたりの竹林も、
やたらと宅地造成に掘り返され、切りひらかれて、
京都の味の筍(たけのこ)産地もなくなってゆく・・・。
嵐山(あらしやま)の松が何千本か、かれるにまかされた・・・」
「来るたびに私は『看都満眼の涙』である」

「京都は今描いていただかないとなくなります。
京都のあるうちに描いておいて下さい、
と私は数年前しきりと東山さんに言ったものである。
その私のねがいが、東山さんの『京洛四季』のみごとな連作大成に、
いささかの促しになったのは、私の幸い、よろこび、言葉につくせない」

遠い京都」。「東山魁夷画文集5」、新潮社。
「京都が今日に伝え得たものの中には、
世界的に貴重なものが沢山ある。
京都の誇り、日本の誇りということを越えて、
人類全体の重要な文化的な遺産なり、
日本の伝統美を伝え発展させた多くの
技術的なものを持っている」

「京都が京都として、より生きるためにも、
日本国中どこにでもあるような都市になってしまうことなく、
京都のみ存在する価値あるものを失わないことだと思うのだが、
京都の此頃の様子を見ていると、どうも、
特色のない地方都市になり下がるように、
努力している傾向も見える」

「京都自身が、京都から遥か遠くへ離れていくことを感じる」

「観光ということほど、
その地元側からも、観光客の側からも、
間違った意味で行われていることが、
今日の日本ほど甚だしい例を私は知らない」

「美しい自然や建築や町の風致を破棄することに、
全力を挙げているのが日本の現状である。
こんな馬鹿々々しいことがあるものかと、
嘆く一部の人々の声は、
土地開発とか、レジャーブームという騒々しさの中に、
掻き消されてしまっている」

「『看都満眼の涙』とは、
川端先生が、私の画集『京洛四季』のために、
書いてくださった序文の中の言葉である」
で、「遠い京都」は終わっている。

3)「東山魁夷の「緑のハイデルベルク」」、2011年11月20日。
10)「東山魁夷のハイデルベルクはドイツの京都」、2012年3月18日。
緑のハイデルベルク」。1971年の作品。

北澤美術館で。絵はがきから。

ハイデルベルク」の写真 (1989年)。


4)「川端康成、東山魁夷、井上靖の安曇野」、2011年11月27日。
5)「東山魁夷の「安曇野を想う」」、2011年12月4日。
7)「東山魁夷の安曇野への旅」、2012年2月26日。
川端康成、東山魁夷、井上靖は信州の安曇野(あずみの)へ旅した。1970年5月12日。

「川端康成と東山魁夷 響きあう美の世界」。求龍堂、2006年発行。

長峰山には、東山魁夷の碑、「安曇野を想う」がある。


 安曇野を想う
        東山魁夷

五月の若緑に蔽われた安曇野はなんと美しかったことか
上高地から流れ出る梓川が高瀬川と合流し
犀川となって北に流れる平野の上に高く連なる北アルプスの山々
常念、東天井、燕と
長峰山の上で案内人の指し示す残雪の嶺々を仰ぎながら
飽かず眺めたひとときが忘れられない

長峰山から、安曇野と朝焼けの北アルプス。2011年11月。


9)「東山魁夷の「北山初雪」は残っていた」、2012年3月11日。
川端康成がノーベル賞を受賞したお祝いに、
東山魁夷は「北山初雪」を贈った(1968年)。

「現代日本の美術」、「東山魁夷」。集英社、1976年発行から。

川端康成が文化勲章を受章したお祝いに(1962年)、
東山魁夷は「冬の花」を贈った。

「今、ふたたびの京都」、平山三男編、求龍堂発行から。

11)「東山魁夷のザルツブルク」、2012年3月25日。
東山魁夷は、「ホーエンザルツブルク城を雪の樹間に、
心の中で創り出した幻想」として、
雪の城」を描いた。1970年の作品。


「ザルツブルクで最も美しい眺めの一つ」
と、東山魁夷が言う、
ミラベル宮殿の庭園から、ザルツブルクのランドマーク、
ホーエンザルツブルク城」を眺めた。1989年。

手前の青いドームは、ザルツブルク大聖堂。

「最も好きな町の一つ、ザルツブルク」を、
「心ゆくまで、味わい楽しんだ」

12)「東山魁夷の北欧」、2012年4月1日。
白夜光」(びゃくやこう)、フィンランド。1965年の作品。

「真夏の夜、太陽はほんのひととき地平線の下に隠れる」
「森と湖と」、新潮文庫から。

東山魁夷は、北欧をつぎのように言っている。
「私は若い頃から、
北方に惹(ひ)かれる性格を持っていたのです。
戦前の留学地もドイツのベルリンであり、
戦後初めての欧州の旅は、デンマーク、ノルウェー、
スウェーデン、フィンランドの、いわゆる北欧四カ国でした」

フィンランドのラップランドの夕陽。

森、湖、森が続く。太陽は森から昇り、森に沈む。

「清澄な自然と素朴な人々の生活に接しての喜び、
静かで暖かい感動が長く心に残った。それは、
心の映像を一つ一つ辿(たど)って行くような旅であったため、
数々の作品となって結晶した」
「森と湖と」、新潮文庫から。

13)「東山魁夷の「行く秋」が生まれた町」、2012年4月8日。
秋になると東山魁夷の「行く秋」を玄関に飾る。

A1サイズで大きいから1,050円だった。私の宝物。

紀行文「馬車よ、ゆっくり走れ」の、
ドイツの地図に文字を書き入れた。


ベルリン④のティーヤガルテンか?
「私の足は、自然にティーヤガルテンの中へ入って行った」
「もう、ベルリンにも別れる時が来た。
白樺の林の道を、池の岸へと歩いて、
ふと、心に思い当ることがあった。
これが私の心に、長い間、郷愁の象徴として、
潜在していた風景ではなかったかと」

ハンブルグ⑤のザクセン・ヴァルトか?
「ザクセン・ヴァルトの秋に心を打たれたのは、
私の画家としての振り出しの地点であったのです」
「行く秋」を記述している文がある。
「木の落葉も、その木を中心として、
落ちたままの場所に積もってゆくのです」

14)「東山魁夷と信州の絆」、2012年4月15日。
「私が初めて信州を旅したのは、
東京美術学校、日本画科1年生のときだった」
「8日間のテント旅行で木曽路を旅し、御嶽山に登った」(1926年)。

冬の「御嶽山」。霧ヶ峰から望む。


「横浜生まれで、神戸で少年期を過ごした私は、
初めて接した山国の自然の厳しさに、
強い感動を受けるとともに、
そこに住む素朴な人々の心の温かさに、
触れることができたのです」

「それ以来、山国へよく旅をするようになり、
信濃路の自然を描くことが多くなりました。
そして、風景画家として一筋の道を歩いてきました」

15)「東山魁夷の「自然は心の鏡」」、2012年4月22日。
自然は心の鏡」。

東山魁夷のお墓にある石碑。

「私のように、戦前戦後を通じて、
始終、旅行している者から見ると、
もう遠くない将来に、
『日本は風景の美しい国であった』
と、過去形で語らねばならない時が来ると思う。
いや、現在、そうなっているとさえいえる」

「自然美だけでなく、
民族の生活のにおいを残している古い町も、
ほとんどが何とか銀座と名のつく、
安っぽい町並みに変わってしまった」

「風景美はだれのものか。
心ない行楽客のものでなく、
観光事業会社のものでなく、
われわれ国民全体の所有である」

16)「東山魁夷の「残照」」、2012年4月29日。
東山魁夷の「残照」。1947年の作品。

「東山魁夷画文集」、東山魁夷著、新潮社、1979年から。

「第三回日展に出品した『残照』は、
特選となり、政府買上げとなって、ようやく、
私の仕事が世に認められるきっかけとなったのである」

東山魁夷39歳である。
画壇に認められるまで、
苦難で、長い道のりだった。

17)「東山魁夷の心の故郷を失った人」、2012年5月6日。
「東山魁夷画文集 風景との対話」、東山魁夷著、新潮社、1978年から。
「私は東京美術学校を卒業すると結城先生に師事し、
研究科に籍をおいて欧州へ行く準備をはじめた。
まだ、自分の将来に、たっぷりと時間がある、
と思っていた若い日のことである」

「ただ一通りの美術行脚の旅でなく、
西洋で生活することによって、
そこから日本を振り返ってみたいと思った」

「東山魁夷画文集 美の訪れ」、東山魁夷著、新潮社、1979年、
「心の故郷」から。
「若いとき、外国での生活という、
道草をくっていたときがありました。
西洋の芸術や、町に親しさを感じたことがありますが、
それは、いまになってみると、
日本の風景や文化に対する愛着を深めるための、
回り道であったように思えます」

「こういう意味からいえば、
私は故郷を見失った人間ではなく、
故郷を心の中に持っているともいえるのでしょう。
そして、逆に、いまの日本には心の故郷を失った人が、
多すぎると考えるときがあります」

」。1950年の作品。

「東京国立近代美術館」所蔵。絵はがきから。

18)「東山魁夷のブログの閲覧状況」、2012年5月13日。
東山魁夷の絶筆、「夕星」(ゆうぼし)。1999年。

「東山魁夷館」所蔵。絵はがきから。

東山魁夷のお墓。

善光寺大本願、花岡平(はなおかだいら)霊園。長野市。2012年4月。
赤い信州りんごと、白い干し柿で、お墓が明るくなった。

「東山魁夷」シリーズは、おかげさまで、
多くの方から閲覧いただきました。
ありがとうございます。
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閲覧状況2012年 放射線量シリーズ

2012-12-02 00:12:02 | Weblog
2012年も12月を残すだけになった。
2012年の締めくくりは、「季節の変化」で、
読者はどのシリーズのタイトルに、
興味や関心をもたれたのだろうか?
2012年の閲覧状況をみている。

2012年の「季節の変化」の掲載はつぎである。
御柱祭、縄文文化」シリーズ、
放射線量」シリーズ、
東山魁夷」シリーズ、
幸せと戦争」シリーズ、
駒ヶ岳、氷河地形、紅葉」シリーズ、
草間彌生」シリーズ。

2012年の閲覧状況の2回目は「放射線量」シリーズ。
1)「福島市の放射線量2012年」、2012年1月22日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/2942155d17396e57ce694557cf16e261
2)「累積の被ばく量が1mSvを超えた」、2012年5月20日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/17eac3dac01b2c12fae54c8ab6381dfd
3)「このブログの人気記事は「福島市の放射線量」」、2012年5月27日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/c52df0802fcb9eb5c8c7d19ad49e2010
4)「日本のランドマークは原爆ドームと原発の廃炉」、2012年8月12日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/b46dc71e9cf6be905384b7379af39ee5
5)「南相馬市の放射線量」、2011年7月10日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/a01c1d1ec1ed310effe03992a7f9b83d
6)「福島市の放射線量」、2011年9月11日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/f6427ef824f387fce8ed19399f00f7cf
7)「東北新幹線の放射線量」、2011年9月18日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/c3d0691423740012734ab8dd94e63286
8)「六ヶ所原燃PRセンターの放射線量」、 2011年10月9日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/ee2d42dc62242be4c1b26d5d0434d5c1
一部2011年を含める。



1)「福島市の放射線量2012年」、2012年1月22日、
3)「このブログの人気記事は「福島市の放射線量」」、2012年5月27日、
5)「福島市の放射線量」、2011年9月11日について、
福島市の放射線量」をまとめるとつぎの表になる。


「福島駅周辺施設案内」に上記の測定場所①~⑨を記入した。


「福島市の放射線量2012年」、2012年1月22日を掲載したあとで、
2012年6月19日に4回目の福島訪問をした。
上記の「福島市の放射線量」の表には、4回目の測定を加えた。

4回目は、
A)新たに福島駅前⑨で測定してみた。
B)それに、紅葉山公園⑥の除染は進んでいるのだろうか?
C)そして、そのほかの場所は変化しているだろうか? をみた。

結果はつぎである。
A)福島駅前⑨は、1.60マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]だった。


国際放射線防護委員会(ICRP)は、毎時の被曝限度を、
0.52マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)と定めている。
それで、放射線量計は、
0.50マイクロ・シーベルト毎時(μSv/h)を超えると、
警告するように設定しておいた。
福島市内では放射線量計がピッピッ鳴る。
「この場所から、すぐに退避しろ!」の合図だ。

人通りが多いから、放射線量の測定には、
怪訝(けげん)そうな顔を向けられないうちにすばやく測った。
1.60マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]とは心配だ。
福島駅前⑨は、一番人通りの多いところだけに。

福島駅前⑨。東口広場の案内板の前で測定。

左は花時計になる。

B)紅葉山公園⑥の除染は進んでいなかった。

2012年1月14日は、23.6マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]で、
2012年6月19日は、21.3マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]だから、
紅葉山公園⑥の除染は進んでいなかった。

紅葉山公園⑥は市民の散歩道になっている。
それに、すぐとなりは「知事公邸」。

佐藤 福島県知事はだいじょうぶだろうか?

C)県庁前公園⑦は除染をした。
なんでわかったか? というと、
お知らせ」、「この公園は、除染作業が完了しました」があった。


同じ場所に2011年9月6日には、
警告版「公園を利用する皆さんへ」があったが、

「お知らせ」、「この公園は除染作業が完了しました」に置き換わっていた。

そして、県庁前公園⑦は除草され、新しい土が入っていた。
除染が完了した県庁前公園⑦の放射線量は、
0.54マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]だった。

2011年9月6日が、2.65マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]だったから、
2012年6月19日の0.54マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]は、
除染が格段に進んだことを示している。しかし、
放射線量計はピッピッと警告する。
十分に除染することは難しい。
大木を切るわけにはいかないから。

D)除染は大変な作業である。
天神橋-西④が示している。2012年6月19日

警告版「公園を利用する皆さんへ」は、2012年1月14日に見たままだった。
「お知らせ」、「この公園は除染作業が完了しました」に、置き換わっていなかった。

右は、「古関裕而生誕百年記念歌碑」、右は天神橋。手前はベンチ。
右の黒い手すりから、中央の阿武隈川沿いの公園に下りていく。
左手前の草むらにある黒いのが放射線量計。

天神橋-西④の放射線量は、
4.14マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]だった

2012年1月14日が、3.33マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]で、
2012年6月19日が、4.14マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]だから、
放射線量は減少していない。

福島県庁前公園⑦は除染が進んだが、
それ以外は、除染が手付かずであることは、
天神橋-西④のほか、紅葉山公園⑥でも、福島県庁③でも、
放射線量が減少していないことでわかる。

私は福島市の地理に詳しいわけではないから、
福島市内をグルッと歩いて、放射線量を測った。
福島市では、もっと系統的に放射線量を測って、
除染は、優先度を決めて進めていると思う。

福島第一原発の事故から1年以上たったが、福島市や福島県の除染は、
この先、何十年かかるのだろうか? 半世紀か?
何兆円かかるのだろうか?  何十兆円か?
大木を切り倒すのか?
気が遠くなりそうだ。

2)「累積の被ばく量が1mSvを超えた」、2012年5月20日。
国際放射線防護委員会(ICRP)は、被ばく量の限度を定めている。
毎時の被ばく量は、0.52マイクロ・シーベルト[μSv/h]、
年間の被ばく量は、1ミリ・シーベルト[mSv/y]である。

放射線量計を入手したのは、
東電の福島第一原発事故があった3ヶ月後の、
2011年6月15日だったから、2012年6月15日で1年になる。

1年以内の2012年4月29日、319日目に、
累積の被ばく量が1ミリ・シーベルト[mSv]になった。

右下に累積1.0mSvを示す。気分がいいものではない。

どこで被ばくしたのだろうか?






放射性物質は風に運ばれ、雨や雪で山に積もる。
富士山、御嶽山ほか、長野県の山で測定した。



4)「日本のランドマークは原爆ドームと原発の廃炉」、2012年8月12日。
メルトダウンした福島第1原発。2011年3月。

NY Timesから。

「原発」は人知でコントロールできるものではない、
ことを、福島は世界に示した。
原発の廃炉には、半世紀かかる。
廃炉には、国民の税金を使う。


5)「南相馬市の放射線量」、2011年7月10日。
「南相馬市の放射線量」、2011年7月10日を掲載したあとで、
2012年6月18日に南相馬市を訪れた。
「南相馬市の放射線量」の表には、2回目の測定をつけ加えた。


2011年6月29日から1年たった、
2012年6月18日の大きなちがいは、
街には人が歩いていたことだった。
1年前は、人通りがなかった。
外出は車で、窓を閉め切っていた。
今回は、歩いていている人を見た。まばらだが。
それに、商店が開いていた。ちらほらと。
南相馬市内では放射線量計がピッピッ鳴り続けるが。

そして、小学校から児童の声が聞こえてきた。
原町第一小学校。

2011年の10月に再開して、4割の児童がもどったと、市民は言う。
外でボールを追いかけていた。マスクに長袖の子と、
マスクなし、半そで、半ズボンの子がいる。

放射線量はどうだろうか? フェンスの外で測った。
1.09マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]だった。

「高い!」
「この場所から、すぐに退避しろ!」のレベルだ。
しかし、小学校の再開は学校、相馬市、福島県が総合的に判断したのだろう? 

汚染されているのは学校だけではない、
街中いたるところで放射線量計がピッピッ鳴る。

「口では避難しろ!」と言うが、
「どこへ行けと言うのだ!」
簡単には避難できない。
厳しい現実だ。
児童の健康障害の問題がある。
家族の自己責任にする人はいないと思うが。


7)「東北新幹線の放射線量」、2011年9月18日。
東北新幹線の車内の放射線量を、米国エネルギー省が公表している。
仙台から東京へ乗客として乗って放射線量を測定した。2011年5月3日。
http://energy.gov/situation-japan-updated-051311

仙台から東京まで片道2時間半の被曝量は、
0.40マイクロ・シーベルト[μSv]である。

米軍の基地や施設で、健康に問題がない被曝量を、
0.32マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]としているが、
福島は、0.44マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]だから、
健康に問題がない被曝量の限度を超えている。
ほかに、
郡山も、0.52マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]、
新白河も、0.40マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]、
那須塩原も、0.46マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]、
と、健康に問題がない被曝量の限度を超えている。

東北新幹線の仙台、福島、郡山、宇都宮、大宮の各駅で、
放射線量を測定した。
東北新幹線の各駅の放射線量」。

福島駅-東が、2.46マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]と、一番高かった。
各駅とも東口は、西口よりも高い放射線量だったが、
福島第一原発が、東北新幹線の東側にあるから。


8)「六ヶ所原燃PRセンターの放射線量」、 2011年10月9日。
六ヶ所原燃PRセンター」に、
原子力発電の安全性」というパネルがあった。

5重の防壁
「原子力発電所では、どのような場合においても放射性物質を閉じ込め、
外へ出さないしくみになっています。それが「5重の防壁」です」
とある。

第1の壁 ペレット
第2の壁 被覆管
第3の壁 原子炉圧力容器
第4の壁 原子炉格納容器
第5の壁 原子炉建屋
 原子炉を納める建物です。
 厚いコンクリート壁で放射性物質を閉じ込めます。

しかし、福島第一原発の事故で、「5重の防壁」は破壊された。
メルトダウンで、第4の壁「原子炉格納容器」までが溶け、
爆発で、第5の壁「原子炉建屋」が吹き飛んだ。
閉じ込めるはずの「放射性物質」は飛び散った。

原発の「安全神話」は崩れた。信頼を失った。
それに、「核燃料サイクル」の見通しもたっていない。

「放射線量」シリーズは、おかげさまで、
多くの方から閲覧いただきました。
ありがとうございます。
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