第2次世界大戦で廃墟となった国会議事堂は、
修復されて、機能を回復するまでに、半世紀かかった。
冷戦の最前線にさらされた西ベルリンの市民に、
笑みがもどるまでには、半世紀かかった。
西ベルリンの仮設スタンドから見たベルリンの壁。
ベルリンの壁、無人地帯、奥の白い壁、照明、監視塔の、
東西ベルリンを遮断する一式が見える(1988年)。
中央の白く、ポツンと見える建造物が監視塔。
仮設スタンドから降りて、監視塔に近づいた。
ベルリンの壁の上から、監視塔の上半分が見える。
上の黒が監視室で、その下に銃眼が各面にあり、
屋上には、サーチライトがある。
――西ベルリン市民は、こんな壁を見て生活しているのか!
こんな人間の檻(おり)にグルリと囲まれていたら、
精神がおかしくなりそうだ。28年も囲まれていることになる。
時おり、脱出者は射殺されている。精神の安まるときがない。
ベルリンの壁によって、東西に引き裂かれた離散家族もいる。
結婚する平均年齢の調査で、世界の中で西ベルリンが高かった。
これは、冷戦の最前線にさらされて、これからどうなるか?
先が見えない状況では、家庭を持つ希望が抱けなかった。
東西ベルリンを見るバス・ツアーは、
ソ連の戦勝記念碑を、西ベルリンで見た。
――ソ連の記念碑が、どうして西ベルリンにあるのだろう?
戦勝記念碑は、国会議事堂に近いベルリンの中心街だ。
ベルリンの壁にも、ブランデンブルク門にも近い。
戦勝記念碑は、立ち入り禁止で、右のソ連兵が警備していた。
「第2次世界大戦で、ソ連軍がベルリンに侵攻した、
ということで(1945年)、ここは西ベルリンだが、
ソ連は記念碑をつくって、管轄している」
と、西のガイドは、おもしろくなさそうだ。
「記念碑は、ブランデンブルク門をイメージしていて、
上には、ソ連兵の銅像がある」
と言われて、ブランデンブルク門と比べると、
――たしかに、ブランデンブルク門に似ている。
上には、勝利の女神、ヴィクトリアの銅像がある。
「ソ連兵は、西ベルリンに毎日、自由にやってくる。
それに、1961年にベルリンの壁をつくってからも、
記念日には、ソ連軍はベルリンの壁を越えてきて、
パレードするから、西ベルリン市民の怒りをかっている」
と、ガイドも怒っている。
ベルリンの壁をつくって、
東西ベルリンの行き帰を遮断しておいて、
ソ連は西ベルリンへ、フリーパスというから、
――西ベルリン市民が、パレードに石を投げる気もち、
離散家族のやりきれない気もち、怒る気もちはわかる。
ソ連の戦勝記念碑の右には、本物の戦車がある(1988年)。
ベルリン侵攻のときに、威力を発揮した戦車(T-34)だ。
ソ連の戦勝記念碑の近くに国会議事堂がある。
国会議事堂は、第2次世界大戦のとき (1945年)、
連合軍によって、徹底的に破壊されて、“廃墟”となった。
その後、修復された1988年の姿である。
――黒くすすけている。爆撃された跡だろうか。
国会議事堂の屋根には、ナチスのシンボル、
ハーケンクロイツ卐が、掲げられていたが、
連合軍のベルリン侵攻で、落とされた。これは、
ベルリン陥落の象徴として、記録映画にでてくる。
――国会議事堂前というのに、さみしい!
東西ドイツに分断したときに、西ドイツの首都はボンに移り、
展示場として使われる程度で、議事堂としての機能はない。
広場を、元気なく歩いている20年前のベルリン市民の、
この写真からは、屋上にガラス・ドームができて、
見学する人の列でにぎわい、笑みがもどっているという、
今を想像できない。
1945年に、第2次世界大戦は終わり、
西ドイツの首都は、ベルリンからボンになった。
1961年に、ベルリンの壁ができて、
ベルリンが東西に分断されて、離散家族ができた。
1989年に、ベルリンの壁が崩壊して、
離散家族は再会できた。
1990年に、東西ドイツは統一し、
連合軍による西ベルリンの分割統治も終わった。
1991年に、ソ連は崩壊した。
戦勝記念碑を警備していたソ連兵はいなくなった。
立ち入り禁止ではなくなった。
ドイツの首都は、ボンからベルリンにもどり、
“DEM DEUTSCHEN VOLKE”、“ドイツ国民のために”
と正面の上部にある国会議事堂は、修復して輝きを取りもどし、
ガラス・ドームもつくって、連邦議会の議事堂として、
よみがえっている(1999年)。
連合軍のベルリン侵攻で廃墟となった国会議事堂は、
修復され、機能を回復するまでに、半世紀以上かかった。
ベルリンの壁が崩壊して、引き裂かれた家族は再会できた。
東西冷戦の最前線にさらされていたが、冷戦は終わった。
連合軍による分割統治も終わり、国が一つになった。
国会議事堂のガラス・ドームは、見学客でにぎわっている。
ベルリンの市民からストレスが除かれて、笑みみがもどるまでに、
半世紀かかった。
修復されて、機能を回復するまでに、半世紀かかった。
冷戦の最前線にさらされた西ベルリンの市民に、
笑みがもどるまでには、半世紀かかった。
西ベルリンの仮設スタンドから見たベルリンの壁。
ベルリンの壁、無人地帯、奥の白い壁、照明、監視塔の、
東西ベルリンを遮断する一式が見える(1988年)。
中央の白く、ポツンと見える建造物が監視塔。
仮設スタンドから降りて、監視塔に近づいた。
ベルリンの壁の上から、監視塔の上半分が見える。
上の黒が監視室で、その下に銃眼が各面にあり、
屋上には、サーチライトがある。
――西ベルリン市民は、こんな壁を見て生活しているのか!
こんな人間の檻(おり)にグルリと囲まれていたら、
精神がおかしくなりそうだ。28年も囲まれていることになる。
時おり、脱出者は射殺されている。精神の安まるときがない。
ベルリンの壁によって、東西に引き裂かれた離散家族もいる。
結婚する平均年齢の調査で、世界の中で西ベルリンが高かった。
これは、冷戦の最前線にさらされて、これからどうなるか?
先が見えない状況では、家庭を持つ希望が抱けなかった。
東西ベルリンを見るバス・ツアーは、
ソ連の戦勝記念碑を、西ベルリンで見た。
――ソ連の記念碑が、どうして西ベルリンにあるのだろう?
戦勝記念碑は、国会議事堂に近いベルリンの中心街だ。
ベルリンの壁にも、ブランデンブルク門にも近い。
戦勝記念碑は、立ち入り禁止で、右のソ連兵が警備していた。
「第2次世界大戦で、ソ連軍がベルリンに侵攻した、
ということで(1945年)、ここは西ベルリンだが、
ソ連は記念碑をつくって、管轄している」
と、西のガイドは、おもしろくなさそうだ。
「記念碑は、ブランデンブルク門をイメージしていて、
上には、ソ連兵の銅像がある」
と言われて、ブランデンブルク門と比べると、
――たしかに、ブランデンブルク門に似ている。
上には、勝利の女神、ヴィクトリアの銅像がある。
「ソ連兵は、西ベルリンに毎日、自由にやってくる。
それに、1961年にベルリンの壁をつくってからも、
記念日には、ソ連軍はベルリンの壁を越えてきて、
パレードするから、西ベルリン市民の怒りをかっている」
と、ガイドも怒っている。
ベルリンの壁をつくって、
東西ベルリンの行き帰を遮断しておいて、
ソ連は西ベルリンへ、フリーパスというから、
――西ベルリン市民が、パレードに石を投げる気もち、
離散家族のやりきれない気もち、怒る気もちはわかる。
ソ連の戦勝記念碑の右には、本物の戦車がある(1988年)。
ベルリン侵攻のときに、威力を発揮した戦車(T-34)だ。
ソ連の戦勝記念碑の近くに国会議事堂がある。
国会議事堂は、第2次世界大戦のとき (1945年)、
連合軍によって、徹底的に破壊されて、“廃墟”となった。
その後、修復された1988年の姿である。
――黒くすすけている。爆撃された跡だろうか。
国会議事堂の屋根には、ナチスのシンボル、
ハーケンクロイツ卐が、掲げられていたが、
連合軍のベルリン侵攻で、落とされた。これは、
ベルリン陥落の象徴として、記録映画にでてくる。
――国会議事堂前というのに、さみしい!
東西ドイツに分断したときに、西ドイツの首都はボンに移り、
展示場として使われる程度で、議事堂としての機能はない。
広場を、元気なく歩いている20年前のベルリン市民の、
この写真からは、屋上にガラス・ドームができて、
見学する人の列でにぎわい、笑みがもどっているという、
今を想像できない。
1945年に、第2次世界大戦は終わり、
西ドイツの首都は、ベルリンからボンになった。
1961年に、ベルリンの壁ができて、
ベルリンが東西に分断されて、離散家族ができた。
1989年に、ベルリンの壁が崩壊して、
離散家族は再会できた。
1990年に、東西ドイツは統一し、
連合軍による西ベルリンの分割統治も終わった。
1991年に、ソ連は崩壊した。
戦勝記念碑を警備していたソ連兵はいなくなった。
立ち入り禁止ではなくなった。
ドイツの首都は、ボンからベルリンにもどり、
“DEM DEUTSCHEN VOLKE”、“ドイツ国民のために”
と正面の上部にある国会議事堂は、修復して輝きを取りもどし、
ガラス・ドームもつくって、連邦議会の議事堂として、
よみがえっている(1999年)。
連合軍のベルリン侵攻で廃墟となった国会議事堂は、
修復され、機能を回復するまでに、半世紀以上かかった。
ベルリンの壁が崩壊して、引き裂かれた家族は再会できた。
東西冷戦の最前線にさらされていたが、冷戦は終わった。
連合軍による分割統治も終わり、国が一つになった。
国会議事堂のガラス・ドームは、見学客でにぎわっている。
ベルリンの市民からストレスが除かれて、笑みみがもどるまでに、
半世紀かかった。