第2次世界大戦で廃墟となった国会議事堂は、
修復されて、機能を回復するまでに、半世紀かかった。
冷戦の最前線にさらされた西ベルリンの市民に、
笑みがもどるまでには、半世紀かかった。
西ベルリンの仮設スタンドから見たベルリンの壁。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/d5/083ff550ccfc955ad223ce00a309eff1.jpg)
ベルリンの壁、無人地帯、奥の白い壁、照明、監視塔の、
東西ベルリンを遮断する一式が見える(1988年)。
中央の白く、ポツンと見える建造物が監視塔。
仮設スタンドから降りて、監視塔に近づいた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/38/7595cee6cb98900e03eb051b9c5a1142.jpg)
ベルリンの壁の上から、監視塔の上半分が見える。
上の黒が監視室で、その下に銃眼が各面にあり、
屋上には、サーチライトがある。
――西ベルリン市民は、こんな壁を見て生活しているのか!
こんな人間の檻(おり)にグルリと囲まれていたら、
精神がおかしくなりそうだ。28年も囲まれていることになる。
時おり、脱出者は射殺されている。精神の安まるときがない。
ベルリンの壁によって、東西に引き裂かれた離散家族もいる。
結婚する平均年齢の調査で、世界の中で西ベルリンが高かった。
これは、冷戦の最前線にさらされて、これからどうなるか?
先が見えない状況では、家庭を持つ希望が抱けなかった。
東西ベルリンを見るバス・ツアーは、
ソ連の戦勝記念碑を、西ベルリンで見た。
――ソ連の記念碑が、どうして西ベルリンにあるのだろう?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/cd/007a35efae1014435e58405f1d34f3c4.jpg)
戦勝記念碑は、国会議事堂に近いベルリンの中心街だ。
ベルリンの壁にも、ブランデンブルク門にも近い。
戦勝記念碑は、立ち入り禁止で、右のソ連兵が警備していた。
「第2次世界大戦で、ソ連軍がベルリンに侵攻した、
ということで(1945年)、ここは西ベルリンだが、
ソ連は記念碑をつくって、管轄している」
と、西のガイドは、おもしろくなさそうだ。
「記念碑は、ブランデンブルク門をイメージしていて、
上には、ソ連兵の銅像がある」
と言われて、ブランデンブルク門と比べると、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/c9/c34ab6e0d64e10852dac89432defd3d7.jpg)
――たしかに、ブランデンブルク門に似ている。
上には、勝利の女神、ヴィクトリアの銅像がある。
「ソ連兵は、西ベルリンに毎日、自由にやってくる。
それに、1961年にベルリンの壁をつくってからも、
記念日には、ソ連軍はベルリンの壁を越えてきて、
パレードするから、西ベルリン市民の怒りをかっている」
と、ガイドも怒っている。
ベルリンの壁をつくって、
東西ベルリンの行き帰を遮断しておいて、
ソ連は西ベルリンへ、フリーパスというから、
――西ベルリン市民が、パレードに石を投げる気もち、
離散家族のやりきれない気もち、怒る気もちはわかる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/86/51962b28bac834d3b26fc35a3c014be7.jpg)
ソ連の戦勝記念碑の右には、本物の戦車がある(1988年)。
ベルリン侵攻のときに、威力を発揮した戦車(T-34)だ。
ソ連の戦勝記念碑の近くに国会議事堂がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/5b/3a2c063f0a3d95abfdbda1f09720db5a.jpg)
国会議事堂は、第2次世界大戦のとき (1945年)、
連合軍によって、徹底的に破壊されて、“廃墟”となった。
その後、修復された1988年の姿である。
――黒くすすけている。爆撃された跡だろうか。
国会議事堂の屋根には、ナチスのシンボル、
ハーケンクロイツ卐が、掲げられていたが、
連合軍のベルリン侵攻で、落とされた。これは、
ベルリン陥落の象徴として、記録映画にでてくる。
――国会議事堂前というのに、さみしい!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/07/123088aa06da4cbec102549e4705294f.jpg)
東西ドイツに分断したときに、西ドイツの首都はボンに移り、
展示場として使われる程度で、議事堂としての機能はない。
広場を、元気なく歩いている20年前のベルリン市民の、
この写真からは、屋上にガラス・ドームができて、
見学する人の列でにぎわい、笑みがもどっているという、
今を想像できない。
1945年に、第2次世界大戦は終わり、
西ドイツの首都は、ベルリンからボンになった。
1961年に、ベルリンの壁ができて、
ベルリンが東西に分断されて、離散家族ができた。
1989年に、ベルリンの壁が崩壊して、
離散家族は再会できた。
1990年に、東西ドイツは統一し、
連合軍による西ベルリンの分割統治も終わった。
1991年に、ソ連は崩壊した。
戦勝記念碑を警備していたソ連兵はいなくなった。
立ち入り禁止ではなくなった。
ドイツの首都は、ボンからベルリンにもどり、
“DEM DEUTSCHEN VOLKE”、“ドイツ国民のために”
と正面の上部にある国会議事堂は、修復して輝きを取りもどし、
ガラス・ドームもつくって、連邦議会の議事堂として、
よみがえっている(1999年)。
連合軍のベルリン侵攻で廃墟となった国会議事堂は、
修復され、機能を回復するまでに、半世紀以上かかった。
ベルリンの壁が崩壊して、引き裂かれた家族は再会できた。
東西冷戦の最前線にさらされていたが、冷戦は終わった。
連合軍による分割統治も終わり、国が一つになった。
国会議事堂のガラス・ドームは、見学客でにぎわっている。
ベルリンの市民からストレスが除かれて、笑みみがもどるまでに、
半世紀かかった。
修復されて、機能を回復するまでに、半世紀かかった。
冷戦の最前線にさらされた西ベルリンの市民に、
笑みがもどるまでには、半世紀かかった。
西ベルリンの仮設スタンドから見たベルリンの壁。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/d5/083ff550ccfc955ad223ce00a309eff1.jpg)
ベルリンの壁、無人地帯、奥の白い壁、照明、監視塔の、
東西ベルリンを遮断する一式が見える(1988年)。
中央の白く、ポツンと見える建造物が監視塔。
仮設スタンドから降りて、監視塔に近づいた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/38/7595cee6cb98900e03eb051b9c5a1142.jpg)
ベルリンの壁の上から、監視塔の上半分が見える。
上の黒が監視室で、その下に銃眼が各面にあり、
屋上には、サーチライトがある。
――西ベルリン市民は、こんな壁を見て生活しているのか!
こんな人間の檻(おり)にグルリと囲まれていたら、
精神がおかしくなりそうだ。28年も囲まれていることになる。
時おり、脱出者は射殺されている。精神の安まるときがない。
ベルリンの壁によって、東西に引き裂かれた離散家族もいる。
結婚する平均年齢の調査で、世界の中で西ベルリンが高かった。
これは、冷戦の最前線にさらされて、これからどうなるか?
先が見えない状況では、家庭を持つ希望が抱けなかった。
東西ベルリンを見るバス・ツアーは、
ソ連の戦勝記念碑を、西ベルリンで見た。
――ソ連の記念碑が、どうして西ベルリンにあるのだろう?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/cd/007a35efae1014435e58405f1d34f3c4.jpg)
戦勝記念碑は、国会議事堂に近いベルリンの中心街だ。
ベルリンの壁にも、ブランデンブルク門にも近い。
戦勝記念碑は、立ち入り禁止で、右のソ連兵が警備していた。
「第2次世界大戦で、ソ連軍がベルリンに侵攻した、
ということで(1945年)、ここは西ベルリンだが、
ソ連は記念碑をつくって、管轄している」
と、西のガイドは、おもしろくなさそうだ。
「記念碑は、ブランデンブルク門をイメージしていて、
上には、ソ連兵の銅像がある」
と言われて、ブランデンブルク門と比べると、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/c9/c34ab6e0d64e10852dac89432defd3d7.jpg)
――たしかに、ブランデンブルク門に似ている。
上には、勝利の女神、ヴィクトリアの銅像がある。
「ソ連兵は、西ベルリンに毎日、自由にやってくる。
それに、1961年にベルリンの壁をつくってからも、
記念日には、ソ連軍はベルリンの壁を越えてきて、
パレードするから、西ベルリン市民の怒りをかっている」
と、ガイドも怒っている。
ベルリンの壁をつくって、
東西ベルリンの行き帰を遮断しておいて、
ソ連は西ベルリンへ、フリーパスというから、
――西ベルリン市民が、パレードに石を投げる気もち、
離散家族のやりきれない気もち、怒る気もちはわかる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/86/51962b28bac834d3b26fc35a3c014be7.jpg)
ソ連の戦勝記念碑の右には、本物の戦車がある(1988年)。
ベルリン侵攻のときに、威力を発揮した戦車(T-34)だ。
ソ連の戦勝記念碑の近くに国会議事堂がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/5b/3a2c063f0a3d95abfdbda1f09720db5a.jpg)
国会議事堂は、第2次世界大戦のとき (1945年)、
連合軍によって、徹底的に破壊されて、“廃墟”となった。
その後、修復された1988年の姿である。
――黒くすすけている。爆撃された跡だろうか。
国会議事堂の屋根には、ナチスのシンボル、
ハーケンクロイツ卐が、掲げられていたが、
連合軍のベルリン侵攻で、落とされた。これは、
ベルリン陥落の象徴として、記録映画にでてくる。
――国会議事堂前というのに、さみしい!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/07/123088aa06da4cbec102549e4705294f.jpg)
東西ドイツに分断したときに、西ドイツの首都はボンに移り、
展示場として使われる程度で、議事堂としての機能はない。
広場を、元気なく歩いている20年前のベルリン市民の、
この写真からは、屋上にガラス・ドームができて、
見学する人の列でにぎわい、笑みがもどっているという、
今を想像できない。
1945年に、第2次世界大戦は終わり、
西ドイツの首都は、ベルリンからボンになった。
1961年に、ベルリンの壁ができて、
ベルリンが東西に分断されて、離散家族ができた。
1989年に、ベルリンの壁が崩壊して、
離散家族は再会できた。
1990年に、東西ドイツは統一し、
連合軍による西ベルリンの分割統治も終わった。
1991年に、ソ連は崩壊した。
戦勝記念碑を警備していたソ連兵はいなくなった。
立ち入り禁止ではなくなった。
ドイツの首都は、ボンからベルリンにもどり、
“DEM DEUTSCHEN VOLKE”、“ドイツ国民のために”
と正面の上部にある国会議事堂は、修復して輝きを取りもどし、
ガラス・ドームもつくって、連邦議会の議事堂として、
よみがえっている(1999年)。
連合軍のベルリン侵攻で廃墟となった国会議事堂は、
修復され、機能を回復するまでに、半世紀以上かかった。
ベルリンの壁が崩壊して、引き裂かれた家族は再会できた。
東西冷戦の最前線にさらされていたが、冷戦は終わった。
連合軍による分割統治も終わり、国が一つになった。
国会議事堂のガラス・ドームは、見学客でにぎわっている。
ベルリンの市民からストレスが除かれて、笑みみがもどるまでに、
半世紀かかった。