季節の変化

活動の状況

廃墟となった国会議事堂の回復に、半世紀かかった

2009-03-29 06:00:18 | Weblog
第2次世界大戦で廃墟となった国会議事堂は、
修復されて、機能を回復するまでに、半世紀かかった。
冷戦の最前線にさらされた西ベルリンの市民に、
笑みがもどるまでには、半世紀かかった。

西ベルリンの仮設スタンドから見たベルリンの壁。

ベルリンの壁、無人地帯、奥の白い壁、照明、監視塔の、
東西ベルリンを遮断する一式が見える(1988年)。
中央の白く、ポツンと見える建造物が監視塔

仮設スタンドから降りて、監視塔に近づいた。

ベルリンの壁の上から、監視塔の上半分が見える。
上の黒が監視室で、その下に銃眼が各面にあり、
屋上には、サーチライトがある。

――西ベルリン市民は、こんな壁を見て生活しているのか!
こんな人間の檻(おり)にグルリと囲まれていたら、
精神がおかしくなりそうだ。28年も囲まれていることになる。
時おり、脱出者は射殺されている。精神の安まるときがない。
ベルリンの壁によって、東西に引き裂かれた離散家族もいる。

結婚する平均年齢の調査で、世界の中で西ベルリンが高かった。
これは、冷戦の最前線にさらされて、これからどうなるか?
先が見えない状況では、家庭を持つ希望が抱けなかった。

東西ベルリンを見るバス・ツアーは、
ソ連の戦勝記念碑を、西ベルリンで見た。
――ソ連の記念碑が、どうして西ベルリンにあるのだろう?

戦勝記念碑は、国会議事堂に近いベルリンの中心街だ。
ベルリンの壁にも、ブランデンブルク門にも近い。
戦勝記念碑は、立ち入り禁止で、右のソ連兵が警備していた。

「第2次世界大戦で、ソ連軍がベルリンに侵攻した、
ということで(1945年)、ここは西ベルリンだが、
ソ連は記念碑をつくって、管轄している」
と、西のガイドは、おもしろくなさそうだ。

「記念碑は、ブランデンブルク門をイメージしていて、
上には、ソ連兵の銅像がある」
と言われて、ブランデンブルク門と比べると、

――たしかに、ブランデンブルク門に似ている。
上には、勝利の女神、ヴィクトリアの銅像がある。

「ソ連兵は、西ベルリンに毎日、自由にやってくる。
それに、1961年にベルリンの壁をつくってからも、
記念日には、ソ連軍はベルリンの壁を越えてきて、
パレードするから、西ベルリン市民の怒りをかっている」
と、ガイドも怒っている。

ベルリンの壁をつくって、
東西ベルリンの行き帰を遮断しておいて、
ソ連は西ベルリンへ、フリーパスというから、
――西ベルリン市民が、パレードに石を投げる気もち、
離散家族のやりきれない気もち、怒る気もちはわかる。

ソ連の戦勝記念碑の右には、本物の戦車がある(1988年)。
ベルリン侵攻のときに、威力を発揮した戦車(T-34)だ。

ソ連の戦勝記念碑の近くに国会議事堂がある。

国会議事堂は、第2次世界大戦のとき (1945年)、
連合軍によって、徹底的に破壊されて、“廃墟”となった。
その後、修復された1988年の姿である。
――黒くすすけている。爆撃された跡だろうか。

国会議事堂の屋根には、ナチスのシンボル、
ハーケンクロイツ卐が、掲げられていたが、
連合軍のベルリン侵攻で、落とされた。これは、
ベルリン陥落の象徴として、記録映画にでてくる。

――国会議事堂前というのに、さみしい!

東西ドイツに分断したときに、西ドイツの首都はボンに移り、
展示場として使われる程度で、議事堂としての機能はない。

広場を、元気なく歩いている20年前のベルリン市民の、
この写真からは、屋上にガラス・ドームができて、
見学する人の列でにぎわい、笑みがもどっているという、
今を想像できない。

1945年に、第2次世界大戦は終わり、
西ドイツの首都は、ベルリンからボンになった。
1961年に、ベルリンの壁ができて、
ベルリンが東西に分断されて、離散家族ができた。
1989年に、ベルリンの壁が崩壊して、
離散家族は再会できた。
1990年に、東西ドイツは統一し、
連合軍による西ベルリンの分割統治も終わった。
1991年に、ソ連は崩壊した。

戦勝記念碑を警備していたソ連兵はいなくなった。
立ち入り禁止ではなくなった。

ドイツの首都は、ボンからベルリンにもどり、
“DEM DEUTSCHEN VOLKE”、“ドイツ国民のために”
と正面の上部にある国会議事堂は、修復して輝きを取りもどし、
ガラス・ドームもつくって、連邦議会の議事堂として、
よみがえっている(1999年)。

連合軍のベルリン侵攻で廃墟となった国会議事堂は、
修復され、機能を回復するまでに、半世紀以上かかった。

ベルリンの壁が崩壊して、引き裂かれた家族は再会できた。
東西冷戦の最前線にさらされていたが、冷戦は終わった。
連合軍による分割統治も終わり、国が一つになった。
国会議事堂のガラス・ドームは、見学客でにぎわっている。

ベルリンの市民からストレスが除かれて、笑みみがもどるまでに、
半世紀かかった。
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盗聴、密告、秘密警察で人生を失う

2009-03-25 05:55:11 | Weblog
東ドイツは、ベルリンの壁を築いて、東西の行き帰を遮断した。
そして、国民には情報規制をした。
しかし、東西の行き帰を遮断し、いくら情報規制をしても、
西ドイツの放送からは、刻々と情報が入ってくる、ドイツ語で。
「東ドイツはおくれている。もう、どうしようもない」
と、東ベルリンの市民は、気がついている。

シュプレー川沿いにある犠牲者の十字架(1988年)。

中央の黒い十字架は、だれだろう? 最初の犠牲者?

「この国には希望がない。もうだめだ。国を捨てたい
脱出のためにはをかけてもいい」
東ベルリンの市民を、こう思わせた。

そして、ベルリンの壁を越え、シュプレー川に飛び込んで、
泳いだり、ボートに乗ったり、シュノーケルで潜ったり……と、
脱出を試みた。が、東の国境警備隊に見つかって、射殺された。

「この国には希望がない。もうだめだ。国を捨てたい」
という市民の思いは、東ドイツのハレでも感じた。
ベルリンの南西150キロメートルにハレはある。

ハレの国際見本市の会場(1989年)。
尖塔にはが乗り、正面にはレーニンの巨大な顔像がある。

ベルリンの壁が崩壊するのは1989年11月で、
東西ドイツが統一するのは1990年10月だから、
東ドイツのハレに行った1989年3月は、
ベルリンの壁が崩壊する年(8か月前)で、
東ドイツが消滅する前年(1年7か月前)になる。

見本市のお客さんのホテルは、外人専用だった。
外人というのは、東ドイツ人以外で、私も外人。
1泊1万円は、東ドイツ人の1か月の給与にあたる。

西側基準のホテルは、東ドイツ人からすると、豪華すぎる。
キャビアがあり、ケーキや色とりどりの果物と、豊かだ。
ホテルは離れた新市街にあって、見せかけの豊かさは、
東ドイツ人には見せないようにしてある。それに、
西と情報交換や接触ができないようにしてある。しかし、
ホテルの従業員は東ドイツ人だから、西との格差は知れ渡る。

見本市会場からホテルへは、タクシーで帰る。
乗り合わせたタクシー・ドライバーのダークは話しかけてきた。
「インフレーションがないから、この20年間、
物価が上がってない。ガソリン代も値上がりしてない。
インフレーションもないし、暴力もないし、失業者もいない」
と、最初は、社会主義の良さを話した。
東ドイツ人と話ができるとは、ありがたい。
一市民が言うことは、飾りがない、重みがある。
しかも、ダークは積極的に、話してくる。

「家を建てるために、昼間は化学の教師
夜はタクシー・ドライバーをして、稼いでいる。
給与は1万円だが、アパートメントの家賃は200円で、
子どもの学校の授業料はタダだ」

木材は手に入り易いが、タイルなどの磁器
トイレのバスタブやシンク、便器などの陶器が、
手に入らない。それに、照明器具も手に入らない」
と、生活の状況、国の状況を話す。

冷蔵庫洗濯機は、高過ぎて買えない。
電話はぜいたく品で、持っているのは一部の特権階級だけだ。
は、タクシーが優先されているから、1年待てばいいが、
一般の使用は、後回しで5~6年は待つ。
新車よりも、いま手にしたい中古品のほうが高くなっている」

ドル・ショップでは、西の商品を売っている。
タバコや酒、肉、バナナ、オレンジ、チョコレートもあって、
利用できるのはドルを持っている裕福な人か、一部の特権階級さ」

あとで、ドル・ショップへ行ってみた。
お客さんがいなかった。売り子が2人の小さい店だ。
西でみかける免税店という感じだ。西のチョコレートを、
ドルで買った。円換算すると……高い、日本の3倍もする。
――たしかに、東ドイツの市民が買い物をする店ではない。

そして、ダークは気を許したのか、過激になってきた。
「西から東に電話をかければ、すぐにかかる。
しかし、東から西には、申し込んでから、しばらく待たされる」

「だれと交信しているのか、チェックしているのさ。
それに、“盗聴”されているのは当たり前のことなんだ。
脱出”の話をしたり、国家の“悪口”を言おうものなら、
秘密警察シュタージ”に“密告”されて、連行される。
それで、“人生を失った”人が多い」

――盗聴、密告、秘密警察で人生を失う、とは恐ろしい話だ。
それも、一般市民の身の回りに起きているとは、驚きだ。
よく、こんな話を、乗り合わせた日本人にするもんだ。
一党独裁による内部の腐敗恐怖政策計画経済の破綻に、
市民の不満は、もう限界に達している。

「国民は、国家の悪口を言っているだろう? 脱出するだろう?」
と、政府が国民を疑って、盗聴や密告、秘密警察の恐怖で抑え込み、
「言われるがままにやってきたが、幸せにしなかった。
その国民を守らないとは、なんのための国なんだ!」
と、国民が政府に失望して、国を捨て脱出をする。
これは、末期的な状態だ。国の破滅状態を見た。

西ベルリンのイギリス管理区、シュプレー川(1988年)。

対岸は、東ベルリンで、フェンス、ベルリンの壁(白)、照明が見える。
監視塔を入れて、東西ベルリンを遮断する、お決まりの一式になる。

フェンスとベルリンの壁の間は、国境警備隊が巡回する。
歩いたり、車であったり、シェパード犬を連れたりと。
ここシュプレー川では、さらに、“警備艇”が見える。
「この国には希望がない。もうだめだ。国を捨てる」
という、東ベルリンの市民を追跡して、射殺する。

手前の警告板には、
「イギリス管理区の境界。ここを越えるな」
とある。

イギリス管理区とは、第2次世界大戦後のベルリンは、
東西に分割され、さらに西ベルリンはアメリカ、イギリス、
フランスによって、3分割されて統治されていた。
分割統治は、ドイツが敗戦した1945年から、
1990年9月まで、半世紀も続いた。
一方の東ベルリンは、ソ連によって統治された。

1945年に、第2次世界大戦は終わり、
1961年8月に、ベルリンの壁が築かれ、
1989年11月に、ベルリンの壁が崩壊し、
1990年9月に、西ベルリンの分割統治が終わり、
1990年10月に、東西ドイツは統一し、
1991年12月には、ソ連が崩壊する。

半世紀かかった“イデオロギー”の“実験”は終わった。
一党独裁の内部腐敗、計画経済の破綻は、国民を幸せにしなかった。
西も東もなくなって、“地球規模”(グローバル化)になった。
そして、イデオロギーに代わって、“先端技術”の競争になった。
歴史の“劇的な変化(パラダイム・シフト)”である。

いまは、ベルリンの壁も監視塔も……取り壊された。
ハレのも、レーニン像も……取り壊されただろう。
盗聴密告秘密警察人生を失うは……もうないだろう。
いまわしいもの”は取り除いて……新しい変化に対応していく。
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ベルリンの壁は、帝国主義者による拉致を防ぐため

2009-03-22 04:55:56 | Weblog
共産主義を崩壊させようとする西の帝国主義者によって、
東ドイツ国民が“拉致(らち)”されるのを防ぐために、
”を築いたのです」
これは、東ベルリンの観光ガイドが、
ベルリンの壁について、説明したものである。

――ベルリンの壁を、裏側から見たい!
ベルリンの壁を越えて、東ベルリンへ行くには、
ツアー・バスに乗るのが手っ取り早い。
そのツアー・バスは、最初に西ベルリンを見る。

バスの座席は前列で、運転席の窓から撮った、
ベルリンの壁ブランデルブルク門(1988年)。

東ドイツの旗が、あちこちに掲げられ、右には照明がある。
大通りの6月17日通りは、ベルリンの壁によって行き止まりで、
ブランデルブルク門に近寄ることはできない。

手前に警告板があって、つぎのように書いてある。
「注意! あなたは、今から西ベルリンを離れる」

この部分の壁は、特別に厚くて、1.5メートルほどある。
東西ベルリンの行き帰が自由になった1989年11月9日、
東西の市民が、このベルリンの壁に上に乗って、喜びあった。
あとで、このベルリンの壁の裏側を見ることになる。

ツアー・バスは、最初に西ベルリンを見てから、東ベルリンに入る。
ベルリンの壁の検問所、チェックポイント・チャリーは、
外国人が、通過できるただ一つの検問所である。

ここで、東の検察官がバスに乗り込んで、
西の乗客のパスポートの検査をする。それが終わると、
東ベルリンの観光ガイドが乗ってきて、案内をする。

これまで、西ベルリンを案内していた西のガイドは、
役目を終えて、前列の座席に座る。東のガイドとは、
目の前だが、目を合わせようとはしない。
おたがいに……ドイツ人同士なんだが。

東ベルリンの初老で、品のいいガイドは、
これ以上ないという最高級品で身を包んでいる。
仕立てのいいオーバーコートとスーツ、マフラー、
ピカピカの靴、アタッシュケース、皮手袋……。
“東は繁栄しているよ”ということを、
西のツアー客に見せつけるための演出だ。

しかし、アタッシュケースは、
一度も開けることがなかったなァ。
皮手袋は、にぎったままだったし。

東ベルリンでは、大通り、大学、公園は外から見て、
ペルガモン博物館やエジプト博物館は、中に入る。
市民の生活臭さがただよう市場、住居街などは、
見学ルートに入っていなかった。

ペルガモン博物館では、トルコの古代遺跡である、
ゼウスの大祭壇”を見て、
エジプト博物館では、エジプトの王妃、
ネフェルティティの胸像”を見る。

――すばらしい美術品を見ることができた。
だが、東ドイツの美術品はないのだろうか?
それに、博物館は、がらがらで、東の市民はいない。

そして、最後はブランデンブルク門ベルリンの壁である。

ベルリンの壁の裏側。バスの運転席の窓から撮った。

――まるで、古代遺跡の廃墟だ!
廃墟の発掘現場か、工事現場のようだ。

ベルリンの中心街、パリ広場なのに、立ち入り禁止になっている。
フェンスがあって、ブランデンブルク門にも、
ベルリンの壁にも、人も車も近づくことができない。

フェンスの中は、ガレキ資材置き場だ。
奥には、強固なフェンスがしっかりと固定されていて、
侵入を防いでいる。照明が、たくさんある。
ブランデンブルク門とベルリンの壁は、
2重のフェンスの先にある。

ベルリンの壁は、落書きはない。
人の気配はないし、近づくこともできない。
パリ広場という、ベルリンの中心街だが、
――さびれている。文化を荒廃させている。

そして、東のガイドは、ベルリンの壁に触れた。
共産主義を崩壊させようとする西の帝国主義者によって、
東ドイツ国民が“拉致(らち)”されるのを防ぐために、
”を築いたのです」

それまで、だまっていた西のガイドが目をむいた。
「東ドイツ人の脱出が多くて、東の存在が危うくなったから、
壁を築いたんじゃないか? 壁ができても、なぜ東ドイツ人は、
をかけて、西に脱出するのだ?」
これは、西側の意見を代表したものだ。
ツアー客は、フランス人、イタリア人。

東西ドイツのガイドのやりとりは激しくなって、
英語から母国語のドイツ語に代わった……。
そして、車内がシーンとなったことに気づいた2人は、
決着のない論戦を終わらせた……強烈な印象だ!
――民族が同じでも、イデオロギーが違うと、ケンカする。
異民族ではないのに。

ベルリンの壁ができたのは、
東ドイツの若者や知識層を中心に、260万人が、
西ベルリンへ脱出して、このままでは、
東ドイツの存続が危ぶまれたからだ。それで、
1961年8月に、最初は有刺鉄線で、すぐに壁を築いて、
東西ベルリンの行き帰を遮断した。

東ドイツにも事情がある。
政府の援助で、パンや生活用品を安く販売していたが、
西側から国境を越えて、安い商品を買い求めにくると、
東ドイツの負担が増えるし、供給ができない、ということもある。
パスポートで価格の差つければいい話だと思うが。

ベルリンの壁を、裏側から見たが、
工事現場のようだった……文化の薫りがしない。
それに、同じ民族だが、イデオロギーケンカ状態だった。

ところが、翌年の1989年11月9日、
東ドイツ市民の旅行の規制が緩和されて、
ベルリンの壁は、一気に崩壊することになるのだが。

ベルリンの壁裏側の、
工事現場を見て、ケンカ状態を見れば、
イデオロギーで分断したベルリンの壁が、
――まさか、来年、崩壊するとは、思えなかった。

――東西ドイツの統一は、であり、理想であって、
当面は、あり得ないだろう。
少なくとも、20世紀中にはむりだ。
それに、流血の惨事がともなうだろう。

ツアー客も、そう思っていた。
いや、世界の人も、そう思っていた。
それが、ベルリンの壁が崩壊して、東西ドイツが統一するという、
劇的な変化(パラダイム・シフト)が起きた。
世界の人がそう思っていたのが崩れる、歴史の劇的な変化だ。
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ベルリンの壁崩壊 20周年

2009-03-18 05:19:30 | Weblog
異民族襲撃に備えた壁が、万里の長城
同じ民族を、イデオロギーで分断した壁がある。
ベルリンの壁である。

2009年は、ベルリンの壁が崩壊してから“20周年”になる。
だいぶ昔のような気がしたが、1989年11月に、
ベルリンの壁が崩壊しているから……20年前のことだ。

まだベルリンの壁が存在した1988年3月。
あとで示す仮設スタンドの上から見た写真。
当時の写真を探しだして、なるべく掲載する。

どこまでも続くこのベルリンの壁を見ると、
――まさか、来年、ベルリンの壁が崩壊するとは、
夢にも思わなかった。

ベルリンの壁の向こうは、
幅が100メートルの“無人地帯”、
無人地帯の奥に、さらに“白い壁”、
2重の壁の先が、“東ベルリン市街”である。

東ベルリンから脱出するには、
まず、白い壁を乗り越える、
無人地帯を、猛烈にダッシュする、
そして、ベルリンの壁によじ登る。

ところが、無人地帯を横切っているときに、
国境警備隊に見つかって、射殺される。
運よく横切って、ベルリンの壁に到達しても、
高さ3.6メートルの壁は、よじ登りにくい。
手前を歩く人と高さを比べることができる。
それに、笠は丸いから滑る……手掛かりがない。

夜、脱出をすれば、いいじゃないか?
夜は、無人地帯の照明が、こうこうと輝く。
照明は、ベルリンの壁と白い壁に平行に、2列ある。

――ベルリンの壁は、“人間の檻(おり)”だ。
人類が造った、最も非創造的な建造物だ。
万里の長城は、異民族からの襲撃を防ぐ壁だが、
ベルリンの壁は、イデオロギーによって、
同じ民族を引き裂いた壁だ。

1961年に、最初は有刺鉄線で、すぐに壁を築いて、
東西ベルリンの行き帰を遮断した。
東西の“冷戦”を象徴したベルリンの壁だが、
1989年に、東ドイツ市民の旅行の規制が緩和されると、
いまわしい建物”として、取り壊された。

もちろん、文化価値はなく、世界遺産にはならない。
万里の長城は、将来にわたって継承していく文化財として、
保護され、世界遺産になっているのだが。

これは、東ベルリンと西ベルリンを横切るシュプレー川

泳いで、すぐにでも渡れそうな川幅で、
ここからは、対岸の東ベルリンが、見渡せる。
西ベルリンには、ガードレールのほかは、建造物がない。

しかし、対岸の東ベルリンには、フェンスがあり、
橋や道路の一部を利用したベルリンの壁がある。
この2つの障害を乗り越えて、シュプレー川に出るが、
フェンスとベルリンの壁の間を、国境警備隊が巡回する。
それに、絶えず見張る監視塔がある。やや左の白い建造物で、
上部の窓で脱出者を監視し、下部の銃眼から射殺する。
夜は、フェンスとベルリンの壁に取りつけた照明が輝く。

離散家族とは、東西ベルリンに引き裂かれた家族だが、
左の親子3人は、東ベルリンに親戚がいるのだろうか?
東ベルリンが見えるここからは、大声をだせば届きそうだ。
少年を見せにきたのだろうか? そろって青い服は、目印だろうか?
対岸に人影は見えないが。少年は、私を見ている。


シュプレー川を渡ろうとして、見つかり、
射殺された犠牲者の十字架がならぶ。
名前と命日が書いてある。

西ベルリンには、仮設スタンドがあって、
ベルリンの壁越しに、東ベルリンを見る。

見学者は、右の階段を昇り、左から降りる。
「どんなか?」と、ささやきながら昇り、
息を詰まらせて、東ベルリンを見る。
そして、無言で降りる。
――人のぬくもりが、感じられない街だ。

ベルリンの壁を、裏側から見たい! 東ベルリンへ行って。
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万里の長城の終わりは、山や河の自然の要塞

2009-03-15 04:30:56 | Weblog
万里の長城終わりは、自然の要塞につなげていた、
ことを、前回の『オアシス都市の写真を撮りたい』で書いた。
万里の長城の終わりを見たい。

嘉峪関城の北7キロメートルにある懸壁長城
近くの岩場に駆けあがって撮った。
――この先、万里の長城はない。
万里の長城の終わりは、急峻な山という、
自然の要塞につなげていた。
ただし、これは復元した懸壁長城で、本物はさらに西にある。

右後方には、砂漠の中の、オアシス集落があって、
万里の長城ゴビ砂漠オアシス集落は、
映画のセットのようだ。

つぎに、嘉峪関城の南7キロメートルでは、
万里の長城の終わりは、という自然の要塞につなげていた。
左の岸壁の盛り上がりが、万里の長城の西のはて。

「万里長城、第一墩(とん)で、
万里の長城の一番目の烽火(のろし)台、という意味です」
と、ガイドは言う。
のろし台は、垂直の岩壁と一体になって建っている。

討籟河(とうらいがわ)は、幅が200メートル、
岩壁の高さは80メートルあって、
自然の要塞”になっています」

「14メートルあったのろし台は、
いまは8メートルに下がっています。
明の時代の、万里の長城の西の終わりです」

万里の長城終わりは、
急峻なや深い自然の要塞につなげている。
――こんな河の端まで、よくも、万里の長城をつくったもんだ。
のろし台は、討籟河をのぞきこむように終わっているから、
人は通れない。異民族からの防衛は、徹底している。
よっぽど、襲撃が怖かったんだろう。

この討籟河に、ターザン気分が味わえるロープウェイがある。
子どもを背負うような布に命を託し、
討籟河を真下に見る自然落下。希望者のみ。
――対岸から、万里の長城の終わりを見たい。

落下するのは私。右側は、たたまれて、もどされてきた
布に座り、下がっているひもにしがみついて、
飛ばされないように帽子を取り、顔で風を切って、
対岸まで落ちていく。対岸にはスプリングがあって、
衝撃を吸収して止まる。スリリングつき落下料600円。

帰りは、吊り橋をのこのこと渡ってくる。
その吊り橋から対岸の盛り上がりを見たのが、
さきの万里長城、第一墩の写真。

これは、嘉峪関城から南に延びている万里の長城。

「ここはゴビ砂漠で、石がありません。万里の長城は、
土にタマリスクの枯草を混ぜて、強度を上げています」
と、ガイドが言うように、万里の長城は層になっている。

万里の長城の先には、ちょうど貨車が横切っていた。
いまは、鉄道によって、分断されている。
この嘉峪関城から、南7キロメートル先にあるのが、
さきの万里長城、第一墩で、討籟河につなげて終わっていた。
後方は、雪を抱く祁連(きれん)山脈。

嘉峪関城の中。

左の台形が、のろし台
「のろし台は、日干しレンガを積み上げたものです。
2.5キロメートル~6キロメートル間隔に築いて、
モンゴル族や隊商の動きを、絶えず監視していました」

のろしはタマリスクを乾燥させて、束ねたものを燃やします」
タマリスクの束は、人が抱え、長さは2メートルほど。

1人~100人を見つけたら、のろしを1つ上げます。
500人以上ならば2つ、1千人以上ならば3つ、
5千人以上ならば4つ、1万人以上ならば5つ上げます」

100キロ離れていても、10数分で伝えることができました。
動物の糞を混ぜてのろしのを変え、
味方の区別もできました」
――徹底した防衛対策だなァ。
交易でもうけた金は、防衛対策にそそぎ込んだ?

そして、万里の長城終わりは、
懸壁長城でも、万里長城、第一墩でも、
自然の要塞につなげていた。

嘉峪関城の北7キロメートルにある懸壁長城では、
急峻な山につなげていたし、
嘉峪関城の南7キロメートルにある万里長城、第一墩では、
深い討籟河につなげて、終わっていた。

――“万里の長城”の終わりは、自然の要塞とつなげるまで、
手を抜いていない。
さらに、“嘉峪関城”のような城を築き、
数キロメートルごとに“のろし台”を築いている。
よくまァ、こんな気の遠くなる建設をしたもんだ。

金と時間をそそぎこんだ、
壁(万里の長城)城(嘉峪関)のろし台の“防衛施設”は、
異民族との抗争出入国の管理交易による税の徴収に、
国家の存亡をかけた大プロジェクトだ。
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オアシス都市の写真を撮りたい

2009-03-11 06:12:25 | Weblog
敦煌の鳴沙山(めいさざん)の頂上に駆け上って、
月牙泉(げっかせん)を見ると、

隊商が休むイメージにピッタリのオアシスだ。

オアシスをイメージする写真は撮れたから、
つぎは、オアシス都市の写真を撮りたい!
遠方には、オアシス都市、敦煌が広がるが、
敦煌は広すぎて、写真におさまりきらない。

写真におさまるオアシス都市がないか?
小さいオアシス集落でもいい、
と、探していた。

チャンスは、嘉峪関(かよくかん)城でやってきた。
嘉峪関城は、敦煌の東、300キロメートルにあって、
城であり、関所で、日本の天守閣が3つもある。

規模が大きいから、天守閣3つのうち、
写真には、2つしか入らない。

この嘉峪関城からは、北と南に万里の長城が延びて、
外敵から守るとともに、隊商を関所に集めて、
税を取り立てるようになっていた。

嘉峪関城から、北に延びる万里の長城は、
7キロメートル先の懸壁(けんぺき)長城に、
つながっていた。

復元された明時代の懸壁長城を登るが、傾斜はきつい。
希望者は、ふもとから30分ほどの頂上を目指す。
懸壁長城の左はモンゴル、右は中国の明。

懸壁長城は、そそり立つ山の頂上に到達して、
その先は、自然と一体になるように、終わっていた。
――ここから先は、万里の長城がない!
騎馬民族も、ここまでは、上がってこられないだろう。
万里の長城の終わりは、“自然の要塞”に溶け込んでいた。

その懸壁長城の頂上から見たのが、つぎの写真である。
右下は懸壁長城で、ここを登ってきた。

不毛の砂漠の中に、ここだけ、の集落がある。
――オアシス集落に巡り合えた!

集落を砂嵐から守るために、周囲にはポプラを植えてある。
そのポプラの中にがある。

中央には、さらに砂嵐をやわらげるように、
ポプラ並木があって、民家は、その中に並んでいる。

周囲のポプラも、中央のポプラ並木も、
砂嵐の脅威から集落を守るとともに、
騎馬民族からの襲撃から、護っている。

中央のポプラ並木に添って、
小川か、地下水路があるのだろう?
生活用水であり、畑の灌漑用だ。
畑には、とうもろこし、野菜があった。

中国の“農耕民族”は、集落をつくって定住している。
騎馬民族”は、収穫期をねらって襲撃するのだろう。
農耕民族は、ポプラを植え、“万里の長城”を築いて、
騎馬民族の襲撃に耐えてきた。

オアシス集落万里の長城は、
農耕民族と騎馬民族の“攻防”であり、
中国の“興亡”の舞台である。
攻防の舞台の写真のようだ。
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ベゼクリク千仏洞にみる文化財の搬出

2009-03-08 06:23:26 | Weblog
ベゼクリク千仏洞。

岩壁に掘られた石窟には、敦煌の莫高窟と同じように、
壁画や塑像の仏教美術がある……実際は、
わずかしか残されていない。

仏教絵画芸術のみごとな遺物の代表例を、
できるだけ数多く救い出すためには、
この土地から、周到かつ組織的に、
搬出してしまうことが、唯一の手段だった」

これは、イギリス人の探検家、オーレル・スタインが、
砂に埋もれたホータンの廃墟』、白水社で、
書いた言葉である。

たしかに、ベゼクリク千仏洞に行くと、
文化財は破壊され、され、そして、搬出されていた。
――文化財は、現地にとどめておくのがいいのか?
それとも、文化財を救う唯一の手段は、搬出なのか?

オーレル・スタインについては、まえに書いていて、
王圓籙による100年前の大発見、敦煌文書』、
2009年2月8日では、
敦煌文書の発見者、王圓(おうえんろく)から、
敦煌文書を手に入れて、
「多方面の研究の対象になりうる大宝庫
と、評価している。

『敦煌文書の大部分は国外に』、2009年2月11日では、
敦煌文書1万点を、イギリスの大英博物館へ搬出した。
調査・研究によって、莫高窟の文化財が見直されて、
世界遺産になるきっかけとなっている。

莫高窟の謎ときは、菩薩が教えてくれた』、
2009年2月15日では、
敦煌文書のを、『中央アジア踏査記』で、
「測ったところ、体積は14立方メートル近くあった」
と、記録している。

今回の『砂に埋もれたホータンの廃墟』、白水社で、
オーレル・スタインは、1900年~1901年に、
中国の許可と協力を得て、タイトル通りに、
砂に埋もれた古代遺跡ホータン、それに、
ベゼクリク千仏洞も発掘・調査をしている。

中国の許可と協力とは、発掘・調査をする先々で、
地方の役所の行政長官(アンバン)と面会し、
写真を撮り、食事の歓迎を受け、食糧やラクダ、
馬を調達し、発掘作業の従者を雇っている。
発掘・調査が終わってからは、行政長官に、
成果を見せながら報告をしている。
そして、文化財の搬出は、ラクダと鉄道、船で、
中国、ロシア、ヨーロッパを横断した。


ベゼクリク千仏洞は、中国の西のはて、
新疆(しんきょう)ウイグル自治区の、
オアシス都市、トルファンの近郊にある。
シルクロードの旅では、西安、敦煌とともに、
ベゼクリク千仏洞も、訪れるところである。
敦煌の莫高窟からは、北西へ550キロメートル、
タクラマカン砂漠のへりにある。

ベゼクリク千仏洞の近くには、火焔山(かえんざん)がある。

西遊記で、孫悟空が行く手をさえぎられた火焔山の、
写真を撮る日本人旅行者と客待ちのラクダ。
炎が燃え立つような灼熱の大地を見るのも、
楽しみの一つである。


世界一大きい温度計と中国人旅行者が背比べ。
気温は45℃(6月)。目盛りは100℃まである。

ベゼクリク千仏洞では、
文化財の破壊のいくつかの例をみる。

異教徒による破壊がある。
ベゼクリク千仏洞の石窟の壁や天井に描かれた、
仏画の目という目が、くり抜かれていた。
「回教徒によって、くり抜かれました」
と、中国人ガイドは話す。
――他民族の文化は、破壊する例である。

ほかにも、破壊があった。
文化大革命のときに、紅衛兵が仏画の、
顔という顔に、泥をぬった。
その泥が、ついたままだった。

――どうして、泥をふき取らないのだろうか?
「泥をきれいに、はがし取る技術が見つかるまでは、
このままにしてあります」
と、ガイドは、無残な状況を説明した。

盗掘による破壊。
オーレル・スタインが「宝探し」と言うのは、
住人が遺跡を盗掘して、文化財を売る。
宝探しは、ホータンほかで頻繁だった。

そして、最後は、探検家による搬出である。
発見し、発掘・調査をしてから、
研究・保存のために、国に搬出する。

ベゼクリク千仏洞が、
文化財として世界から注目されるのは、
100年前の探検家による発見からで、
ドイツ人の探検家、フォン・ルコックによって、
長い間、砂に埋もれたゼクリク千仏洞は、姿を現した。

「だいじな壁画(誓願図)は、部分に切り取って、
ドイツのベルリンに持ち去りました」
と、ガイドは残念そうである。

「ベルリンに保管された壁画(誓願図)は、
第2次世界大戦のときの爆撃で、永遠に失われました」
石窟には、壁画の写真が飾ってあった。
その場所から、切り取られた壁画である。

同じ時期に、イギリス人のオーレル・スタインも、
ベゼクリク千仏洞を訪れ、まだ残っている文化財を、
発掘・調査して、イギリスに搬出している。

仏教絵画芸術のみごとな遺物の代表例を、
できるだけ数多く救い出すためには、
この土地から、周到かつ組織的に、
搬出してしまうことが、唯一の手段だった」
と、オーレル・スタインは言う。

――文化財は、現地にとどめておくか?
それとも、文化財を救うために搬出するか?
むずかしい判断だ……つぎの結果から、
オーレル・スタインの活動は妥当だったんだろう。

搬出によって、学術的な研究が進み、
そして、世界から文化財として評価、注目され、
ベゼクリク千仏洞は、中国から重要文物保護になり、
莫高窟は、世界遺産になって、保護されることになった。

そして、文化財保護のために、日本から、世界から、
援助の手が差し伸べられている。
それとともに、シルクロードの旅の観光地となって、
日本、中国、世界の人でにぎわっている。
地域住民をうるおす観光産業として、
なくてはならいものになっている。
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西安で、餃子占い

2009-03-04 00:07:28 | Weblog
西安に餃子専門店、“徳発長”がある。
「“真珠餃子”という小さい餃子が、ボールに、
いくつ、入っているかで、“幸運”を占います」
と、ガイドから、徳発長の“餃子占い”を聞いた。

それで、団体旅行の有志、数人と出かけた徳発長は、
西安の中心、鐘楼(しょうろう)をのぞむところにあった。


「真珠餃子の数によって、幸運が違います」
と、ガイドが説明してくれた餃子占いを、
紙に書いてもらってある。

1つならば、“路風順”……順風満帆」
2つならば、“喜臨門”……2つの喜びがやってくる」
3つならば、“、六、九往上走”……さらに出世をする」
4つならば、“季発財”……1年中、財産をつくることができる」
5つならば、“穀豊穣”……穀物がよくみのる、豊作である」

真珠餃子のと、同じの幸運の熟語があてはめてある。
――これは楽しみだ! どの幸運でもいい。
だが、真珠餃子が1つというのは、ちょっと、
さみしい……ほかの人が5つならば、不公平だし。

徳発長は、でかいレストランで、定食は1階に、
餃子づくしの“餃子宴”は、上階に案内される。
窓から、ピラミッドのような建造物が見えた。


餃子が、つぎからつぎへと出てくる。
”によって、餃子の“”が変わる。
具がダックならば、首のあるダックの形をしているし、
くるみならば、茶色の殻の形、
チキンならば、鶏の形だった。
――“”のほかに、“”も、“”も楽しむ餃子だ。

いよいよ、14種類の餃子の最後になった。
さて、お待ちかね……“餃子占い”。
ウェイトレスが、コンロのついた鍋と、
皿に盛った真珠餃子を持ってきた。
真珠餃子は、うずらの卵ほどの大きさだ。
皿の真珠餃子をみんなに見せてから、
パカッと鍋に入れて、目の前でゆでる。

かきまわして、ゆで上がった真珠餃子を、
各人のスープ・ボウルをとりあげて、
しゃもじで、すくって、入れていく。
みんなに配り終わった。

――さ~て、いくつ、入っているか?
スープをかき回すと……3つだった。
、六、九往上走”……幸運が続く。さらに出世をする。
いい結果だ!……しかし、現実は、ちがっていたが。

すると、ほかの人も、
「3つです」、「3つだ」、「3つ」……全員3つだった。
「1つ」の人も、いなかった。
「5つ」の人も、いなかった。
平均値は3つ、標準偏差は0。

――たいしたもんだ、ウェイトレスのは。
ちゃんと、全員3つになるように分けている。
みんな、おなじ幸運になるように。
ケンカしないように。
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楊貴妃の湯浴み、宴、円舞

2009-03-01 07:20:00 | Weblog
西安で、兵馬俑のすごさに、息を飲んだあとは、
絶世の美女“楊貴妃”と“玄宗皇帝”のラブ・ロマンスの地、
華清池”(かせいち)を見てゆっくりする。
そして、西安にもどると、団体旅行は、
唐楽宮ショウでくつろぐ。

華清池では、楊貴妃の“湯浴(ゆあ)みの像”と、
楊貴妃と玄宗皇帝の“宴の壁画”、
西安では、楊貴妃と玄宗皇帝の“円舞”、
を見ることができる。楊貴妃の“3態”。

華清池は、西安へのもどり道にある温泉地。
玄宗皇帝と楊貴妃が冬場を過ごす保養地で、
兵馬俑からは、6.5キロメートルと近い。

華清池。左が楊貴妃の像。

華清池では、楊貴妃のなまめかしい“湯浴みの像”を写真に撮り、
楊貴妃と玄宗皇帝の風呂を見るのがパターンである。


湯浴みの楊貴妃は、池(九龍湖)の中がぴったりだったが、
いまは、陸に上がった。

「玄宗皇帝は、美人で聡明な楊貴妃を、一目で気に入りました。
そのときの楊貴妃は、自分の息子、寿王のお妃でした。
玄宗皇帝は、息子の寿王には、違うお妃を与えて、
楊貴妃を自分のお妃にすることにしました」
と、女性ガイドは、玄宗皇帝と楊貴妃の話をする。

「自分の息子のお妃を奪った、という非難をさけるために、
楊貴妃をいったん、道教の道士にしました。
それから、楊貴妃を迎え入れました。
その時、玄宗皇帝は61歳、陽貴妃は27歳でした。
2人の甘い生活は、陽貴妃が亡くなるまで、10年続きました」

「玄宗皇帝はハンサムでしたよ。みんなの憧れでした。
玄宗皇帝の息子、寿王は、“親孝行”です」
――自分の嫁さんを、おやじに譲ることが、親孝行かなァ?
私には、そんな親孝行の息子はいないなァ。
「当時は親孝行でした。いまは違います」
と、ガイドは笑っていた。

玄宗皇帝と楊貴妃の寝室(飛霜殿)の裏には、
玄宗皇帝と楊貴妃の“宴の壁画”がある。

制作は現代で、大きさは、縦3メートル、横7.5メートルほどある。
左の赤丸が玄宗皇帝、右が楊貴妃。
玄宗皇帝は一段高いところにいる。

「玄宗皇帝と楊貴妃のテーブルには料理がならび、
2人とも、カップを掲げています。
2人の周囲には、料理、酒を供する女官たち、
右下はダンスをし、右奥は演奏している人たちです」
と、ガイドは説明する。

最後は、玄宗皇帝と楊貴妃の“円舞”。
西安にもどると、唐楽宮でショウ。

ハンサムの玄宗皇帝と、絶世の美女の楊貴妃の“円舞”は、
さぞかし、このようだっただろう。
豪華・壮大、華やかなショウに、
日本、シンガポール、ドイツのお客さんは、酔う。

西安に行ったなら、“楊貴妃”、の“湯浴み”、
”、そして、“円舞”を見ることができる。
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