季節の変化

活動の状況

日本の通知表

2009-04-28 05:35:00 | Weblog
「季節の変化」で、現地の市民と触れ合い、
から日本をみて、日本の良さをお伝えしてきた。
そして、日本人の“アイデンティティ”を、
日本人は、優れた創造力とテクノロジーがあり、
国を発展させた高い能力がある”、それに、
独自の文化を育て、文化財を保護している”とした。

客観的にみると、日本はどうなるのだろう?
世界の表彰・評価”を探して、“指標”を定め、
数値”で日本をながめると、それは“日本の通知表”になる。
世界が表彰・評価する日本は、どのような通知表になるのだろう?

自費出版した『世界がみる日本の魅力と通知表』では、
“日本の通知表”を載せている。
“日本の通知表”を、最新にするとともに、
ほかの国は、どのような通知表になるのだろう?

次の項目を調べる。
1)創造力は、世界でどのくらいか?
2)芸術力は、世界でどのくらいか?
3)学力は、 世界でどのくらいか?
4)文化力は、世界でどのくらいか?
5)運動力は、世界でどのくらいか?
6)経済力は、世界でどのくらいか?
7)援助力は、世界でどのくらいか?
8)総合力は、これらを合計すると、どうなるか?

“世界的な表彰・評価”の中から、“指標”として、つぎを採り挙げた。
1)創造力: ノーベル賞
2)芸術力: カンヌ映画祭
3)学力:  15歳の知識と技能の調査PISA
4)文化力: 世界遺産
5)運動力: A)サッカーのワールド・カップ
もしくは、B)陸上競技世界記録
6)経済力: 国内総生産GDP
7)援助力: 政府開発援助ODA

1)創造力
ノーベル賞の受賞は国の底力、品格を示す。
自然科学分野の受賞数とする。
恣意(しい)がからむ、文学賞、経済賞、平和賞は除いた。
公式ホームページnobelprize.orgを参照した。

2)芸術力
カンヌ映画祭は、総合芸術である映画の表彰で、60年の歴史がある。
グランプリ、途中から代わったパルム・ドールの受賞作品数とする。
公式ホームページfestival-cannes.frを参照した。
美術や音楽には、スペイン、イタリア、フランス、オランダ、ドイツ、
オーストリアなどから、多くの天才・鬼才が生まれている。しかし、
天才・鬼才の世界的な表彰・評価や“天才事典”はなかった。

3)学力
PISA2006は、義務教育が終わる15歳の知識と技能の調査である。
世界の文教関係者が、「自分の国の教育改革が、成果を上げているのか?
生徒の学力のレベルが、世界のどの位置にあるのか? 国際比較を知りたい」
という要望に、経済開発協力機構(OECD)が応えて、PISAを開発した。
PISA(Programme for International Student Assessment)は、
義務教育が終わる15歳の生徒の学習到達度を調査するプログラムである。
OECD加盟国を中心に、2000年に調査を始め、3年ごとに行っていて、
参加国は、OECD加盟国以外にも増えている。
最新の2006年の結果を採用する。
読解力数学科学の点数が公表されているので、合計した総合点とした。
公式ホームページpisa.oecd.orgを参照した。

4)文化力
ユネスコ(UNESCO)が世界遺産を選定している。
文化遺産と自然遺産、これらを組み合わせた複合遺産がある。
人類の創造的な傑作で、将来的に遺したい文化遺産複合遺産を採用する。
公式ホームページunesco.orgを参照した。

5)運動力
A)サッカーは、世界で行われ、競技人口が多い(野球の15倍)。
サッカーは、瞬発力、持久力、戦術、とっさの判断力を要する。
ワールド・カップで優勝した7か国の優勝回数と、
国際フットボール連盟FIFAランキングとする。
公式ホームページfifa.comを参照した。
B)陸上競技世界記録は、鍛えあげた身体、技術、精神の成果である。
男子、女子合わせた世界記録の数とする。iaaf.orgを参照した。
A)サッカー、B)陸上競技世界記録のうち、高い方を採用した。
なお、オリンピックを指標として採り挙げなかったのは、
夏と冬の競技(例えば水泳とスキー、陸上ホッケーとアイスホッケー)では、
参加国が限られたり、地域のかたよりがあったため。

6)経済力
国内総生産GDPは、国内で生産された付加価値の総額で、
国の経済力を示す。en.wikipedia.orgを参照した。

7)援助力
政府開発援助ODAは、先進22か国による発展途上国への援助を示す。
外務省mofa.go.jpを参照した。


世界の表彰・評価から、“指標”を定め、“数値”で示す、
“日本の通知表”はつぎになる。
ランク…AA=3位以内 A=10位以内 B=20位以内 C=30位以内 D=40位以内。
1)創造力: ノーベル賞の受賞者12人は世界で9位→ランクA。
2002年に、小柴昌俊さん(物理学賞)、田中耕一さん(化学賞)の、
同時に2人の受賞には、大喜びをしたことがある。
2008年は画期的な年で、物理学賞に小林誠さん、益川敏英さん、
南部陽一郎さん、化学賞に下村脩さんの4人が受賞する快挙であった。
ここでは、公式ホームページnobelprize.orgにしたがって、
アメリカ国籍の南部陽一郎さんは、日本から除いてある。
日本国籍を取得した留学生や研究者から、受賞者がでる日がくればいい。

2)芸術力: カンヌ映画祭でパルム・ドール受賞作品4は5位→ランクA。
3)学力:  PISA2006の15歳の知識と技能は10位→ランクA。

4)文化力: 文化遺産は11で15位→ランクB。
5)運動力: サッカーのランキングは35位→ランクD。
しかし、陸上競技世界記録は、8個で5位→ランクAを採用。
これは、長距離走で男女各4人が世界記録を持っているため。

6)経済力: 国民総生産は2位→ランクAA。
7)援助力: 政府開発援助は5位→ランクA。
8)総合力: 合計は、ランクA。


日本のレーダーチャート(2009年4月)。

[総合評価]
面積が大きく、バランスがとれたレーダーチャート。
“創造力”、“芸術力”、“学力”は世界のトップ・レベルにある。
PISAの15歳の学力調査の、社会生活を営むのに必要な知識と技能は、
ノーベル賞やカンヌ映画祭に必要な創造力、芸術力とは異なるが、
創造力、芸術力、学力の3つがそろって高いのは、日本だけである。

“文化力”もある。日本の独自の文化を見に訪れる観光客。妻籠宿(2004年)。

浅草、日光、奈良、京都が観光客のルートになっているが、最近、
北海道や長野県の白馬に惹(ひ)かれる観光客が増えていることを実感する。

“運動力”は、陸上競技世界記録で健闘している。
野球は、松坂選手、イチローなどの活躍で、WBCで2連覇した。
サッカーで優勝してほしい。アジア・カップでは3回の王者、アジア1位である。

“経済力”、“援助力”は、世界のトップ・レベル。
援助力は、1990年代の10年間は、日本が世界1位であった。
第2次世界大戦の敗戦国であった日本が、見事に経済復興して、
先進22か国の援助国になっている。アジアからは唯一の援助国で、
アジアやアフリカ、中南米、中近東、そして東欧に手をさしのべて、
現地の市民に“幸せ”をもたらしている。

“総合力”は、国を発展させ、世界をリードし、援助する力がある。

世界の表彰・評価がみる“日本の通知表”の“数値の情報”からも、
現地市民の“ナマの声”による“生きた情報”からも、
日本は世界に貢献している国、目標になる国である。

それに、アジアのリーダーであり、世界のリーダーの一員として、
その役割を果たして、世界の市民に幸せをもたらしている、
日本が存在する重要な意味があるということであり、
誇りに思うとともに、自信勇気が与えられる。


日本の最高学府、東京大学。
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三十年戦争のはじまりとなったプラハ城の窓

2009-04-25 10:59:45 | Weblog
前回、“三十年戦争”は、プラハ城を襲ったプロテスタント派が、
フェルディナント2世(後の神聖ローマ帝国の皇帝)の補佐官3人を、
プラハ城から放り投げた。
これが、三十年戦争のはじまり(1618年)であることを書いた。

窓の位置は、正面の城(ルドヴィーク翼)の左の端、上から2番目。

地面に、とがったモニュメントが見える。

今回は、宗教改革の運動家ヤン・フス像の話。
プラハの旧市街の広場には、天文時計のある旧市庁舎がある。

ヤン・フスの像は、この旧市庁舎がある旧市街の広場にある。

1618年に三十年戦争がはじまるがその前に、ヤン・フスによる、
宗教改革運動があった。プロテスタント運動の先駆けで、
ヤン・フスは、1415年に火あぶりの刑になっている。

ハプスブルク家の支配下にあったチェコは、
ドイツ語が強制されて、チェコ語が禁止された。
チェコ語が許されたのは、“人形劇”の中だけだった。

チェコは、国民一人当たりのピルスナー・ビールの消費量が世界一である。
これは、ウサを晴らすため?
三十年戦争を経験し、チェコ語が禁止され、
第2次世界大戦後では、共産政権下でプラハの春、
ビロード革命を経験した。大変な忍耐が要求されてきた。
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日本人のアイデンティティを生む、日本の5つの特徴

2009-04-22 05:35:39 | Weblog
日本の独自の文化、狩野永徳展。京都国立博物館(2007年)。

洛中洛外図屏風”、看板の“唐獅子図屏風”は人気で、
入館するのに1時間待ちの長蛇の列だった。

世界の市民は、日本人の“アイデンティティ”を、
日本人は、優れた創造力とテクノロジーがあり、
国を発展させた高い能力がある”。それに、
独自の文化を育て、文化財を保護している”と、みていた。

この日本人のアイデンティティは、どうして生まれたのだろうか?
世界の市民に触れ、外から日本をみると、日本の特徴として、次がある。
改善をする遺伝子”をもっている、
子どもの教育”に力を入れている、
排他的な宗教”ではないし、偏狭ではない、
治安のいい街”で、“美しい自然”がある。そして、
民主主義陣営”に属した、ことが挙げられる。

1)改善や発明をする遺伝子DNAが宿っている
日本人は、改善、改良の思想が徹底している。
研究開発費が多く、特許の取得やノーベル賞の受賞者が多い。
創造力があり、ノーベル賞を受賞できる環境は日本の底力、品格となっている。
2)子どもの教育に力を入れている
親には食費を倹約してでも、子どもの教育には力を入れる伝統がある。
教育を受け、実績を上げれば夢が実現できるという上昇志向や平等意識がある。
3)排他的な宗教ではないし、偏狭ではない
ほかを否定したり、拒絶する宗教ではない。だから宗教戦争はない。
偏狭ではなく、異質なものや風習に興味を持ち、日本風に融合、
調和する才があって、改良や発展、文化の創出につながっている。
4)街の治安がいい、美しい自然がある
治安の悪さやテロに対して、びくびくしないですむ安全な生活や、
美しい自然は、創造的な活動や経済活動、文化活動をするのに重要である。
5)第2次世界大戦後は民主主義陣営に属した
第2次世界大戦後の廃墟から、技術開発をし、国の復興をとげた。
民主主義陣営に属して、地球規模の市場競争にもまれ、世界一を目指して、
“デファクト・スタンダード”(実質的な標準)を開発してきた。
民主主義陣営に属した例は、フィンランドでも西ドイツでもみてきた。
第2次世界大戦の敗戦国だったが、戦後は民主主義陣営に属して、
国を復興し、先進22か国の経済援助国になっている。
一方で、共産政権下にあった東ドイツやチェコなどの東欧では、
半世紀たつと、国が立ち行かなくなった。
民主主義陣営に属して、市場経済に移行し、国の復興をしていく。


ここで、宗教戦争の話。
三十年戦争”は、チェコがはじまりである。
チェコのプラハ城を襲ったプロテスタント派が、
カトリック派のフェルディナント2世(後の神聖ローマ帝国皇帝)の、
補佐官3人を、窓から放り投げて、三十年戦争がはじまった(1618年)。

ツアー・ガイドは、左に突き出た城(ルドヴィーク翼)の、
左の端、上から2番目の窓を指して、
「ここから、15メートル下に放り投げられたが、
ゴミ置き場の上で、助かりました」
と、話す。
地面に、とがったモニュメントが見える。

そのプラハ城の遠景。手前はモルダウ川。

今では、平和な眺めだが、三十年戦争当時は、
「フェルディナント2世の軍によって、プロテスタントは敗北し、
モルダウ川は、死体であふれていました」
と、ガイドは言う。

プロテスタントとカトリックは、殺戮を繰り返して、ヨーロッパは疲弊し、
1648年にやっと、講和が成立して三十年戦争は終わった。
これは、17世紀の話。

つぎは現代の話。イギリス、ロンドン北部、スタンモアの教会。

この教会の近くに住んでいて、訪ねてくる人には、
「教会の城のようなタワーを目印に来てください」
と、案内していた(1989年)。

この教会の裏にイギリス空軍の宿舎があることは、あとでわかった。
というのは、空軍の宿舎をねらったIRAの爆破で、教会の外壁が、
一部崩れて焦げ、付近は立ち入り禁止になった。IRAは、
アイルランドのカトリック系の武装組織である。

「空から、何かが降ってきた!」
昼間、家で洗たくをしていた妻は、強烈な衝撃で、
「外に飛び出して、空や周りを見まわした。
サイレンがけたたましく鳴って、騒然となった」
と言う。

――アブナイところに住んでいる。
よそ事と思っていた、宗教戦争を身近に感じた。


さて、日本の科学や技術、経営、文化、自然は、世界の市民の、
あこがれ”であり、“尊敬”である。そして、
マンガ、カラオケ、カワイイ、オタク、モッタイナイは、
そのまま通じ、世界の市民から、
cool かっこいい”、とされている。

日本の科学や技術、経営、文化を学び、身につけたいと、留学生が来日し、
アニメーションを見たい、日本のファッションを身に着けたい、
お寺や神社、城を見たい、美しい自然を見たい、登山をしたい、スキーをしたい、
スシを食べたい、スキヤキを食べたい、と観光客が押し寄せる。

松本城を訪れる市民と観光客。遠方は雪を抱く北アルプス(2009年)。

日本は独自の文化があり、美しい自然がある。

世界の市民は、
日本は安全であり、日本人は誠実であり、きれい好きである、
と、みている。それに、
魅力のある国、刺激的な国、あこがれの国、そして、国際的に重要な国、
と、みている。
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世界がみる、日本人のアイデンティティ

2009-04-19 08:25:16 | Weblog
多くの国々を訪問し、現地の市民と触れ合うことができた。
この貴重な体験ができた恩返しとして、
「日本は、尊敬されている」
「日本は、もっと自信をもっていい」
と、“日本の良さ”をお届けしようとして、
季節の変化」は、1年4か月、130回を超えた。

いったん整理をしてみる。そして、世界がみる、
日本人のアイデンティティ”について、書いてみたい。

日本は、内からみると、悪いところばかりが目につく。
ムダ使いが多く、改革が進まない、膨大な借金があって、
返済はつぎの世代に先送りされていると、悪いところも多い。
そして、日本はダメだ、ダメだと悲観し、批判することになる。

たしかに、悪いところも多いが、世界の市民は、日本人のいいところをみて、
「日本は、どうして経済大国に成長したのか?」と、ベンチ・マーキングし、
「日本のようにハイテク産業を興したい」と、技術援助や経済援助を受け、
「日本は、模範Role Modelで、追いつき、追い越したい」と、目標にし、
「日本は、独自の文化を持ち、よその国の文化も保護している」と、
日本に、あこがれ、尊敬していた。

そして、見失いがちな日本人のアイデンティティだが、
日本人は、優れた創造力とテクノロジーがあり、
国を発展させた高い能力がある
それに、
独自の文化を育て、文化財を保護している
と、世界の市民はみていた。

――優れた創造力とテクノロジーを示す写真は?
名古屋市のトヨタ産業技術記念館には、トランペットを吹くロボットがある。

先端技術のショーとして、アメリカの自動車ショーやCES(エレクトロニクス・ショー)、
日本のビジネス・ショー、ドイツの国際見本市(ハノーバー・メッセ)、
それに、万国博覧会があるが、トヨタ産業技術記念館は常設で、
行けば、だれでもロボットの実演を見ることができる。

――独自の文化は? 絵画は、美術館で展示している。
日本画では、国立新美術館加山又造展(2009年)。
地下鉄、乃木坂駅の国立新美術館出口。

ポスターの“春秋波濤”や“黒い薔薇の裸婦”など、すばらしかった。
多くの人が見に来ていた。

「季節の変化」130回の掲載で、読者の関心・興味は、どこにあるのだろう?
閲覧数が多いタイトルの中から、検索エンジン、
Google、OCN、Yahoo! Japanで、ランキングを調べてみた。
○:10位以内、△:20位以内、□:50位以内、X:51位以下、
◎:10位以内に2つのタイトルがある場合。

検索項目          Google      OCN       Yahoo
敦煌文書           ○        ○        □
敦煌文書 謎         ○        ○        ◎
敦煌文書 スタイン     ◎        ◎        ◎
                Google      OCN       Yahoo
王圓籙             ◎        ◎        ◎
敦煌文書 井上靖      ○        ○        △
敦煌 国立情報学研究所 ○        ○        △
                Google      OCN       Yahoo
莫高窟 平山郁夫      ○        ○        △
莫高窟 池田大作      ○        ○        ○
莫高窟 石碑         ○        ○        ○
                Google      OCN       Yahoo
兵馬俑 謎          ○        ○        ○
ベゼクリク千仏洞       ○        ○        △
餃子占い           ○        ○        ○
                Google      OCN       Yahoo
楊貴妃 湯浴み       ○        ○        ○
オアシス都市         ○        ○        △
万里の長城 終わり     ○        ○        □
                Google      OCN       Yahoo
ベルリンの壁 イデオロギー ◎        ◎        ◎
ベルリンの壁 パラダイム   ◎        ◎        ◎
ベルリンの壁 帝国主義   ◎        ◎        X
                Google      OCN       Yahoo
ベルリンの壁 20周年    △        ○        ○
ベルリンの壁 崩壊      □        □        X
ベルリンの壁 監視塔    ○        ○        △
                Google      OCN       Yahoo
ベルリンの壁 シュプレー川 ○        ○        ○
ベルリンの壁 国会議事堂  ○        ○        ○
ベルリンの壁 拉致      ○        ○        ◎
                Google      OCN       Yahoo
経済戦争 計画経済     ○        ○        ◎
経済戦争 武力戦争     ○        ○        ○
共産政権 経済戦争     ○        ○        ◎
                Google      OCN       Yahoo
プラハの春 ビロード革命  ○        ○        X
プラハの春 おもかげ     ◎        ◎        ○
共産主義 犠牲者       ○        ○        X
                Google      OCN       Yahoo
イデオロギー 先端技術   ○        △        ◎
トラバント シュコダ      ○        ○        ○
チェコ 経済戦争       ○        ○        ○
                Google      OCN       Yahoo
チェコ ラーダ         ◎        ◎        ○
東ベルリン 見どころ    ◎        ◎        ○
東ベルリン ペルガモン   ○        ○        ○
                Google      OCN       Yahoo
Win-Win 共生        ○        ○        X
中国 お母さんの味      ○        ○        X
敦煌空港 ODA        ◎        ◎        ◎
                Google      OCN       Yahoo
フィンランド 世界一の学力 ○        ○        X
国際化か死か         ○        ○        ○
サウナ・バス          ○        ○        X
                Google      OCN       Yahoo
フィンランド 春祭り     ○        ○        ○
ノキア 情報機器      ○        ○        X
100年前 恩返し       ○        X         ○
                Google      OCN       Yahoo
フィンランド 芸者チョコレート X         X         ○
ラップランド 穴釣り      ○        ○        ○
ラップランド キツネの火   ○        ○        ○
                Google      OCN       Yahoo
ベンチ・マーキング 異業種  ○        △        ○
ベンチ・マーキング 航空会社◎        ○        ◎
ベンチ・マーキング アメリカ ○        ○        ○
                Google      OCN       Yahoo
オーストラリア ゲーム・ミート○        ○        △
日本 ゲーム・ミート      ◎        ◎        ○
ケニア ゲーム・ミート     ○        ○        X
                Google      OCN       Yahoo
ケニア 国際テロ      ○        ○        X
チュニス アメリカ大使館  ○        ○        ◎
フェニキア アルファベット ○        ○        X
                Google      OCN       Yahoo
フランスのワイン・カード    X         X        □
フランス 貝の見分け方   ○        X        ◎
スペイン料理 フランス料理 ○        ○        ○
                Google      OCN       Yahoo
シエスタ・チャイルド     ○        ○        ◎
モーニング・チャイルド   ○        ○        ◎
韓国 PISA          ○        ○        X
                Google      OCN       Yahoo
ハモン プロシュット     X         X        ○
イギリス モーニング・ティー△        △        X
季節の変化          X         X        ○
この調査は、1日では終わらず、4月16日から3日かかった。

「季節の変化」は、身の回りの時期的な変化よりも、
歴史の劇的な変化のほうが、興味をもっていただいた。
中でも、敦煌文書の謎、ベルリンの壁の崩壊、兵馬俑の謎、
チェコの歴史的な激変、ベンチ・マーキングフィンランド
ゲーム・ミートPISA、各国の状況などが、上位にランクされていた。

「季節の変化」は、
現地で知ることができた“事実”、
現地の市民が話す“ナマの声”、
それも、新鮮に感じることを伝えるようにした。

書くにあたっては、間違いのないように、
メモを開き、文献で調べた。自費出版した、
『世界が見る日本の魅力と通知表』も参照した。

そして、なるべく写真を載せるようにした。文で説明するよりも、
1枚の写真のほうが、わかりやすいし、情報が多い。
それに、歴史の劇的な変化、パラダイム・シフトを示す写真を探した。

20数年前の銀塩写真を、段ボールから引っ張り出し、
整理して、画像データにするのに、多くの時間を割いた。

PCに向かって、写真を整理し、調査し、書いていると、
眼が疲れてくる。白髪も増えた? そして、
掲載は130回、写真は340枚を超えた。

「季節の変化」を、多くの方が閲覧していただいたことで、
報われたような気がしています。ありがとうございました。

外から見た日本”が、読者を勇気づけ、活力や知恵袋になって、
さらなる文化の創造アイデンティティの確立への挑戦になれば幸いです。

日光菩薩、月光菩薩の「薬師寺展」開催中の東京国立博物館(2008年)。

すばらしい文化に触れたあと、庭園を見ながら、やすらぐ。
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プラハの春からビロード革命まで、21年の悲惨

2009-04-15 08:00:18 | Weblog
黒い服の婦人の足もとに見えるのが、プラハの春のおもかげ

小さい、地面だから、注意しないと、見落としそうだ。
奥は、馬にまたがるヴァーツラフ像、その奥は国立博物館である。

IN MEMORY OF THE VICTIMS OF COMMUNISM
共産主義の犠牲者たちを記念して
――しかし、重い意味の言葉だな!
共産主義との決別で、悲惨さを体験したチェコ人でなければ、
出てこない言葉だ。

歴史の劇的な変化パラダイム・シフト言葉で表すと、
“IN MEMORY OF THE VICTIMS OF COMMUNISM”
「共産主義の犠牲者たちを記念して」
になる。

この小さな記念碑から、
世界のだれも、助けてくれなかった!
どうしようもない、つらい時期だった。
この悲惨な状況は、21年続いた」
と言う、チェコ人、ロマーンのやりきれない気持ちが、
ひしひしと伝わってくる。

「世界のだれも、助けてくれなかった!」
と、ロマーンが言うのは、つぎである。
アメリカは、ソ連のチェコ侵攻は国連憲章に反する内政干渉で、
即時撤退をすべきだ、としたが、ソ連は国際連合安全保障理事会で、
拒否権を行使して、葬(ほうむ)り去った。

そのとき、アメリカはヴェトナム戦争が泥沼状態だったから、
共産主義陣営の内輪もめには、これ以上、手出しができなかった。
身内の共産主義陣営からも、民主主義陣営からも、チェコには、
援助の手は差し伸べられなかった……世界から見捨てられたと感じた。
「世界のだれも、助けてくれなかった!」
と、ロマーンの悲痛になったのである。

「この悲惨な状況は、21年続いた」
と、しぼり出すように言った。
21年続いた悲惨な状況とは、
1968年の“プラハの春”から、
1989年の“ビロード革命”までである。

――希望が持てない生活、生命が脅かされる生活が、
21年も続くとは、絶望になる。

ロマーンは30代だから、チェコ事件は生まれる前のことだ。
実際に体験したわけではないプラハの春が、どうしようもない、
つらい時期として彼の口からでるということは、この時代の苦悩が、
すべてのチェコ人に染みついているということだろう。


冷戦の最前線にさられた西ベルリンの結婚年齢は高い。
これからどうなるか? 先が見えない状況では、
家庭を持つ希望が抱けなかったことによるが、
ロマーンは結婚したばかりで、新妻は27歳。

ドイツが東西に、半世紀、分断した結果、
東ドイツ人の平均身長は、西ドイツ人よりも低かった。
男性は2センチメートル低く、女性は3センチメートル低い。
現在、ドイツ人の平均身長は、男性が180センチメートル、
女性が168センチメートルある。

ロマーンの新妻は、どんな女性だろう? 背は高い?
悲惨な状況をすごし、共産主義陣営から民主主義陣営に移行する、
歴史の激的な変化を、体験したわけだが、感想はどうだろうか?
ピルスナー・ビールは飲む? それで、
――奥さんも、いっしょに食事をどう?
「今晩は、日本人と外出するから、妻の妹が家に来ている」
と、いっしょに食事は、実現しなかった。


1969年の2人の学生の死の抗議が、
20年後のビロード革命につながった。
それまで、口をつぐんでいたチェコ人が口を開いたのは、
1989年11月17日のデモ行進である。それは、第2次世界大戦で、
ナチスに殺害された学生の、追悼(ついとう)50周年のデモ行進だった。

それが民主化運動と重なって、学生に市民が加わり、
日ごとに広がって、1週間後には80万人にふくれた。
ロマーンは、ビロード革命は体験している。
「私たちは、素手なんだ」
勝利すべきは、真実自由だ」
と、掛け声をあげた。
1968年チェコ事件で、ソ連の戦車が占拠したヴァーツラフ広場は、
民主化を要求するチェコ人で埋め尽くされた。

この無血革命で共産党体制は崩壊した。
ビロードのようにやわらかかったことから、ビロード革命とよばれ、
そのとき、イギリスに赴任していたから、ニュースは身近に伝わってきた。

ビロード革命に先立つ1985年に、ソ連では、ミハイル・ゴルバチョフが、
書記長になって、政治改革ペレストロイカを進めた。
東ドイツでは、1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊する、
歴史上の劇的な変化があって、ビロード革命を勇気づけている。
1989年は“東欧革命”の年で、東欧の共産党体制が次々と崩壊した。

ビロード革命は成功して、
言論は自由になり、出版物の検閲は廃止され、
国外旅行の規制はなくなり、市場経済に移行した。
ヨーロッパへの回帰”を目指して、EUに加盟した。

生活に“希望”が持てないとは、“不幸”であり、
生命”が脅(おびや)かされるとは、“平和”ではない。

プラハの春からビロード革命まで、21年の悲惨を体験したチェコは、
もう、あともどりはしない。したくはない。
ヨーロッパへ回帰し、EUに加盟して、国を復興させていく。

母子の写真を撮らせてもらった。カレル橋。遠方はプラハ城(2006年)。

2人の子どもの、おそろいの帽子がいい。
――幸せに、なれよ!
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プラハの春のおもかげは、「共産主義の犠牲者たちを記念して」

2009-04-12 01:02:38 | Weblog
世界のだれも、助けてくれなかった!
どうしようもない、つらい時期だった。
この悲惨な状況は、21年続いた」
これは、チェコ人、ロマーンの悲痛である。

――現地人から、こんな悲痛な叫びを、これまでに聞いたことがない。
だれに相談することもできない閉塞(へいそく)状態である。
日本人に言うからには、よほどの絶望状態だったんだろう。

21年続いた悲惨な状況とは、
1968年の“プラハの春”から、
1989年の“ビロード革命”までである。

チェコは、ビロード革命(無血革命)が成功して、
共産政権が倒れたことを、前に書いた。
そのビロード革命より21年前に“プラハの春”があった。
プラハの春は、言論を自由にし、出版物の検閲を廃止し、
国外旅行の規制を緩和するという、民主化運動である。

しかし、プラハの春は、ソ連との決別を意味したために、
1968年8月20日の夜11時、ソ連軍がチョコに侵攻して、
数十人の犠牲者をだし、プラハを占拠した。チェコ事件である。
そして、ソ連はチェコの改革運動をやめさせた。

チェコの改革運動、「政治を、国民の皆さんにもどしたい」
と、プラハの春を進めた、時の共産党第一書記、
アレクサンデル・ドゥプチェクは失脚した。

ソ連の戦車で占拠されたプラハのヴァーツラフ広場に行きたい。
――できれば、プラハの春のおもかげがないか?

ヴァーツラフ広場には、もちろんソ連の戦車はない(2006年)。
プラハ一番の繁華街は、市民と観光客でにぎわっていた。

正面に見える国立博物館に向かうと、
ヴァーツラフの銅像の手前に花壇があり、
その中に、手作りのようなシラカバの十字架があった。

――小さい! 見落としそうだ。しかも、地面にある。
有刺鉄線で輪をつくって、十字架にかけてある。

幅80センチメートルほどの、黒いぴかぴかの石があって、
ヤン・パラフヤン・ザイクの顔が写っている。
ヤン・パラフは、1948年8月11日から1969年1月19日、
ヤン・ザイクは、1950年7月3日から1969年2月25日、
とあるから、20年18年人生だったことになる。

手前の茶色の石には、3行の文があって、2行目は英語である。
IN MEMORY OF THE VICTIMS OF COMMUNISM
共産主義の犠牲者たちを記念して
1行目はチェコ語で、3行目はドイツ語……ロシア語はない。

プラハの春を、ソ連が踏みにじったことに抗議して、
20歳の学生、ヤン・パラフは、国立博物館の前でガソリンをかぶり、
焼身自殺をした。1か月後に同じ場所で、18歳の学生、ヤン・ザイクは、
後を追うように焼身自殺をした。石に刻まれた年月日がそのときを示す。

プラハの春のおもかげは、「共産主義の犠牲者たちを記念して
IN MEMORY OF THE VICTIMS OF COMMUNISM
2人の学生のの抗議の“記念碑”である。

ソ連のチェコ侵攻で、プラハの春は終わった。
そして、秘密警察は弾圧を再開した。
チェコは恐怖社会にもどって、民主化運動をすれば、
仕事を失い、投獄され、人生を失う。大学生は退学させられる。
恐怖社会に、チェコ人は口をつぐんだ……ビロード革命まで、21年間も。
「どうしようもない、つらい時期だった」
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経済戦争で、計画経済が市場経済に負けた

2009-04-08 02:32:46 | Weblog
「父は、仕事がなくても国営工場に行って、給料をもらっていた。
さからわずに、工場にいれば給料がもらえるし、解雇はなかった」
これは、チェコ人、ロマーンが、共産政権下にあったときの、
チェコについて、話したものである(2002年)。

ソ連が崩壊した原因は、ミハイル・ゴルバチョフの政治改革
ペレストロイカと情報公開グラスノスチによる民主化である。

共産主義体制が崩壊した遠因は、“経済戦争”である。
東西が、ドンパチの“武力戦争”をしたのではない。
計画経済”が、“市場経済”に負けたのである。

「計画経済が市場経済に負けた」ことを示す事例はないか?
ソ連の車“ラーダ”と、チェコの車“シュコダ”がある。

ソ連の車“ラーダ”をポーランドで見た(2006年)。

――まだ使っている!
と、カメラを向けると、警察官と目が合った。
違反切符をきっていたが、違反や警察官を撮ったのではなく、
ラーダに興味があることがわかったのだろう、なにごともなかった。

ラーダはがんじょうだ。塗装がはがれれば、上塗りしている。
イタリアのフィアットがエンジンほか、主要部品を供給して、
ソ連でつくった。このノック・ダウンは、1980年代から始まった。

ソ連のラーダをチェコでも見た(2006年)。

塗装のムラがあり、サビがあるが、まだ堂々の現役だ。
右後方の黄色の車は、チェコの新しい“シュコダ”である。

チェコは、1989年無血革命(ビロード革命)で、共産政権が倒れた。
チェコのビロード革命は、ベルリンの壁が崩壊したことによって、
勢いがついて成功し、民主主義国家、チェコ共和国が生まれた。
1989年は、チェコにとっても、劇的な変化が起きた年である。

そして、シュコダは西ドイツのフォルクスワーゲンの子会社となった。
その新技術で製造された新しいシュコダである。

――のラーダを買うか? 黄色のシュコダを買うか?
シュコダがフォルクスワーゲンの子会社になったことが回答である。
ラーダには、技術力がないことは、明らかである。

前回、東ドイツが消滅すると、トラバントは生産中止になり、
チェコは、民主主義陣営に入ると、シュコダは、
西ドイツのフォルクスワーゲンの子会社となった、
ことを書いた。

共産主義体制の計画経済で、いくら優れた指導者が、
企画・開発した製品でも、世界規模の市場経済では、
まったく競争力がなかった。

国には売れるものがない。売れない。
それで、共産政権は立ち行かなくなった。
一党独裁による硬直、内部の腐敗、無気力、
それに、計画経済の破綻で国は破滅状態になった。

「父には、利益を生み出して、給料を稼ぎ出そう、という意識や、
能力を向上して、実績を上げれば、給料が上がる、という発想には、
なじめないでいる」
と、ロマーンは言う。
言われるままにやっていればよかった、国家公務員に共通するとまどいだろう。

「共産主義から民主主義になったが、生活はちっとも良くならない。
仕事がなくても国営工場に行って、給料をもらった昔の方が良かった、
と言うのです」

市場経済に移行したから、きょうから生活が良くなる、
とはならなかった。たまった半世紀分の垢(あか)を、
これから、そぎ落としていく。

チェコは、“ヨーロッパへの回帰”を目指して、
2004年5月に、EUヨーロッパ連合に加盟した。
しかし、その前にすることがある。
西の北大西洋条約機構(NATO)という軍事同盟に加盟することである。
西への忠誠心を誓う“踏み絵”である。

「学校で、きのうまで“”だ、と教えられていたNATOに、
加盟することには抵抗がありました」
と、ロマーンは複雑な気持ちであったことを話す。
市民までが感じる“屈辱”だ。

「それまでは、ソ連を盟主としたワルシャワ条約機構に加盟していた。
1991年にソ連が崩壊して、当然、ワルシャワ条約機構も解消となった。
1999年にNATOに加盟して、ワルシャワ条約機構の軍事秘密を、
NATOにオープンにした」

「今では、NATOから軍事指導を受け、NATOに積極的に協力して、
ミサイルを配備する防衛計画にも取り組んでいます」
と言う……ロマーンの屈辱もとまどいも、吹っ切れている。

「チェコが市場経済で世界と競合していくには、無気力状態から、
活力を取りもどさなければならないが、世代があと2回くらい、
代わらないとダメだ。半世紀も続いた共産政権の習慣や意識は、
すぐには変えられない」
と、ロマーンは言う。

チェコ人が体験した、歴史上の劇的な変化について、
自費出版した、『世界がみる日本の魅力と通知表』で、
「世界のだれも助けてくれなかったプラハの春」、
「チェコ・フィルハーモニーの援助」などで、
記載したので、参考にしてください。


計画経済が市場経済に負けた」ことを示す事例は、
ソ連の車“ラーダ”と、
チェコの車、新旧の“シュコダ”に見た。

それに、ロマーンの言葉がある。
「チェコが市場経済で世界と競合していくには、
無気力状態から、活力を取りもどさなければならない」

半世紀のツケをとりもどして、国を復興させていく。
ビロード革命”を成功させ、NATOに加盟し、
EUに加盟し、国の生き残りをかけていく。
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トラバントは生産中止に、シュコダはフォルクスワーゲンの子会社に

2009-04-05 02:28:11 | Weblog
東ドイツが消滅する2年前の1988年に、東ベルリンに入って、
――東ベルリンの第一印象は、活気がない。
と、前回書いたが、それでは、このときの、西ベルリンは?

西ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム教会。
第2次世界大戦の空襲で廃墟となった。
新しい教会が右に建設され、廃墟は戦争の記念としている。
付近は、人でにぎわい、新しい車がある。

西ベルリンのショッピング街(1988年)。

廃墟から、新たに建設されたショッピング街。
いずれも西ベルリンの中心街だが、人のにぎわいがある。

これらの西ベルリンの街を見てから、東ベルリンに入ったのが前回の写真である。

ブランデンブルク門から東に延びる大通り。
左が歴史博物館、中央にそびえるのはテレビ塔。
この先は博物館島になる中心街だが、人のにぎわいがない。


1989年は、ベルリンの壁が崩壊した年。そして、
東西ドイツが統一し(1990年)、ソ連が崩壊した(1991年)。

イデオロギー”戦争は終わり、“先端技術”の競争になった。
東西のがなくなって、“地球規模(グローバル化)”になった。
歴史の劇的な変化“パラダイム・シフト”である。

パラダイム・シフトを写真で表現すると、
東西ドイツの統一」としては、ベルリンの壁の崩壊がある。
ベルリンの壁が崩壊する前年(1988年)の状況をお伝えした。

――「地球規模での先端技術の競争」を写真で示すことができないか?
東ドイツの国民車“トラバント”は、生産中止になった。
チェコの国民車“シュコダ”は、ドイツのフォルクスワーゲンの、
子会社になった。その技術を導入した新製品を、見かけた。

ベルリンの壁が崩壊する1989年に、東ドイツのハレを訪問した。
ベルリンの壁が崩壊する8か月前の3月である。
ハレの中心街を一歩外れて、居住区に入ってみた。

東ドイツの国民車“トラバント”が駐車している。
廃車置場”ではない。等間隔にならんでいるし、
ちゃんと、ナンバー・プレートがついている。

居住区は、荒れていた。修復するのか? 壊すのか?
しかし、予算がない。荒れるがままであった。
右はアパートメントで、母子と乳母車が見える。
東ドイツという国が消滅する1年7か月前である。
――人が少ない。ハレの市民はひっそりと暮しているのだろうか?

トラバントは、混合ガソリンを使用する2サイクルのエンジンで、
パラパラと音をたて、有害な排出ガスをまき散らしながら走っていた。
――よく使うもんだ!

東ドイツでは、競合メーカーもなかったし、
西側から、車を輸入することもなかったから、
技術革新公害対策も、する必要がなかった。
同じものを、何年もつくっていればよかった。
それに、製造能力がなかったから、購入は5年~6年待ちだった。
顧客の要望やサービスについては、後回しにされた。

それが、ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツが統一し、ソ連が崩壊すると、
トラバントは、地球規模での先端技術の競争にさらされた。

東ドイツの国民車、トラバントは、
西ドイツの国民車、フォルクスワーゲンと、
くらべられることになったのである。

石器と鉄器の比較である。
設計思想”と、それを実現する“技術”の差は歴然である。
デザインや性能、塗装、内装、材料、装備の一つ一つが、
トラバントは遅れている。それに、安全や公害対策では、
ヨーロッパ基準を満足していなかった。

――どちらを買うか?
結果がでた……東ドイツが消滅すると、トラバント生産中止となった。
トラバントは市場経済では勝ち目はなかった。競争力も魅力もなかった。


同じことは、チェコの国民車“シュコダ”でも見た。

2006年にチェコを訪問すると、シュコダが走っていた。

――よく走るもんだ!
サビサビ、ボコボコ。それに、もとはなに色?
左の乳母車のほうが、ちゃんと部品はある。

チェコは、1989年無血革命(ビロード革命)で、
共産政権が崩壊した。民主主義陣営に入って、
計画経済から市場経済に移行した。
1989年は、歴史の劇的な変化が起きた年だ。

シュコダは、東ドイツのトラバントと同じ運命だった。売れない。
シュコダは1990年に、ドイツのフォルクスワーゲンの子会社になった。
そして、新しい技術を導入した新型のシュコダを、街で多く見かけた(2006年)。

後方、赤の車はソ連のラーダ。

歴史の劇的な変化“パラダイム・シフト”を写真で表現すると、
東西ドイツの統一」として、ベルリンの壁の崩壊を見た。

地球規模での先端技術の競争」として、
東ドイツの国民車“トラバント”の生産中止と、
チェコの国民車“シュコダ”が、ドイツのフォルクスワーゲンの、
子会社となって、新しい技術を導入した新製品を見た。

計画経済終焉(しゅうえん)であり、
市場経済で、生き残りをかけた新たなスタートである。
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東ベルリンの見どころは、慰霊碑と博物館だった

2009-04-01 07:57:00 | Weblog
ベルリンの壁裏側は、どうなっているのか? 見たい(1988年)、
と東ベルリンに行って、ブランデンブルク門とベルリンの壁、
の裏側を見ることができた。立ち入り禁止、工事現場のようで、
文化の創造とは、かけ離れていたことを書いた。

そしてツアーでは、東ベルリンの見どころは、慰霊碑博物館だった。
市民が息づく街……市場、商店街、住宅街などは、
見学ルートに入っていなかったし、見せられなかった。

東西ベルリンを見るツアー・バスは、東ベルリンに入ると、
一番の中心街、ブランデンブルク門から東に延びる大通り、
菩提樹の並木通り、ウンター・デン・リンデンを東に走る。

左が歴史博物館、中央にそびえるのはテレビ塔。
この先は博物館島になる。運転席の窓から。

――東ベルリンの第一印象は、活気がない。死んだような街だ。
東ベルリンの市民は、どこにいるのだろう?
東京ならば、中心街は銀座、博物館街は上野で、
にぎわいがあるが、東ベルリンは、人影がすくない。
1990年に東ドイツが消滅するが、国消滅の2年前を見た。

フンボルト大学、ベルリン大聖堂、赤い市庁舎などを眺めてから、
中心街から南東へ7キロメートルにあるトレプトウの、
ソ連の“戦没兵士慰霊碑”に向かった。

中央に巨大なソ連兵士の像がある。
右手に剣を持ち、左手に子ども抱いて、ナチスのシンボル、
ハーケンクロイツ卐を踏み壊して、その上に立っている。

「ソ連の兵士が、ファシストからヨーロッパの文明を救ったことを、
称えるものです。左右にある石碑も、戦没兵士を称えています。
スターリンの石碑もあります」
と、東のガイドから説明を受ける。

さきに、西ベルリンでは“ソ連の戦勝記念碑”を見たが、
ソ連の国威の発揚は、巨大な慰霊碑や記念碑をつくって、
それを、ツアー客に誇示するかのようだ。

そして、東ベルリンのツアーのメインは、“ペルガモン博物館”だった。

シュプレー川が二又に分かれた中州が、“博物館島”で、
ペルガモン博物館や旧博物館など、5つの博物館がかたまってある。
ペルガモン博物館では、トルコの古代遺跡であるゼウスの大祭壇、
を見るが、中央の橋の右は、ゼウスの大祭壇がある玄関につながる。

ギリシャのアレクサンドロス大王が東征したあと、
小国に分かれたが、その一つがペルガモン王国である。
トルコのエーゲ海に近いベルガマの街のアクロポリスに、
神殿(トラヤヌス神殿、アテナ神殿)、円形劇場、それに、
ゼウスの大祭壇などをつくった(紀元前2世紀)。

その“ゼウスの大祭壇”を発掘・調査してベルリンに運び、復元した。
写真が鮮明でなくて、すみません。

中央がゼウスの大祭壇の右半分、右はフリーズ(浮き彫り)。

祭壇を目の当たりにしているが、こんな壮大なものを、
――発掘して、輸送して、よく、復元できたもんだ。
それに、どうして東ベルリンにあるのだろう?

「1878年にドイツのカール・フーマンの調査によって、
ベルガマの土の中からゼウスの大祭壇を発掘しました。
ゼウスの大祭壇と、周囲のフリーズを船でベルリンに運んで、
20年かけて復元して、よみがえらせることができました」
と、ガイドは言う。

「しかし、第2次世界大戦の攻撃で被害を受けました。
そのあと、ソ連が保存の目的で運び出しましたが、
1958年に返却されて、再建できました」

コの字型をしたペルガモン博物館は、ほかに、
バビロニアの“イシュタール門”、
古代ローマの“ミトレスの市場門”もある。

ミトレスの市場門。
――こんな巨大な遺跡を、よく、運びこんだもんだ。

「土に埋もれたゼウスの大祭壇は、一部は掘り起こされて、
大理石は石灰として使われていました」
と言うから、発掘・調査をして、搬出し、復元できた遺跡を、
いまこうして、見ることは、ありがたいことだと思う。

――しかし、東ドイツの独自の美術品はないのだろうか?
それに、ペルガモン博物館は、がらがらだ。
我々西ベルリンからのツアー客だけで、
東ベルリンの市民はいない。

東ベルリンの見どころは、慰霊碑と博物館だった。
ソ連の“戦没兵士慰霊碑”を見る。“博物館島”へ移動して、
ペルガモン博物館”でトルコやバビロニア、ローマの遺跡を見る。

東ベルリンは、独自の文化を見せる街ではなかった。
革命体制を追い求める共産政権下では、独自の文化を創り出す、
という余力はなかったんだろう。国威の発揚は、記念碑に注いだ。
それに、国が消滅する直前の東ベルリンの市民には、
芸術を鑑賞する余裕はなかった。

1990年10月に東ドイツが消滅するが、
その2年前の東ベルリンでは、西のツアー客に、
活気がある、人がにぎわっている、発展している、
と思わせるところを、見せることができなかった。


西ベルリンでも、見逃せない美術品がある。
それは、エジプトの王妃“ネフェルティティの胸像”。

ネフェルティティの胸像は、実際は金色ではなく、
彩色されている(紀元前14世紀)。

いまは、博物館島の旧博物館に移されているが、
当時は、シャルロッテンブルク宮殿のエジプト博物館にあった。


「王妃ネフェルティティは、ファラオ・ツタンカーメンの、
父と結婚したから、ツタンカーメンの義母になります。
美しい人でした。エジプト芸術の傑作です」
と、西のガイドは話す。


第2次世界大戦から半世紀たって、ベルリンの見どころ、
博物館島”は、1999年に世界遺産になった。
ペルガモン博物館の“ゼウスの大祭壇”や、
旧博物館の“ネフェルティティの胸像”は、
ベルリンの市民でにぎわい、世界の人をひきつけている。
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