季節の変化

活動の状況

川端康成、東山魁夷、井上靖の安曇野

2011-11-27 00:05:28 | Weblog
ノーベル文学賞を受賞された川端康成
日本画家の東山魁夷
作家の井上 靖
の3巨頭が、信州の安曇野(あずみの)を訪れている。
(敬称を省略します)

左から川端康成、東山魁夷、井上 靖。

3巨頭が、信州の長峰山(ながみねやま)に集い、
安曇野、北アルプスを眺めたのは、
1970年5月12日である。

東山魁夷と川端康成の親交は厚かった。
川端康成がノーベル賞を受賞されたお祝いに、
東山魁夷は、「北山初雪」を贈っている(1968年)。

東山魁夷の「北山初雪」は、「京洛四季」の一つで、
京都に残したい自然を描いた作品である(1968年)。
「京洛四季」には、ほかに「花明り」(1968年)があり、
京都に残したい街としては、「年暮る」(1968年)がある。

東山魁夷が「京洛四季」を描くきっかけは、
川端康成の進言であった。
「京都は、今描いていただかないと、なくなります。
京都のあるうちに、描いておいてください」

「京洛四季」を描き終わると、東山魁夷は、
ドイツ、オーストリアの旅に出る(1969年)。
そして、「緑のハイデルベルク」を描き(1971年)、
「ホーエンザルツブルク城」の「雪の窓」を描いた(1970年)。

このことは、
「東山魁夷の『緑のハイデルベルク』」、2011年11月20日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/f7c7523990957d0900cf066cf0984e63
に記載したので、参照してください。

安曇野で、3人の巨頭が一堂に会したのは1970年だから、
東山魁夷が、ドイツ、オーストリアの旅(1969年)から帰ってきてからである。

ところで、3巨頭が安曇野に会した「写真」を、どうして手に入れたのか?
そして、3巨頭が一堂に会して、安曇野へ来た「きっかけ」は?

3巨頭が安曇野に会した「写真」を手に入れたのは、
JR明科(あかしな)駅の時計塔にあった「案内板」、
「残したい 静けさ 美しさ」である。

時計塔はイルミネーションをつけて、クリスマスの装いをしていた。2011年11月。

明科駅の改札口でたずねた。
「東山魁夷の痕跡が、明科駅にありますか?」
すると、駅員は駅前広場の時計塔まで案内してくれた。

そして、案内板の写真を撮っていると、駅員は、
「ここにも、書いてあります」
と、安曇野市発行のパンフレット「信州・安曇野」、
を、わざわざ持ってきてくれた。
ありがとうございます。

パンフレットには、つぎのように書いてある。
「川端康成氏、井上靖氏、東山魁夷氏は一堂に会して、
“残したい 静けさ 美しさ”と感嘆したと言われます」

長峰山(933m)は、安曇野を眺めるのに絶好のところ。
安曇野と北アルプスのパノラマが広がる。2011年11月。

松本から北アルプスがクッキリ見えた朝、長峰山に急いだ。
左から常念岳、横通岳、東天井岳、大天井岳が連なる。
北アルプスには、この冬の雪があった。
ふもとは安曇野。

さらに右(北)にも、北アルプスが連なる。2011年11月。

この日の北アルプスは、朝焼けをしていた。
左から爺ケ岳、鹿島槍ヶ岳、五竜岳、唐松岳、
そして、白馬三山の白馬鑓ケ岳、杓子岳、白馬岳が見える。

東山魁夷、川端康成、井上 靖の3巨頭は、
安曇野のパノラマを目の当たりにされた。
そして、川端康成は、
「残したい 静けさ 美しさ」
と言われた。

東山魁夷は、
「安曇野は、なんと美しかったことか」
と、驚嘆された。

つぎに、もう一つの疑問、
3巨頭が、ご夫妻で長峰山に会した「きっかけ」である。

安曇野の保養センター「長峰荘」には、

3人の巨頭が長峰山に集った写真が飾ってある(最初の写真と同じ)。

「3人が一堂に会したきっかけは、なんですか?」
3人が安曇野を訪れた、いきさつを、
調べたことがあると言う「長峰荘」の人は、
「穂高町、現在の安曇野市の議員が、学者村を開発するときに、
自然保護に関心がある川端康成をお招きして、ご意見を仰いだ」
と説明された。

そして、3人の巨頭と「長峰荘」の関係だが、
「長峰荘」には宿泊していない、と言う。
「長峰荘」のオープンは1971年で、
3人が長峰山を訪れたのは1970年だから、
「長峰荘」ができる前だった。
松本の浅間温泉に宿泊された、
と説明してくれた。

つぎに、川端康成のほかに、
東山魁夷と井上 靖を伴われているが、
どうして、3人が一堂に会したのだろう?

長峰山頂の近くに、安曇野を見晴らす宿舎「天平の森」がある。


「天平の森」のパンフレットには、つぎのように書いてある。
川端康成氏が、
井上 靖氏、東山魁夷氏に、
「多くの写真などをみますと余りに美しいので、
御誘ひいたしたく存じます」
と手紙を送り、三人が一堂に会した。

しかし、3人の巨頭は「天平の森」には来ていない、
と、「天平の森」の人は言う。
3人が長峰山を訪れたのは1970年で、
「天平の森」のオープンは1995年だから、
「天平の森」は、まだなかった。

これで、川端康成、東山魁夷、井上 靖の3巨頭が、
一堂に会したわけがわかった。
穂高町が、自然保護について、
川端康成のご意見を伺うために、安曇野にお誘いし、
川端康成が、東山魁夷、井上 靖をお誘いされた。

3巨頭が、長峰山に会したときの、もう1枚の写真がある。

左から井上 靖、川端康成、東山魁夷。

この写真は、明科駅の案内板、
「残したい 静けさ 美しさ」にもあるが、
「天平の森」の広間にも掲げてあった。
写真を撮るときに、「天平の森」の人は、
反射しないように照明を落としてくれた。

日が昇って、長峰山に観光客が上がってくる。2011年11月。

そして、パノラマを目の当たりにすると、
「すごい!」
と驚き、魅入る。

川端康成の「残したい 静けさ 美しさ」、
東山魁夷の「安曇野は、なんと美しかったことか」
を実感する。
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東山魁夷の「緑のハイデルベルク」

2011-11-20 00:01:03 | Weblog
東山魁夷の「緑のハイデルベルク」。1971年の作品。

「現代日本の美術」、「東山魁夷」、集英社、1976年から。

東山魁夷は「京洛四季」を描き終わると、
「緑のハイデルベルク」を描いた。

「京洛四季」は、川端康成の進言で描いている。
「京都は、今描いていただかないと、なくなります。
京都のあるうちに、描いておいてください」

「京洛四季」の内、京都に残ってほしい「自然」を描いた、
花明り」(1968年)、
北山初雪」(1968年)は、
「東山魁夷の『花明り』」、2011年11月6日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/5d2fb467f0b2f445c4612087812e077d
に記載したので、参照してください。

「京洛四季」の内、京都に残ってほしい「」を描いた、
年暮る」(1968年)は、
「東山魁夷の『年暮る』」、2011年11月13日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/a5dac37b237ee890a9b85629131e1808
に記載したので、参照してください。

東山魁夷は、「京洛四季」を描き終わると、
ドイツ、オーストリアの旅に出る(1969年)。
東山魁夷は、かってドイツに留学していた。

東山魁夷は、東京美術学校(現在の東京藝術大学)を終えると(1933年)、
ヨーロッパに渡り、ドイツのベルリン大学哲学科、
美術史部に入学する。しかし、父の病状悪化から、
残り1年の留学を断念して、帰国する。

ドイツ、オーストリアの旅は、
東山魁夷にとって36年ぶりなる。
郷愁に駆られるとともに、
どうなっているのだろうか?
と、気になる旅である。
再開発の名のもとに、変わってしまったのだろうか?

ドイツで最も牧歌的で、美しい町、
ハイデルベルクは、昔のままだった。
オーストリアの美しい町、
ザルツブルクも、昔のままだった。

東山魁夷は、「緑のハイデルベルク」を描き(1971年)。
「ホーエンザルツブルク城」の「雪の城」を描いた(1970年)。

東山魁夷が描いた「緑のハイデルベルク」の、
「ハイデルベルク城」は1978年と1989年に訪れた。
東山魁夷が描いた「雪の城」の、
「ホーエンザルツブルク城」は1989年に訪れた。

あわせて、「ハイデルベルクの街並み」と、
「ザルツブルクの街並み」も見た。

ハイデルベルク城」1978年。

ハイデルベルクのランドマークは「ハイデルベルク城」。
手前はネッカー川とカール・テオドール橋。
橋の中央にある像は、選帝侯カール・テオドール。

11年たって、ハイデルベルク城は、どうなっただろうか?
「ハイデルベルク城」1989年。

ネッカー川の対岸からを眺めたハイデルベルク城や旧市街。
東山魁夷の「緑のハイデルベルク」に、より近いアングルである。
手前の2つの白い塔は、カール・テオドール橋の橋門ブリュッケン・トーア。

ハイデルベルク城は補修をしていたが、旧市街もネッカー川も、
11年前の1978年と変わりがなかった。
「ドイツで最も牧歌的で、美しい町」
ハイデルベルクは変わりがなかった。

つぎに、ハイデルベルクの「街並み」は、
ハイデルベルク城から眺めた2枚の写真がある。1978年と1989年。

ハイデルベルク」の街並み、1978年。ハイデルベルク城から。

ネッカー川の対岸の丘の中に「哲学者の道」がある。
ネッカー川の手前の旧市街では、
手前右にクレーンのアームが見える。
建物の補修をしているのか? 建築か?
右の白い塔は、カール・テオドール橋の橋門ブリュッケン・トーア。

左の教会は、ハイリッヒ・ガスト教会Heiliggeistkirche。
教会は市庁舎と向かい合って、その間はマルクト広場。
マルクト広場一帯は、旧市街の中心地である。
ハイデルベルクで一番高い建物は、教会の尖塔だった。

ハイデルベルクの街並み、1989年。ハイデルベルク城から。

ネッカー川の対岸の「哲学者の道」は、
急な小道で、11年前と同じようにあった。

新市街には、建物が増えていた。
しかし、まわりとの調和を保っている。
ごちゃごちゃと醜いことはなかった。

ネッカー川の手前の旧市街は、変わりがなかった。
クレーンはなく、高層建築は建っていなかった。

ネッカー川の対岸の新市街も、
ネッカー川の手前の旧市街も、
電柱・電線がない。
広告看板もない。
建物の高さに制限があり、
突然、高層建築が建っていることはない。
一番高い建物は、教会の尖塔であることに、
変わりはなかった。
建物の屋上には、水タンクもないし、空調機器もない。
緑が多い。空が開いている。

東山魁夷の「雪の城」(1970年)。

「雪の城」の部分。
「現代日本の美術」、「東山魁夷」、集英社、1976年から。
「雪の城」から見えるのは、ザルツブルクの「ホーエンザルツブルク城」。

「ホーエンザルツブルク城」と、
「ザルツブルク」の街並みの写真がある。

ホーエンザルツブルク城」1989年。

ザルツブルクのランドマークは「ホーエンザルツブルク城」。
ミラベル宮殿の庭園から「ホーエンザルツブルク城」を望む。
手前の青いドームは、ザルツブルク大聖堂。

東山魁夷の「雪の城」からの「ホーエンザルツブルク城」から、
19年たっている写真の「ホーエンザルツブルク城」は?
変わりがなかった。

ザルツブルク」の街並み、1989年。ホーエンザルツブルク城から。

ザルツァッハ川の手前が旧市街、対岸が新市街の方向。

青いドームがザルツブルク大聖堂。
その左がフランツィスカナー教会で、
さらに左は、ザルツブルク大学になる。
左手前は聖ペーター僧院教会。

ホーエンザルツブルク城を眺めたミラベル宮殿は対岸で、
ほぼ中央に見える青い屋根に白い壁の大きな建物。

川の手前が旧市街で、川の対岸が新市街であることは、
ハイデルベルクの街に似ている。

ザルツブルクの「都市計画」も、
ハイデルベルクの「都市計画」も、
旧市街」と、まわりの「新市街」、
というように、分けていることがわかる。

そして、
ザルツァッハ川の対岸の新市街も、
ザルツァッハ川の手前の旧市街も、
電柱・電線がない。
広告看板もない。
建物の高さに制限があり、
突然、高層建築が建っていることはない。
一番高い建物は、教会の尖塔である。
建物の屋上には、水タンクもないし、空調機器もない。
緑が多い。空が開いている。

伝統文化を大切にしながら、
新しい文化との調和をはかって、
街を発展させている。
街は美しさを保ち、
景観が維持されている。

東山魁夷は、
街の伝統文化を大切にし、
美しい景観を維持している、
ハイデルベルクにホッとした。
ザルツブルクにホッとした。

伝統文化を大切にする街と東山魁夷のおかげで、
美しいハイデルベルクは、「緑のハイデルベルク」で、
美しいザルツブルクは、「雪の城」で、
いつでも、会うことができる。


東山魁夷が選んだ風景・ドイツ・オーストリアについて、
「東山魁夷館」の松本猛 前館長が、
信濃毎日新聞に連載されているので、
参照してください(2010年1月から8回)。
http://www.takeshi-matsumoto.jp/activity/2010-1-19%E4%BF%A1%E6%BF%83%E6%AF%8E%E6%97%A5%E6%96%B0%E8%81%9E%E3%80%90%E6%96%87%E5%8C%96%E9%9D%A2%E3%80%91%E6%9D%B1%E5%B1%B1%E9%AD%81%E5%A4%B7%E3%81%8C%E9%81%B8%E3%82%93%E3%81%A0%E9%A2%A8%E6%99%AF
なお、松本猛 前館長は、「安曇野ちひろ美術館」の前館長で、
絵本画家の、いわさきちひろは母になる。
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東山魁夷の「年暮る」

2011-11-13 00:00:14 | Weblog
東山魁夷の「年暮る」は、京都の街並みを描いた。

「現代日本の美術」、「東山魁夷」、集英社、1976年から。

東山魁夷が「年暮る」を描いたきっかけは、川端康成の進言であった。
「京都は、今描いていただかないと、なくなります。
京都のあるうちに、描いておいてください」

それで、東山魁夷は「京洛四季」を描いた。
「京洛四季」の一つが「年暮る」である。1968年の作品。

「東山魁夷の『花明り』」、2011年11月6日では、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/5d2fb467f0b2f445c4612087812e077d
「京洛四季」のシリーズとして、
花明り」や「北山初雪」について書いた。

「花明り」も、「北山初雪」も、「京都の自然」である。
京都に残っている、あるいは、京都に残しておきたい「自然」である。

ところが、「年暮る」は「京都の街」である。
川端康成から、
「京都のあるうちに、描いておいてください」
と言われて、
東山魁夷が、京都に残っている、
あるいは、京都に残しておきたい「街」である。

「年暮る」のような京都の街を見たい!
貸し自転車で京都の街を探し回った。
小回りがきく自転車が便利だ。

古い家だと思う。2010年。

でも、高層建築に囲まれて、ポツンと残っていた。
右の外国人観光客は、なにかを探している。

一番古い町家が並ぶところは、どこですか?」
と、京都の人に聞いてみた。
「古い家が、ちょこちょことあります」
と、教えてもらったところ。2010年。

古い町家が並んでいた。

しかし、高層建築と、となり合わせだった。
電柱・電線が空をおおっている。それに、看板もある。
右は駐車場で、町家を取り壊した跡。ここで、町家は途切れる。

今回の京都の写真を見ると、すべてに「電柱・電線」がある。
街並みを撮ると、電柱・電線が写ってしまう。
電柱・電線は、避けようがない。

ここは、古い町家が数軒続いている。2010年。


道の両側に家が並んでいるところがあった。2011年。

比較的新しい。昭和の家だろうか。

区画整理をした街並みがあった。2010年。

道幅を広げて、両わきに新しい家が並ぶ。駐車場もできた。

鴨川沿いに並ぶ料理屋。2010年。

前に並ぶ料理屋と、うしろの新しい建築物との調和はどうだろうか?
昔の家並みは、整然としている。ごちゃごちゃしていない。
京都らしいから、京料理や、会席料理を食べたくなる。

そして、上から眺めた街並みがある。2004年。

これが、私が抱く「年暮る」のイメージ。
瓦屋根に雪が降り、夜になって、静まり返れば、
「年暮る」の世界になる。

「京都のランドマークは金閣寺」、2010年10月6日では、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/4c8224da937ed43ef476808744200942
つぎにように書いた。

アレックス・カー氏(東洋文化研究家)は、
「犬と鬼」講談社で、京都について、つぎのように書いている。

京の街は、フィレンツェローマに並ぶ文化都市として、
世界の人々に愛されていた」
「第二次世界大戦の末期に、連合国軍司令部が京都を、
空爆対象からはずしたのもそのためだ」

「新しい建築物を古い家屋に調和させるノウハウがないので、
木造家屋はブリキとプラスチックで無神経に修復され、
また古い家屋を必死で残そうと努力しても、
周囲には電線看板パチンコ店があふれている」

なお、「フィレンツェの景観」については、2010年11月7日に、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/f84c9141eb3eb51c49f68f447886b6fe
「ローマの景観」については、2010年11月10日に、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/b5bd5ef9c3bae7f4225e6f97c3f9214d
掲載しているので、参照してください。

川端康成から、
「京都のあるうちに、描いておいてください」
と言われて、東山魁夷が、
京都の街並みのベストに選んだ「年暮る」。

「年暮る」は、
京都ホテルオークラからの眺めというから、
機会があったら、京都ホテルオークラから、
東山方面を眺めてみたい。

世界の人は、
日本を代表する「歴史文化都市、京都」、
「人をもてなす街、京都」を見にくる。

名所、旧跡を巡ったあとは、
京都の人が息づく街を見たい。
「年暮る」のような街を見たい。
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東山魁夷の「花明り」

2011-11-06 00:01:05 | Weblog
春になると玄関に飾る絵がある。
それは、東山魁夷の「花明り」。

京都にひたる気分だ。

東山魁夷が「花明り」を描いたきっかけは、川端康成の進言であった。
「京都は、今描いていただかないと、なくなります。
京都のあるうちに、描いておいてください」

それで、東山魁夷は「京洛四季」を描いた。
「京洛四季」の一つが「花明り」である。

「花明り」のモデルに会いに行った。
京都「円山公園」の「枝垂桜しだれざくら」。2011年10月。

「花明り」もあるし、「枝垂(しだれ)桜」にも会うことができた。

そして、「花明り」のオリジナルは、
2008年に「信濃美術館」の「東山魁夷館」で、みることができた。

「東山魁夷館」の右に「信濃美術館」があって、レストランでつながっている。

2008年は、「東山魁夷」生誕100年である。
生誕100年を記念して、企画展が「東山魁夷館」で開催された。

企画展では、「花明り」のほかに、「残照」、「道」、「緑響く」、
「行く秋」、唐招提寺の御影堂の障壁画から「濤声」、
と、「東山魁夷」の主要作品をみることができた。

」は、国立近代美術館が所蔵していて、

展示替えがあったときにも、みることができた。絵はがきから。2011年3月。

「東山魁夷館」のチケットは、「緑響く」の部分で、

信州の蓼科を描いている。

チケットには、「世界最大の東山魁夷コレクション!」とある。
なぜ、信州に「東山魁夷館」があるのか?
それは、東山魁夷が、500点の作品と図書を信州に寄贈されたから。 
そして、長野の善光寺のとなりにある「信濃美術館」に、
「東山魁夷館」が1990年にオープンした。

東山魁夷は、横浜生まれの、神戸育ち、
東京美術学校(現在の東京藝術大学)で学んでいる。
信州に住まわれたことはない。それでは、
信州との「かかわり」は?

それは、東京美術学校1年のときに、
信州の「木曽路」へ、スケッチ旅行に訪れたことにある。

神戸とはちがう、素朴で、厳しく、たくましい信州の環境に接し、
自然の深さにひかれて、「風景画家」としての道をたどることになる。
東山魁夷を育ててくれた「故郷」として、信州を多く描いている。

そして、東山魁夷は、
「東山魁夷館」を望む善光寺の霊園に、眠っている。

「京洛四季」の一つである「北山初雪」を、
山梨県立美術館」でみることができた。2011年10月。


川端康成コレクションと東山魁夷」展に、「北山初雪」はあった。
「北山初雪」が、川端康成のコレクションになっているのは、
川端康成がノーベル文学賞を受賞したお祝いに、
東山魁夷が贈ったからである。

これまでは、美術書だけでみていた「北山初雪」だが、

「現代日本の美術」、「東山魁夷」、集英社、1976年発行から。

「ついに、本物に会えた!」
ジ~ッと見た。満足!  満足!
「もう、会えるチャンスはないだろう?」

「花明り」のほかに、もう一つ東山魁夷の絵を持っている。
それは、ドイツの公園を描いた「行く秋」。
「行く秋」は、秋になると飾る。

「行く秋」のオリジナルは、「東山魁夷館」が所蔵している。

「季節の変化」によって、
春は「花明り」、秋は「行く秋」と、
東山魁夷を楽しむことができるようになった。
玄関で、迎えてくれる絵に会えるのが、楽しみだ!

ところで、購入価格だが、
「花明り」はA3サイズで、「行く秋」はA1サイズ。
「花明り」は、小さいから525円だった。
「行く秋」は、大きいから1,050円だった。

単位は、千円でも、万円でもない!
額縁代にもならないじゃないか? と思うが、
そのわけは、中古店で買った「印刷」だから。

「花明り」を見つけたときは、まよわずに買った。
「行く秋」を見つけたときにも、まよわずに買った。

自慢したくなるじゃないか。
遠方から友人が来た。
「あずみ野を見たい。『おひさま』のロケ地も」
と言われて、あずみ野巡りをした。
それから、我が家に来ていただいたが、
「東山魁夷」にも、「行く秋」にも、
気にも留めなかったな。
玄関を素通りした。

「こんなところに、あるはずがない!」
と、思ったのだろうか? それとも、
「印刷」が見抜かれたか?

「花明り」も、「行く秋」も、私の「宝物」。
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