ノーベル文学賞を受賞された川端康成、
日本画家の東山魁夷、
作家の井上 靖、
の3巨頭が、信州の安曇野(あずみの)を訪れている。
(敬称を省略します)
左から川端康成、東山魁夷、井上 靖。
3巨頭が、信州の長峰山(ながみねやま)に集い、
安曇野、北アルプスを眺めたのは、
1970年5月12日である。
東山魁夷と川端康成の親交は厚かった。
川端康成がノーベル賞を受賞されたお祝いに、
東山魁夷は、「北山初雪」を贈っている(1968年)。
東山魁夷の「北山初雪」は、「京洛四季」の一つで、
京都に残したい自然を描いた作品である(1968年)。
「京洛四季」には、ほかに「花明り」(1968年)があり、
京都に残したい街としては、「年暮る」(1968年)がある。
東山魁夷が「京洛四季」を描くきっかけは、
川端康成の進言であった。
「京都は、今描いていただかないと、なくなります。
京都のあるうちに、描いておいてください」
「京洛四季」を描き終わると、東山魁夷は、
ドイツ、オーストリアの旅に出る(1969年)。
そして、「緑のハイデルベルク」を描き(1971年)、
「ホーエンザルツブルク城」の「雪の窓」を描いた(1970年)。
このことは、
「東山魁夷の『緑のハイデルベルク』」、2011年11月20日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/f7c7523990957d0900cf066cf0984e63
に記載したので、参照してください。
安曇野で、3人の巨頭が一堂に会したのは1970年だから、
東山魁夷が、ドイツ、オーストリアの旅(1969年)から帰ってきてからである。
ところで、3巨頭が安曇野に会した「写真」を、どうして手に入れたのか?
そして、3巨頭が一堂に会して、安曇野へ来た「きっかけ」は?
3巨頭が安曇野に会した「写真」を手に入れたのは、
JR明科(あかしな)駅の時計塔にあった「案内板」、
「残したい 静けさ 美しさ」である。
時計塔はイルミネーションをつけて、クリスマスの装いをしていた。2011年11月。
明科駅の改札口でたずねた。
「東山魁夷の痕跡が、明科駅にありますか?」
すると、駅員は駅前広場の時計塔まで案内してくれた。
そして、案内板の写真を撮っていると、駅員は、
「ここにも、書いてあります」
と、安曇野市発行のパンフレット「信州・安曇野」、
を、わざわざ持ってきてくれた。
ありがとうございます。
パンフレットには、つぎのように書いてある。
「川端康成氏、井上靖氏、東山魁夷氏は一堂に会して、
“残したい 静けさ 美しさ”と感嘆したと言われます」
長峰山(933m)は、安曇野を眺めるのに絶好のところ。
安曇野と北アルプスのパノラマが広がる。2011年11月。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/be/78f5038548af5b026241134fa9c8ba6a.jpg)
松本から北アルプスがクッキリ見えた朝、長峰山に急いだ。
左から常念岳、横通岳、東天井岳、大天井岳が連なる。
北アルプスには、この冬の雪があった。
ふもとは安曇野。
さらに右(北)にも、北アルプスが連なる。2011年11月。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/7d/d109e1a5422e127c90e56c75ba008bea.jpg)
この日の北アルプスは、朝焼けをしていた。
左から爺ケ岳、鹿島槍ヶ岳、五竜岳、唐松岳、
そして、白馬三山の白馬鑓ケ岳、杓子岳、白馬岳が見える。
東山魁夷、川端康成、井上 靖の3巨頭は、
安曇野のパノラマを目の当たりにされた。
そして、川端康成は、
「残したい 静けさ 美しさ」
と言われた。
東山魁夷は、
「安曇野は、なんと美しかったことか」
と、驚嘆された。
つぎに、もう一つの疑問、
3巨頭が、ご夫妻で長峰山に会した「きっかけ」である。
安曇野の保養センター「長峰荘」には、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/87/0bc33d88f69bc4fdf54348e603f70172.jpg)
3人の巨頭が長峰山に集った写真が飾ってある(最初の写真と同じ)。
「3人が一堂に会したきっかけは、なんですか?」
3人が安曇野を訪れた、いきさつを、
調べたことがあると言う「長峰荘」の人は、
「穂高町、現在の安曇野市の議員が、学者村を開発するときに、
自然保護に関心がある川端康成をお招きして、ご意見を仰いだ」
と説明された。
そして、3人の巨頭と「長峰荘」の関係だが、
「長峰荘」には宿泊していない、と言う。
「長峰荘」のオープンは1971年で、
3人が長峰山を訪れたのは1970年だから、
「長峰荘」ができる前だった。
松本の浅間温泉に宿泊された、
と説明してくれた。
つぎに、川端康成のほかに、
東山魁夷と井上 靖を伴われているが、
どうして、3人が一堂に会したのだろう?
長峰山頂の近くに、安曇野を見晴らす宿舎「天平の森」がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/f2/eafbf5cc3d0d1c93d2d710675e2687c3.jpg)
「天平の森」のパンフレットには、つぎのように書いてある。
川端康成氏が、
井上 靖氏、東山魁夷氏に、
「多くの写真などをみますと余りに美しいので、
御誘ひいたしたく存じます」
と手紙を送り、三人が一堂に会した。
しかし、3人の巨頭は「天平の森」には来ていない、
と、「天平の森」の人は言う。
3人が長峰山を訪れたのは1970年で、
「天平の森」のオープンは1995年だから、
「天平の森」は、まだなかった。
これで、川端康成、東山魁夷、井上 靖の3巨頭が、
一堂に会したわけがわかった。
穂高町が、自然保護について、
川端康成のご意見を伺うために、安曇野にお誘いし、
川端康成が、東山魁夷、井上 靖をお誘いされた。
3巨頭が、長峰山に会したときの、もう1枚の写真がある。
左から井上 靖、川端康成、東山魁夷。
この写真は、明科駅の案内板、
「残したい 静けさ 美しさ」にもあるが、
「天平の森」の広間にも掲げてあった。
写真を撮るときに、「天平の森」の人は、
反射しないように照明を落としてくれた。
日が昇って、長峰山に観光客が上がってくる。2011年11月。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/0d/c655f4990147ae6dad9bc6570974eba4.jpg)
そして、パノラマを目の当たりにすると、
「すごい!」
と驚き、魅入る。
川端康成の「残したい 静けさ 美しさ」、
東山魁夷の「安曇野は、なんと美しかったことか」
を実感する。
日本画家の東山魁夷、
作家の井上 靖、
の3巨頭が、信州の安曇野(あずみの)を訪れている。
(敬称を省略します)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/1a/66adc871a402d021a9eef3d46777d0d2.jpg)
左から川端康成、東山魁夷、井上 靖。
3巨頭が、信州の長峰山(ながみねやま)に集い、
安曇野、北アルプスを眺めたのは、
1970年5月12日である。
東山魁夷と川端康成の親交は厚かった。
川端康成がノーベル賞を受賞されたお祝いに、
東山魁夷は、「北山初雪」を贈っている(1968年)。
東山魁夷の「北山初雪」は、「京洛四季」の一つで、
京都に残したい自然を描いた作品である(1968年)。
「京洛四季」には、ほかに「花明り」(1968年)があり、
京都に残したい街としては、「年暮る」(1968年)がある。
東山魁夷が「京洛四季」を描くきっかけは、
川端康成の進言であった。
「京都は、今描いていただかないと、なくなります。
京都のあるうちに、描いておいてください」
「京洛四季」を描き終わると、東山魁夷は、
ドイツ、オーストリアの旅に出る(1969年)。
そして、「緑のハイデルベルク」を描き(1971年)、
「ホーエンザルツブルク城」の「雪の窓」を描いた(1970年)。
このことは、
「東山魁夷の『緑のハイデルベルク』」、2011年11月20日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/f7c7523990957d0900cf066cf0984e63
に記載したので、参照してください。
安曇野で、3人の巨頭が一堂に会したのは1970年だから、
東山魁夷が、ドイツ、オーストリアの旅(1969年)から帰ってきてからである。
ところで、3巨頭が安曇野に会した「写真」を、どうして手に入れたのか?
そして、3巨頭が一堂に会して、安曇野へ来た「きっかけ」は?
3巨頭が安曇野に会した「写真」を手に入れたのは、
JR明科(あかしな)駅の時計塔にあった「案内板」、
「残したい 静けさ 美しさ」である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/a7/9f31b01849d34c6012e2f151172ad4b6.jpg)
時計塔はイルミネーションをつけて、クリスマスの装いをしていた。2011年11月。
明科駅の改札口でたずねた。
「東山魁夷の痕跡が、明科駅にありますか?」
すると、駅員は駅前広場の時計塔まで案内してくれた。
そして、案内板の写真を撮っていると、駅員は、
「ここにも、書いてあります」
と、安曇野市発行のパンフレット「信州・安曇野」、
を、わざわざ持ってきてくれた。
ありがとうございます。
パンフレットには、つぎのように書いてある。
「川端康成氏、井上靖氏、東山魁夷氏は一堂に会して、
“残したい 静けさ 美しさ”と感嘆したと言われます」
長峰山(933m)は、安曇野を眺めるのに絶好のところ。
安曇野と北アルプスのパノラマが広がる。2011年11月。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/be/78f5038548af5b026241134fa9c8ba6a.jpg)
松本から北アルプスがクッキリ見えた朝、長峰山に急いだ。
左から常念岳、横通岳、東天井岳、大天井岳が連なる。
北アルプスには、この冬の雪があった。
ふもとは安曇野。
さらに右(北)にも、北アルプスが連なる。2011年11月。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/7d/d109e1a5422e127c90e56c75ba008bea.jpg)
この日の北アルプスは、朝焼けをしていた。
左から爺ケ岳、鹿島槍ヶ岳、五竜岳、唐松岳、
そして、白馬三山の白馬鑓ケ岳、杓子岳、白馬岳が見える。
東山魁夷、川端康成、井上 靖の3巨頭は、
安曇野のパノラマを目の当たりにされた。
そして、川端康成は、
「残したい 静けさ 美しさ」
と言われた。
東山魁夷は、
「安曇野は、なんと美しかったことか」
と、驚嘆された。
つぎに、もう一つの疑問、
3巨頭が、ご夫妻で長峰山に会した「きっかけ」である。
安曇野の保養センター「長峰荘」には、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/87/0bc33d88f69bc4fdf54348e603f70172.jpg)
3人の巨頭が長峰山に集った写真が飾ってある(最初の写真と同じ)。
「3人が一堂に会したきっかけは、なんですか?」
3人が安曇野を訪れた、いきさつを、
調べたことがあると言う「長峰荘」の人は、
「穂高町、現在の安曇野市の議員が、学者村を開発するときに、
自然保護に関心がある川端康成をお招きして、ご意見を仰いだ」
と説明された。
そして、3人の巨頭と「長峰荘」の関係だが、
「長峰荘」には宿泊していない、と言う。
「長峰荘」のオープンは1971年で、
3人が長峰山を訪れたのは1970年だから、
「長峰荘」ができる前だった。
松本の浅間温泉に宿泊された、
と説明してくれた。
つぎに、川端康成のほかに、
東山魁夷と井上 靖を伴われているが、
どうして、3人が一堂に会したのだろう?
長峰山頂の近くに、安曇野を見晴らす宿舎「天平の森」がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/f2/eafbf5cc3d0d1c93d2d710675e2687c3.jpg)
「天平の森」のパンフレットには、つぎのように書いてある。
川端康成氏が、
井上 靖氏、東山魁夷氏に、
「多くの写真などをみますと余りに美しいので、
御誘ひいたしたく存じます」
と手紙を送り、三人が一堂に会した。
しかし、3人の巨頭は「天平の森」には来ていない、
と、「天平の森」の人は言う。
3人が長峰山を訪れたのは1970年で、
「天平の森」のオープンは1995年だから、
「天平の森」は、まだなかった。
これで、川端康成、東山魁夷、井上 靖の3巨頭が、
一堂に会したわけがわかった。
穂高町が、自然保護について、
川端康成のご意見を伺うために、安曇野にお誘いし、
川端康成が、東山魁夷、井上 靖をお誘いされた。
3巨頭が、長峰山に会したときの、もう1枚の写真がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/40/a584d829ded24d6214bccf38994eef8c.jpg)
左から井上 靖、川端康成、東山魁夷。
この写真は、明科駅の案内板、
「残したい 静けさ 美しさ」にもあるが、
「天平の森」の広間にも掲げてあった。
写真を撮るときに、「天平の森」の人は、
反射しないように照明を落としてくれた。
日が昇って、長峰山に観光客が上がってくる。2011年11月。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/0d/c655f4990147ae6dad9bc6570974eba4.jpg)
そして、パノラマを目の当たりにすると、
「すごい!」
と驚き、魅入る。
川端康成の「残したい 静けさ 美しさ」、
東山魁夷の「安曇野は、なんと美しかったことか」
を実感する。