季節の変化

活動の状況

ウルグアイの通知表

2009-09-27 07:20:12 | Weblog
“世界の表彰・評価”から、“指標”を定めて、“数値”で、
日本の通知表”をみたが、同じ指標で、
ウルグアイの通知表”は、どうなるだろうか?

ウルグアイは、北はブラジル、西はアルゼンチンに接し、
南はラ・プラタ河をはさんでアルゼンチンと向かい合っている。
スペインからの移民が50パーセント、イタリア移民が30パーセントである。

スペインがアルゼンチンを植民地とし、
ポルトガルがブラジルを植民地としていた。
ウルグアイは、アルゼンチンのスペインと、
ブラジルのポルトガルと独立戦争をした歴史がある。

アルゼンチンを植民地としたスペインは、モンテビデオをつくり、植民地にした。
ホゼ・アルティガス将軍はスペインからの独立運動をおこし、
スペインの要塞(セーロ)を攻略して、独立をした(1811年)。
建国の父、ホゼ・アルティガス将軍の像。

首都モンテビデオの独立広場。

モンテビデオの市街から、モンテビデオ港を隔てて、小高い丘にセーロ要塞がある。


こんどはブラジルのポルトガル軍が、ウルグアイに侵攻して、
ブラジルの領土とした。ホゼ・アルティガス将軍はパラグアイに逃れた。

その後、アルゼンチンはスペインから独立し(1816年)、
ブラジルはポルトガルから独立した(1822年)。

ホゼ・アルティガス将軍の副官(アントニオ・ラバジェハ将軍)が、
ブラジルと戦って、モンテビデオを奪回した(1825年)が、
ブラジルは反撃して全面戦争になり(1827年)、
アルゼンチンの援助で、ウルグアイはブラジルに勝った。

ウルグアイは、アルゼンチン、ブラジルから、
独立を承認され(1828年)、1830年7月18日に共和国憲法を制定した。
これを記念した“7月18日通り”が、独立広場のホゼ・アルティガス将軍の像の、
前から北東に延びている。

左端にある白い建物はエステベス・パレス。かっての大統領府で、今は歴史博物館。

ウルグアイの人口は336万人に対して、
ブラジルの人口は1億9,000万人、アルゼンチンの人口は4,000万人。
ウルグアイの面積に対して、ブラジルは48倍、アルゼンチンは16倍。
ブラジル、アルゼンチン両大国と独立戦争をした歴史をもつ、
“ウルグアイの通知表”をみたい。

ランク…AA=3位以内 A=10位以内 B=20位以内 C=30位以内 D=40位以内。
1)創造力: ノーベル賞の受賞者はなし→ランクF。
2)芸術力: カンヌ映画祭でパルム・ドール受賞作品はなし→ランクF。
3)学力:  PISA2006の15歳の知識と技能は42位→ランクE。
4)文化力: 文化遺産と複合遺産1は51位以下→ランクF。
5)運動力: サッカーのワールド・カップで2度の優勝は4位→ランクA。
陸上競技世界記録はない→ランクF。
6)経済力: 国民総生産は80位→ランクF。
7)援助力: 政府開発援助はなし→ランクF。
8)総合力: ランクE。


ウルグアイのレーダーチャート(2009年9月)。

[総合評価]
“運動力”が突出したレーダーチャートになっている。
ウルグアイの誇りは、サッカーのワールド・カップで、2回の優勝である。
それに、ワールド・カップの第1回大会はウルグアイで開催された。

ワールド・カップの優勝国と優勝回数 1930年~2006年、
それに、優勝国の人口を比較してみた。

ウルグアイは2回の優勝で、アルゼンチンとともに4位である。
ブラジルが5回の優勝で1位、イタリアが4回、ドイツが3回と続く。
サッカー発祥の地、イギリスは、フランスとともに優勝1回である。

優勝国の地域は、南アメリカとヨーロッパである。
青い侍、日本が優勝してほしい。
優勝国の地域×優勝回数をみると、南アメリカ9、ヨーロッパ9で同じ。

ウルグアイの面積は日本の半分で、
ウルグアイの人口336万人は、静岡県379万人に近い。
サッカーが盛んな静岡県から結成されたチームが、
独立戦争をしたブラジル、アルゼンチン両大国に立ち向かって、
ワールド・カップで優勝したことになる。しかも2回も。大したもんだ。

ブラジル、アルゼンチン両大国に比べて、面積、人口が少ないウルグアイは、
サッカーに有利な条件はないと思うのだが? ウルグアイが強い秘訣を知りたい。
サッカーは独立戦争の再現で、両大国から植民地にされた、うらみを晴らすため?

「いいものを見せてあげよう」
と、スペイン移民のウルグアイ人が連れて行ってくれた先は、
サッカーのスタジアムだった。
“7月18日通り”は、1830年7月18日に憲法の制定を記念した大通りで、
独立広場のホゼ・アルティガス将軍の像の前から北東に延びている。
この大通りを4キロメートルほど行くと、セントラル・パークにぶつかる。
その中に、サッカーのスタジアムがあった。

左の高い壁には、
ゴール・キーパーがゴール右隅のボールをキャッチしている図があり、
右の壁には、
“ESTADIO CENTENARIO”(エスタディオ・センテナリオ、100周年スタジアム)
“MONUMENTO AL FUTBOL MUNDIAL”(世界のフットボールの記念碑)
とある。

第1回のワールド・カップが開催された“100周年スタジアム”だ。
“サッカーの記念碑”で、世界のサッカー・ファンのあこがれの地である。
「これが、100周年スタジアムか! 外観を見ることができただけでも、ありがたい。
ウルグアイ人の仕事を援助し、進展させたごほうびだ」
と、感激していた。

ウルグアイ人は、車を降りて、フェンスに近づき、中に見えたスタッフに声をかけた。
スタッフが寄ってきて、フェンス越しに話を始めた。時折こちらを振り返っている。
やがて、笑みを浮かべて車にもどってきた。
「はるばる日本から、100周年スタジアムを視察に来たお客さんだ、と伝えた。
きょうはクローズだが、スタジアムを見せてもらえることになった。
スタッフが特別に案内してくれるそうだ」

フェンスのロックが外されて、中に入った。
そして、“訪問者”の券を渡された。

“ESTADIO CENTENARIO”(エスタディオ・センテナリオ、100周年スタジアム)
“MONUMENTO AL FUTBOL MUNDIAL”(世界のフットボールの記念碑)
とある。

スタジアムを案内してくれる若い女性スタッフの後について、階段を上がると、
正面にピッチが開けた! 

芝生がきれいだ。緑が青い空に映えている。
芝生もスタンドも準備を整えて、戦う選手と熱狂する観客を待っていた。

「1930年は、ウルグアイがアルゼンチンとブラジルから独立して100周年になります。
その年に建てられたこのスタジアムは、独立100周年を記念して、
“100周年スタジアムEstadio Centenario”と名づけられました」
と、女性スタッフが説明してくれる。
スペイン語を、同行のウルグアイ人が英訳してくれた。

「この100周年スタジアムは、今でも使用されていて、7万3千人を収容できます。
かってはブラジルのマラカナンが、建設当時、世界最大の20万人の収容でしたが、
立ち席だったために、きわめて危険でした」

「100周年スタジアムはいす席で、世界で一番安全なスタジアムです。
何かあっても観客はたった15分で、スタジアム周囲の広場に避難できます」
と、100周年スタジアムは、安全に配慮された設計であることを強調した。それに、
独立戦争の因縁をもつブラジルには、ことのほかライバル意識が強いようである。

「ピッチに最も近いところに並ぶコンクリート製のいすは、オープン当時のものです。
そのうしろは、長いすからプラスチックのシートに換えられています。
一番うしろのガラスで囲われたロイヤル・ボックスは、追加されたものです」
ロイヤル・ボックスはタワーとは反対側にあって、写真に写っていない。

コンクリート製のいすに座ってみた。ひじ掛けがあって、ゆったりしている。
前の人の頭が邪魔にならないように、前の席とは半分ずらしてあるから、
観やすくなっていた。

「中央のタワーは、優勝したウルグアイのチームが船で帰国したときに、
選手がタラップにならんで、声援に応える様子をシンボル化したものです。
“栄誉の塔Torre de los homenajes”と名づけています」

栄誉の塔Torre de los homenajesが左に見える。
スタジアムの周りは広場。

「スタンドのブロック分けは、東西南北ではなくて、タワーから右まわりに、
オリンピック席、アムステルダム席、アメリカ席、コロンブス席になっています。
これは、ウルグアイがオリンピックのサッカーで優勝したときの開催地などを、
記念してつけたものです」

栄誉の塔Torre de los homenajesがある正面はオリンピック席、
右はアムステルダム席、手前はアメリカ席。


左はコロンブス席、手前はアメリカ席。
アメリカ席のピッチの最前列は、オープン当時のコンクリート製のいす。

ワールド・カップ第1回大会が、なぜウルグアイで開催されたのだろうか?
サッカーはもともとヨーロッパのもの、イングランドが発祥の地である。
それに、同じ南アメリカでも、ブラジルやアルゼンチンの開催ならわかる。
ブラジルは、のちに王様ペレ、アルゼンチンは神様マラドーナの、
国民的英雄を生むサッカー大国である。

ブラジル、アルゼンチンの両大国と比べると、人口も国土も小さいウルグアイで、
なぜ第1回ワールド・カップが、開催されたのだろうか?
サッカーに興味が薄い人でも抱く疑問だ。

「ウルグアイはオリンピックのサッカーで、1924年と1928年に連続優勝しました。
ヨーロッパの強豪やアルゼンチンを破り、世界にウルグアイの実力を示しました」
と、女性スタッフは言う。

「1924年パリ大会でウルグアイは、アメリカ、開催国であるフランス、
オランダをつぎつぎと破って、決勝戦はスイスに勝ちました」

「1928年アムステルダム大会では、開催国オランダ、ドイツ、イタリアに勝ち、
決勝戦はアルゼンチンでした。
1対1で引き分け、3日後の再試合で、2対1で勝ちました」

「国際フットボール連盟FIFAのジュール・リメ会長は、プロが参加できる国際試合を、
開催したいと企画して、サッカーのワールド・カップ開催が実現しました。
1930年の第1回大会は、オリンピックで連続優勝したウルグアイで開催されましたが、
これにはウルグアイの実力のほかに、ウルグアイの独立100周年を祝福する意味も、
あったのです」
そうだったのか!
これで、第1回のワールド・カップが、ウルグアイで開催されたわけがわかった。

「ウルグアイで開催された1930年の第1回ワールド・カップは、
ウルグアイが優勝しました。ウルグアイ人ならば、だれもが知っています」
と、誇らしげである。

「ウルグアイの決勝の相手はアルゼンチンでした。
2年前の1928年のオリンピック、アムステルダム大会決勝戦の再現になりました。
オリンピックでは引き分け、再試合でアルゼンチンに勝っています。
アルゼンチンは、オリンピックの雪辱に燃えていました」

「激しい決勝戦になり、前半アルゼンチンが2対1でリードしていましたが、
ウルグアイは後半に3点を入れて、4対2で逆転勝ちしました。この試合は、
審判の判定をめぐって紛糾し、その後アルゼンチンとは国交を断絶しました」

「ウルグアイから始まったワールド・カップは、
世界最大のスポーツの祭典になりました」
ワールド・カップとオリンピックの人気度を、
テレビの放映権料とテレビの視聴者数で比較してみる。
テレビの放映権料は、ワールド・カップ2006年ドイツ大会は1,350億円、
オリンピック2000年シドニー大会は1,460億円で、ほぼ同じだ。
テレビの視聴者数は、ワールド・カップ1998年フランス大会が370億人で、
オリンピックの300億人を超えている。
ワールド・カップはオリンピックとならぶ、世界最大のスポーツの祭典だ。

若い女性スタッフ、自信に満ちた説明、
「ありがとうございました」
仕事中のところを、わざわざ手を休めて案内していただきました。
“訪問者”の券は、宝物として大事にします。

モンテビデオ空港へ向かう車の中でも、空港でもサッカーの話になった。
ウルグアイ人に2回目の優勝を聞いた。
「2回目の優勝は、第4回のブラジル大会です。第2回大会と第3回は参加しなかった」

「第2回イタリア大会(1934年)は、イタリアが強化のために、アルゼンチン人選手を、
大勢帰化させたから、これに抗議してウルグアイは参加を見合わせた」

「第3回のフランス大会(1938年)は、連続してヨーロッパでの開催となったため、
南アメリカとの交互の開催を要求して、アルゼンチンとともに参加を取りやめた」

「それから、第2次世界大戦で中断した。
1950年に第4回ブラジル大会が開催され、
ウルグアイは再び参加して、2回目の優勝をした」

「当時の決勝はリーグ戦で、ウルグアイ、開催国ブラジル、スウェーデン、
スペインが勝ち進んだ。
ブラジルはスウェーデンに7対1、スペインに6対1と圧勝したが、
ウルグアイはスウェーデンに3対2で勝ったが、スペインには2対2で引き分けた」

「最終戦は2勝のブラジルと、1勝1分けのウルグアイ戦で、
ブラジルの初優勝を見ようと、マラカナンには20万人のブラジル人が詰めかけた」

マラカナンはワールド・カップに合わせて、リオデジャネイロに造られた、
世界最大のスタジアム。20万人とは、松本市の人口である。
「当時のマラカナンは立ち席だった」
と言うが、それにしても、スタジアムに小都市が1つ、すっぽりと入っている。

「前半は0対0で終わった。これまで2勝のブラジルは、
1勝1分けのウルグアイに、引き分けても優勝だった。ところが、
ウルグアイが優勝するためには、ブラジルに勝たなければならなかった」

「ウルグアイのキャプテン、ファン・スキアフィーノはイレブンに言い聞かせた。
相手は20万人ではない、われわれと同じ11人だ。われわれの作戦が、
どこまで通用するか、試してみようじゃないか、と檄(げき)を飛ばした」

「ところが後半そうそう、ブラジルが得点して1対0となったから、
マラカナンもラジオを聞くブラジル人も、ブラジルの優勝を疑わなかった。
マラカナンでは、ブラジル大統領から優勝トロフィーを授与する準備をしていた」

「しかし、ウルグアイはその後、ファン・スキアフィーノが得点した。
さらに1点を加えて、2対1で逆転勝ちした」

「ブラジル人は天国から奈落の底に突き落とされた。
マラカナンには自殺者とショック死による4つの遺体があった。
ラジオの実況放送を聞いていたブラジル人とウルグアイ人からも、
悲嘆と歓喜による心臓発作で犠牲者が多数出た」

「これが“マラカナンの悲劇”です。
マラカナンはその後、安全性の見直しをして、
立ち席からいす席に換え、収容を半分の10万人に縮小した」

ウルグアイ人は、このマラカナンの逆転勝ちを永遠に語り継ぎたいだろう。
しかし、ブラジル人は早く忘れたいだろう。
ブラジルがマラカナンの悲劇から立ち直るには、
サッカーの王様ペレの出現まで、8年待たなければならなかった。

この第4回ブラジル大会から、イングランドが参加するようになった。
国際フットボール連盟FIFAとの悶着が解決したからだが、
イングランドは予選リーグで敗退した。
ワールド・カップのレベルは上がっていた。
イングランドが優勝するのは、1966年のイギリス大会まで、
16年待たなければならなかった。

「ウルグアイの2回の優勝は、イングランドの優勝1回を上回っている。
ウルグアイが、組織力から個人技のサッカーを発展させ、
さらに、ワールド・カップをこんにちのように隆盛させたのです」

「どうして、ウルグアイはサッカーが強いのだろう?」
という私の問いかけに、間をおいてからウルグアイ人は答えた。
「サッカーが強いのは、“我慢”することだ。“メンタリティ”が強いことだ」
と、力強く答えた。

なるほど。我慢して守りきる、そして、攻撃につなげる、ということか。
それに、あきらめない、勝つんだ、という強い信念か。

マラカナンの悲劇にみられるように、ウルグアイの2回の優勝は、
絶体絶命からのが逆転勝ちだった。
アルゼンチンとは1対2から、4対2と逆転し、
ブラジルとは0対1から、2対1と逆転した。

「それに、指導力、伝統、施設、組織力がある。
日本をはじめとするアジア諸国が、伝統的に野球や柔道が強いようなものだ」
と、ウルグアイ人はつけ加えた。

イングランド発祥のサッカーを、ウルグアイはワールド・カップに発展させ、
しかも、2回の優勝と、輝かしい実績を残している。
“100周年スタジアム”という記念碑も遺した。そして、
ワールド・カップを、オリンピックとならぶスポーツの祭典に仕立て上げた。


独立広場のエステベス・パレス。歴史博物館。
襲撃されて血ぬられた大統領のコートと、その銃が印象に残っている。
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ギリシャの通知表

2009-09-20 07:32:23 | Weblog
“世界の表彰・評価”から、“指標”を定めて、“数値”で、
日本の通知表”をみたが、同じ指標で、
ギリシャの通知表”は、どうなるだろうか?

古代ギリシャの彫刻を、パリやロンドンで見ることができる。
ミロのヴィーナス」は、パリのルーブル美術館にある。


サモトラケのニケ」もルーブル美術館にある。

勝利の女神ニケが、翼を広げている。

ギリシャのパルテノン神殿の彫刻は、ロンドンの大英博物館にある。

パルテノン神殿のペディメント(屋根の妻側の三角形)を飾っていた彫像。

それに、パルテノン神殿の外部の壁面を飾る帯状のフリーズ(浮き彫り)も、
大英博物館にある。
このペディメントの彫像と壁面のフリーズ(浮き彫り)は、
パルテノン・マーブル」とか、「エルギン・マーブル」といわれている。

大英博物館には、古代ギリシャのもある。

壺のランナーは、古代オリンピックの発祥の地、アテネにふさわしい。

ルーブル美術館や大英博物館で、
ルーブル美術館の、「ミロのヴィーナス」や「サモトラケのニケ」、
大英博物館の、パルテノン神殿の「パルテノン・マーブル」、
を見ると、「会うことができた!」と、感激する。
これらのギリシャの美術は、ルーブル美術館や大英博物館の、
最高のコレクションの一つで、世界の人が会いにくる。

「ミロのヴィーナス」は、ギリシャのミロス島で発見された(1820年)。
このとき、ギリシャは、オスマン・トルコの支配下にあって(1453年~1830年)、
そのオスマン・トルコから、フランス人が「ミロのヴィーナス」を買い取った。

「サモトラケのニケ」は、ギリシャのサモトラケ島で胴が発見された(1863年)。
フランス人によって引き続き発掘され、復元されて、ルーブル美術館にある。

パルテノン神殿のペディメントを飾る彫像や壁面のフリーズ(浮き彫り)の、
「パルテノン・マーブル」は、オスマン・トルコのイスタンブルに赴任した、
イギリス大使のエルギン伯爵が、イギリスに持ち帰った(1800年)。
しばらくは、自分の庭に飾っていたが、大英博物館に売却した。
「エルギン・マーブル」といわれるのは、ここからきている。

東京芸術大学の宮田亮平学長が、
技術×伝えたい思い⇒芸術
と、言われている。

その目でみると、
「ミロのヴィーナス」は、女性の美しさを伝えたかったに違いない。そして、
「ミロのヴィーナス」を超える彫像のヴィーナスは、見ないな。
「サモトラケのニケ」は、躍動する勝利の女神(ニケ)を伝えたかった。そして、
「サモトラケのニケ」を超える勝利の女神は、見ない。
「パルテノン・マーブル」は、神殿を美しく飾りたかった。そして、
ペディメントを飾る彫像を生みだし、壁面に帯状のフリーズを生みだした。
ペディメントの彫像、壁面のフリーズの創造は文化となった。
世界の人を魅了し、そして、また見たいと思う。
ギリシャ文明は、ローマに広がった。

今から2千数百年前に、彫刻や建築と、人類の財産を遺した、
ヨーロッパ文明の発祥の地、“ギリシャの通知表”をみたい。

ランク…AA=3位以内 A=10位以内 B=20位以内 C=30位以内 D=40位以内。
1)創造力: ノーベル賞の受賞者はなし→ランクF。
2)芸術力: カンヌ映画祭でパルム・ドール受賞作品は1で11位→ランクB。
3)学力:  PISA2006の15歳の知識と技能は37位→ランクD。
4)文化力: 文化遺産と複合遺産17は9位→ランクA。
5)運動力: サッカーのランキングは12位→ランクB。
陸上競技世界記録はない→ランクF。
6)経済力: 国民総生産は26位→ランクC。
7)援助力: 政府開発援助は19位→ランクB。
8)総合力: ランクC。


ギリシャのレーダーチャート(2009年9月)。

[総合評価]
“創造力”でノーベル賞の受賞者がいないために、
いびつなレーダーチャートになっている。

国土が日本の3分の1、人口が日本の10分の1以下の1,100万人で、
“経済力”の国民総生産GDPが26位、
“援助力”の政府開発援助ODAが19位は、りっぱである。

それに、“文化力”の文化遺産と複合遺産が17で9位は、
さすがにヨーロッパ文明の発祥の国である。

パルテノン神殿

このパルテノン神殿(紀元前5世紀)を超える神殿は、見ない。

「子牛を運ぶ男」

パルテノン神殿のそばにあるアクロポリス博物館。

新アクロポリス博物館が、アクロポリスの近くに建設された(2009年9月)。
「子牛を運ぶ男」は、今は、新アクロポリス博物館に移っているだろう。
3階建て、175億円の巨費をかけた新アクロポリス博物館の目玉は、
パルテノン神殿の長さ160メートルの帯状のフリーズ(浮き彫り)、
「パルテノン・マーブル」の再現である。

フリーズ97個のうち、半分以上の56個が大英博物館にあるから、
ギリシャにはない部分は石こうの複製品でつないでいる。

本物と複製品のまだら模様では、迫力がない、おもしろくない。
それで、ギリシャは大英博物館に、「パルテノン・マーブル」の、
貸し出しを求めた。

それに、ギリシャには新アクロポリス博物館という保管状態が、
いい施設ができたから、これまで大英博物館が、
人類の資産は、保管状態のいい大英博物館が管理したほうがいい。
ギリシャでは、車の排気ガスで大理石が浸食されてきた」
と言っていたことは、対策ができた。

大英博物館は、「3か月の貸し出しは可能」としたが、条件をつけている。
「パルテノン・マーブルの所有権が大英博物館にあることを認めること」

ギリシャは、「パルテノン・マーブル」は強奪された、と思っているから、
所有権が大英博物館にあることは、認められない。貸し出しは実現しなかった。
このニュースは、新アクロポリス博物館が開館する前の2009年6月に流れた。

エジプトは、大英博物館にある「ロゼッタ・ストーン」の返還を求めている。

3種類の古代文字が書かれた「ロゼッタ・ストーン」。
ガラスケースに入れて展示する前の写真。大英博物館。

「ロゼッタ・ストーン」は、エジプトに遠征したナポレオン軍が、ロゼッタで、
発見した(1799年)。それから、イギリスがエジプトに侵攻して(1801年)、
フランスを降伏させ、「ロゼッタ・ストーン」を保有した。

大英博物館は、「パルテノン・マーブル」をギリシャに返せば、
「ロゼッタ・ストーン」を、エジプトに返さなくてはならない。
古代ローマの美術も、メソポタミアの美術も、返さなくてはならない。
そうすると、大英博物館の最高のコレクションがなくなってしまう。

「大英博物館にくれば、ギリシャ文明もエジプト文明も、
比較して見ることができる」
このことを、大英博物館はうたい文句にして、人類の資産を維持していく。

ロンドンからアテネ空港に降り立つと、太陽がまぶしい。
「この太陽青空は、ロンドンにはないな。
太陽のエネルギーは、ほとんどギリシャに吸い取られてしまっている」
と感じて、うらやましくなる。

ギリシャ人は、
「ロンドンを訪問したが、寒くて暗くて、あの気候には気分が滅入った。
仕事が終わったら、すぐにギリシャに舞い戻ったよ」
と、ロンドンに滞在する私の目の前で、控え目? に言ったから、
「よくも、あんなところに住んでいるもんだ。
ギリシャの太陽を知ると、住めたもんではないな」
と、言わんばかりだった。

ヘロド・アティクスの音楽堂、2世紀。

アクロポリスの丘から撮影。
現在でも使われ、夏にはアテネ・フェスティバルの会場となる。

ギリシャの太陽と青空、そして、文化を求めて、世界から観光客が押し寄せる。
世界観光機関UNWTO(United Nations World Tourism Organization)が、
旅行者が訪れる国のデータをオープンしている(2007年)。
その世界観光機関UNWTOから、旅行者の行き先ランキングを作成した。

ギリシャは10位には入らなかったが、14位である。
日本は835万人だから、倍以上の1,752万人が、ギリシャを訪れている。
フランスが1位で、スペイン、アメリカ、中国、イアタリアが続く。
中国は2000年の5位から、2007年は4位になり、アメリカ3位を、
抜く勢いである。多くの日本人観光客が訪れている。

旅行者の行き先ランキング(2007年)と旅行収支を調べてみた。

ギリシャは観光黒字国である。
アメリカ、スペイン、フランス、イタリア、トルコが観光黒字国である
日本は観光赤字国である。ドイツ、イギリスも観光赤字国。

これは、「槍を投げるポセイドン」

アテネ国立考古学博物館。

旅行者の行き先ランキング(2007年)と世界遺産の数を比べてみた。
世界遺産は、文化遺産、複合遺産、自然遺産のすべてとした。

ギリシャの世界遺産は17で11位。旅行者の訪問は1,752万人で14位である。
世界遺産が多い国は、イタリア1位、スペイン2位、中国3位、フランスと、
ドイツが4位である。これらの世界遺産が多い国は、旅行者も多い。

ギリシャは太陽と青空と海、それにヨーロッパ文明の発祥の地。
ロマンをかきたてられ、世界の人を魅了する。


アテネ国立考古学博物館。考古学者ハインリッヒ・シュリーマンが、
ミケーネで発掘した黄金のマスク(アガメムノンのマスク)も展示されている。
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南アフリカの通知表

2009-09-13 08:06:57 | Weblog
“世界の表彰・評価”から、“指標”を定めて、“数値”で、
日本の通知表”をみたが、同じ指標で、
南アフリカの通知表”は、どうなるだろうか?

南アフリカへ行くと、イギリス連邦The Commonwealthだな、と感じる。
ゴルフ、ラグビー、クリケットと、イギリスと共通するスポーツが盛んであるし、
南アフリカはコモンウェルス・ゲームズCommonwealth Gamesに参加する。
4年ごとに開くオリンピックの大英帝国版で、女王様の息のかかった53の国と
地域から71チームが参加して、メダル争いをし、友好を深め、結束を強めている。

レストランの壁には、はく製の中にテレビがあり、クリケットが映されていた。

ヨハネスブルグの市街から北西34キロメートルにある、
クルーガーズドープの動物保護区Krugersdorp Game Reserve。

それに、道路は左側通行である。女王様の息のかかったことのある国、
オーストラリア、カナダ、ケニア、シンガポール、アイルランド、香港……に、
共通している。日本の左側通行は、イギリスの交通システムを採り入れたから。


道路標識の下の車のうしろ姿から、左側通行がわかる。
マフラーのオープン・セール?

南アフリカは動物の国である。
これは、クルーガーズドープの動物保護区。

車から降りるな、道路から外れるな、動物に近寄るな、刺激するな、
と、入場するときに注意事項の説明を受けてから、自家用車で回る。
ウォーターバック、右にダチョウが見える。ここは、
ライオンがいない動物保護区だから、草食動物はのびのびしている。

そして、南アフリカはの国である。
ヨハネスブルグ(ジョハネスブルグと南アフリカ人は言っていた)を、
走っていると、白い台地がある。金を掘ったあとのボタ山だ。
巨大なものから、小さいものまで、町の景観の主要部となっている。
信州の田園風景に、田んぼや果樹園があるようなものだ。


クルーガーズドープ動物保護区のカバの沼から撮ったボタ山。

そして、南アフリカはアパルトヘイト(人種隔離)政策の国であった。
ヨハネスブルグは金の発見で発展した街で、
近郊のクルーガーズドープや旧黒人居住区ソウェトは、
南アフリカの歴史的なできごとが起きたところ」
と、南アフリカ人は言う。

ダイヤモンドが発見され(1867年)、が発見され(1886年)、
ボーア戦争が起こり(1899年~1902年)、ソウェトの蜂起があり(1976年)、
黒人初の大統領になるネルソン・マンデラは、ソウェトに初めての家を持った。

南アフリカの入植の歴史は、オランダ人が最初だった(1652年)。
ケープタウンに入植したが、あとから来たイギリス人に占領されて(18世紀)、
オランダ農民の子孫ボーア人(アフリカーナー)は、内陸へ大移動して、
ヨハネスブルグのあるトランスヴァール共和国と、
その南に、オレンジ自由国を建設した。

そのオレンジ自由国でダイヤモンドが発見され(1867年)、
トランスヴァール共和国で金が発見される (1886年)と、
イギリス人と利権を争うボーア戦争(1899年~1902年)になった。
イギリスが勝って、トランスヴァール共和国やオレンジ自由国を含めた、
イギリスの植民地、南アフリカ連邦がうまれ(1910年)、
行政はアフリカーナーが担当した。

アフリカーナー主体の国民党は、アパルトヘイト(人種隔離)政策を進め、
鉱山に白人の職場を確保し、黒人に土地の所有を認めず、参政権を与えず、
所定の地域に隔絶し、外出には通行証の携帯を義務付け、教育を施さず、
白人との結婚を禁止した。この人種差別政策を、イギリスから非難され、
1961年に、イギリス連邦から脱退して、国名を南アフリカ共和国にしている。

そして、ソウェトの蜂起があった。
ソウェトは黒人居住区で、ヨハネスブルグの市街から、南西14キロメートル。
アフリカーナーの言語(オランダ語に奴隷の言葉が加わった)、
アフリカーンス語を授業に強制しようとした。白人の言語の強制に、
ソウェトの黒人学生が反対してデモをし、制圧する警官の銃弾で、
13歳の生徒、ヘクター・ピーターソンが倒れた(1976年)。

世界が戦りつした写真、ひん死のヘクター・ピーターソン。
インターネット、South Africa: History of Racial Conflictsから。
左端は姉のアントワネットAntoinette Sitholeで、このときのことを、
「弟がひどい状態なのは見たが、単なるけがだと思っていた。
どこがどうなったのか、わからなかったから」
と、言っている。
このソウェトの蜂起が、アパルトヘイト政策の撤廃につながった(1990年)。

ネルソン・マンデラは、アパルトヘイト撤廃運動のために、
27年間も投獄されていた(1964年~1990年)が、釈放され、
全部の民族による総選挙で、黒人初の大統領に就任した(1994年)。
2008年に90歳になったニュースが流れたが、お元気そうだった。
政界を去って、今ではエイズ撲滅運動466 64を精力的に進めている。
466 64とはネルソン・マンデラの収監番号で、最初の466は囚人番号、
最後の64は投獄された1964年である。
1993年にノーベル平和賞を受賞者している。

南アフリカを語るのに欠かせない、金とダイヤモンド、アパルトヘイト政策、
それを20年前に撤廃し、民主国家として国際社会に踏み出した、
南アフリカの通知表”をみたい。

ランク…AA=3位以内 A=10位以内 B=20位以内 C=30位以内 D=40位以内。
1)創造力: ノーベル賞の受賞者1人は21位→ランクC。
2)芸術力: カンヌ映画祭でパルム・ドール受賞作品はない→ランクF。
3)学力:  PISA2006の15歳の知識と技能は参加せず→ランクF。
4)文化力: 文化遺産と複合遺産5は43位→ランクE。
5)運動力: サッカーのランキングは73位→ランクF。
陸上競技世界記録はない→ランクF。
6)経済力: 国民総生産は31位→ランクD。
7)援助力: 政府開発援助はない→ランクF。
8)総合力: ランクE。


南アフリカのレーダーチャート(2009年9月)。

[総合評価]
“芸術力”、“学力”、“運動力”、“援助力”が低いために、
面積の小さいレーダーチャートになっている。

“運動力”で、サッカーのランキングは73位と低いが、
南アフリカは、ラグビーが世界一強い。
Wikipediaから、ラグビーのワールド・カップ優勝国を作成した。

南アフリカは、オーストラリアとならんで2回優勝している。
ニュージーランドとイングランドが1回で続く。

2003年の第5回のワールド・カップ、オーストラリア大会のときに、
開催地のシドニーにいたが、海外からのサポーターの熱気があふれていた。
郊外のホテルがやっと取れて、ロビーには試合の速報が毎日、貼りだされた。

アジア代表の日本は、1次リーグを突破できなかった、残念。
20チームのうち、1次リーグを突破して、決勝トーナメントに進出した8チームは、
地元オーストラリア、イングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランド、
ニュージーランド、南アフリカ、そしてフランスであった。
フランス以外は、なんとイギリス連邦に関係する国や地域である。

それにイギリスからは、イングランド、ウェールズ、スコットランドの、
3チームが、ヨーロッパ予選を勝ち抜いて、本戦に出場している。そして、
1次リーグでは、グループで2位以上となって、全部決勝トーナメントに進出した。

サッカーやゴルフのワールド・カップも同じで、イングランド、ウェールズ、
スコットランドは独立チームとして出場する。
民族も歴史も違う地域を、無理やり束ねて、1つの国にすることはない。
これは、サッカーもゴルフもラグビーも、イギリス発祥のスポーツであり、
しかも、強いからできることである。

イギリス人に言わせると、つぎになる。
「日本人はイギリスというが、イギリスという国はありません。
連邦王国United Kingdom(UK)で、イングランド、北のスコットランド、
西のウェールズ、北アイルランドから成り立っています」

ワールド・カップとは、実力が世界のトップ・レベルである、
女王様の息のかかった国に、ほかの国が戦いを挑む大会だ。

ワールド・カップの開催は、南半球と北半球で、交互に繰り返されてきた。
第9回の2019年は、日本で開催される。

ゴルフに、世界で最も偉大なゴルフ・プレイヤーの1人、
ゲーリー・プレイヤーがいる。それに、アーニー・エルスも。
ゲーリー・プレイヤーは、メジャーの大会、全英オープン、全米オープン、
マスターズ、全米プロで優勝する、キャリア・グランドスラムを達成している。
メジャーで9回の優勝を含めて、163回優勝をしている(シニア・ツアーは除く)。

アーニー・エルスは、全米オープン2回、全英オープン1回と、
メジャーで3回の優勝を含めて、64回の優勝をしている。

南アフリカから有名なゴルフ・プレイヤーがでる事情を聞いてみた。
「クルーガーズドープにゴルフ・コースがあって、メンバーになっている。
ギア道具はクラブに置いてあるから、行けばすぐにできる。
子どもといっしょにプレイしているよ。
ゴルフ・コースの近くはプールつきの邸宅がならんでいる」
と、南アフリカ人は言う。
裕福な白人にとっては、恵まれた環境だ。

“経済力”の国民総生産GDP31位は、鉱物の産出が寄与している。
南アフリカは、金、ダイヤモンド、プラチナの鉱物資源が豊かである。

USGSがMinerals Yearbookとして、鉱物の産出量の国別の資料を公表している。
の産出量のランキングを作成した。

南アフリカは、金の産出量が世界一である。
アメリカ2位、オーストラリア3位、中国4位、ペルー5位が続く。
南アフリカの金の産出量が落ちている傾向から、2位以下が迫っている。

これは金鉱。ヨハネスブルグ。

左手前にボタ山、右にやぐらが見える。

USGSのMinerals Yearbookから、ダイヤモンド産出量のランキングを作成した。

南アフリカのダイヤモンド産出量は5位である。
ロシア1位、ボツワナ2位、オーストラリア3位、コンゴ4位に次ぐ。

USGSのMinerals Yearbookから、プラチナ産出量のランキングを作成した。

南アフリカのプラチナ産出量は、断然世界一である。
ロシア2位、カナダ3位、ジンバブエ4位、アメリカ5位が続く。

「金の精製過程で、ウラニウムも見つかった。
金やダイアヤモンド、プラチナ、ウラニウムの鉱物が
南アフリカの産業になっている」
と、南アフリカ人は言う。

2010年のサッカーのワールド・カップは、南アフリカで開催される。
安全な試合や治安の確保とともに、エイズ、高い失業率が、
南アフリカの大きな課題である。

南アフリカでは、すでにラグビーのワールド・カップが、
開催されて(1995年)、南アフリカは優勝している。
サッカーでも健闘して、世界のファンを集めて、
発展している南アフリカを認識してもらい、さらなる飛躍にしたい。


スタンダード銀行の金鉱の遺跡。ヨハネスブルグ。
エレベータで地下に降りると、坑道があって、
奥に見える手押し車が、やっと通れる巾だ。
砕かれた岩石は、手押し車で集められ、エレベータで地上に運び出される。
そして、金が精製され、残渣(ざんさ)はボタ山となる。
銀行の地下が金鉱とは、南アフリカらしい。
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台湾の通知表

2009-09-06 07:44:26 | Weblog
“世界の表彰・評価”から、“指標”を定めて、“数値”で、
日本の通知表”をみたが、同じ指標で、
台湾の通知表”は、どうなるだろうか?

「父の世代は、日本語教育を強制されたから、日本語を話すことができる」
「台湾と中国の間には“三通”といって、通航、通商、通信の直接交流がない」
「もがいてもしょうがない! 経済的に自立することを考えている」
「日本の経済復興は、台湾の“模範Role Model”になっている」
「“帰学School Leave”という留学制度で、世界に通用する企業人を育てている」
これらは、台湾人からでてくる言葉である。

「父の世代は、日本語教育を強制されたから、日本語を話すことができる」
と、日本による半世紀の統治時代があった(1895年~1945年)ことを言う。
「台湾は、日本から占領された歴史を持っている。しかし、いいこともあって、
鉄道、道路、電気、上下水道、学校などのインフラストラクチャーを整備して、
台湾を近代化した。それも、日本以上に整備して、当時としては最新だった」
と言う台湾人は、北京語のほかに英語、それに少しの日本語を話す。

総統府。台北市。


「台湾と中国の間には“三通”といって、通航、通商、通信の直接交流がない」。
「“通航”がないとは、台湾と中国の間に直行便がない。
“通商”がないから、物資を直接移動できない。間接的に輸送することになる。
それに“通信”がないから、電話もできないし、手紙も出せない」
と、台湾人は説明する。

「1949年の分断以来、台湾と中国は国交がないが、経済の交流は政治よりも、
先行していて、100万人の台湾人が中国の上海、北京、広州などに在住して、
IT産業ほかの事業をしている」
「上海の台湾人は、いったん、香港かマカオへ行ってから、乗り換えて台北に来る。
直行便があれば、1時間半ですむ距離だが、接続が悪くて8時間もかかっている。
しかし最近は、台湾人が帰省する旧正月だけ、直行便が飛ぶようになった」

「三通の解禁は、経済面からは望ましい。しかし、そうなった時、台湾の自治が、
今まで通り尊重されるのか? 台湾が中国の一地区になり、
“吸収されるステップ”になる。
中国は台湾に、“1つの中国”を受け入れるように迫っている。
しかし、台湾は、台湾の自治や尊厳が守られるのか? 対等が守られるのか?
それに、中国には“民主主義”がないことが大きな問題です。台湾人は、
共産党による一党独裁の抑圧を望んでいないから、中国が三権分立となり、
住民による直接選挙ができ、言論の自由が保証されるのを待っている」

「もがいてもしょうがない!」
「台湾の主権を認める1国2制度は、台湾を領土とみなす中国の1国論とは、
対立しているから、常に国家存亡の危機意識がある」

「東ドイツは経済が破綻して、西ドイツに吸収され、国が消滅した。
台湾は、東ドイツと同じ運命を歩みたくはない。台湾の自治や尊厳が、
守られるように、経済で優位に立って、確固たる地位を築いておきたい」

「頼りになるのは自分だけだから、起業家意識を絶えずもって、
経済では自立することを考えている。
いざというときには財産があれば、なんとか家族は守ることができるからね」
と、台湾人は国の激変に備えている。

「日本の経済復興は、台湾の“模範Role Model”になっている。
日本は、生産技術を磨き、高品質の製品を造った。新技術を開発して特許化した。
世界に販売網を築き、ブランドを確立して、顧客に高品質のイメージを植えつけた」
「国土が小さく、資源もない、人的資源しかない台湾は日本に似ている。
日本やアメリカの工場だったときに、台湾は技術を習得した。製造技術は、
設計できる技術になり、やがて、独自で開発できる技術に育った」

「台湾は、労働集約産業から知識集約産業への産業構造の転換を図るため、
台湾政府の新戦略は、半導体と液晶パネルのハイテク産業への重点投資である。
アメリカのシリコン・バレーで成功したハイテク移民の主導で、半導体産業を興した」

「“帰学School Leave”という留学制度で、世界に通用する企業人を育てている」
“School leave”という言葉を辞書で探したが、ないから、“帰学”と訳した。
「就職しても、アメリカや台湾、日本の大学で2年間学んで、MBA(経営学修士)を取る。
そして、本人が復職を希望すれば、優先的に元の職場に迎える留学制度です」
大学を卒業してからも学ぶ意欲があり、企業は社員の向上心を受け入れる文化がある。

活気がある台北市内。訪れるたびに発展している。

右にモノレールの軌道が見える。

大の親日国、そして政治の激変にさらされている“台湾の通知表”をみたい。

ランク…AA=3位以内 A=10位以内 B=20位以内 C=30位以内 D=40位以内。
1)創造力: ノーベル賞の受賞者はいない→ランクF。
2)芸術力: カンヌ映画祭でパルム・ドール受賞作品はない→ランクF。
3)学力:  PISA2006の15歳の知識と技能は5位→ランクA。
4)文化力: 文化遺産はない→ランクF。
5)運動力: サッカーのランキングは166位→ランクF。
陸上競技世界記録はない→ランクF。
6)経済力: 国民総生産は26位→ランクC。
7)援助力: 政府開発援助はない→ランクF。
8)総合力: ランクE。


台湾のレーダーチャート(2009年9月)。

[総合評価]
“創造力”のノーベル賞で、受賞者がいないこと、
“援助力”の政府開発援助ODAは、援助を受ける国であることから、
面積の小さいレーダーチャートになっている。しかし、
“学力”のPISA2006の15歳の知識と技能は5位と、世界のトップ・レベルにあり、
“経済力”の国民総生産GDP26位と高い。

“創造力”のノーベル賞で、受賞者はいないが、
アメリカで登録される特許が、多いことに気がついていた。
多くの企業はアメリカで特許の登録をめざす。
大きな市場で独占権を行使できて、競争相手に勝つことができ、
模倣品を市場から駆逐できる。さらに、新しいビジネスを確立することができる。

アメリカ特許商標庁USPTOが、アメリカで登録された特許の国別の数を、
公表しているから、特許登録数の国別のランキングを作成した。
あわせて、人口に対して、特許数がどのくらいか? を調べた。

アメリカは、特許登録数が1位で、全体の55.6%を占める。
2位日本19.2%、3位ドイツ5.9%についで、台湾が4位で2.7%ある。
台湾は、1998年の5位から、フランスを抜いて、4位に上った。
韓国も、1998年の8位から、カナダを抜いて、7位に上っている。

人口100万人当たりの特許登録数をみると、
台湾は190で3位である。1位アメリカ330、2位日本260につぐ。
3位スイス190、5位スウェーデン170が続く。
台湾は、特許の登録数も人口当たりも、すばらしい。

最近のデータがほしいが、USPTOは国別の特許数を公表しなくなった。
The World Intellectual Property Organization(WIPO)が公表している。
2007年と1995年を比べて、アメリカの特許登録数 国別をつくった。

アメリカが1位である。シェアは50.6%で、半分を維持している。
1999年のシェア55.6%からは、落ちている。
日本はゆるぎのない2位で、21.2%である。
3位ドイツ5.8%、4位韓国4.0%、5位カナダ2.1%が続く。
台湾はunknown不明の地域と分類されて、数が出てこない。

韓国が1995年の7位から、2007年4位と、躍進している。
それに、中国の伸び率が1,145%と大きい。
1995年は62件で23位だったが、2007年は772件で15位である。

台湾が載っている国別の特許登録数を探すと、特許のデータ・サービスを提供する、
IFI Patent Intelligenceが公表している。これから、国別のランキングを作成した。

台湾は5位、4%である。
台湾政府の新戦略、ハイテク産業へ重点投資は、特許の登録で実っている。
1位アメリカ、2位日本23%、3位ドイツ6%、4位韓国5%に続く。
アメリカのシェアが公表されないのは、シェアが半分を割ったのだろうか?

ランチ・タイム。屋台。台北市。

なにを食べても、うまい。それに、安い。テイク・アウトもできる。

“学力”のPISA2006の15歳の知識と技能の5位はすばらしい。
PISA2000、PISA2003、PISA2006の推移はつぎである。

台湾はPISA2006が初参加で、いきなり総合5位である。
1位フィンランド、2位は韓国と同点の香港、4位カナダに次ぐ。日本は10位。

読解力、数学、科学の順位をみる。

台湾は、数学が1位である。読解力が16位、科学が4位。
台湾の学力は、世界のトップ・レベルである。

ディナー。レストランでの魚料理もうまい。

魚の蒸し煮と奥はから揚げ。台湾人が魚と料理のしかたをオーダーした。

“経済力”の国民総生産GDPは26位で、
台湾の国土が日本の九州、人口が2,300万人を考えると、りっぱである。
「台湾政府は半導体と液晶に重点投資して、知識集約産業への転換をはかった。
半導体は、アメリカに渡った台湾人の主導で育成をした。
アメリカのシリコン・バレーで成功したハイテク移民を優遇して、
“里帰り”を促している。そして、IT産業の興隆を目指して、
起業家へ資金を提供し、税の優遇措置をとった」

「マンションを用意し、英語しか話せない子弟に、北京語の教育をしている。
シリコン・バレーで築いた人脈で、ネットワークを結んで、国際分業をしている」

「これは、液晶パネルの一貫工場です。台湾の命運をハイテク産業に賭けています」
と、台北の北西にある工業団地で、巨大な液晶工場を見せてくれた。
「優秀な技術者を投入して液晶パネルの開発をしている。
組立て作業は、労賃の安い中国に部品を輸送して、製品化する」
そして、知識集約産業への転換という台湾政府の成果がでた。
「台湾の半導体は世界一の製造能力をもっている。
さらに、中国のIT産業のハードウェア生産額は、アメリカ、中国、日本についで、
台湾は4位です。それに、中国の生産額の60%以上は、
中国に進出した台湾系企業によるものです」

台湾には世界一の生産量がたくさんある。ノートブックPC、デスクトップPC、
PC用マザーボード、半導体、大型液晶、スキャナー、LCDモニター、
光ディスクドライブ、ディジタルカメラ、ウィルス対策ソフト、
GDP(位置情報)つきPDA(個人情報端末)のPND(Personal Navigation Device)……。

101階のビルディング、台北101。建設中の2004年、台北市。

高さ508メートルは当時、世界一の高さ。熊谷組の高層建築技術が活かされた。

スイスの調査会社IMD Switzerlandが、
企業にとって競争力のある環境を提供できる国のランキングを、
世界競争力年鑑World Competitiveness Yearbookとして、毎年公表している。
競争力ランキングの最近5年間の推移をみる。

台湾は、2008年の13位から、2009年は順位を落として23位であるが、
推移をみると、10位台を維持していた。
日本は、2008年の22位から、2009年は17位と上げて、
低落気味から脱出できるか? という状況にある。

2009年のクライテリアのランキングはつぎである。

台湾の2009年は、経済の実績が27位(2008年は21位)、
ビジネスの効率が18位(2008年は10位)、
インフラストラクチャーが23位(2008年は17位)、となっている。

これは港町、淡水。台北から北へ電車で40分。

遊覧船。観音山が見える淡水河左岸の公園に行く。
台湾は、ビジネスのほかに観光、うまい台湾料理を求めて観光客が集まる。

「中国でのビジネスは、日本人よりも台湾人が有利です」
と、台湾人は言う。
「中国のビジネスの課題は、売上金を回収することと、販路の拡大です。
台湾人は中国人と北京語でやり合っても、最後は人種のつながりがあるから、
わかり合える。それで、中国での事業運営を台湾の代理店にまかせる、日本企業も多い」

「中国は、共産政権だから、ビジネスの法律は走りながら修正する。
修正の内容は、台湾人にはすぐにわかる。それに、中国は、
法治国家というよりも、人治国家であるから、役人との関係は重要です」

「中国でビジネスを成功させる秘訣は、役人の成果にすることです。
売上げの拡大も、販路の拡大も、中国人の雇用の機会を増やしたことも、
役人の実績にすると、その役人は出世していく。
もし、役人が実績を上げることができなければ、交代させられたり、
左遷される。共産党員は多いから、能力のある人が機会を待っている」

「それと、中国人の社長やスタッフの採用には、
日本語を話す人よりも、英語を話す人にしたほうがいい。
一流の人はアメリカへ留学します。合格すればビザはでる。
つぎは中国に残って、北京大学や精華大学へ行く。
つぎが日本へ留学する」

「台湾でも同じで、優秀な人は日本を飛び超えて、アメリカに留学する。
日本では、就職の場が限られている、永住するには困難な国である。
それに、台湾にもどったときに、主要ポストはアメリカの留学生で占められる。
留学先は、アメリカ、イギリス、日本の順番です」
日本は、再考する必要がある。日本の文化や技術を学び、
日本のよき理解者を、大事にしたい。

日本の外国人留学生を調べた。

台湾の留学生は3位で4,200人、4%である。
留学して、自分の将来のため、台湾の将来のために、力をつけている。
中国が1位で74,000人、62%、韓国2位、16,000人、13%につぐ。
マレーシア4位、2,100人、2%、ベトナム5位、2,000人、2%が続く。
アジアからの留学生が主で、アメリカだけが6位と、10位以内に入っている。

中正紀念堂。台北市。

衛兵だろうか?

台湾は、中国との統合という政治的な激変を見すえながら、
“もがいてもしょうがない!”と、
“帰学School Leave”で、世界に通用する企業人を育て、
留学生を世界に送り込んで、技術を修得し、文化を学ぶ。
日本の経済復興は、台湾の“模範Role Model”と、
台湾は、新技術を開発して特許を取得した。
PISAではトップ・レベルの学力となり、半導体と液晶の重点投資で、
知識集約産業に転換し、IMDスイスから世界競争力が高い国と評価され、
中国と協業し、アジアで、世界で確固たる地位を築いている。


世界的な文化遺産がある故宮博物院。
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