東西を分断していたベルリンの壁が崩壊したのは1989年11月9日。
2014年は、ベルリンの壁が崩壊して25周年になる。
ベルリンの壁が崩壊する前年の1988年に、
ベルリンの壁の西と東を見た。
イギリスに滞在していた1988年3月に、
ロンドンからジェット機で西ベルリンに飛んだ。
ここから、東ベルリンへは、ツアー・バスに乗った。
ツアー・バスは、ベルリンの壁の検問所、チェックポイント・チャーリーから、
東ベルリンに入った。それで、ベルリンの壁の西ベルリン側と、
東ベルリン側を見ることができた。
ベルリンの壁とブランデルブルク門。西ベルリン側から。
ツアー・バスの最前列に座ったので、運転席の窓から撮影した。1988年3月。
西ベルリンの大通り、「6月17日通り」を進むと、
ベルリンの壁に突き当たる。この先は東ベルリン。
もう、これ以上、先に進むことができない。
ベルリンの壁の手前にある警告板には、
「注意! あなたは、今から西ベルリンを離れる」
とある。
ベルリンの壁の中には、東ドイツの旗が、
あちこちに掲げられ、右には照明がある。
ブランデルブルク門付近のベルリンの壁は、
特別に厚い。1.5メートルほどある。
1989年11月9日に、
東ドイツ市民の旅行の規制が緩和されて、
東西ベルリンの行き帰が自由になった。翌日の、
1989年11月10日には、
脱出する東ベルリンの市民が西ベルリンに殺到し、
迎えて歓迎する西ベルリンの市民と喜び合った。
そして、このベルリンの壁によじ登って、
ハンマーで、叩き壊し始めた。
ツアー・バスは、最初に西ベルリンを見学する。それから、
ベルリンの壁のチェックポイント・チャーリーに来た。
外国人が、東ベルリンに入ることができる、たった一つの検問所である。
ここで、東の検察官がバスに乗り込んで、パスポート検査をする。
ツアー客は、フランス人、イタリア人、それに、日本人でバス1台。
パスポート検査が終わると、東ベルリンのツアー・ガイドが乗り込む。
そして、東ベルリンに入る。いよいよだ!
役目を終えた西ベルリンのツアー・ガイドは、最前列に座る。
東のガイドとは、目の前だが、目を合わせようとはしない。
おたがいに、ドイツ人同士なんだが。
東ベルリンの初老で、品のいいツアー・ガイドは、
これ以上ないという最高級品で身を包んでいる。
仕立てのいいオーバーコートとスーツ、マフラー、
ピカピカの靴、アタッシュケース、皮手袋…。
「東は豊かだよ!」ということを、
西のツアー客に見せようとする演出だ。
しかし、アタッシュケースは、
一度も開けることがなかったな。
皮手袋は、にぎったままだったし。
東ベルリンのツアー・ガイドの役目は、
「共産主義はすばらしいよ!」
「東ベルリンは繁栄しているよ!」
ということを、西側に宣伝するためで、
ベルリンの壁の裏側を見せるためではない。
見学ルートには、
東ベルリン市民の生活臭さがただような、
住居街、市場などは、入っていなかった。
バスは、東ベルリンの一番の中心街、
ウンター・デン・リンデンを東に走り、
歴史博物館、テレビ塔を脇に見ながら、
フンボルト大学、ベルリン大聖堂、赤い市庁舎などを眺める。
それから、中心街から7キロメートルも離れた、
ソ連の「戦没兵士慰霊碑」まで足を延ばした。
再び、市街にもどって、
シュプレー川が二又に分かれた中州の「博物館島」で、
ペルガモン博物館や旧博物館などを見るころには、
もう夕陽が当たり始めた。
ペルガモン博物館では、バビロニアの「イシュタール門」や、
トルコの古代遺跡「ゼウスの大祭壇」を見る。
東ドイツ独自の美術品はなかった。それに、
博物館はがらがら、東の市民はいない。
中心街から南東へ7キロメートル離れたトレプトウの、
ソ連の「戦没兵士慰霊碑」。
巨大なソ連の兵士像が中央にある。
ソ連の兵士が、右手に剣を持ち、左手に子ども抱いて、
ナチスのシンボル、ハーケンクロイツ卐を踏み壊して立っている。
このソ連の兵士像に向かって、数多い石碑が並ぶ広い公園だ。
バスから降りて見学したのは、博物館と、この戦没兵士慰霊碑。
戦没兵士慰霊碑を歩きながら、東のガイドから説明を受ける。
「ソ連の兵士が、ヨーロッパの文明を、ファシストから救ったことを称えるものです」
「左右にある石碑も、戦没兵士を称えています」
「スターリンの石碑もあります」
そして、ツアーの最後の最後に、ベルリンの壁に立ち寄った。
ベルリンの壁とブランデルブルク門のあるパリ広場。東ベルリン側から。
ベルリンの壁では、バスから降りることはなかった。
運転席の窓から撮った。1988年3月。
一番奥に白くあるのがベルリンの壁。
落書きはなかった。
というよりも、フェンスが2重にあって、
ベルリンの壁に近づくことができない。
手前にフェンスがある。中には、石が置かれ、
パイプが積み重ねてある。まるで、工事現場のように。
工事現場の奥には、さらにフェンスがある。
その奥にブランデルブルク門、さらに、
その奥がベルリンの壁。
これでは、脱出できない。フェンスが2重にあるし、
工事現場のような障害物があって、足場は悪いし、
最後に、ベルリンの壁が立ちはだかっている。
そして、夜には、こうこうと輝くライトが林立している。
ベルリンの中心街、パリ広場なのに、立ち入り禁止。
人の気配がしなかった。
ベルリンの壁について、東のガイドは口を開いた。
説明をしないわけにはいかないだろう?
英語の説明に、ツアー客は注目する。
「共産主義を崩壊させようとする西の帝国主義者によって、
東ドイツ国民が拉致(らち)されるのを防ぐために、壁を築いたのです」
この東のガイドの説明を聞いて、
それまで、だまっていた西のガイドが目をむいた。
「東ドイツ人の脱出が多くて、東の存在が危うくなったから、壁を築いたんじゃないか?」
「壁ができても、なぜ東ドイツ人は、命をかけて、西に脱出するのだ?」
これは、西側の意見を代表したものだ。
東西ドイツのガイドのやりとりは激しくなった。そして、
英語を止めた。母国語のドイツ語になった。
激しい口論で、車内がシーンとなった。
これに気が付いた2人は、
決着のない口論を終わらせた。
ツアー客の目の前での、東西のケンカは、強烈な印象だ!
民族が同じでも、イデオロギーが違うと、ケンカをする。
異民族ではないのに。
ベルリンの壁ができたのは、
東ドイツの若者や知識層を中心に、
260万人が、西ベルリンへ脱出した。
このままでは、東ドイツの存続が危ぶまれた。それで、
1961年8月に、最初は有刺鉄線で東西を分断したが、
すぐに壁を築いて、東西ベルリンの行き帰を、まったく遮断した。
ベルリンの壁の東ベルリン側は、フェンスを2重にしてあった。
石やパイプの障害物を置いて、脱出を困難にした「人間の檻」だった。
それに、同じ民族だが、イデオロギーの違いでケンカ状態だった。
そして、どこまでも続く高いベルリンの壁が、
「来年、崩壊する」
とは、夢にも思わなかった。
ツアー客も、そう思っていた。
いや、世界の人も、そう思っていた。
「東西ドイツの統一は、夢であり、理想であって、当面は、あり得ないだろう」
「少なくとも、20世紀中にはむりだ」
「それには、流血の惨事がともなうだろう」
と思っていた。
そのベルリンの壁が無血で崩壊するのは1989年11月、
東西ドイツが統一するのは1990年10月。
東ベルリンへ行った1988年3月は、
ベルリンの壁が崩壊する前年で、
東ドイツが消滅する2年前になる。
半世紀かかった「イデオロギー」の「実験」は終わった。
共産政権の、一党独裁の内部腐敗、国民を監視する恐怖政策、
計画経済の破綻は、結局、国民を幸せにしなかった。
1945年に、第2次世界大戦は終わり、
1961年8月に、ベルリンの壁が築かれ、
1989年11月に、ベルリンの壁が崩壊し、
これがきっかけで、東欧革命がおきて、共産政権は滅び、
1990年10月に、東西ドイツは統一して、東ドイツは消滅し、
1991年12月には、ソ連までが崩壊した。
ベルリンの壁。西ベルリン側から。
落書きだらけ。奥は東ベルリン。
西ベルリンでは、だれもが自由に、
ベルリンの壁に近づくことができた。1988年3月。
どこまでも続くベルリンの壁が、翌年の1989年11月に崩壊した。
ベルリンの壁崩壊は、
歴史の劇的な変化「パラダイム・シフト」。
西も東もなくなって、「地球規模」(グローバル化)になった。
「イデオロギー」のケンカは終わって、「先端技術」の競争になった。
2014年は、ベルリンの壁が崩壊して25周年になる。
ベルリンの壁が崩壊する前年の1988年に、
ベルリンの壁の西と東を見た。
イギリスに滞在していた1988年3月に、
ロンドンからジェット機で西ベルリンに飛んだ。
ここから、東ベルリンへは、ツアー・バスに乗った。
ツアー・バスは、ベルリンの壁の検問所、チェックポイント・チャーリーから、
東ベルリンに入った。それで、ベルリンの壁の西ベルリン側と、
東ベルリン側を見ることができた。
ベルリンの壁とブランデルブルク門。西ベルリン側から。
ツアー・バスの最前列に座ったので、運転席の窓から撮影した。1988年3月。
西ベルリンの大通り、「6月17日通り」を進むと、
ベルリンの壁に突き当たる。この先は東ベルリン。
もう、これ以上、先に進むことができない。
ベルリンの壁の手前にある警告板には、
「注意! あなたは、今から西ベルリンを離れる」
とある。
ベルリンの壁の中には、東ドイツの旗が、
あちこちに掲げられ、右には照明がある。
ブランデルブルク門付近のベルリンの壁は、
特別に厚い。1.5メートルほどある。
1989年11月9日に、
東ドイツ市民の旅行の規制が緩和されて、
東西ベルリンの行き帰が自由になった。翌日の、
1989年11月10日には、
脱出する東ベルリンの市民が西ベルリンに殺到し、
迎えて歓迎する西ベルリンの市民と喜び合った。
そして、このベルリンの壁によじ登って、
ハンマーで、叩き壊し始めた。
ツアー・バスは、最初に西ベルリンを見学する。それから、
ベルリンの壁のチェックポイント・チャーリーに来た。
外国人が、東ベルリンに入ることができる、たった一つの検問所である。
ここで、東の検察官がバスに乗り込んで、パスポート検査をする。
ツアー客は、フランス人、イタリア人、それに、日本人でバス1台。
パスポート検査が終わると、東ベルリンのツアー・ガイドが乗り込む。
そして、東ベルリンに入る。いよいよだ!
役目を終えた西ベルリンのツアー・ガイドは、最前列に座る。
東のガイドとは、目の前だが、目を合わせようとはしない。
おたがいに、ドイツ人同士なんだが。
東ベルリンの初老で、品のいいツアー・ガイドは、
これ以上ないという最高級品で身を包んでいる。
仕立てのいいオーバーコートとスーツ、マフラー、
ピカピカの靴、アタッシュケース、皮手袋…。
「東は豊かだよ!」ということを、
西のツアー客に見せようとする演出だ。
しかし、アタッシュケースは、
一度も開けることがなかったな。
皮手袋は、にぎったままだったし。
東ベルリンのツアー・ガイドの役目は、
「共産主義はすばらしいよ!」
「東ベルリンは繁栄しているよ!」
ということを、西側に宣伝するためで、
ベルリンの壁の裏側を見せるためではない。
見学ルートには、
東ベルリン市民の生活臭さがただような、
住居街、市場などは、入っていなかった。
バスは、東ベルリンの一番の中心街、
ウンター・デン・リンデンを東に走り、
歴史博物館、テレビ塔を脇に見ながら、
フンボルト大学、ベルリン大聖堂、赤い市庁舎などを眺める。
それから、中心街から7キロメートルも離れた、
ソ連の「戦没兵士慰霊碑」まで足を延ばした。
再び、市街にもどって、
シュプレー川が二又に分かれた中州の「博物館島」で、
ペルガモン博物館や旧博物館などを見るころには、
もう夕陽が当たり始めた。
ペルガモン博物館では、バビロニアの「イシュタール門」や、
トルコの古代遺跡「ゼウスの大祭壇」を見る。
東ドイツ独自の美術品はなかった。それに、
博物館はがらがら、東の市民はいない。
中心街から南東へ7キロメートル離れたトレプトウの、
ソ連の「戦没兵士慰霊碑」。
巨大なソ連の兵士像が中央にある。
ソ連の兵士が、右手に剣を持ち、左手に子ども抱いて、
ナチスのシンボル、ハーケンクロイツ卐を踏み壊して立っている。
このソ連の兵士像に向かって、数多い石碑が並ぶ広い公園だ。
バスから降りて見学したのは、博物館と、この戦没兵士慰霊碑。
戦没兵士慰霊碑を歩きながら、東のガイドから説明を受ける。
「ソ連の兵士が、ヨーロッパの文明を、ファシストから救ったことを称えるものです」
「左右にある石碑も、戦没兵士を称えています」
「スターリンの石碑もあります」
そして、ツアーの最後の最後に、ベルリンの壁に立ち寄った。
ベルリンの壁とブランデルブルク門のあるパリ広場。東ベルリン側から。
ベルリンの壁では、バスから降りることはなかった。
運転席の窓から撮った。1988年3月。
一番奥に白くあるのがベルリンの壁。
落書きはなかった。
というよりも、フェンスが2重にあって、
ベルリンの壁に近づくことができない。
手前にフェンスがある。中には、石が置かれ、
パイプが積み重ねてある。まるで、工事現場のように。
工事現場の奥には、さらにフェンスがある。
その奥にブランデルブルク門、さらに、
その奥がベルリンの壁。
これでは、脱出できない。フェンスが2重にあるし、
工事現場のような障害物があって、足場は悪いし、
最後に、ベルリンの壁が立ちはだかっている。
そして、夜には、こうこうと輝くライトが林立している。
ベルリンの中心街、パリ広場なのに、立ち入り禁止。
人の気配がしなかった。
ベルリンの壁について、東のガイドは口を開いた。
説明をしないわけにはいかないだろう?
英語の説明に、ツアー客は注目する。
「共産主義を崩壊させようとする西の帝国主義者によって、
東ドイツ国民が拉致(らち)されるのを防ぐために、壁を築いたのです」
この東のガイドの説明を聞いて、
それまで、だまっていた西のガイドが目をむいた。
「東ドイツ人の脱出が多くて、東の存在が危うくなったから、壁を築いたんじゃないか?」
「壁ができても、なぜ東ドイツ人は、命をかけて、西に脱出するのだ?」
これは、西側の意見を代表したものだ。
東西ドイツのガイドのやりとりは激しくなった。そして、
英語を止めた。母国語のドイツ語になった。
激しい口論で、車内がシーンとなった。
これに気が付いた2人は、
決着のない口論を終わらせた。
ツアー客の目の前での、東西のケンカは、強烈な印象だ!
民族が同じでも、イデオロギーが違うと、ケンカをする。
異民族ではないのに。
ベルリンの壁ができたのは、
東ドイツの若者や知識層を中心に、
260万人が、西ベルリンへ脱出した。
このままでは、東ドイツの存続が危ぶまれた。それで、
1961年8月に、最初は有刺鉄線で東西を分断したが、
すぐに壁を築いて、東西ベルリンの行き帰を、まったく遮断した。
ベルリンの壁の東ベルリン側は、フェンスを2重にしてあった。
石やパイプの障害物を置いて、脱出を困難にした「人間の檻」だった。
それに、同じ民族だが、イデオロギーの違いでケンカ状態だった。
そして、どこまでも続く高いベルリンの壁が、
「来年、崩壊する」
とは、夢にも思わなかった。
ツアー客も、そう思っていた。
いや、世界の人も、そう思っていた。
「東西ドイツの統一は、夢であり、理想であって、当面は、あり得ないだろう」
「少なくとも、20世紀中にはむりだ」
「それには、流血の惨事がともなうだろう」
と思っていた。
そのベルリンの壁が無血で崩壊するのは1989年11月、
東西ドイツが統一するのは1990年10月。
東ベルリンへ行った1988年3月は、
ベルリンの壁が崩壊する前年で、
東ドイツが消滅する2年前になる。
半世紀かかった「イデオロギー」の「実験」は終わった。
共産政権の、一党独裁の内部腐敗、国民を監視する恐怖政策、
計画経済の破綻は、結局、国民を幸せにしなかった。
1945年に、第2次世界大戦は終わり、
1961年8月に、ベルリンの壁が築かれ、
1989年11月に、ベルリンの壁が崩壊し、
これがきっかけで、東欧革命がおきて、共産政権は滅び、
1990年10月に、東西ドイツは統一して、東ドイツは消滅し、
1991年12月には、ソ連までが崩壊した。
ベルリンの壁。西ベルリン側から。
落書きだらけ。奥は東ベルリン。
西ベルリンでは、だれもが自由に、
ベルリンの壁に近づくことができた。1988年3月。
どこまでも続くベルリンの壁が、翌年の1989年11月に崩壊した。
ベルリンの壁崩壊は、
歴史の劇的な変化「パラダイム・シフト」。
西も東もなくなって、「地球規模」(グローバル化)になった。
「イデオロギー」のケンカは終わって、「先端技術」の競争になった。