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日露戦争の勝利はイギリスのおかげだ

2013-09-15 00:03:39 | Weblog
「今度は、日本100年前恩返しをする番だ」
日露戦争に勝つことができたのは、イギリスのおかげだ」
と、イギリス人は言うのだ。

なんのことか、さっぱりわからなかった。
なんで、「日露戦争」の勝利がイギリスのおかげなんだ?
なんで、イギリスに「恩返し」をしなければならないんだ?

イギリス人が言うのは、こうだ。
100年前の日露戦争のときに、イギリスから買いつけた軍艦と、
学んだ戦術を使って、日本はロシアに勝つことができた。
東郷平八郎は、世界一の海軍国、イギリスに留学して、
軍艦や兵器、軍事作戦などの軍事力を学んだ。そして、日本は、
海軍はイギリス方式」とする、を国策として、
イギリスから戦術を導入し、軍艦、近代兵器を購入した。
連合艦隊の司令長官、東郷平八郎の乗った、
旗艦「三笠」をはじめ、軍艦のほとんどはイギリス製だ。

三笠」。横須賀の「三笠記念艦」で。

確かに、イギリスのバローにあるヴィッカース造船所製であった。
日露戦争の「日本海海戦」で、東郷平八郎が指揮をとった場所は、
マストの手前にある四角の指令室ではなく、その上の艦橋だった。

イギリス人は、さらに続ける。
日露戦争の勝利を決定づけた「日本海海戦」で、
連合艦隊は、ロシアのバルチック艦隊を殲滅(せんめつ)した(1905年)。
有名な「トーゴー・ターン」は、イギリスで学んだT字作戦そのものだ。
そして、日本はロシアに勝つことができたじゃないか。

2013年8月のロシア旅行では、
「日露戦争」の相手国へ行くわけだから、
ロシア人の反応や、何らかの痕跡があれば、
知りたいと思っていた。

サンクト・ペテルブルクで、
バルチック艦隊の巡洋艦「オーロラ号」を見た。

「これが、日露戦争で戦ったバルチック艦隊か!」
「バルチック艦隊は壊滅状態だったが、生き延びたんだ!」
と、移動中のバスの中からしげしげと見た。

団体旅行を案内するロシア人のツアー・コンダクターは、
「オーロラ号が係留されています」
と、バスから言って、
夕刻から始まる、バレー「白鳥の湖」を観るために、
「オーロラ号」のわきを通り過ぎて、劇場へ急いだ。

バルチック艦隊38隻のうち、19隻を撃沈、7隻を捕獲し、
主力の戦艦、装甲巡洋艦を全滅させた。
連合艦隊は水雷艇3隻が沈没した。
バルチック艦隊は、戦死者が5千名近く、捕虜が6千名以上、
連合艦隊は、戦死者が117名、戦傷者が600名近くだった。
海戦の歴史上、まれにみる一方的な勝利だった。

「日本海海戦」の結果は、世界が注目していた。
日本が勝利した打電が飛びこんできたときには、
何かの間違いで、ロシアの勝利ではないか、と疑った。

「オーロラ号」は、撃沈や捕獲からフィリピンに逃がれた。
「オーロラ号」は、その後、ロシア革命でも活躍した。
1917年10月25日にエルミタージュの冬宮を砲撃して、
10月革命の火蓋を切った。今は記念艦として、
ネヴァ川河畔に保存されていた。

イギリス人は、まだある。
しか売るものがなかった貧乏な日本が、
日露戦争の戦費をまかなうために、
イギリスとアメリカから借金をした。
その金で、イギリスから軍艦や大砲などの近代兵器を買った。
ロシアが、バルチック艦隊を日本に差し向けたときに、
大国ロシアを相手では、アジアの小国、日本の勝ち目はない、
これで日本は、ロシアの植民地になるものと、世界は考えていた。
それで、日本が負ければ、回収ができなくなるから、危険な投資だった。

ここで、日本がイギリスであったら、どうしただろうか? 考えてみた。
もし、立場が逆で、イギリスがロシアに征服されそうだったら、
日本は、みなさんは、イギリスをこれほど助けるだろうか?
投資した金は無になる! 知らん顔をしていた方がいい?
機密である軍事力をイギリスに授けただろうか?

イギリスには、歴史の方向を見定める力があって、
帝政ロシアは滅びると思っていた?
イギリスは、日本をロシアの植民地にしたくなかった?
イギリス人には、「ノーブル・オブリゲーション」という、
「高貴な者には、義務が伴う」という精神が宿っていて、
日本の将来をほうっておけずに、起ちあがった?

イギリス人は、まだまだある。
日英同盟」という軍事同盟を結んで(1902年~1912年)、
日本の外交政策はイギリスを軸として進められた。
「日英同盟」は、ロシアのアジア進出を封じるためのもので、
イギリスは積極的に日本に協力した。
バルチック艦隊が日本に向かう時には、
イギリスが支配していたスエズ運河を通らせなかった。
このために、武器、弾薬を満載した大型戦艦は、
アフリカ大陸を回ったから、喜望峰ルートの遠回りになった。
小型艦だけは、スエズ運河を通させたから、先行した大型戦艦とは、
フランス領のマダガスカル島で、合流しなければならなかった。
このために、バルチック艦隊は、ロシア領であったラトビアを、
1904年10月に出発してから、日本海に到着する1905年5月まで、7か月もかかった。
それに蒸気船だから、航海中には石炭を、
ところどころで、補給しなければならない。
だが、イギリスの植民地では、石炭を補給させなかった。
それに、水や食料品の補給もしなければならないが、
イギリスの植民地には、寄港させなかった。
石炭や水、食料品の補給で不便を強いられ、
スエズ運河を通れば、3か月ですむところを7か月もかかった航海で、
バルチック艦隊の乗組員は疲労し、戦意は低下した。
それに、イギリスは、最新の無線機を日本に提供して、
バルチック艦隊の戦力、武器、進路を日本に伝えた。

「日露戦争に勝つことができたのは、イギリスのおかげだ」
「イギリスから最新技術の軍艦や戦術のほかに戦費も調達して、
日本は国の興亡をかけて、大国ロシアと戦って、勝った」
「この勝利を機に、日本は近代国家の仲間入りをしたじゃないか」
「日本の歴史の大転換となった奇跡の勝利に、
イギリスの貢献がなかったら、日本は負け、
ロシアの植民地になっていた。そして、こんにちの日本はなかった」
「今度は、日本がイギリスを助けて、100年前の恩返しをする番だ」
という、イギリス人の最初の話につながってくる。

「日露戦争から100年たって、日本はIT(情報機器)や、
バイオテクノロジーのハイテク産業にうまく転換できた」
「そして日本は、こんにちの繁栄の道を歩むことができた」
「だが、イギリスは造船や製鉄の重工業から、
ハイテク産業への転換が遅れた」
「それに、政府による国営企業の運営は立ち行かなくなり、
労働争議が頻発し、国から活力が失われた」
「名車ロールス・ロイスは経営危機に陥り、
ドイツのBMWとフォルクスワーゲンに身売りされてしまった」
と、が沈むことがないといわれたイギリスの凋落ぶりを嘆く。

イギリス人が、100年前の「日露戦争」の話を持ち出して、
イギリスの貢献を言い、日本に「助け」を求めることは、
イギリスのジェントルマンにとっては、やりたくないことだろう。
屈辱的だが、イギリスはそんなことを言っていられる状況ではなかった。

1990年代のことで、私はイギリスに赴任していた。
イギリスの経済を立ち直らせ、復興させるために?
そして、自動車産業を旗頭にイギリスの経済が立ち直った。
雇用の機会も増えた。技術先進国、日本の援助の「おかげ」じゃないか。
私も貢献してきた?

さて、「日露戦争」だが、
蔑視(べっし)されていた有色人種が、
初めて白色人種を打ち負かした。
この日本の勝利は、多くの国を勇気づけた。

インドでは、のちに初代首相になったネルーは、
「日本の勝利に血が逆流するほど歓喜し、
インド独立のため命を捧げる決意をした」

中国では、「建国の父」と言われた孫文は、
「アジア人の欧州人に対する最初の勝利であった。
この日本の勝利は全アジアに影響を及ぼし、
アジアの民族は極めて大きな希望を抱くに至った」

トルコは長い間、ロシアとは宿敵だった。
ロシアは冬でも凍らない港を求めて、
黒海から地中海に出る航路を確保したいが、
それには、トルコの「ボスポラス海峡」を通るから、

ロシアとは長い間の仇敵で、トルコ艦隊が敗れたことがあった。
左のヨーロッパと、右のアジアとの架け橋は、「第1ボスポラス大橋」。
奥には「第2ボスポラス大橋」があり、さらに奥は「黒海」に連なる。
手前は「地中海」に連なる。

サンクト・ペテルブルクには、
トルコ戦争の勝利を記念した、「凱旋門」がある。

サンクト・ペテルブルクのメイン・ストリート、モスコフスキー通り。

トルコ人は、つぎのように言っていた。
「日本はバルチック艦隊を破って、ロシアに勝ったから、
『大国ロシアに日本が勝った!』と、トルコ人は拍手喝采をし、
大いに勇気づけられたのです」
「『日露戦争』が単なる戦争の勝利だけではなく、
日本がロシアの植民地になることを防いだ歴史の転換であった。
あわせて、中国、韓国への侵出による植民地化をくい止めた」
アドミラル・トーゴー(東郷平八郎)が有名になって、
多くの子どもに、トーゴーという名前がつけられました」

フィンランドは、ロシアと国境を接して、
戦争を繰り返して敗れ、長い間、支配されていた。
「ロシアに勝ち目のない蜂起を挑むのか、
それとも、このまま国が消滅するのを待つか?」
フィンランド人は、つぎのように言っていた。
「ロシアのバルチック艦隊が日本へ向かったときに、
これで、日本は敗れて、ロシアの植民地になるものと思っていた。
ところが、日本は勝ったから、フィンランド人は喜び、
大いに勇気づけられました」
そして、日露戦争で帝政ロシアが弱体化して倒れた、
1917年に、フィンランドは独立宣言をした。

東郷平八郎を敬って、「東郷ビール」を作った。

フィンランドで作られたものの復刻版。横須賀の「三笠記念艦」で。
フィンランド独立の喜びの味? がする。

さて、「日露戦争」に対するロシア人の反応は?
サンクト・ペテルブルクのロシア人のツアー・コンダクターは、
「オーロラ号が係留されています」
とは言う。が、
「日露戦争」で戦った、
とは、説明がなかった。
「日露戦争」は、日本とロシアは当事者であり、
帝政ロシアは弱体化して、革命が起こる、
歴史が大転換するできごとなのに。

それに、「オーロラ号」と、
「ロシア革命」との関わりにも触れなかった。
ロシア人にとっては、「日露戦争」も、「ロシア革命」も、
乗り越えてきた「」。その「傷」から立ち直った。
もう、振り返ることはしない。明日に向かう。
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