“始皇帝陵”と“兵馬俑”は、始皇帝の“大土木事業”で、
始皇帝陵は、奴隷70万人で、37年間建設し、
兵馬俑は、奴隷2万人、窯(かま)2千個でつくった。
始皇帝陵は、西安の北東32キロメートル。
車で近づくと、盛り土が見えてきた。
だれの目にも、墓とわかる。
「始皇帝陵の盛り土の高さは、
いまは浸食されて76メートルですが、
建設当時は、120メートルありました」
と、中国人ガイドは言う。
「始皇帝は偉大であった」
と、思わせるに十分な威容だ。
始皇帝陵は、“権威”を見せつけるもので、
奴隷70万人で、37年間、堂々と進めた。
ところが、一方の大土木事業、兵馬俑は“極秘”だ。
始皇帝陵の記録はあっても、兵馬俑の記録はない。
兵馬俑は、だれにも知られずに2200年も眠っていた。
――始皇帝はどんな“策略”で、兵馬俑を極秘とし、
2200年もの間、“秘密”を隠し通そうとしたのだろうか?
「兵馬俑の建設は、奴隷2万人が、
窯2千個を使ってつくりました。
兵馬俑が完成すると、同じものができないように、
奴隷は殺され、窯は破壊されました」
ということだが、
――しかし、2万人も殺せるだろうか?
1人くらい、生き残りが、いてもいい?
そして、兵馬俑を盗掘したり、暴露してもいい。
それに、窯を壊した人は、
兵馬俑をつくっていたことを、わかっていたはずだ。
殺された奴隷の墓や骨、住んでいた跡、
工房……が、残っていてもいいはずだが。
――奴隷の居住跡、骨は見つかったのだろうか?
――そのとき、西安の市民の人口は、
どのくらいだっただろうか?
兵馬俑に気がついた市民もいると思うが。
西安の市民も処刑した?
「西安の人口は30万人でした。
ローマとならぶ大都市です」
そして、ガイドは、技術的なことは、話してくれた。
「兵馬俑の兵士の顔つきは、一体一体、違います。
兵士は、さまざまな民族です」
「兵馬俑は、どうして倒れないか、わかりますか?
下半身を重くして、重心を下げてあるからです。
その上に、軽い頭を刺してあります」
と、兵馬俑の技術力に、誇らしげである。
奴隷は、すごい芸術的センスと、技術を持っているが、
奴隷2万人は、どうして、選りすぐったのだろうか?
「兵馬俑の製造技術のほかに、装備や兵器、
軍隊の編成、銅で製造した馬車の技術など、
当時を調査する貴重な“史料”となっています」
「奥に白い柵が見えるでしょう?
あそこが、発掘当時の地表面でした」
前回の『兵馬俑の謎、2200年の秘密』の写真では、
白い柵は見えない。
4年後の訪問では、白い柵は、撤去されていた。
ちなみに、兵馬俑の発見者の一人、楊志発さんには、
2度目に、お目にかかることができた。
「“壁”の上は、デコボコでしょう?
“丸太”をわたして、天井をつくりました。
丸太の上に、“ござ”をのせ、さらに、
“土”を2メートルかぶせました。
その重みで、できたデコボコです」
「兵馬俑を発掘すると、壁と天井に守られて、
壁と壁の間のくぼみから、土に埋もれて、
でてきました」
――これは、手のこんだ土木事業だ。
2メートル以上の穴を掘って、壁をつくり、
兵馬俑を並べ、その上に天井をつくって、
2メートルの土をかぶせて、平らにしている。
兵馬俑は、だれにも、知られたくない、見破られたくない。
“敦煌文書”とおなじだ……“カムフラージュ”をした。
――兵馬俑は、“極秘”だ!
そして、最大の関心事は、
――始皇帝は、どうして、兵馬俑を“極秘”にしたのだろうか?
始皇帝陵の副葬品だから?……1.5キロメートルも離れているが。
どうして、“2200年”も秘密を守り通そうとしたのだろうか?
ガイドは、
「わかりません」
ということだった。
その代わり、始皇帝陵について話してくれた。
「盛り土の下には、堅牢な“地下宮殿”があります。
予備調査では、大量の水銀が流しこまれていました。
それに、盗掘されていないことが確認されています。
記録によると、盗掘者の侵入を防ぐために、
自動的に発射する弓と矢が仕掛けられています」
始皇帝陵によって、
「始皇帝は偉大であった」
ということを、後世に語り継がれたい、
という始皇帝の目的は、十分に達せられている。
しかし、墓の内部は暴(あば)かれたくない。
だから、堅牢な地下宮殿を築き、
盗掘者を防ぐ仕掛けまでした。
“大土木事業”であっても、
“権威”を見せつけたかった“始皇帝陵”と、
なぜか、知られたくなかった“極秘”の“兵馬俑”。
そして、兵馬俑は、“カムフラージュ”までして、
“2200年の秘密”を守り通した。
1987年に、始皇帝陵と兵馬俑は、世界遺産になった。
それで、始皇帝は、ほくそ笑んでいるのだろうか?
「兵馬俑は、文化財になった。“策略”どおりだ!
ガイドは、当時を調査する貴重な“史料”、
と、説明しているようだ。ちゃんと評価してくれている」
――始皇帝は、どうして、兵馬俑を“極秘”にしたのか?
そして、2200年も“秘密”を守り通そうとしたのか?
始皇帝の“策略”の“謎”は、とけていない。
それにしても、“2200年”とは、気が遠くなる計画だ。
始皇帝陵は、奴隷70万人で、37年間建設し、
兵馬俑は、奴隷2万人、窯(かま)2千個でつくった。
始皇帝陵は、西安の北東32キロメートル。
車で近づくと、盛り土が見えてきた。
だれの目にも、墓とわかる。
「始皇帝陵の盛り土の高さは、
いまは浸食されて76メートルですが、
建設当時は、120メートルありました」
と、中国人ガイドは言う。
「始皇帝は偉大であった」
と、思わせるに十分な威容だ。
始皇帝陵は、“権威”を見せつけるもので、
奴隷70万人で、37年間、堂々と進めた。
ところが、一方の大土木事業、兵馬俑は“極秘”だ。
始皇帝陵の記録はあっても、兵馬俑の記録はない。
兵馬俑は、だれにも知られずに2200年も眠っていた。
――始皇帝はどんな“策略”で、兵馬俑を極秘とし、
2200年もの間、“秘密”を隠し通そうとしたのだろうか?
「兵馬俑の建設は、奴隷2万人が、
窯2千個を使ってつくりました。
兵馬俑が完成すると、同じものができないように、
奴隷は殺され、窯は破壊されました」
ということだが、
――しかし、2万人も殺せるだろうか?
1人くらい、生き残りが、いてもいい?
そして、兵馬俑を盗掘したり、暴露してもいい。
それに、窯を壊した人は、
兵馬俑をつくっていたことを、わかっていたはずだ。
殺された奴隷の墓や骨、住んでいた跡、
工房……が、残っていてもいいはずだが。
――奴隷の居住跡、骨は見つかったのだろうか?
――そのとき、西安の市民の人口は、
どのくらいだっただろうか?
兵馬俑に気がついた市民もいると思うが。
西安の市民も処刑した?
「西安の人口は30万人でした。
ローマとならぶ大都市です」
そして、ガイドは、技術的なことは、話してくれた。
「兵馬俑の兵士の顔つきは、一体一体、違います。
兵士は、さまざまな民族です」
「兵馬俑は、どうして倒れないか、わかりますか?
下半身を重くして、重心を下げてあるからです。
その上に、軽い頭を刺してあります」
と、兵馬俑の技術力に、誇らしげである。
奴隷は、すごい芸術的センスと、技術を持っているが、
奴隷2万人は、どうして、選りすぐったのだろうか?
「兵馬俑の製造技術のほかに、装備や兵器、
軍隊の編成、銅で製造した馬車の技術など、
当時を調査する貴重な“史料”となっています」
「奥に白い柵が見えるでしょう?
あそこが、発掘当時の地表面でした」
前回の『兵馬俑の謎、2200年の秘密』の写真では、
白い柵は見えない。
4年後の訪問では、白い柵は、撤去されていた。
ちなみに、兵馬俑の発見者の一人、楊志発さんには、
2度目に、お目にかかることができた。
「“壁”の上は、デコボコでしょう?
“丸太”をわたして、天井をつくりました。
丸太の上に、“ござ”をのせ、さらに、
“土”を2メートルかぶせました。
その重みで、できたデコボコです」
「兵馬俑を発掘すると、壁と天井に守られて、
壁と壁の間のくぼみから、土に埋もれて、
でてきました」
――これは、手のこんだ土木事業だ。
2メートル以上の穴を掘って、壁をつくり、
兵馬俑を並べ、その上に天井をつくって、
2メートルの土をかぶせて、平らにしている。
兵馬俑は、だれにも、知られたくない、見破られたくない。
“敦煌文書”とおなじだ……“カムフラージュ”をした。
――兵馬俑は、“極秘”だ!
そして、最大の関心事は、
――始皇帝は、どうして、兵馬俑を“極秘”にしたのだろうか?
始皇帝陵の副葬品だから?……1.5キロメートルも離れているが。
どうして、“2200年”も秘密を守り通そうとしたのだろうか?
ガイドは、
「わかりません」
ということだった。
その代わり、始皇帝陵について話してくれた。
「盛り土の下には、堅牢な“地下宮殿”があります。
予備調査では、大量の水銀が流しこまれていました。
それに、盗掘されていないことが確認されています。
記録によると、盗掘者の侵入を防ぐために、
自動的に発射する弓と矢が仕掛けられています」
始皇帝陵によって、
「始皇帝は偉大であった」
ということを、後世に語り継がれたい、
という始皇帝の目的は、十分に達せられている。
しかし、墓の内部は暴(あば)かれたくない。
だから、堅牢な地下宮殿を築き、
盗掘者を防ぐ仕掛けまでした。
“大土木事業”であっても、
“権威”を見せつけたかった“始皇帝陵”と、
なぜか、知られたくなかった“極秘”の“兵馬俑”。
そして、兵馬俑は、“カムフラージュ”までして、
“2200年の秘密”を守り通した。
1987年に、始皇帝陵と兵馬俑は、世界遺産になった。
それで、始皇帝は、ほくそ笑んでいるのだろうか?
「兵馬俑は、文化財になった。“策略”どおりだ!
ガイドは、当時を調査する貴重な“史料”、
と、説明しているようだ。ちゃんと評価してくれている」
――始皇帝は、どうして、兵馬俑を“極秘”にしたのか?
そして、2200年も“秘密”を守り通そうとしたのか?
始皇帝の“策略”の“謎”は、とけていない。
それにしても、“2200年”とは、気が遠くなる計画だ。