季節の変化

活動の状況

始皇帝陵は権威、兵馬俑は極秘の策略

2009-02-25 04:55:55 | Weblog
始皇帝陵”と“兵馬俑”は、始皇帝の“大土木事業”で、
始皇帝陵は、奴隷70万人で、37年間建設し、
兵馬俑は、奴隷2万人、窯(かま)2千個でつくった。

始皇帝陵は、西安の北東32キロメートル。
車で近づくと、盛り土が見えてきた。
だれの目にも、とわかる。

「始皇帝陵の盛り土の高さは、
いまは浸食されて76メートルですが、
建設当時は、120メートルありました」
と、中国人ガイドは言う。

始皇帝は偉大であった」
と、思わせるに十分な威容だ。
始皇帝陵は、“権威”を見せつけるもので、
奴隷70万人で、37年間、堂々と進めた。

ところが、一方の大土木事業、兵馬俑は“極秘”だ。
始皇帝陵の記録はあっても、兵馬俑の記録はない。
兵馬俑は、だれにも知られずに2200年も眠っていた。
――始皇帝はどんな“策略”で、兵馬俑を極秘とし、
2200年もの間、“秘密”を隠し通そうとしたのだろうか?

「兵馬俑の建設は、奴隷2万人が、
窯2千個を使ってつくりました。
兵馬俑が完成すると、同じものができないように、
奴隷は殺され、窯は破壊されました」
ということだが、
――しかし、2万人も殺せるだろうか?
1人くらい、生き残りが、いてもいい?
そして、兵馬俑を盗掘したり、暴露してもいい。
それに、窯を壊した人は、
兵馬俑をつくっていたことを、わかっていたはずだ。

殺された奴隷の墓や骨、住んでいた跡、
工房……が、残っていてもいいはずだが。
――奴隷の居住跡、骨は見つかったのだろうか?

――そのとき、西安の市民の人口は、
どのくらいだっただろうか?
兵馬俑に気がついた市民もいると思うが。
西安の市民も処刑した?

「西安の人口は30万人でした。
ローマとならぶ大都市です」
そして、ガイドは、技術的なことは、話してくれた。
「兵馬俑の兵士の顔つきは、一体一体、違います。
兵士は、さまざまな民族です」

「兵馬俑は、どうして倒れないか、わかりますか?
下半身を重くして、重心を下げてあるからです。
その上に、軽い頭を刺してあります」
と、兵馬俑の技術力に、誇らしげである。

奴隷は、すごい芸術的センスと、技術を持っているが、
奴隷2万人は、どうして、選りすぐったのだろうか?

「兵馬俑の製造技術のほかに、装備や兵器、
軍隊の編成、銅で製造した馬車の技術など、
当時を調査する貴重な“史料”となっています」


「奥に白い柵が見えるでしょう?
あそこが、発掘当時の地表面でした」

前回の『兵馬俑の謎、2200年の秘密』の写真では、
白い柵は見えない。
4年後の訪問では、白い柵は、撤去されていた。

ちなみに、兵馬俑の発見者の一人、楊志発さんには、
2度目に、お目にかかることができた。

「“”の上は、デコボコでしょう?
丸太”をわたして、天井をつくりました。
丸太の上に、“ござ”をのせ、さらに、
”を2メートルかぶせました。
その重みで、できたデコボコです」

「兵馬俑を発掘すると、壁と天井に守られて、
壁と壁の間のくぼみから、土に埋もれて、
でてきました」

――これは、手のこんだ土木事業だ。
2メートル以上の穴を掘って、壁をつくり、
兵馬俑を並べ、その上に天井をつくって、
2メートルの土をかぶせて、平らにしている。

兵馬俑は、だれにも、知られたくない、見破られたくない。
敦煌文書”とおなじだ……“カムフラージュ”をした。
――兵馬俑は、“極秘”だ!

そして、最大の関心事は、
――始皇帝は、どうして、兵馬俑を“極秘”にしたのだろうか?
始皇帝陵の副葬品だから?……1.5キロメートルも離れているが。
どうして、“2200年”も秘密を守り通そうとしたのだろうか?
ガイドは、
「わかりません」
ということだった。

その代わり、始皇帝陵について話してくれた。
「盛り土の下には、堅牢な“地下宮殿”があります。
予備調査では、大量の水銀が流しこまれていました。
それに、盗掘されていないことが確認されています。
記録によると、盗掘者の侵入を防ぐために、
自動的に発射する弓と矢が仕掛けられています」

始皇帝陵によって、
「始皇帝は偉大であった」
ということを、後世に語り継がれたい、
という始皇帝の目的は、十分に達せられている。
しかし、墓の内部は暴(あば)かれたくない。
だから、堅牢な地下宮殿を築き、
盗掘者を防ぐ仕掛けまでした。

大土木事業”であっても、
権威”を見せつけたかった“始皇帝陵”と、
なぜか、知られたくなかった“極秘”の“兵馬俑”。
そして、兵馬俑は、“カムフラージュ”までして、
2200年の秘密”を守り通した。

1987年に、始皇帝陵と兵馬俑は、世界遺産になった。
それで、始皇帝は、ほくそ笑んでいるのだろうか?
「兵馬俑は、文化財になった。“策略”どおりだ!
ガイドは、当時を調査する貴重な“史料”、
と、説明しているようだ。ちゃんと評価してくれている」

――始皇帝は、どうして、兵馬俑を“極秘”にしたのか?
そして、2200年も“秘密”を守り通そうとしたのか?
始皇帝の“策略”の“”は、とけていない。
それにしても、“2200年”とは、気が遠くなる計画だ。
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兵馬俑の謎、2200年の秘密

2009-02-22 06:56:16 | Weblog
西安(せいあん)は、シルクロードの旅の起点
その西安の“兵馬俑”(へいばよう)にも“”がある。

その兵馬俑は、西安の北東33キロにある、8千体の兵士の、
テラコッタ(粘土の素焼き)。兵士の身長は1.8メートル。


秦(しん)の“始皇帝”(しこうてい)の墓、“始皇帝陵”(りょう)の、
東1.5キロにあって、始皇帝陵を、東方の敵から守るように、
東を向いている。手前が西。

この兵馬俑と始皇帝陵は、始皇帝の“大土木事業”である。

この兵馬俑は、1974年に、井戸掘りをしていた農民が、
地中から偶然に発見した……たった30数年前のことである。

そして、1987年に、兵馬俑は、
始皇帝陵とともに、世界遺産になった。


「兵馬俑の発見者の一人、楊志発さんです」
と、中国人ガイドは紹介した。みやげものやで。
ガイド・ブックを買うと、写真を撮らせてもらえる。
机には、兵馬俑を訪れたVIPとの写真ほかが、
こちら向きに置いてあった。

兵馬俑の“”、
――兵馬俑、いつからつくり始めて?
いつころまで続いたのか?
そして、1974年に発見されるまで、
何年眠っていたのだろうか?

中国人ガイドに聞いてみた。
「兵馬俑の時期は、わかっていません。
兵馬俑の記録もありません」
と言う。

しかし、始皇帝陵については、話してくれた。
「秦の始皇帝は、13歳秦王になりました。
秦王になると、始皇帝陵の建設にとりかかりました。
紀元前221年38歳のときに、中国を統一しました。
紀元前210年50歳で死亡するまで37年間、
70万人の奴隷を使って、始皇帝陵をつくり続けました」

兵馬俑のつくり始めは、推測するしかない。
始皇帝は、13歳で始皇帝陵の建設を始めている。
始皇帝38歳、紀元前221年に、中国を統一した。
兵馬俑のつくり始めは、始皇帝が中国を統一した、
38歳から、としてみる。

始皇帝陵は、始皇帝が亡くなる50歳まで、建設していたから、
兵馬俑の建設の終わりも、始皇帝が亡くなる50歳とする。
12年つくっていたことになるが、どうだろうか。

兵馬俑の“”、
――兵馬俑は、何年、秘密を守ったか?
紀元前210年に製造を終えてから、
1974年に発見されるまで、
2200年近くも、秘密を守ったことになる。

敦煌文書は、850年も眠り、
チュニジアのドゥッガは、
1600年も忘れ去られたが、
兵馬俑は、2200年も眠っていた。
――兵馬俑は、長い間、秘密を守った。

兵馬俑の8千体とは、気が遠くなるだ。
始皇帝陵は、70万人の奴隷を使って、
37年、建設していたということだが、
――兵馬俑は、何人でつくったのだろうか?

これには、中国人ガイドは答えてくれた。
「兵馬俑は、奴隷2万人が、
窯(かま)2千個を使って、つくりました」
そして、
「兵馬俑が完成すると、同じものができないように、
奴隷は殺され、窯は破壊されました」

始皇帝の“大土木事業”である、
始皇帝陵”は、奴隷70万人で、37年間建設し、
兵馬俑”は、奴隷が2万人、窯が2千個と、
規模が大きい。

しかし、2つ目の“”がわいてきた。
――始皇帝はどんな“策略”で、2200年もの間、
兵馬俑の秘密を隠し通す”ことができたのだろうか?

「兵馬俑をつくった奴隷2万人は殺され、
窯2千個は破壊された」
ということだが、
――2万人も殺せるだろうか?
生き残りは、いなかったのだろうか?
1974年に、兵馬俑が発見されるまで、
2200年もの間、盗掘も、破壊もなく、
グッスリと眠っていたが。
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敦煌文書の謎、850年の秘密

2009-02-18 07:30:56 | Weblog
敦煌文書は、“すごい価値”がある」
という、西夏の熱い“思い入れ”によって、
1054年ころ、莫高窟に運び込まれてから、
1900年に、王圓籙(おうえんろく)が発見するまで、
敦煌文書は、“850年”もの間、グッスリと眠っていた。

自費出版した、『世界がみる日本の魅力と通知表』の、
「850年間眠った文化」を参照して、手を加えた。
ちょっと、長くなるが、おつき合いを。

「敦煌文書は、散らばったり、盗まれたくない。
回教徒に見つかって、破壊されたくもない」
と、西夏は考えて、第17窟に封印した。
しかし、盗難や、破壊を避けて、
――850年も、“秘密”を守り通せるだろうか?
この“850年の秘密”は、5番目の“”だ。

――敦煌文書を、少しでも知った人は、処刑した?
敦煌文書を、“集め”た人がいるはずだ、
それを、“グルグル巻き”にした人もいるはずだ、
第17窟に“運び”入れた人もいるはずだ、
入口の“”を塗り固めた人もいるはずだ、
第16窟の壁に“菩薩”を描いた人もいるはずだ、
そして、これらを“指示”した人もいるはずだ……、
関係した人は、みんな、処刑してしまった?

――敦煌を制圧した時、敦煌の人を、全員を殺した?
敦煌の城から莫高窟までの20数キロを、
大量の敦煌文書を運べば、異常に気がつく人がいるはずだ。
おそらく、ラクダの隊列が、夜陰に紛れて行進したのだろう?
それで、ラクダ曳(ひ)きまで処刑した? 念には念を入れて……。

写真は現代で、旅行者を運ぶ観光用のラクダとラクダ曳き。
後方は鳴沙山(めいさざん)。
莫高窟は、ここから南東へ13キロメートル。

850年の秘密”の“”は、生々しい話だ。
学芸員は、文化とはかけ離れた質問については、
ちょっと……という顔つきだったが、
それでも、いくつかに答えてくれた。
「西夏が、敦煌を制圧したときに、
敦煌の人を全員殺したわけではありません。
そのとき敦煌の人口は、3万5千人でした」
――たしかに、3万5千人は殺せない。

5番目の“”、“850年の秘密”はむずかしい。
ここは、敦煌文書に対する西夏の熱い、
思い入れ”を推測するしかない。

――敦煌文書を莫高窟に運び入れて、
封印するときに、西夏は、つぎのことを、
第17窟に、お願いしたに違いない。

――敦煌文書は、すぐには見つけてほしくない。
だから、そ~っと第17窟に運び入れて、
壁を塗り固めて封印した。
その上に壁画を描いて、カムフラージュまでした。
敦煌文書を封印したという記録を、
もちろん、残したりはしない。

――だが、“すごい価値”があるものだから、
何百年後、何千年後には、
カムフラージュを見破って、
必ず、見つけ出してほしい。

――価値がないものならば、
ゴミ”として燃やしたか、捨てていた。

大量のゴミならば、
一つひとつ巻物にしてから、
わざわざ、時間をかけて、
莫高窟まで、運び入れはしなかった。
その上、封印して、壁画まで描いて、
バレないように、カムフラージュはしなかった。

中央アジア踏査記」、オーレル・スタイン著、
白水社に、敦煌文書の量を、
「測ったところ、体積は14立方メートル近くあった」
と、書いている。

この敦煌文書のうちの1万点は、
古文書24箱美術品5箱を大英博物館に搬入した」
ともある(1907年)。

オーレル・スタインは1914年に、
莫高窟を再度訪問して、王圓籙(おうえんろく)に会って、
「再訪の収穫として、運び去ることを許してくれた分だけでも、
仏教経典の写本約600巻5箱におよんだ」
「相当に寄進の増額をしたことはいうまでもなかった」
と、書いている。

ここで、敦煌文書の体積14立方メートル重さは?
敦煌文書を、連量64グラム/平方メートルの上質紙
とすると、密度は0.8だから、11トンになる。
これは、4トン積みのトラック3台分だ。
和紙とすると、密度は0.4だから、
重量は5.6トンになる。
――これだけ、よくも、集めたもんだ!
それも、経典から絵画まで、多岐にわたる文物を。

歴史的変化跡づけることができるのは、
文書記録が発見されるか否かにかっている」
と、言うオーレル・スタインにとって、
膨大な敦煌文書は、うれしかったに違いない。
遺跡科学的に調査する、大いなる証拠品である。

さて、西夏が滅び、敦煌はさびれていく。
莫高窟は、風に侵食され、砂に埋もれ、
荒れるがままになって、忘れ去られた。
異教徒の暴動で荒らされたこともあった。

敦煌は、シルクロードの交易地であったが、
海のルートができてから、重要性はなくなった。
危険な砂漠を、ラクダに荷物を乗せて曳く隊商よりも、
海上を船で大量の商品を運ぶ方が、楽だから。

しかし、敦煌文書は、世の中の動きは、
なんにも知らずに、グッスリと眠った。

「あ~、よく寝た。そろそろ、見つけてくれ!」
という敦煌文書の叫びは、
壁の割れ目から、王圓籙に届いた。

第16窟の壁の割れ目に気づいた王圓籙は、
菩薩の壁画を壊し、も壊して、封印をといた。
そして、敦煌文書は、“850年の眠り”から覚めた。

――西夏は、第17窟の入口の壁の厚さを、
850年後に、割れ目ができるように、
仕掛けておいた?

敦煌文書は、
20世紀最大の発見
と、学芸員は誇り、
「多方面の研究の対象になりうる大宝庫
と、イギリス人、オーレル・スタインは評価した。
そして、莫高窟は、1987年世界遺産になった。

「“すごい価値”がある」
という熱い“思い入れ”で、
敦煌文書を封印した西夏は、
砂漠の下で、ホッとしているに違いない?
「850年、秘密を守り通した敦煌文書を、
ちゃんと、評価してくれた。ゴミではなかった。
敦煌文書がきっかけで、莫高窟は世界遺産になった。
遠大な計画”だった……だが、ついに、陽の目を見た

「シルクロードを訪れる観光客の大半は日本人です。
敦煌を訪れる観光客の、一番は日本人で、
6割を占めます」
と、中国人ガイドは言う。

シルクロードは、
学校で学んだ歴史
井上靖氏の小説「敦煌」、
NHKのシルクロードの放送
平山郁夫画伯のシルクロードの画集
それに、敦煌文書発見のときもあって、
旅に、駆り立てられ、多くの旅行者が訪れる。


月牙泉(げっかせん)、鳴沙山の頂上から。
遠方には、オアシス都市、敦煌が広がる。
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莫高窟の謎ときは、菩薩が教えてくれた

2009-02-15 02:51:40 | Weblog
敦煌”といえば、
井上靖氏の小説「敦煌」が、思い浮かぶ。

小説「敦煌」では、
敦煌が、いよいよ滅びる時に、
だいじな“経典”を異教徒の西夏(せいか)、
から守るために、莫高窟(ばっこうくつ)に運び入れる。

この経典が、実際の“敦煌文書”と重なる。
敦煌が、敦煌文書を第17窟に、運び入れて、
封印している。
小説「敦煌」のロマンが、
史実を探るきっかけとなった。

懐中電灯で照らしながら、第16窟に入った。

第16窟。国立情報学研究所の「遷画~シルクロード」から。
写真の使用をお願いしたところ、快諾をいただいた。
イギリス人の探検家、オーレル・スタインが撮影 (1907年)。

手前に、積み重ねてある“巻物”が“敦煌文書”。
右端には、第17窟の入口が見える。

中央アジア踏査記」、オーレル・スタイン著、
白水社によると、敦煌文書の量を、
「測ったところ、体積は14立方メートル近くあった」
と、書いている。

このオーレル・スタインの写真で、
敦煌文書は、14立方メートルより少ないから、
第17窟から取り出した一部だと思う。
第16窟に運び出して、並べた。

懐中電灯で照らして、
第16窟の“”と、
第17窟の“入口”を、
交互に、よ~く見た……。

第16窟の壁には、“菩薩”や像が、
連続して描かれている……と、なると、
――封印されていた第17窟の入口の壁にも、
菩薩や像の壁画があったに違いない?

学芸員に確かめると、
「入口にも、壁画がありました」
と、答えてくれた。
――思った通りだ! うれしかったな。
学芸員は、王圓籙(おうえんろく)になったかのように、
100年前の壁の様子を話してくれた。

最初の“”。
――第17窟の入口は、どうして、
長い間、気づかれなかったのだろうか?
それは、入口にも壁画を描いて、
カムフラージュ”したからだった。
第1の謎は、とけた。

もし、入口だけが、ポッカリと“”ければ、
「ここに、第17窟の入口がある」
ということを、悟られてしまう。
第17窟がバレないように、
閉じた入口にも壁画を描いて、
カムフラージュしたのだ……当然のように。

第17窟の入口の壁は、周りの壁と同じように、
厚かったか? それとも、薄かったか?
もう、王圓籙はいないから、わからない……が、
長い間、異常に気づかれない厚さだった。

つぎに、2つ目の“”。
――いつ、敦煌文書を運び入れたか?

壁を塗り固めて“封印”して、
その上に“壁画”を描いている。
――これは、大変な作業だ!
敦煌が、いよいよ滅びるという、
せっぱつまった時に、壁一面に壁画を、
優美に、描いている時間は、なかったはずだ?

「西夏が、敦煌を滅ぼしたのは、1035年です。
敦煌文書を、莫高窟に運び入れたのは、
文物に書かれた日付ほかから推察して、
1054年ころです」
と、教育された学芸員は答えてくれた。

――敦煌文書を運び入れたのは、
敦煌が滅びるとき、ではなかった。
2つ目の謎がとけた。
敦煌文書を運び入れたのは、1054年ころで、
敦煌が滅びて(1035年)から、19年後だった。

そして、3つ目の“”もとけた。
――だれが、敦煌文書を運び入れたのか?
運び入れたのは、西夏だった。

文物に書かれた、最も新しい日付から、
敦煌文書を運び入れた1054年ころは、
敦煌が滅びたあとで、西夏の支配期だった。
敦煌が運び入れたのではなかった。

「西夏は、仏教を信仰していました。
それに、西夏は、莫高窟に献洞して、
仏教美術を遺(のこ)しています。
敦煌文書を異教徒から守るために、
西夏が、莫高窟に運び入れました。
西夏が滅びるのは、1227年です」
と、学芸員は話してくれた。

そして、4つ目の“”。
第16窟の壁一面に、壁画を描いて、
カムフラージュしているが、
――そんな余裕が、あったのか?

1054年ころに、敦煌文書を運び入れてから、
1227年に、西夏が滅びるまで、
173年もあるから、第17窟の入口を、
――カムフラージュするには、十分な時間だ。

西夏が、敦煌文書を第17窟に運び入れて、
入口のを塗り固めて、封印し、
その上に、菩薩の壁画を描いて、
カムフラージュしたのだ。

「敦煌文書は、“すごい価値”がある」
という、西夏の熱い“思い入れ”によって、
1054年ころに運び入れられた敦煌文書は、
1900年に、王圓籙によって発見されるまで、
850年もの間、グッスリと眠ることができた。

莫高窟の、第17窟の“”ときは、
第16窟の“菩薩”が、教えてくれた。
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敦煌文書の大部分は国外に

2009-02-11 06:23:08 | Weblog
莫高窟では、
――第16窟を、この目で見たい。
100年前の大発見、“敦煌文書”を、
発見した人、発見したいきさつ……を、
現地で確認してみたい。

ところが、莫高窟では、見たい石窟を、
自由に見学できるわけではない。
それに、団体旅行だから、個人行動は制限される。

莫高窟の見学は、学芸員が、
あらかじめ決められたルートを案内する。
補修中の石窟や傷んでいる石窟を避けて。

整備・補強された莫高窟。
第16窟は、三層ある一番下にある。

団体旅行は、数人のグループに分けられた。
――どの石窟を見せてくれるのだろうか?
わくわくして、学芸員の後について行くと、
北の端まで行った。最初に案内されたのは、
なんと、第16窟だった。
敦煌文書が見つかった石窟だ。うれしかったな!

第16窟に入った。
懐中電灯で、壁画塑像を、照らし出しながら、
学芸員の説明を聞く。一通りの説明が終わってから、
学芸員に、敦煌文書発見のいきさつを、聞いてみた。

「道教の僧侶、王圓籙(おうえんろく)が、
敦煌文書を発見しました。1900年のことで、
20世紀最大の発見です」
と、学芸員は、誇らしげである。

「荒れていた莫高窟に、たどり着いた王圓籙は、
積もる流砂を掃除し、修復をしていました」

「王圓籙の弟子が、第16窟のの割れ目に、
気がつきました。王圓籙と壁を壊すと、
小部屋が現れました。第17窟です。
中には、経典写本古文書絵画などの巻物や束が、
うず高く積まれて、3メートルに達していました」

「価値のある経典や古文書、絵画から、
売買契約書や食堂のメニューまで、
4万点の文物がありました」

中央アジア踏査記」、オーレル・スタイン著、
白水社やフリー百科事典Wikipediaによると、
王圓籙は、敦煌文書の発見を地方官に伝えたが、
地方官は、敦煌文書の価値がわからず、
しかも、運ぶ資金も莫大だったために、
そのまま保管し、監視するように指示した。

「外国人によって、
大部分の敦煌文書が、
国外に持ち去られました
と、学芸員は残念そうである。

1907年に、イギリス人の探検家スタインが、
1万点を、馬蹄の銀貨と交換に、持ち帰りました」

1908年には、フランス人の探検家ペリオが、
中国語が堪能であることから、写本、文書など、
価値のある6千点を選んで、持ち帰りました」

ロシア隊は、1万点を持ち帰りました。
日本隊も、1千点を持ち帰りました」
これは、日本人には伝えなければならないようだ。

「現在、中国には1万点しか残されていません。
アメリカ隊は、莫高窟の壁画をはがし取りました。
それに、仏像まで持ち帰りました」

オーレル・スタインによると、古文書が24箱、
美術品が5箱……1万点の敦煌文書を、
大英博物館に運び入れて、調査をはじめた。
ほかの国でも調査、研究が進み、
敦煌学”という学問分野までに発展した。

1900年敦煌文書の発見がきっかけで、
莫高窟の仏教美術の価値が評価されて、
莫高窟は、1987年世界遺産になった。
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王圓ろくによる100年前の大発見、敦煌文書

2009-02-08 06:11:12 | Weblog
シルクロードの旅で、敦煌莫高窟は、
メインの観光スポットである。

莫高窟には、4世紀から14世紀まで、
1千年間の壁画や塑像の仏教美術があって、
砂漠の大画廊”といわれる。

しかし、14世紀以降の莫高窟は、
風に侵食され、砂に埋もれ、
荒れるがままになっていた。

莫高窟。イギリス人の探検家、オーレル・スタインが撮影(1907年)。
写真は、国立情報学研究所の「遷画~シルクロード」から。
写真の使用をお願いしたところ、快諾をいただいた。

莫高窟は、地域住民の信仰の場ではあったが、
石窟の仏教美術は、まったく荒廃していた。
文化財としては、忘れ去られていた。

その莫高窟が、世界から見直される、
きっかけ”となったのは、“100年前”に、
道教の僧侶、“王圓籙”(おうえんろく)が、
経典や古文書、絵画の“敦煌文書”を、
発見したからである。

敦煌文書を発見した王圓籙。
オーレル・スタインが撮影(1907年)。
写真は、国立情報学研究所の「遷画~シルクロード」から。

王圓籙が、第16窟の壁を壊してみると、
小部屋が現れて(第17窟)、中には、
文物がうず高く積まれていた(1900年)。
20世紀最大の発見、“敦煌文書”である。

この敦煌文書が、世界に知られることになって、
莫高窟の仏教美術も、評価されることになる。
1987年に、莫高窟世界遺産になった。

中央アジア踏査記」、オーレル・スタイン著、
白水社には、イギリス人の探検家、スタインが、
敦煌文書を、王圓籙から入手する“いきさつ”を、
書いている。スタインは1862年生、1943年没。

それによると、スタインは、
敦煌で、膨大な“古代文書”が発見された、
という“うわさ”を聞いて、莫高窟に行き、
王圓籙に会った(1907年)。

敦煌文書を発見し、管理している王圓籙は、
最初は警戒して、第17窟の扉を開けなかった。

王圓籙が、玄奘三蔵を熱心に崇拝していることを、
知ったスタインは、自身も玄奘三蔵への思慕から、
足跡を追って、インドから山岳と砂漠の難路を、
越えてきたことを話して、王圓籙の心を動かした。

ついに、第17窟の扉が開けられて、スタインは、
うず高く積まれた巻物を見た……敦煌文書である。

敦煌文書の通覧を許されたスタインは、
「多方面の研究の対象になりうる大宝庫
と、敦煌文書の重要性がわかった。

そして、王圓籙から、
4万点の敦煌文書のうち、1万点を、
馬蹄銀貨で買って、イギリスへ持ち帰る……。

シルクロードの旅、莫高窟では、
――第16窟を、この目で見たい。
100年前の大発見、“敦煌文書”を、
発見した人、発見したいきさつ……を、
現地で確かめてみたい。


現代の莫高窟。
第96窟の楼閣の前。近くに、平山郁夫画伯の石碑がある。
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莫高窟の文化財保護に、日本人の貢献

2009-02-04 03:07:15 | Weblog
平山郁夫画伯は、他国の文化・芸術であっても、
その価値を認めて、文化財の保護のために、
資金援助をし、世界遺産登録の支援をしている。
と、書いた。

シルクロードの旅、
敦煌(とんこう)の莫高窟(ばっこうくつ)で、
平山郁夫画伯の“石碑”と“看板”を見た。
莫高窟の文化財の保護、および、
研究者を育成するための奨学金に、
大きな貢献があったことを、
称えるものである。

シルクロードの旅で、敦煌の莫高窟は、
メインの観光スポット。莫高窟は、世界遺産である。

敦煌の郊外にある莫高窟には、
4世紀から14世紀まで、1千年間の、
壁画や塑像の仏教美術があって、
砂漠の大画廊”といわれている。

平山郁夫画伯の、
看板”は、その莫高窟の入口の近くに、
石碑”は、莫高窟、第96窟の前の広場にあった。

中央が平山画伯の“石碑”。
後方の朱色の楼閣が、第96窟で、
中には、莫高窟で最大の大仏がある。

平山画伯の石碑は、“中国語”で刻まれていた。
「日中友好協会会長で、
敦煌研究院の名誉研究員の、
平山郁夫先生は、
敦煌文物の保護のために設立する、
文化財保護振興財団、および、
研究者育成の奨学金制度に、
1989年、2億円を寄付されました。
これを称えて、記念します」
という趣旨に、読めた。

――いいものは、保存しよう、としている。
たとえ、それが外国の文化財であっても。
それに、2億円は、物価水準を考えれば、
10倍以上の価値はあるから、文化財保護に、
大きな貢献になったに違いない。

この平山画伯の石碑は、見落としがちである。
どうしても、莫高窟の石窟の見学に夢中で、
外にある平山画伯の石碑まで、気が回らない。

団体旅行は、石窟の見学が終わると、
みやげものやに直行する。それから、
バスに乗るから、石碑は、その間に見る。


もう一つ、平山画伯の“看板”は、
莫高窟の入口の近くにある。
バスから降りて、莫高窟に向かうと、
沖縄の首里城の“守礼の門”のような、
この門(石室寶藏)が、目に入ってくる。

――ついに、莫高窟にきた!
と、わくわくして、門をバックに写真を撮り、
「早く、莫高窟を見たい!」
と、心はせいて、吸い込まれるように、
門をくぐって、莫高窟の入口に向かう。

この門の手前の右に、“看板”はあるのだが、
看板は、どうしても、見落としがちである。
それに、看板には、顔写真はあるが、
日本語の説明はない。

幅85センチ、高さ1.2メートルほどの、
3枚の看板があるから、近寄ると、
平山郁夫画伯
日本大学の学生の越智佳織さん
池田大作創価学会名誉会長であった。

池田大作創価学会名誉会長の看板には、顔写真と、
“中国語”と“英語”の説明がある。英語を読むと、
「撮影・録画機材一式、フィールド調査用の車両6台、
それに、1千万円を寄贈された」とある。

越智佳織さんの看板には、
「“重要な古代遺跡が、日々荒れていくのは残念で、
人類の宝を保存することができたら、
どんなに、嬉しいでしょう”と、
中国へ留学することを決めていた。
しかし、不幸にも敦煌で、交通事故で亡くなった。
遺志を継いだ両親が、留学のために準備していた、
200万円を寄贈された」とある。

そして、平山郁夫画伯の看板には、
「2千万円を寄贈された」とある。
ほかに、敦煌郊外の小学校の校舎建設のために、
400万円を寄付した。これを記念して、
平山郁夫校舎”と名づけられている。

これは、2008年に発売の、
日中平和友好条約30周年記念切手”である。
上段の4枚は、平山郁夫画伯の絵を原画とした切手。
中段の2枚は、森田基冶さん(切手デザイナー)、
下段の4枚は、王 伝峰さん(中国画家)、によるデザイン。

莫高窟の保護には、日本政府からも援助があった。
荒れるがままの莫高窟の、大規模な整備・補強に、
4億円を援助している。

整備され、観光客が訪れる莫高窟、敦煌。

敦煌石窟文物保護研究陳列センター」を、
日中両国の協力により10億円で設立している(1994年)。
敦煌の文化財の保護に、日本は多くの援助をしている。

敦煌空港は、日本の政府開発援助ODAによって、
建設された(外務省のホームページに記載がある)。

敦煌空港。夕方、西安から到着した。

西安や北京から、砂漠のオアシス都市、敦煌まで、
2~3時間で直行するから、便利である。
シルクロードの旅では、利用することになる。

日本人は、他国の芸術・文化であっても、
「いいものは、いい。保存しよう」
と、価値を評価して、
文化財の保護に、大いに貢献している。

敦煌へ行ったなら、
世界遺産、莫高窟のすばらしい、文化財と、
その文化財の保護に貢献した、日本人に会える。
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世界遺産を遺すユネスコは心が貧乏ではない

2009-02-01 07:09:09 | Weblog
「“ドゥッガDougga”の中心は、キャピトルです」
と、チュニジア人のガイドは言う。
「キャピトルの周りには、公共広場フォーラムがあり、
奴隷市場があります。そして、キャピトルから、
石畳の道路が四方に延びています」

公共広場フォーラムから見たキャピトル。
公共広場には、円柱の土台、“柱基”が並んでいる。
――この円柱が建っている公共広場は、
さぞかし、リッパだったに違いない。

キャピトルの円柱には、
縦の“溝(フルーティング)”が走る。
柱頭”には、“アカンサス(アザミの葉)”が、
広がるようにデザインされている。
――“コリント式の円柱”を、
眺められるだけで、うれしくなる。

キャピトルの三角形の屋根の下の、
「破風に、のレリーフが見えるでしょう?
わしが皇帝を乗せて、不死の世界へ飛んでいく」
と、ガイドから言われると、
――皇帝が乗っているように見える。
皇帝の究極の願いは、不死?


「ドゥッガは土に埋もれて、上に民家があった。
フランスの考古学者が、発掘したのは100年前で、
世界遺産に登録されたのは1997年です」
と、ガイドは言う。

ローマ”の遺跡を、“フランス人”が発掘して、
世界遺産”となり、“世界の人”が見にくる。

ドゥッガは4世紀に最も栄え、
ローマ帝国衰亡とともに衰退し、
1899年に発掘されるまで、
1,600年も忘れ去られた。

このような、花の下にドゥッガは、眠っていたのだろう。
後方はドゥッガの遺跡。

ガイドの1時間の説明が終わった。
ガイド料を払ってから、もう1度回った。
――ドゥッガを、もっと見たい。
文化・芸術は、人を引きつける。

しかし、こんなにスゴイ文化・芸術が、
どうして、忘れ去られたのだろうか?
1,600年たっても、見ごたえのある造形美だが。
――文化・芸術の“寿命”は、何年だろう?
栄華を誇り、天国のような都市だったのだが。

源氏物語”は、1千年たっても、
忘れられることはない。それに、
源氏物語絵巻”を、復元している。
原画は、はく落したり、色があせたりしていたが、
最新の科学技術と現代の画家の技によって、
平成版、19図がよみがえっている。

「源氏物語」一千年紀記念切手。2008年に発売。
――文学は寿命が長い。

イタリアのポンペイの街は、
ヴェスヴィオ火山の噴火によって、埋もれた。
自然の猛威”は、“文化・芸術”を破壊することがある。

でも、ドゥッガは、自然の猛威で埋もれたわけではない。
人は、“民族”が違うと、
文化・芸術の価値が違ってくる。
そして、他民族の文化・芸術は、
廃(すた)る、“破壊”する。

あるいは、
人は、“貧乏”になると、
文化・芸術どころでは、なくなる。
そして、生活優先で、文化・芸術は、
荒れるがまま”にする、“盗掘”する。

文化・芸術を破壊したり、
荒れるがままにするのはヤメよう。
人類が共有すべき「顕著な普遍的価値」は、
遺(のこ)そうとする“世界遺産”は、
他民族の文化・芸術でも、価値を認めている。

平山郁夫画伯は、他国の文化・芸術であっても、
その価値を認めて、文化財の保護のために、
資金援助をし、世界遺産登録の支援をしている。

人類の歴史の中で、
いまが豊かで、争いが少ないとき。
だから、他民族の文化・芸術の価値も、
評価する余裕ができてきた。
そして、世界遺産には、世界の人が集まってくる。

文化・芸術を軽んじるときは、
戦争のとき。貧乏のとき、までも。

そして、ユネスコUNESCOは、
世界遺産を制定した。
人類の創造的な傑作”を遺そうとする、
ユネスコは、が豊かだ、貧乏ではない。
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