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『十二夜』(読書メモ)

シェイクスピア(安西徹雄訳)『十二夜』光文社

男性に変装した美しいヴァイオラが、仕えている領主に恋をするが、その領主は別の貴族の娘に求婚しており、その貴族の娘がヴァイオラに恋をするという喜劇である。

この物語の中で存在感があるのが、フェステという道化役。いたるところでふざけるのだが、ときどき鋭い言葉を放つ。

「だって、仕立て直した物はなんであろうと、つぎを当ててるだけだもんね。つまりは、だ、美徳が罪を犯したら、そりゃ罪のつぎを当てただけのこと。罪だって仕立て直せば、美徳のつぎを当てたというだけ」(p.36)

「いやはや、今の世ン中、お利口なお方のお口にかかりゃあ、どんな立派な文章も、まるで伸縮自在のキッドの手袋、たちまち裏返しにされちまうんだもの」(p.103)

物語としては、めでたしめでたしで終わるのだが、この道化が不吉な歌を歌うところでエンディングとなる。そこが気になった。

訳者の安西徹雄さんによれば、

「『十二夜』は、まさしくこれらの喜劇群の総決算であり、集大成した作品であって、この「解題」で分析した幻想や意識の問題も、こうしたプロセスの集積した、最後の到達の相だったのだ。新しい世紀に移るのと時を同じくして、シェイクスピアの作風も一変する。喜劇時代は終わり、続々と悲劇の連作される時代に突入するのだ。そしてその時、喜劇時代に発酵し、醸成していた暗い要素が、一気に顕在化するのである」(p.226-227)

『十二夜』は、シェイクスピアの中で大きな変化が起きた転換点となる作品だったようだ。

ピカソも時代によって作風を変えていったが、シェイクスピアにもモードがあったのは知らなかった。われわれの人生も、振り返ってみたら「~の時代」という区分けができるのかもしれない。



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