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『この人を見よ』(読書メモ)

ニーチェ『この人を見よ』(手塚富雄訳)岩波文庫

ニーチェが狂気の世界に入る前に書きあげた最後の著書である。まずびっくりするのは、はじめの3章のタイトル。

・なぜわたしはこんなに賢明なのか
・なぜわたしはこんなに利発なのか
・なぜわたしはこんなによい本を書くのか

かなり変な人である。しかし、さすが天才ニーチェだけあって、その内容にぐいぐい引き込まれた。

牧師の息子であるのに(あるいは牧師の息子であるがゆえに)キリスト教が大嫌いなニーチェは、神に寄り頼む生き方、理想主義、隣人愛を否定する。

なぜか?

それらが「我欲」「自然な本能」を否定し、「自己を喪失する」ことにつながる(と彼が考えた)からである。この本でニーチェが強調するのは「わたし自身への復帰」(p.128)「わたしになること」(p.197)である。

ニーチェは言う。

「われわれはしっかりと自己の上に腰をすえ、毅然として自分の両脚で立たなければ、愛するということはできるものではないのだ」(p.95)

ただ、ニーチェが否定しているのは、人々を支配し縛りつけてきたキリスト教会や宗教指導者層であるような気がした。なぜなら、本書の序で、次のように述べているからだ。

「『一切の価値の転換』の第1巻、『ツァラストゥラ』の緒歌、『偶像のたそがれ』(鉄槌で哲学しようとするわたしの試み)―これらはすべて、この一年に、しかもその最後の三カ月にわたしに贈られた贈り物なのだ!」(p.15)

神を信じない者が自分の業績を「贈り物なのだ」とは言わないだろう。また、本書のいたるところに「わたしの使命」という言葉が出てくる。

ニーチェがいう「自分自身になること」とは、西田幾多郎のいう「個人性(個性のようなもの)」に近いだろう。西田は、個人性を持っているだけでは不十分であり、社会や神を意識しなければならないと言っている点で、ニーチェよりスケールが大きいと思った。

「大いなるのもを信じること」と「自分に帰る、自分自身になること」は必ずしも矛盾するものではなく、両者を統一することが大切になる、と感じた。


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