暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

三つの春草廬

2009年09月12日 | 三溪園&茶会
大銀杏が色づく十一月に春草廬で茶会を計画中です。
それで、「春草廬」についていろいろ調べています。
すると、三つの茶室「春草廬」があることがわかりました。

 ①横浜三渓園の茶室(重要文化財)
 ②宇治にある福寿園の茶室、
 ③東京国立博物館にある茶室 

第一の春草廬は、宇治の三室戸寺金蔵院から月華殿と共に
三渓園へ移築された春草廬です。
かつて九窓亭(くそうてい)と呼ばれていましたが、
原三渓は白雲邸に付随して再築し、「春草廬(しゅんそうろ)」
と名付けました。

宇治から三渓園へ移築した際に、三渓は月華殿と春草廬の写しを作り、
金蔵院へ残してきたそうです。
福寿園・宇治工房の茶室案内に次のことが書かれていました。

 「福寿園茶室 春草廬」
  宇治・三室戸寺金蔵院にあった茶室「春草廬」。
  現在は横浜の三渓園に移築され、重要文化財にも指定されている
  この名茶室を、再び宇治の地によみがえらせました。
  春草廬は大小九つもの窓をもち、その間取りとともに
  特徴ある雰囲気を際立たせています。

福寿園茶室「春草廬」は、金蔵院に作られた写しそのものなのでしょうか?
それとも別のコンセプトで新に建てられた茶室なのでしょうか?
今、福寿園さんへお尋ねしているところです。

三つ目は、東京国立博物館にある「春草廬」です。
東京国立博物館のHPには次のように記されていました。

  江戸時代、河村瑞賢が摂津淀川改修工事の際に建てた休憩所で、
  その後大阪へ、さらに原三渓によって横浜の三渓園に移され、
  昭和12年に埼玉県所沢市にある松永安左エ門(耳庵)の
  柳瀬荘内に移築されました。

  昭和23年に柳瀬荘が当館に寄贈され、昭和34年に春草廬は
  現在の位置に移されました。
  入母屋(いりもや)の妻に掲げられた「春草廬」の扁額は、
  能書家として知られる曼殊院良尚法親王の筆で、
  三渓が耳庵に贈ったそうです。

       

三つの春草廬、全て原三渓が関わっていることがわかってきました。
でも、まだ謎(疑問)がすべて解けたわけではありません・・・。

写真は、「三渓園・春草廬のにじり口と窓」と
     「東京国立博物館(写真提供)の春草廬」
                                 

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