蓮華院の広間は六畳、一間の床と半間の琵琶床があります。
三溪が茶会を催した際にこの琵琶床に、
奈良東大寺三月堂の不空羂索観音が手に持っていた蓮華を飾ったそうで、
蓮華院という名前の由来になっています。
今度の茶会で、床の軸は決まっていますが、琵琶床に何を飾るのか?
難しくも楽しみな宿題ができました。
六畳(京畳)の広間はとても簡素な造りですが、二席だけなので
ゆったりとくつろいで頂けるお席になれば・・・とあれこれ思いが巡ります。
次に小間へ入りました。
松の杢板を入れた二畳中板の茶室で、逆勝手向切でした。
三渓翁は、難しい(私にとって)逆勝手向切で茶を点て、おもてなしをしたのかしら!
とびっくりです。
壁床の詫びた茶室ですが、点前座の窓が大きく開かれて明るく、
お点前はしやすそうですね。
秋の茶会ではもったいなくも袴付に使わせていただきます。
そして、この小間こそが、大正6年12月23日、新築の蓮華院において
初茶会を行った茶室です。
茶会の正客は益田鈍翁、次客は高橋箒庵、三客は岩原謙庵、詰は梅沢鶴叟でした。
高橋箒庵は「東都茶会記」に三渓50歳にして初陣を飾った茶会の様子を記しています。
茶道誌「淡交」平成5年6月号の掲載から一部抜粋し、
当時の様子を想像してみましょう。
新席は二畳中板向切で、逆勝手という侘び造り。
その壁床の一軸を仰視したとき、箒庵は瞠目する。
足利二代将軍足利義詮筆になる達磨図で、題讃は同じく三代将軍義満の筆という珍品。
それも、衣紋や顔面など鋭く二、三線で、サッと活写するという極度の減筆法ながら
それがかえって一入画幅に禅味を加えている。
紺地大模様の上代紗の表装も上々の出来である。
釜は芦屋の広口、大徳寺青巌和尚鐘愛の品で、
箱書に孤陋庵(ころうあん)常什の文字がみえる。
・・・(中略)・・・
道具組は次の通り。
茶入 金輪寺棗 茶碗 バビロン古窯
茶杓 佐久間将監作 建水 木地曲
水指 鈍阿焼 空中写臼形 蓋置 青竹引切
道具組の中に、「水指 鈍阿焼(どんなやき) 空中写臼形」とあり、
これは益田鈍翁から贈られたもので、焼き上がりが整い過ぎていたので、
鈍翁は一槌をもって口辺の一部をわざと欠いたという。
もう一つ、「茶碗 バビロン古窯」は三渓翁の面目躍如というところでしょうか。
「どんな茶碗? どんな来歴の持ち主?」とワクワクし、興味はつきません。
三溪は大正6年~昭和14年まで自ら催した茶会について日付、客、道具立を記し、
「一槌庵茶会記」(横浜三溪園蔵)として残しています。
「一槌庵」とは上記のエピソードから蓮華院の小間らしいのですが、
まだ確証はありません。
「一槌庵茶会記」を拝読して三渓翁の茶の湯を垣間見たい・・と思い、
今許可を願い出ています。
(その1へ) (その3へ)
三溪が茶会を催した際にこの琵琶床に、
奈良東大寺三月堂の不空羂索観音が手に持っていた蓮華を飾ったそうで、
蓮華院という名前の由来になっています。
今度の茶会で、床の軸は決まっていますが、琵琶床に何を飾るのか?
難しくも楽しみな宿題ができました。
六畳(京畳)の広間はとても簡素な造りですが、二席だけなので
ゆったりとくつろいで頂けるお席になれば・・・とあれこれ思いが巡ります。
次に小間へ入りました。
松の杢板を入れた二畳中板の茶室で、逆勝手向切でした。
三渓翁は、難しい(私にとって)逆勝手向切で茶を点て、おもてなしをしたのかしら!
とびっくりです。
壁床の詫びた茶室ですが、点前座の窓が大きく開かれて明るく、
お点前はしやすそうですね。
秋の茶会ではもったいなくも袴付に使わせていただきます。
そして、この小間こそが、大正6年12月23日、新築の蓮華院において
初茶会を行った茶室です。
茶会の正客は益田鈍翁、次客は高橋箒庵、三客は岩原謙庵、詰は梅沢鶴叟でした。
高橋箒庵は「東都茶会記」に三渓50歳にして初陣を飾った茶会の様子を記しています。
茶道誌「淡交」平成5年6月号の掲載から一部抜粋し、
当時の様子を想像してみましょう。
新席は二畳中板向切で、逆勝手という侘び造り。
その壁床の一軸を仰視したとき、箒庵は瞠目する。
足利二代将軍足利義詮筆になる達磨図で、題讃は同じく三代将軍義満の筆という珍品。
それも、衣紋や顔面など鋭く二、三線で、サッと活写するという極度の減筆法ながら
それがかえって一入画幅に禅味を加えている。
紺地大模様の上代紗の表装も上々の出来である。
釜は芦屋の広口、大徳寺青巌和尚鐘愛の品で、
箱書に孤陋庵(ころうあん)常什の文字がみえる。
・・・(中略)・・・
道具組は次の通り。
茶入 金輪寺棗 茶碗 バビロン古窯
茶杓 佐久間将監作 建水 木地曲
水指 鈍阿焼 空中写臼形 蓋置 青竹引切
道具組の中に、「水指 鈍阿焼(どんなやき) 空中写臼形」とあり、
これは益田鈍翁から贈られたもので、焼き上がりが整い過ぎていたので、
鈍翁は一槌をもって口辺の一部をわざと欠いたという。
もう一つ、「茶碗 バビロン古窯」は三渓翁の面目躍如というところでしょうか。
「どんな茶碗? どんな来歴の持ち主?」とワクワクし、興味はつきません。
三溪は大正6年~昭和14年まで自ら催した茶会について日付、客、道具立を記し、
「一槌庵茶会記」(横浜三溪園蔵)として残しています。
「一槌庵」とは上記のエピソードから蓮華院の小間らしいのですが、
まだ確証はありません。
「一槌庵茶会記」を拝読して三渓翁の茶の湯を垣間見たい・・と思い、
今許可を願い出ています。
(その1へ) (その3へ)
バビロン茶碗
東都茶会記
『如何にして手に入れられし者なるやを知らざれども。見込みにペルシャ風の模様を見せ、その形の茶碗として無理ならぬ所あるが嬉しかりき。』
吾の不確かな記憶
三溪の息が米国留学のおりに入手した。と書かれた本を読んだような気が。。。
参考
奈良東大寺三月堂は二月堂かも。
いろいろご教示頂き、ありがとうございます。
なんせ不確かなことばかりですが、このようにコメントを頂戴すると、
少し霧が晴れる心地がします。
一方、霧の中もあれこれと想像の余地があって大好きです・・・。