暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

能「楊貴妃」を観て・・・

2017年09月28日 | 歌舞伎・能など
              
                   (写真が無いので、写真は京都・智積院にて)

平成29年9月18日(月・祭)、横浜能楽堂で能「楊貴妃」を観ました。

筝曲山田流の祖・山田検校(宝暦7年・1757年~文化14年・1817年)の没後200年を記念した公演です。
「芸の縁 山田流と宝生流」
  新作・筝曲「小町」      萩岡松韻  舞:宝生和英
     筝曲「長恨歌曲」    (山田流) 山勢松韻
     能 「楊貴妃 玉簾」  (宝生流) 武田孝史


筝曲などめったに聞く機会を持たぬ門外漢ですが、能を観るのは好きでして時々ノコノコ出かけていきます。
・・・そして能を観ていると、なぜかしきりにお茶やお茶事のことが思われます

橋がかりから舞台へ出てくるときの足の運び、足裏が鏡板に吸い付くような白足袋の動きに魅せられ・・・頭の片隅で茶の点前での足運びを思います。
抑制された動き、90度身体を動かすだけなのに気が遠くなるほど時間を掛ける所作、
さらに言えば、能における高度な演技表現は動かぬことである・・・らしいのです。

無駄な所作を省いたシンプルな点前、シンプルゆえに動きでごまかさず如何に美しくあるべきか・・などと、ついお茶の妄想が・・・。
能とお茶、能は私にとって普段気づかぬことを気づかせてくれ、眠っていた感性を揺さぶり起してくれる、そんな存在になりつつあります。

               


能「楊貴妃 玉簾」(金春禅竹作)は、はじめて観る演目でした。
最初に布で覆われた作り物(小宮・蓬莱宮)がゆっくりと運び出され、舞台中央に置かれます。
・・・もちろん、中に楊貴妃(シテ)が潜んでいるのですが、この演出に先ずドキドキしました。
いつ、どのように楊貴妃が登場するのでしょうか。
楊貴妃と言えば絶世の美女、その瞬間を待ち遠しい思いにて、ひたすら待つのみです。

あらすじをパンフより記します。

玄宗皇帝に仕える方士は、勅命で今は亡き楊貴妃の魂のありかを探しに。常世の国の蓬莱宮へ赴く。
現れた楊貴妃に、方士は玄宗皇帝の悲嘆する様子を伝え、会った証として形見の品を請う。
楊貴妃が釵(かんざし)を取り出すと、方士は二人にしか分からない契りの言葉が聞きたいと頼む。
楊貴妃は、かつて七夕の夜に玄宗皇帝と二人で
「天にあっては比翼の鳥のように、地にあっては連理の枝のようにありましょう」と誓い合った言葉を方士に伝え、思い出の「霓裳羽衣の曲」(げいしょうはごろも)を舞う。
やがて方士は都へ戻り、楊貴妃は涙ながらに蓬莱宮にとどまるのでした。


比翼の鳥・・・雌雄がおのおの一つの目と一つの翼をもち、常に雌雄一体となって飛ぶという、伝説の鳥。
 連理の枝・・・一本の木の枝が他の木の枝と連なり、木目が通じ合っているという枝。)



              

待ちに待った楊貴妃が姿を現す場面になりました。

楊貴妃の魂を探し求めて、方士が常世の国の蓬莱宮に行ってみると、中から女性の声がします。
「昔はあの方と一緒に見た、春の花。しかし世の中は移り変わるもの。今では一人で、秋の月を眺めるばかり…。」
方士が玄宗の使者であることを述べると、玉の簾が上がり、一人の貴婦人が姿を見せます。声の主は、捜し求めていた楊貴妃その人でした。


ロビーに張り出されたシテの面は「節木増(ふしきぞう)」。
面の名前も初めてでしたが、憂いに満ちた楊貴妃の魅力を表わすのに相応しく、面の力は偉大です。
なんせ、作り物を覆っていた布が取り外されても、蔓帯が垂らされた蓬莱宮の奥深くに静かに(動かず)座っている楊貴妃、なかなか御姿が見えない(見えにくい)のもにくい演出でした。

玄宗皇帝との誓いの言葉を会った証として、去ろうとする方士を呼び止める楊貴妃。
華やかな宮廷生活を思い出し、かつて玄宗皇帝の前で舞った「霓裳羽衣の曲」を方士の前で舞うのですが、優雅に舞う楊貴妃が次第に・・・鬼界島に一人取り残される「俊寛」に見えてきたのでした。

              


低いけれどはっきりと聞こえる地謡が、楊貴妃の深い闇を照らしだして能は終わります。

   君にハこの世逢い見ん事も逢が島つ鳥 浮世なれども戀しや昔 
   はかなや別れの蓬莱の臺(うてな)に 伏し沈みてぞ 留まりける
 

おみやげに名菓「鏡板」(諸江屋製)を買いました。