暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

名護屋城址に立って

2010年05月31日 | 2010年の旅
5月の連休に長崎県平戸に続いて唐津市鎮西町にある
名護屋城址を訪ねました。

名護屋城址へ行きたかった訳がありました。
黒澤明監督作品「乱」の最後のシーン。

時は戦国時代、
命と引き換えに目をつぶされた青年・鶴丸は
姉・末の方が殺されたことを知らずに、
かつて姉弟が育ち、今は滅ぼされ廃城になった城跡に
一人佇んで、来ることのない姉を待っています・・・
・・無常感漂う秀逸な終幕でした。

撮影場所は名護屋城。確か?パンフに書かれていました。
それ以来、この名場面が撮影された名護屋城址へ立ってみたい・・
と思っていたのです。
黒澤映画ファンの主人も全く同じことを考えていたようです。
今回の旅で、二人にとって念願の名護屋城址に立ったのでした。 

16世紀末、中国、朝鮮半島侵略を図った豊臣秀吉は、
文禄・慶長の役(1592-1598)を起しました。
侵攻軍の本拠地として名護屋城が築かれ、周囲には
全国から馳せ参じた大名たちの陣地がひしめき合い、
その数は16万人とも言われています。
今でもその遺構があり、当時の様子を想像する事が出来ます。

            

慶長3年(1598年)秀吉の死によりやっと終結した朝鮮侵略の実態を
私はほとんど知りませんでした。
偶然手にした名護屋城博物館の資料
「「朝鮮日々日記」に見る慶長の役」を読んで、
朝鮮侵略の際に起こった現地の悲惨な様子を知り、
ショックを受けました。

「朝鮮日々日記」は慶長の役に従軍医僧として朝鮮へ渡った
臼杵安養寺の僧・慶念が書いた日記です。

  慶長2年(1597年)の南原城の戦闘で1万人の町が壊滅し、
  城内はもとより城外を見ても死人の山で、目もあてられぬ気色だったと
  殺戮の凄さ、戦闘の激しさを記していました。

  さらに日本からきた商人による人身売買が横行し、老若男女区別なく
  買い取って、縄で首をくくり集め、先へ追いたて打ちつけるさまは
  罪人を責めるよりもひどい有様であった・・と記しています。
  たくさんの人達が奴隷として日本へ連行されたのでした。

  日本で恩賞を得るため、戦功の証として鼻をそいで持ち帰ったそうです。
  そのため戦闘に関係ない子供の鼻切りまで横行したと記し、
  人間の恐ろしいまでの貪欲さを伝えています。

            
            


以前、韓国へ何度か仕事で行った折、韓国の共同研究者の方に
壬辰倭乱(文禄の役)や丁酉再乱(慶長の役)の犠牲者を弔う碑や、
朝鮮水軍を率いた李舜臣将軍の像へ案内されたことがありました。
今になってそこへ連れて行かれた意味がやっとわかった気がします。

いつ誰が祀ったのでしょうか?
草が伸び始めた城址に忘れられたように石仏がありました。
私は今、新たな気持ちで韓国へ行ってみたいと思い始めています。

                        

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      写真は「名護屋城址の石仏」「天守台を望む」
           「天守台の石碑」「草に埋もれた石仏」