暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

平戸 「コルネリヤの塔」

2010年05月09日 | 2010年の旅
平戸で見所の一つは、カトリック平戸教会(平戸ザビエル記念聖堂)と
そこからの平戸湾、平戸城の眺望です。

教会の横には十字架ならぬ古びた墓石が並ぶ広い墓所があり、
そこは平戸藩重臣の熊澤家墓所で、不思議な空間でした。
教会と寺院が重なり合うように並ぶ坂道は
西洋と東洋が混在する平戸ならではの魅力的な景観です。

坂を下りていくと瑞雲寺の門脇に「コルネリヤ供養塔」と
刻まれた石碑を見つけました。
境内にある層塔は、追放された混血児の一人コルネリヤが
オランダ商館長であった父の菩提を弔いたいという願いにより、
1682年(天和2年)に判田家が本成寺に建てた供養塔です。
今は瑞雲寺に移され保存されています。

               

コショロのジャガタラ文を前回(5月7日付)紹介しましたが、
遠い異国の地で彼女たちはどんな人生を送ったのでしょうか?

二通のジャガタラ文と「コルネリヤの塔」が平戸に残されている
コルネリアは、オランダ商館第五代館長ナイエンローデを父に
スリシヤ(洗礼名)を母に1629年(寛永6年)に生まれました。

ナイエンローデは十年間平戸に勤務し、1633年(寛永10年)に亡くなりました。
初めにトケシヨ(洗礼名)という日本婦人と結婚して一女エステルを儲け、
後にスリシヤと結婚してコルネリヤが生まれたのです。
母スリシヤはナイエンローデ死後に判田五右衛門に嫁ぎ、
コルネリヤはオランダ商館に引き取られて育ったそうです。

1639年(寛永16年)、10歳のコルネリヤは異母姉エステルとともに
バタビア(現ジャカルタ)へ追放されましたが、母は日本に残りました。
父の遺産で、コルネリヤはバタビアの孤児院でなに不自由なく育ち、
20歳頃に東インド会社の社員ピーテル・クノルと結婚しました。
十一人の子供に恵まれ、裕福に暮らしていたそうです。

しかし、平戸に残った母への想いは忘れがたく、
子を抱いた自分の木像を母の嫁ぎ先の判田家へ送ったといいます。
ジャガタラ文の一通は、夫クノル(文にはコノル)との連名で書かれていて、
判田五右衛門夫妻や乳母へ、樟脳や更紗などの布を贈っています。

            

夫クノルの死後、コルネリヤは東インド会社社員ビターと再婚しますが、
財産を浪費され、子供たちにも次々と先立たれ、
1692年に63歳で亡くなりました。

幸せだったクノル一家を描いた一枚の絵が残されていました。
黒いドレスの美しい婦人がコルネリヤです。

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   写真は、「教会と寺が並ぶ坂道」「コルネリアの塔」
         「クノル一家の絵」