暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

平戸 「ジャガタラ文」

2010年05月06日 | 2010年の旅
風薫る五月の連休に長崎県平戸へ出かけました。

平戸は16世紀中頃から戦国大名松浦氏によって
ポルトガル、スペインとの貿易が行われ、
西欧文化導入の最初の窓口となったところです。

1549年(天文18年)に鹿児島に上陸し、キリスト教を布教した
フランシスコ・ザビエルは1550年に1ヶ月ほど平戸に滞在して
布教活動を行った後、山口を経て京都へ向っています。

17世紀初頭の平戸はオランダやイギリスとの貿易拠点として
「西の都」と謳われるほど繁栄しました。
しかし、1641年(寛永18年)に江戸幕府の鎖国とキリスト教禁令により
貿易拠点が平戸から長崎出島へ移されることになったのです。

                         

1639年(寛永16年)平戸オランダ商館閉鎖の直前に
長崎や平戸にいたオランダ・イギリス系の混血児とその母、
姻戚に係わる者を捜索し、四十数名が平戸から船に乗せられ、
バタビア(今のジャカルタ)へ追放されました。
その後、寛文年間(1660年代)になって通信が許され、故郷の人々へ
送られてきた郷愁の思いを綴った手紙がジャガタラ文です。

平戸に残るジャガタラ文は、
コルネリヤのもの二通、コショロのもの一通、フクのもの一通、
計四通が伝えられています。

               

コショロのジャガタラ文が松浦史料博物館に展示されていました。
六寸四分の小袱紗の裏に更紗などの古布がはぎ合わされ、
その中に書かれている文は今なお鮮明で、所々読み取れます。
国外追放された一人の女人の想いが生々しく迫ってきました。

 うばさま  まいる

   日本こいしやこいしや
     かりそめにたちいでて
   又とかえらぬふるさと
     おもえば心もこころならず
   なみだにむせび めもくれ
     ゆめうつつとも
   さらにわきまへず候へども
     あまりのことに
   ちゃづつみ一つ 進じあげ候
     あら にほんこいしやこいしや

                こしょろ

小袱紗に書かれた文とともに茶包みが一つ、
送られてきたことにも興味を持ちました。
ジャガタラの茶はどんなものだったのかしら?
記念にジャガタラ文のハンカチ(写真)と凧を買いました。

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  写真は、「ジャガタラ文のハンカチ」
       「平戸ザビエル記念聖堂」
       「じゃがたら娘の像」