暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

西予の旅 七夕まつり

2011年08月09日 | 2011年の旅
                

  残暑お見舞い申し上げます

昨日は立秋でしたが、まだまだ暑いですね。
お久しぶりです。
田舎へ行って体調も戻り、ブログへ復帰することができました。
8月4日から主人の故郷の愛媛県西予市へ法事で帰っていました。
西予では1か月遅れの七夕で、いろいろな七夕の逢瀬がありました。

七夕は、元は棚幡(たなばた)と書き、
お盆に故人をお迎えするための精霊棚と棚をかざる幡(はた)を設える日で、
7日の夕方からするので七夕になったそうです。

亡き両親に代り宿をしてくださった叔父さんが6日に山から竹を切り出してきました。
これに願い事を書いた短冊や折り紙を飾りつけ、7日の夕方に家の軒先に飾ります。
見慣れている七夕かざりと同じですが、これは新しい仏様がいない家の飾り方で
新盆の七夕かざりは違うそうです。

6日の昼には出発するので、名残りを惜しんで家族四人で
短冊に願いごとを何枚も書きました。
「おじさん、おばさん、ありがとう。いつまでもお元気で!」
「今度こそ痲雀の仇をとるぞ」
「お世話になりました。思い出をいっぱいありがとう」
「必ずまた来ます。元気で待っていてください」

8日には七夕かざりを諸々の厄災と一緒に海へ流したそうですが、
今では海を汚さないために焼却処分です。
無事に法事や墓参りを済ませ、旅の途中で内子町へ寄りました。

                
                
               
内子ではちょうど「内子笹まつり」(8月6~8日)の最中で、
商店街に笹かざりが美しく飾られていました。
大きな薬玉や吹き流しから短冊や折り紙で飾られた笹かざりまで
どれも手づくりだそうです。

内子は、江戸時代後期から明治時代にかけて和紙や
木蝋(もくろう)の生産地として繁栄しました。
蝋は、ハゼ(ウルシ科)の実を蒸してから圧搾して、絞り出した脂(あぶら)で、
蝋燭、種々の油類、薬品に使われました。

大正時代になると、世の灯りは蝋燭から電気へ移っていきます。
今でも和蝋燭を製造販売しているという大森和蝋燭屋へ寄りました。
蝋燭づくりを見学し、煤(すす)が少ないという和蝋燭を買いました。
夕去りまたは夜咄しの茶事に使う予定です。

漆喰塗籠め造りの町家、木蝋と輸出で財を成した豪商の屋敷などが
当時の町並みのまま残っていて、木蝋がもたらした栄華を今に伝えています。
笹かざりで彩られた古い町並みはちょっぴり華やかでいて
一抹の寂寥を感じる西予の旅の一コマです。

                  
                  

内子座については次回に・・・。

         (西予の旅 次へ)
                                       &  
       写真は、「内子笹まつり」と「大森和蝋燭屋」です。



金沢・南砺の旅  城端曳山祭

2011年06月03日 | 2011年の旅
城端曳山祭一番の見どころは華麗な曳山の行列です。

5月5日の朝、8時半に宿を出発し、城端の古刹真宗・城端別院善徳寺へ。
曳山と庵屋台(いおりやたい)が善徳寺前で集合し、9時30分から町内を巡行します。

曳山と庵屋台の行列順序は毎年交代するそうですが、平成23年は次の順番でした。
かつて、この順番を巡っていろいろあったようなので、公平に記録します。

 一番山 西上町・「竹田山」(たけだやま、安永年間(1772-1781年)小原治五右衛門作。
                  御神像は恵比須、寛政7年(1795年)荒木和助作)
       庵唄(いおりうた)・・・手鏡に (恵友会)

 二番山 東下町・「東耀山」(とうようやま、享保年間(1716-1736年)の作を改修。
                  御神像は大黒天、安永7年(1774年)荒木和助作)
       庵唄・・・雪巴 (宝槌会)

 三番山 出丸町・「唐子山」(からこやま、享保年間(1716-1736年)の作を改修。
                  御神像は布袋、宝暦12年(1762年)荒木和助作。
                  弘化3年(1846年)、小原治五右衛門改作)
       庵唄・・・五月雨 (布袋同志会)

 四番山 西下町・「諫鼓山」(かんこやま、享保年間(1716-1736年)の作を改修。
                  御神像は堯王、享保元年(1716年)木屋仙人作)
       庵唄・・・沖の瀬に (諫鼓共和会)
                
                       (御神像 堯王・・・飾り山)
 五番山 東上町・「鶴舞山」(つるまいやま、安永年間(1772-1781年)小原治五右衛門作。
                  御神像は寿老人、安永2年(1773年)荒木和助作)
       庵唄・・・宇治茶 (松声会)

 六番山 大工町・「千枚分銅山」(せんまいぶんどうやま、明治31年の大火で類焼、
                    明治39年浅野喜平・辰次郎作。
                    御神像は関羽・周倉、寛政8年(1796年)荒木和助作)
       庵唄・・・辰巳  (冠友会)
                                        (御神像 関羽・周倉・・・飾り山) 

順番に善徳寺前から出発するのですが、最初からびっくりしたのは方向転換でした。
高さ約六メートルの山車の上には羽織袴を来た人が数人乗っていて、
立ち位置を変えたり、身を乗り出したり、重心のバランス係です。
曲がり角に来ると、頭(号令係?)が重心の掛け方を支持します。

山車の重心をかける側の長押(引手?)に約十人くらいの男衆が一斉に飛び乗ると、
車輪の前が少し持ち上がるので、「ソレッ!」と車を横に回します。
その時に「ギュウギュウ」と車のきしる音が響きました。
この音が特徴で、城端の曳山は「ギュウ山」とも言われているそうです。

「ソレッ」という掛け声に合わせて約二十人の男衆が力を合わせて
山車を廻す時の様子が印象に残っています。
男衆は決して若くなく、五十代、六十代の方が多いようでしたが、
その方たちは涼しい顔をして廻していました。
若者の方が顔をゆがめて、とても苦しそうでした。
長年の馴れなのか、苦しくてもそれを見せない心意気なのか・・・?

私たちは見れませんでしたが、出丸町で狭い場所のUターンがあり、
曳山の一番の見せ場だそうです。

                
                           
         
もう一つの見どころは、江戸の料亭を模したという、
風雅な庵屋台(いおりやたい)と、そこで唄われる庵唄(いおりうた)です。
町のあちこちに「庵唄所望」と書かれた紙が貼られていました。
ご祝儀をだして所望すると、庵唄を自分の家で聞くことができます。

六つの町の庵屋台が所望する家の前に止まり、
各町の庵唄を書いた短冊を白扇に載せて渡してから、庵唄を披露します。
座敷には親類縁者が集まり、きれいな着物を着ている女の方もいました。
座敷には座れませんが、傍で聞くこともでき、宵山とはまた違う味わいです。
たしか、曳山会館に庵唄所望の特設会場があったように思います。

曳山会館に庵唄を書いた短冊が売られていたので、
「宇治茶」の短冊を記念に買ってきました。
                 

曳山祭は夜まで続き、出丸町での見事な(たぶん)Uターンの後に
提灯をつけた「提灯山」となり、これも圧巻だそうです。
そして、車を「ギュウギュウ」と軋らせる音と、
庵屋台の囃子が重なって聞こえる「帰り山」は
何とも言えない情感が漂うそうです。

残念ながら、14時に城端を出て17時の便で帰宅した私たち旅人には
祭りのクライマックスの「提灯山」と「帰り山」を味わえなかったのですが、
十分に満足して帰宅したのでした。

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 (写真は宵山でバッテリーが切れ、肝心の本祭がありません・・・)

追記・・・城端曳山祭は「城端神明宮祭の曳山行事」として
     平成14年(2002年)に重要無形民俗文化財に指定されました。


金沢・南砺の旅  城端曳山祭宵山

2011年05月30日 | 2011年の旅
5月4日、レンタカーで金沢から五箇山へ行き、帰りは城端町を通り抜けて
宿のある福光まで戻り、福光華山温泉へ。
城端曳山祭の情報収集をしていなかったので、
着くとすぐに宿の方に見所や駐車場などを教えてもらいました。

「今日(4日)は宵山で、山車の曳き回しはないのですが、
 18時~22時まで曳山と庵屋台が六つの町内に展示され、
 御神像は各町の山宿に飾られます(飾り山)。
 約1時間で全ての飾り山を見て回れると思いますので
 砂風呂に入り、夕食をすませて是非お出かけください」

名物(?)の砂風呂サービスが付いていたので、最上階にある砂風呂へ行きました。
湯浴み衣に着替え、係りのおじさんが整えてくれた砂の寝床へ横になると、
胸から下へシャベルで砂がかぶせられました。
「約20分たったら合図してください」

砂の温度はそれほど熱くないのですが(たぶん42℃くらい)、
15分過ぎた頃から顔にも汗が吹き出しはじめました。
すると、おじさんが冷たいタオルで顔を拭いてくださって、気持ちが好かったです!
身体の芯から温まって汗が旅の疲れを流してくれました。

           
           

夕食後、薄暗くなった道を車で城端町へ。
伝統芸能会館「じょうはな座」へ入ると
舞台が神輿の御旅所になっていて、折しも神輿の前で庵唄が奉納されていました。
「庵唄って?」
最初、「あんうた?」と読んでいましたが、正しくは「いおりうた」です。
庵唄(いおりうた)は、江戸情緒あふれる端唄です。
その昔、江戸や端唄の流行に憧れた先人の粋な遊び心から生まれたそうですが、
三味線、笛、太鼓に合わせて唄う庵唄に、城端という土地の文化的成熟を感じました。

また、20代から30代の若連中によって継承されていることにも驚きです。
そして、女性がいないことにも・・・。
毎年、年が明けると若連中は庵唄を選び、「寒稽古」と称して
稽古を始めるそうです。
先ず宵山で、御旅所の「じょうはな座」でその年の曳山順に御旅所へ参拝し、
庵唄が奉納されます。

私たちが「じょうはな座」で聞いた庵唄は、
五番山・東上町の「宇治茶」(松声会)と六番山・大工町の「辰巳」(冠友会)でした。

 「宇治茶」 
   宇治は茶どころ さまざまに 仲に噂さの 大吉山と
   人の気に合う 水に合う 色も香もある 濡れたどうし
   粋な浮世に 野暮らしい  こちゃ こちゃ こちゃ
   濃い茶の 仲じゃもの

こんな粋な宇治茶の端唄があるなんて・・・。
なんか濃茶を点てたりのんだりが粋で楽しくなりますね。
 
           
           

「じょうはな座」を出て、六つの飾り山をまわりました。
山車と庵屋台がライトアップされ、御神像は山宿に飾られています。
山宿では御神酒や赤飯を供え、きれいな生け花を飾っています。
御神像もそれぞれ立派ですが、壁に立てられた豪華な屏風にも目を奪われました。

           

「こんどはどんな設えかしら?」とワクワクしながら
飾り山をまわる人の群れについて古い街並みの残る町を歩きました。          
どの宿も山宿を提供できた喜びと祭りにかける心意気を感じます。
宿が手狭な場合は町内会館を使っていて、これにも感心しました。

途中の曳山会館前の特設会場で、六か町の庵唄が再び披露されていました。
その後、若連中は22時過ぎまで自分の町内を練り歩きます。
明日(5日)はいよいよ本祭です。

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金沢・南砺の旅  幻の城端塗

2011年05月28日 | 2011年の旅
              (城端線の終点「城端駅」・・・木舎の駅と木の看板をパチリ!)
城端塗のことを知ったのは、
3月3日、「瀬谷の吊るし雛と茶会」のお客様を駅へ送る車中でした。

富山県南砺市ご出身のSさんから南砺市の話を興味深く伺っていると
城端(じょうはな)という地名が出てきました。
「じょうはな? どんな字かしら?」
「高岡から出ている城端線の終点で、絹織物で栄えた町です」
すると、Nさんが
「城端といえば城端塗を思い出します。
 以前、先生宅で見せて頂いた棗が素晴らしくて・・・」
城端塗の棗のことを話すNさんの声音がいつまでも耳に残りました。

それから二、三日後、小京都のテレビ番組を見ていると、偶然「城端」でした。
古い織物工場や街並み、曳山祭や祭の準備の様子が紹介されていて、
行ってみたい・・と思いました。
調べてみると、城端曳山祭が5月5日(宵祭4日)とわかりました。
GWの旅行先は金沢・能登(輪島)へ決まっていたのですが、
急遽、金沢・南砺へ変更し、城端と曳山見物が旅のハイライトになりました。

さて、城端塗ですが、城端へ行けばきっと出合える気がしていましたが、
未知の町、しかも曳山祭の最中ということもあり、難しかったです。

曳山会館・土蔵群・蔵回廊でやっと城端塗(蒔絵)に合うことが出来ました。
当代の16世小原好喬氏の作品も常設展示されています。
一子相伝とのことで、小原好喬氏(イケメンです!)のブログから
城端塗について抜粋させてもらいました。 詳しくはブログをご覧ください。

               
                (15世小原治五右衛門好博作 「城端蒔絵鶴文棗」)

                   
                (16世小原治五右衛門好喬作 「城端蒔絵琉金文飾筥」)
 
    城端蒔絵は「城端塗」または「治五右衛門塗」とも呼ばれ、
    一般的な蒔絵は「金」が主ですが、城端蒔絵は白をはじめとする鮮やかな「色」が特色です。
    城端蒔絵の作品には密陀絵法(みつだえほう)と白蒔絵法の2つの技が存在します。

    密陀絵法とは密陀油(乾燥剤として一酸化鉛を混入したもの)を溶いた漆を用いて、
    色彩の自在さと発色のよさを得る技法で、
    唐風様式を特徴として城端蒔絵初期の作品に多く見られる技法です。

    一方の白蒔絵法は、密陀絵法を基にして創出された小原家独自の彩漆描法で、
    和風様式を特徴とします。 小原家では現在、後者を主流としております。

    元来、漆で発色することのできるのは、黒・朱・茶・黄・緑の5色に限られ、
    白をはじめとする鮮明な中間色を発色することは不可能とされていました。
    私の先祖はこの白色の表現を実現させ、花鳥文様などを生態そのままの色調・ぼかしで
    表現できる技法を編み出したのです。
    そして、この技を一子相伝の秘法として今日まで伝え、
    代々「治五右衛門(じごうえもん)」の名を襲名しています。
 
               
               
                (曳山の山車の華麗な装飾・・・これも城端塗かしら?)

今回の旅では曳山会館で城端塗を拝見できただけでしたが、
またの出合いのご縁を楽しみにしています。
幻の城端塗(どういうわけか棗なのです)の追っかけが当分続きそうです・・・。

「城端曳山祭」については次回へ続きます。

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金沢・南砺の旅  大友楼

2011年05月19日 | 2011年の旅
金沢では本場の加賀料理を食べてみたいと思いました。
「大友楼」へ予約の電話を入れると、
「5月3日の昼なら空いています」 という返事です。
すぐに会席料理を予約しました。 出かける三日前のことです。

                                
尾山神社(前田利家と正室まつを祀る)を目指して行くと、
すぐにわかりました。
着物姿の仲居さんが玄関で私たちを待っていてくださって、
二階の座敷へ案内してくれました。

次の間付きの十畳余の座敷には、床の間、火頭窓のある書院、
中国の田植え風景を描いた金屏風、襖の取っ手、小さな喚証など、
どこを見ても素晴らしく、加賀の伝統的な文化を感じる設えでした。
天井に釣り釜を掛けるヒル釘があったので、仲居さんに伺うと、
旧藩時代には茶の湯の先生のお宅だったそうです。
この部屋でお稽古をしていて、一階には一井庵という茶室もあるそうです。              

                

早速に、料理が運ばれてきて、あれこれ仲居さんに
お尋ねしながら舌鼓を打ちました。

   (1)そら豆の葛豆腐
   (2)汁   筍真蒸 菜の花 舞茸 木の芽
                

   (3)刺身   鯛 さより 甘海老
   (4)海老 どじょうの蒲焼 水蛸の梅肉あえ  
      鯖の押し寿司  そら豆  べろべろ(卵が入っている寒天)

                

   (5)サーモン照焼 蕗味噌 ハスのチップス
   (6)鯛の唐蒸(からむし)

      蘭学修行の藩士によって長崎から伝えられた南蛮料理です。
      調理法は、そら豆(銀杏)、キクラゲ、昆布、人参、百合根、麻の実などと一緒に
      煮た卯の花(おから)を鯛に詰めて蒸します。

     「武家料理なので鯛は背開きにして卯の花を詰めます。
      蒸している間に鯛の旨味がおからに凝縮されているので
      鯛より卯の花の方が美味しいですよ。
      婚礼の料理で、嫁方から久谷の大皿に蒸した鯛2匹を腹合わせに
      飾って持ってくるのがしきたりになっていました」

      食べてみたら、仲居さんのお勧めのおからが絶品でしたが、
      鯛が大きく、卯の花もぎっしり詰められていて、食べきれません・・・。 

                

   (7)じぶ  鴨 すだれ麩 椎茸 金時草(きんじそう・加賀野菜) 山葵

      加賀料理の代表と思っていましたが、庶民のお惣菜だそうです。
      煮物ですが「煮」と言わずに「ジブ」と呼び捨てにします。
      四季を通じて楽しまれていて、味の無い青菜、旬の根菜、茸、すだれ麩を取り合わせ、
      小麦粉をつけた肉(鴨、鳥、牡蠣など)を煮込んだ(ソース)で食べます。

      味は関東で食べた治部煮と全くちがい、濃厚で甘い味でした。
      加賀百万石といわれ裕福な人たちは、当時貴重だった砂糖を贅沢に使って
      甘みを楽しんだとか。藩政当時のままの味付けだそうです。

      仲居さんが面白いことを教えてくれました。
      「青菜を上手に使ってとろみを残さずに食べ、菜を残してください。
       武家料理ですので、
       武士は名(菜)を残す・・と言って、このような食べ方をします」

      輪島塗の器についても
      「加賀の人たちは外見は質素に・・を心がけ、
       中身は豪華にして楽しんでいました」
      幕府に目をつけられないように苦労していたようですね。

                  

   (8)酢物  蛍イカ みようが ウド きゅうり(太い・加賀野菜)
          レモン  酢味噌                
   (9)焼おにぎりのおだく掛け  小あられ 香の物
   (10)デザート   西瓜 バジル添え

大友楼で過ごした2時間余は加賀料理だけでなく
「加賀の歴史と文化をたっぷり味わう」時間となりました。
 
                                    
       (金沢・南砺の旅  前へ)     (次へ)

 追記)誤って未完のうちに投稿してしまい、ご迷惑をおかけしました。ご免なさい。