麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

なんとなく、また三篇

2023-11-26 13:23:15 | Weblog
ブログからまたピックアップしました。読んでみてください。
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もう一度読む世界史

2023-11-26 13:09:23 | 創作
「時間」は、根を引き抜いた時点で「枯れる」という時限爆弾をかかえた生き物が生み出したもの。時間が生まれたとき(へんな言い方だが)、食い物を確保するために意識が生まれ、意識はサルトルがいうように、つねに「なにものかについての意識」だった。それはほとんど「獲物」と同義だった。それだけが目的で意識の全部だった。だが、人間は言葉を生み出し、言葉は記録を生み出し、ある一時の観察を、その観察をしている自分とは別の時間の自分に提供することができるようになった。その記録を利用して、記録に従って自分の体を機械的に使役していれば向こう10年、食うには困らない。毎秒「獲物」という言葉と同義だった意識に「ひま」ができた。ひまになった意識は「なにものか」を求めてさまよう。「なにものか」がなければ空虚だからだ。たとえば直接「食う」に関係ないことでも観察しはじめる。執拗に観察をする。やがて観察している自分まで観察し始める。「俺はなんだろう」。一度この疑問にとらわれると自分にそれを説明しないではいられなくなる。まず「俺はどこにいるのか」を説明しなければいけない。どこにいるのかを説明するには世界地図が必要だ。だが、観察記録をかき集めても、世界は「暗黒地帯」だらけで、ここがどこなのか正確に言うことはできない。不安だ。息子にも「俺は自分がどこにいるのかもわからない」と正直に言ってしまっては威厳を保てない。「暗黒地帯」を説明するために「お話」が生まれる。神。悪霊。天国。地獄。自分の村は、神に選ばれた、天国に近い場所にある。お話を作っていくうちに自分の存在理由もわかったような気がしてくる。ところが隣の村の連中は別のお話で世界を説明しているようだ。そのお話の中ではうちの村は彼らの村より天国から遠いことになっている。そんなお話は許せない。そんなお話を語るやつらは皆殺しだ。神よ、力を。惨殺。強姦。惨殺。悪魔は滅びた。俺たちの世界地図は正しい。一時の平和。しかし、よく見ると隣の家のあいつの世界地図は俺と違うようだ。あいつの地図では俺があいつより劣ったものとして記録されている。そんなこと許せない。村のおきてがあるから殺しはしないがあらゆる手を使ってその地図が間違っていることを証明してやる。見ろ、俺の富を。見ろ、俺の女を。見ろ、俺の酒を。見ろ、俺の豪華な食事を。だが、隣の家の男からすれば、ガラクタの山、ただのブス、カエルの小便、象のウンコ。がんばったおかげで胃がいたい。ストレスかな。「ガンです」。マジ? 俺はなんのために生まれたのかな。永劫回帰。
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カントとショーペンハウアー

2023-11-26 13:02:21 | Weblog
 カントとショーペンハウアーの根本的な違いは、「何のために哲学を始めたか?」にあると思う。
 カントは、少年である。彼は、世間で行われる習慣、法律、信仰に論理的な矛盾があるのを感じつつ成長した。たしかに、多かれ少なかれ、誰でもそうだといえば言える。しかし、われわれの多くは、成長するにつれて、それらを「仕方のないこと」と認識するようになり、なにしろその観点を持っていてもなんの得にもならないことから、やがてそんな観点を捨て去り、「なるほど、世の中とはこういうものなのだ。こういうときには、こうすればいいのだ」と、処世術を築く材料にしてしまう。
 それが、「大人になる」ということだろう。
 カントは、こういう意味では、大人にならなかった。
 カントは、心の奥に「世界を統べる唯一の真理」が(つまり見せかけの論理的な矛盾が氷解する地点が)存在することを秀才の少年として確信しており、人間は(自分は)そのことを見極められるという自信を持っている。
「世界を統べる唯一の真理」は、コンパクトに持ち運べる万能法であり、それさえ持っていれば、どんな局面、どんな複雑な人間界の事件も、自然現象もその場で説明でき、解決できるという、ほほえましい秀才の信仰である。
「純粋理性」の批判にたどりついたのも、ただその万能法を求めた結果にすぎない。彼の関心は、初めから人間にあり、幸福な社会にあり、間違った判断さえしなければ、人間は誰でも自ずと「善」を知り、そこへ向かうはずだという明るい展望がある。
 数学の得意な人間は、結局、どんな文章題や証明問題も単純な定理と公式で解けるのを知っているから、勉強にそれほど時間を要しない。カントは、人生全ての諸問題に、そういう定理を見つけたかったのだ。
「純粋理性」の批判は、存在論的な場所――つまり宇宙空間のようなイメージへわれわれを誘うが、カント自身はリアリストであり、存在論がその探求の途上に姿を見せたのは、いわば「たまたま」なのだ。
 道の途中、「あ、こういうこともあるな」と、考えたにすぎない(三批判書の中で、「純粋理性批判」がもっともボリュームを持つのも「たまたま」であり、もっと簡単にやっつけられると思ったのに、意外とてこずった、という結果にすぎない。カントの目的は、実践にあり、道徳にある)。

 これに対し、ショーペンハウアーは、幼いころから、なによりも人生に「不条理」を感じて成長してきた人だろう。それは、自分の認識対象(目の前の世界)に矛盾を見た、というより、すでにそれを認識している自分自身も勘定に入れた感じ方である。
「世間で行われる習慣、法律、信仰に論理的な矛盾があるのを感じ、しかし、その背後には、その矛盾点が氷解する地点がある」とカントのように考えるのは、なにより、人間が真理を知りうる、そうしてその真理とは人間以外の自然にとっても有意義なものである、という信仰の土台の上に築かれるものだ。
 これは、人間が「自分の存在は棚に上げて」いるからできる考えである(もちろん、そのほうが、歴史的には古く、まっとうな認識である。原始人は、「象とはなにか? どうやって殺して食うか」と考える前に、「自分とはなにか?」なんて考えたはずはないのだから)。
 ショーペンハウアーは、起こることそのままを真理と感じた。だから、不条理を感じた。「不条理を感じる」のは、「矛盾を感じる」のと同じではない。「矛盾を感じる」人は、その矛盾を正すことができ、要するに世界を変えることが可能だと考えている。「不条理」とは、「世界に矛盾を感じる自分の主観はあるが、そう感じても、世界は変わらないし、それが真理だし、ただ自分はそう感じる自分を感じているだけだ」という感覚である。
 このような感じ方をする子どもの少年時代とは、論理的ではなく、感情が先に立つ少年時代である。
 世界の美しさ、はかなさ、ロマンチックな心の動き、大きすぎる期待、裏切られての失望、嘆き。このような経験が、彼に、個人的な質問としての「なぜ?」を生んだ。
 世界は不可解である。しかし、彼は、あまりに自分の感情のリアリティが美しく深いために、自分より別の場所に「世界を統べる唯一の真理」があるとはとうてい考えられない。自分にとって、すべてはそのまま真理なのだ。この、世界への不可解さ、自分の感じ方への絶対の自信が、世界がただ自分ひとりのために「説明されること」を彼に望ましめた。「見えるとおりが真理なのはわかっている。ではなぜそうなるのか?」。これへの答が、彼の哲学である。
 それは、当然、宇宙論になる。宇宙の地図の中に自分の居場所を書き込むことが彼の目的なのだから。

 つまり、カントは学者で、ショーペンハウアーは芸術家であるということになるだろう。 

 ショーペンハウアーは、道徳については、単純な「同情」というようなところから、むりやりそれを引っぱってこようとするが、それは、サルトルが「人生には先験的に意味はない」と言いながら、なお、ヒューマニズムは可能だといったのと同様、無理がある。

 なぜショーペンハウアーからは、「人間はどう生きるのが正しいのか」が出てこないかといえば、彼がそんなことをもともと求めていないからである。
 彼には芸術がもたらす、宇宙の真の似姿に陶酔しつつ生きることが最もすばらしい生き方だと、初めから答が出ており、それを必要としない人たちは、「それでしょうがない」としか考えていないのだから。
 ショーペンハウアーが、「教師」として見られることがあるのは、一部の人、つまり芸術家にとってだけであり、もともと生活人には無関係なのだ。

 カントは「教師」たろうとしている。
 生活の規則正しさや、ゆっくり正確に書こうとする身の律し方が、模範として自己を人々に示している。

 さあ、「生の哲学者」はどちらだろうか?

 カントは現世での、人間の「よい生」を信じ、ショーペンハウアーはそれを信じていない。

 では、カントが「生の哲学者」だろうか?

 しかし、カントが思い描いているのは、いわばユートピアであり、ドン・キホーテの思い込みのようなものかもしれない。
 模範といっても、人間は神でも機械でもない以上、それだけ律儀な生活を送るのは、「非人間的」であり、ロボットめいているともいえる。
 つまり、カントは、現実を見ているようで、実はまったく自分の夢の世界だけで生きている人なのかもしれない。

 これに対し、ショーペンハウアーは、「人生は夢である」と言いながら、世界をちゃんと直視しているリアリストである。観念的でありながら、「両目はできるだけ水で洗うべし」とか「われわれの脳は30歳ころがピークで」といった唯物的な行動、言動をとる。
 自分の「人生は夢である」という主張を現実に人々に認められたがり、疫病が流行ればすぐに避難する。
 これは、夢の中で生きている人のやることではない。

 では、カントが非人間的で、ショーペンハウアーのほうが「生の哲学者」だろうか?

 しかし、カントは社交も好み、モテはしなかったろうが、大学教授として、人間らしい一生を送った。普通の職業人として、一定の時間を仕事に割いた――その仕事が、彼の場合、思惟と著述だったのだ。彼は、生き生きと、自然にその時代に生きた。
 これに対しショーペンハウアーは、バランスを欠き、仕事はやめて、人を遠ざけた。
 それは、非常に不自然な、隠者の生活である。普通の意味で、生き生きと人生を送ったとは言えないだろう。

 では、カントが「生の哲学者」なのか?

 しかし、カントの信じる「よい生」が、誰にも必要のないものだったら?
 そのあとの時代に続々登場する、秀才の大学教授たちのように、「ああしろこうしろ」と人に価値観と、自分の頭のよさを認めることを押しつけはするが、その実、世界に必要のない人種を生み出す、その端緒になったのがカントだとしたら?
 これに対し、人生に挫折し、苦悩し、秀才の職業大学教授たちに「宇宙のしくみはこれ。人間の発生した理由はこれ。ほら、もう悩まなくていいだろ?」と言われても、「それじゃ、『俺』の生きている理由はなんだ?」と、問い返すしかない人々にとって、ショーペンハウアーのほうが、どれだけ心に慰めを与えてくれることか……。

 ここまでくれば、もう、結局は2種類の人間がいるとしかいえまい。
 カントを必要とする人と、ショーペンハウアーを必要とする人。
 挫折を知らず、実はまったくかっこ悪いのにそのことに気づかず、「頭さえよければいいのさ」というおとぎ話の中で生き生きと生きていける人。
 自分をつねに外から見てしまうために短所ばかり目について、どうしても生き生きとは生きられないと考える人……。

 このへんでやめてもいいだろう。
 とりあえず。

 ショーペンハウアーがカントを尊敬するのは、カントの中の「少年」を尊敬しているのだ。プラトンのような。
 カントはショーペンハウアーに対し、「なぜそんなに悲しい結論を導く必要があるのか?」と、思ったことだろう。「それは哲学ではない」と。
 そういう明朗単純なところも、古代ギリシャ的であり、それは、ショーペンハウアーがあこがれつつ手に入れることのできないものなのだ。

 それこそカントが「生の哲学者」の証拠かも……。
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心に更地を持て

2023-11-26 12:58:26 | 創作
 幼稚園から高校まで一緒だった友だちが何十年ぶりかに訪ねてきた。20代のころの姿のままだ。「結婚した」と言う。それは知っていた。子どももいると聞いていた。きっと幸せなんだろうな、と皮肉な気持ちはなく思っていた。しかし、なにかそう告げる彼の表情が暗い。私と彼は坂道の上で話をしている。コンクリートの歩道が雨上がりのように黒く濡れ、夕暮れが迫っている。別れのあいさつはしないまま、彼は向きをかえて坂道をおり始める。猫背で小さい後ろ姿を見て、子どものころから見慣れた彼の印象を反芻する。すると突然目の前に身長が2メートルはある白人の若い男が現れて、身をかがめながら、真剣な表情とたどたどしい日本語で私に訴えかけてくる。どうやらその男の妹が、いま去っていく友人の妻だということらしい。それなのに、友人の母親は彼に冷たいのだという。「『心に更地を持て』ということわざは、私にもわかります」と、外国人が言う。「でも、おかあさんが一度も私に会いに来ないのはなぜですか。妹夫婦のところにも一度も行ったことがないのですよ。ひどい人です」。「心に更地を持て」なんてことわざがあったろうか。それにその言葉が彼の訴えていることとどういう関係があるのだろうか。私は考える。つながりとしてはあいまいだが、「心の中に不純物を入れない領域を持て」というようなことかと解釈する。だから、友人の母親は外国人になど会えないというのだろう、と思う。いつも「おばちゃん」と呼んでいたその姿が浮かぶ。やさしい人だったが、たしかにどこか芯の通った、昔気質の日本人という印象もある。友人はおばちゃんのことを心底愛していたと思う。そう考えると、彼の表情が暗かったことは理解できる。外国人はうるさく私につきまとい、外国語と日本語をまぜてしゃべりまくる。つばが飛んできそうなほど顔を近づけてきたので私は不快になり、後ろを向く。すると外国人は、有刺鉄線を巻いた何枚かの白い十字型の板で囲われた歩道横の空き地にひとまたぎで踏み入り、またひとまたぎで柵を越え、私の目の前に立ちふさがる。柵をまたぐとき、彼の身長が瞬間、3メートルにも巨大化したのを私は見た。「『心に更地を持て』ということはわかります。それにしても……」。彼は繰り返す。その調子が、「その言葉だけは発音にも使い方にも自信がある外国語なので、自然何度も使いたくなる」という使い方のようだと感じる。夕闇の中で、私はいまさらのように、外国人の女性と結婚した友人の大胆さを思いやる。いつもおとなしく保守的だった彼には考えられない大胆な行動だと。だが、すぐに、「いや」と思う。彼には大胆なところもあった。高校一年のとき、彼が中学の同級生に告白したということを、その同級生の女子本人から聞いたときは驚いた。彼の、彼女への気持ちを知らなかったからだ。ひょっとすると彼は、自分の保守的な部分を自覚すればするほど、それを打ち壊したいと思う気持ちも強い人間だったのかもしれない。そうして実際打ち壊す勇気もあったのだ。きっとそうだ。意欲的になればなるほど「本気でやってるわけじゃないよ」という態度を気取る人のように、さっきの彼の猫背と暗い表情は、大胆さと勝利の表明だったのだ。勇気がないのはこの私だった。彼は私を心から軽蔑するためにやってきたのだ。――外国人も坂道も消え、目覚めた私は自分がみじめだった。悲惨だった。
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