WALKER’S 

歩く男の日日

指揮のおけいこ

2008-12-23 | 演奏会

 関大の3年生指揮者に釘付けになった。普段はそんなに熱心に指揮者を見ない、でも彼女のような指揮者が出てくると思わず目を見張ってしまう。女性ということもあるけれど、それだけではなかった。普段は思わないけれど、こういう指揮を見せられると、指揮という作業が本当に難しいものであることを痛感する。 あまりにいろんな事が頭の中をぐるぐる駆けめぐったので、岩城宏之著「指揮のおけいこ」を本棚から取り出してきた。

 1.指揮を習うことはできない。
 2.指揮を教えることはできない。
 3.指揮者にはなるヤツだけがなれる。
 4.指揮者になれないヤツは、なれない。

 本のタイトルにあるまじき極端な結論が記されていて、度肝を抜かれたのですが、気持ちは何となく収まりました。女性指揮者については、以下のような結論が記されていました。

 この国で現在、本物の恒常的な活動を続けているのは、松尾陽子さんひとりである。彼女は偏見を感じず、あるいは感じないふりをして、強く明るく指揮をしている。偏見にクヨクヨ敏感すぎると、偏見に負ける。女性指揮者への偏見を退治するのは、女の指揮者の実力だけなのだ。

 これはあくまでプロのオーケストラの指揮者の話、アマチュアの吹奏楽界ではすでに多くの女性指揮者指導者が活躍している。昨年の全国大会でも、高校、大学、一般は総て男性指揮者だけれど、中学の部では6人もの女性指揮者が進出しているのです。
 大学の応援団吹奏楽部でも男女の比率が逆転している昨今、男だけから選んで選択肢を狭めてしまうのはむしろ危険なことかもしれません。でも、楽器を吹く才能は判断しやすいけれど、そのことが指揮をする才能とリンクするかというと、そうではないことも多いので、本当に難しい。誰も、誰が一番指揮をする才能があるなんて判るわけない。だから楽器の一番うまい人を選ぶしかない、選ばれた人はその期待に応えるべく努力するしかない。どういう努力をすべきかは、残念ながら、前述の1番、2番、ということになるのだろう。


12月15日(月) 関西大学応援団吹奏楽部 第47回定期演奏会

2008-12-16 | 演奏会
 関西大学学歌              山田耕筰
 ヒューマノス                 JVdロースト
 アルメニアンダンスPart1          Aリード
 バレエ音楽「青銅の騎士」        RMグリエール

 谺響する時の峡谷
   ー吹奏楽のための交唱的序曲   中橋愛生
 「ウエスト・サイド・ストーリー」より
    シンフォニックダンス         Lバーンスタイン

 アンコール One Hand One Heart   Lバーンスタイン
        そりすべり          Lアンダーソン
        Time to Say Goodbye    Fサルトーリ

 関大の定期演奏会としてはこの10年間で最も満足度の高い内容でした。各パートとも思い切りが良く、音が抜けている。かつまとまりも十分で、何の心配もなく聞いていられる。一番良かったのは木管の音もよく通っていたこと、このホールでは場所によっては木管の音が金管打楽器に完全に消されてしまう、今回は座席がよかったのか、そういう風に感じることはあまりなくて、常に吹いている、しかも思い切り吹き込んでいるという感じが伝わってきました。木管が聞こえないと金管バンドですから、それでイライラすることが今までは多かった。それにしても、選曲は本当に大事だということを痛感させられました。吹奏楽が最高に生かされる曲、オリジナルにしてもアレンジにしてもそれが先ず第一、そして分かりやすい曲。みんなが知っていてすぐに入り込める曲、知らなくてもすぐに親しめるような曲、そういう曲が半分以上ないと、本当につまらなくて退屈なものになる。とくに大学バンドは、偉そうに難しい曲や新曲ばかりを採り上げたがる。そのことがいかに聴衆を無視しているかを理解しようとせず、目標は観客に感動を届けることだ、などと平気な顔をしていう。今回は、そういう傲慢な感じが一番少ないプログラムだったように思う。

四天王立像(快慶作)

2008-12-15 | 日記
 新館には、テレビで見たことのある「武田二十四将図」や「真田幸村像」も展示されている。真田幸村は九度山に幽閉されていたから納得できるけれど、武田の絵がどうしてここにあるのか首をひねった。ほかにも源頼朝書状(国宝)、北条政子自筆書状、武田信玄公寄進状、武田勝頼公寄進状、真田幸村自筆書状なども展示されていた。400年以上前の歴史上の人物の書がこんなにたくさんあって本当に驚きだけれど、ぼくが一番感動したのは、本館の最後の部屋に展示されていた「四天王立像」です。ぼくはとくに仏像が好きでもないし、詳しくもない。だからその善し悪しを判定することなどできない。でも四国を歩いていていつも思うことがあった。四国霊場の山門にいる仁王像はどれもあまり感心しない。何と比べて、もちろん東大寺南大門の金剛力士像(運慶快慶作)と比べるとです。どう見ても多くの仁王さんは陳腐な姿にしか映らない。仁王像というのは他の仏像、菩薩像や如来像と比べて特別な技術や感性がないとそれなりのものができないのではないかと思う。仁王像、四天王像は表現するものが非常に多い、躍動感、力強さ、怒りの表情、均整、それらを兼ね備えていなければ命が宿らない、命を宿らせることのできる仏師というのは運慶快慶以降現れることはなかったのではないか、四国を歩いていてそんなことすら考えたものだった。今回この四天王像を見て、改めて快慶という人がいかにすごい仏師であるかをまざまざと見せつけられた。ダヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロに比肩すべき大芸術家だといってもいい。この作品がどうして国宝ではなく重文なのか、そのことが不思議なくらいでした。

霊宝館

2008-12-13 | 日記
 今回の旅の最後は霊宝館、大門から引き返す大通りを行くと、壇上伽藍の反対側にある。金剛峯寺にも根本大塔にも金堂にも入らなかった、本日初めて1dayチケットの割引クーポンを使う。2割引の480円で入ることができる。 霊宝館にどんなお宝があるのかは全く知らなかったけれど、一つ期待しているものがあった。それは弘法大師の自筆の書、前にテレビで見たことがあったので、高野山にあっても全然不思議ではない。 館は3つの建物に別れている、新館、紫雲殿、本館。紫雲殿と本館は南廊と呼ばれる回廊でつながっていて、そこにも展示品が並べられている。そして、ぼくの目当ての弘法大師の自筆は、最初に入った新館の第3室に展示してありました。「聾瞽指帰」!?、あれぇ「三教指帰」ではなかったか。「空海の風景」を一応読んでいたのでそれくらいの知識はあった。帰ってから調べてみると、最初に書かれたのが「聾瞽指帰」で、それを書き改めたのが「三教指帰」内容はほとんど同じものだということでした。これは、仏教、儒教、道教の三つの内仏教が一番優れていることを戯曲形式で著した画期的な書物です。空海24歳の書です。その字は、想像した(前にテレビで見たもの)よりスピードと勢いがある若々しいものでした。唐から帰ってきてからのものと比べてみたい。それにしても1200年前の空海の本物の書、その原本が目の前にあるというのは何とも不思議な感じがしました。もちろん国宝に指定されています。

大門

2008-12-12 | 日記
 壇上伽藍を後に、高野山の西の端、大門に向かう。道は大門の前で左右に分かれ正面は崖、碑に書かれていたとおり山並みと空が広がっていた。晴れた日には紀伊水道から四国まで見渡せることもあるという。この大門は江戸時代に建てられたもの、その昔には右の道を下りたところに山門があったという。その道が中世の表参道、町石道。空海の時代から江戸時代の前まではこの道が高野山への表参道であったようだ。ぼくが昨年登った極楽橋から不動坂、女人堂への道は江戸時代以降に開かれた、江戸時代以降のお遍路さんの多くはこの道を登ったけれど、弘法大師は登らなかった。昨年見ることのできなかった壇上伽藍の堂塔を見ることができ、大門の前にも立つことができた。でもここまできて、まだ高野山を見ていないことに気がついた。九度山から大門まで町石道を歩いてこそ、高野山に登ったということになる。本当の空海の道がそこに残っている。四国では最後まで残った空海の道、などと書かれているところがあるけれど、あれは本当のところ確証のもてるものではない。でもこちらは間違いなく大師が幾度も通られた道である。今回で最後になるかと思っていたけれど、来年もう一度来ることになってしまいました。九度山から大門まで21km、標高差900m、これを登ったあと近畿大学の定期演奏会に行くと、おそらく半分以上眠りこけてしまうかもしれない。

壇上伽藍

2008-12-11 | 日記
 帰ってから、いろいろ調べて判ったんですけど、今の金剛峯寺は金剛峯寺ではなかった。豊臣秀吉がお母さんのために建てた青巌寺だった。だから秀次が切腹した部屋が残っているのですね。明治時代に建て替えられたときに総本山金剛峯寺になったのでした。高野山の全部をまとめて金剛峯寺だった。空海が開いた頃はもちろん多くの寺坊があった訳でなく入定したときに完成していなかった堂塔もあったくらい。その最初の堂塔が建設された所が本来は金剛峯寺と言うべきなのだろうけれど、そこは現在は壇上伽藍と呼ばれている場所で、高野山の象徴とされる根本大塔がそびえています。建っているのではなく敢えてそびえていると書いたくらいこの塔は想像を超えるくらい大きい。いわゆる多宝塔なのですが根本大塔と言われるちゃんとした理由がある。現在の建物は昭和12年に建設されたもので、何と6代目、それくらい高野山は落雷山火事が多かったということなのでしょうか、でも1200年の歴史があるので150年から200年に一度の割合、仕方のない数字だと考えることもできる。その前に建っている金堂も6度の焼失に遭い昭和7年に再建された現在の金堂は7代目になる。高野山は994年の大火災でほとんど総ての堂塔を失い、総ての僧侶が山を下り廃墟同然になったという。空海時代の建物は一切残っていない。現在残っている建物で一番古いものは、根本大塔の手前にある不動堂、1197年に建設されたもので建物としては高野山唯一の国宝に指定されています。

金剛峯寺

2008-12-08 | 日記
 燈籠堂の周りをぐるりとめぐって納経所へ戻る。四国の霊場では納経をすると各寺院のご本尊が印刷された御影をいただける。納経料300円の中に含まれているのだけれど、ここ高野山では、奥の院も金剛峯寺も御影は別料金になっている。白黒200円、カラーが300円(カラー御影は四国でも有料)。八十八ヶ所の御影帳は金剛峯寺、別格の御影帳は奥の院になっているのでそれぞれ1枚ずつ買うことにする。もちろん白黒。お参りする人は多いけれど、この時季この時間にはお遍路さんはほとんど来ないようで、納経所は閑散としている。墨書、御朱印を頂くときはいつも緊張して、自然と気を付けの姿勢になってしまう。
 納経が終わり、すぐに金剛峯寺へと引き返す。約2600mの距離、バスには乗らない、待っている間に着いてしまいそうな距離だし、一の橋の文学碑を撮影しなければならない。一の橋から金剛峯寺までは僅か800mでもある。文学碑を撮影していたら、同じバスで先に金剛峯寺の近くで降りた西洋人のカップルがやってきた。もちろん文学碑には目もくれない。奥の院までの参道ではそうでもなかったけれど、一の橋を出ると西洋人の観光客が目立った。この一年で外国人、特に欧州人の観光客は何倍にもなったという。ミシュランガイドで、高野山に三つ星が付いたのが大きく影響しているらしい。堂塔伽藍などは京都や奈良に行けばさらに歴史の深いものがいくつもある。でも、宿坊に泊まれる所はすくない、宿坊に泊まってより深い日本らしさに直に触れることができるのが高野山の魅力であるという。
 金剛峯寺に着くと、門の中から外まで団体客の長蛇の列が続いている。ちょっとびびったけど、彼らは納経するはずないからその後に並ぶ必要はないだろう。本堂の前でお参りしようとすると、目の前の本堂の中を見学の長蛇の列がぞろぞろ歩いている、そのお客さんに向かってお経をあげているようで、全く気分が出なかった。列の整理をしている人が、一般の人は先に入って下さいと促している。安心して本堂(納経所)の入り口へ向かう。列の脇を抜けて納経所の前へ出る、当然納経している人は一人も居ない。ぼくの納経帳は最初のページが奥の院となっているので、八十八番大窪寺の隣のページに金剛峯寺の御朱印を頂く。奥の院と金剛峯寺は墨書も御朱印も全く違うものになっています。御影は全く一緒で、奥の院、金剛峯寺の名前だけが違っている。
 金剛峯寺では豊臣秀次が切腹した部屋や、台所や、襖絵などを見学できるようになっているけれど、今回は時間がないので辞退する。もし時間があってもこれだけの団体と一緒に見る気には絶対なれなかったろう。拝観料は500円。

奥の院

2008-12-06 | 日記
 女人堂から二つ目のバス停、波切不動前で早くも一人の女性が降りていく、次の千手院橋は金剛峯寺に一番近いのでまた何人かが降りる。苅萱堂、奥の院口と降りる人があり終点の奥の院前まで乗っていたのは半分以下だった。それぞれ目的、観光のコースが違うのだ。ぼくは時間がないので先ず東の端までバスで行って、そこから歩いて西の端にある大門まで行くつもり。この終点から奥の院、御廟まで800mの距離がある、昨年は一の橋から歩いたので、平行しているこの道は通らなかった。御供所(納経所)の前を通り、いよいよ御廟へと向かう、脱帽の看板があり、すぐさま帽子を取る。しかし他の人はほとんど帽子を取らない、看板に気が付いていないのだろうか。御廟の前にある燈籠堂は改修中で中に入ることはできない。昨年はこの中でお参りして御廟の前には行かなかった。今年は初めて御廟の前でお参りする。賽銭箱はあったけれど納め札入れはなかった。右の方にお遍路姿の夫婦が熱心にお経をあげている。しかしそれ以外の人は、手を合わせて拝むくらいでお経をあげる人は居ない。ぼくは四国で使っている経本を取り出して般若心経をあげる。気持ちが引き締まる思いだ。

高野山にて 続き

2008-12-05 | 日記
 終点の極楽橋に快速急行が着くと2分後にケーブルが出る。乗り場まで50mも離れていない。ケーブルカーに乗るのはもう何十年ぶりになる。震災前の摩耶ケーブルにのって以来だ。45°はあろうか(実際は30°もないのかもしれない)という急勾配をするすると登っていく。僅か5分で山上駅に到着、なるほど徒歩で登る人は余程のマニアだと思われるのも納得できる。駅を出ると奥の院前行きのバスが待っている。カードを通す方式のバスに乗るのは初めてでちょっと緊張する。大いなる仏教都市の入り口にあたる女人堂まで1600mの距離、この間右に左に細かい急カーブが絶え間なく続くのでスピードは全く出ない、車内放送が高野山の案内を始める。山上の人口は4000、そのうちの1000人が僧職にあると言い、寺院の数は117にも及びそのうち53の寺院が宿坊を備えている。単なる仏教都市ではない、仏教観光都市そのものではないか。門前町という言葉がある。ここはそういうものでもない。門の前ではなく、門の中に生活空間の総てがあり、門の中が町そのものなのだ。東西6km、南北2kmの限られた範囲の中に50以上の宿泊施設がある大観光都市でもある。確かに日本中のどこを探してもこういう町は存在しないだろう。さらに驚くべきことは、今のこの町は相当に整理された後の姿だという。高野山が最も栄えたのは江戸時代初期で、そのころは山内に大小2000を越える寺坊があったという。それを、江戸時代と明治初期の2度にわたる整備によって現在の姿になったという。
 ぼんやり車内放送を聞いていると、つつがなく最初のバス停女人堂に到着、5分かかった。時速は20kmくらいしか出ていない。