WALKER’S 

歩く男の日日

9月8日 会津散歩(1)

2014-09-12 | 14年青春18きっぷ

 会津若松に来るのは4回目です。最初は高校の時の修学旅行で、このときは市内観光は飯盛山だけで、鶴ヶ城はバスの中からちらりと見ただけでした。2回目は12年前、新潟方面から磐越西線で来てそのまま通過、駅から外には出ませんでした。3回目は9年前、このときは駅の外には出たのですが、駅から鶴ヶ城に直行、本丸広場にある荒城の月の歌碑を撮影して、天守の中には入らずすぐにホテルに戻りました。北茨城の中郷サービスエリア(歌碑公園がある)と広野町と郡山東口に寄ってきた後だったのでそれだけの時間しかありませんでした。3回来てはいたものの、ほとんど何も見ていなかったし、何も知りませんでした。9年前には再びここに戻ってくることはないだろうと思っていました。
 八重の桜では本当に泣きました。6月から8月にかけて毎週のように泣いていました。幕末を描いた大河ドラマを何本も見ていながら、会津のことについては何も知りませんでした。知らないまま分かっていたような気になっていた自分が恥ずかしくなりました。もう一度戻らねば気が済まなくなって、ようやく今回の旅になりました。


 宇都宮を出て、9時40分に会津若松駅に到着しました。改札を抜けると先ずこの看板が目に入りました。最後の2行を見ると条件反射のようにうるうるしてしまいます。駅構内にはこれ以外には八重の桜に関するものは見あたりませんでした。放送が終わって半年以上にもなるから当然なのかもしれないけれど、何かしら拍子抜けのような感じがしないでもありません。


 会津若松駅から鶴ヶ城方面、南へ下るには3つの通りがあります。一番東にあるのが国道118号(中央通り、若松郵便局から南は神明通り)、その80m西を走るのが大町通り(南に下ると野口英世青春通りという名前も付いています)。最初はお城には行かないので、ぼくはさらに西の通りを歩きます。


 駅を出て200mも行かないところに今夜お世話になるふじみ旅館がありました。確認のためにこの道を来たのではなくて、最短の道にたまたま宿があったということです。


 ふじみ旅館から200mほど進むと、真新しい長屋が並んでいます。よく見る仮設住宅とは違うので、どうかと思ったのですが、やはり被災者のための仮設住宅のようです。
 駅から12分ほどで東西に走る国道252号の交差点です。この交差点を右折して市街地の西のはずれに向かいます。交差点のすぐ手前にホテル玉川があって、それを目印に歩いていたのですが、見事に消滅していました。交差点には七日町駅はこちらの矢印があったので何とかはずさずに済みました。


 交差点から150mほどで若松七日町郵便局を確認、たしかにこの道で間違いないようです。


 郵便局のすぐ先におもしろい建物がありました。


 現在はスポーツ用品店のようですが、塚原呉服店の文字がはっきり残っています。


 会津若松駅から21分で七日町駅に到着です。右折してからここまでの七日町通りは写真は撮りませんでしたが和菓子屋さんやカフェが何軒もあって街歩きの一つのスポットになっているようです。


 七日町駅前の踏切を渡って市街地を離れます。


 七日町駅から国道252号を北西へ900m、柳橋です。


 できたばかりの新しい解説板です。


 橋のたもと、こちら側にも向こう側にも柳の大木が植わっています。橋を渡ってさらに北西へ歩を進めて竹子さんに会いに行きます。


 柳橋から300m,JAあいづ神指支店の前を通過。


 さらに200m行くと会津自動車学校です。


 柳橋から650m、中野竹子殉節の碑→の標識が見えました。


 会津若松駅から3400m、ようやくここまでやってきました。


 この解説板は昭和57年に建てられました。


 石像は平成4年に作られました。


 写真ではよく分かりませんが、見上げるほどの立派な碑です。裏面には竹子さんの甥に当たる中野廣さんの墨跡で辞世が刻まれています。この碑が建立されたのは昭和13年、維新の戦いから70年後のことです。世代が二つ変わろうかという歳月を必要としたのは、現政権、天皇に対する遠慮、自己規制、あるいは見えぬ圧力があったのかもしれないけれど、これだけの歳月を経ても会津の人は忘れなかった、というより忘れてなるものかという、強い意志が世代を経ても受け継がれてきたに相違ありません。


 10時45分、柳橋に戻ってきました。七日町駅までは来た道を戻るしかありません。


 柳橋から700mほど戻ったところにある肉屋さんの中を覗くと、八重の桜のポスターが貼っています。いろいろ角度を変えて見るのですがガラスの反射で全くうまく映りません。諦めかけていた時にご主人が声をかけてくれました。中で撮ってくださいと促してくれました。


 福島は咲きつづける
周りにキャストが囲むものは、あと2種類あるようです。






 全種類集めたかったんだけどね、と明るく気のいいヤマゴ精肉本店のご主人です。
 ぼくは会津で一番知りたかったのは、地元の人があのドラマをどんな思いで見ていたのか、ということです。そういう機会は持てないだろうと思っていたのですが、ここでその一端を感じることができて、本当によかったと思いました。


 七日町駅前まで戻ってくると、ちょうどあかべぇが到着したところです。まちなか周遊バスは「ハイカラさん」と「あかべぇ」の2路線があって、それぞれ30分おきに発車しています。1回210円、1日券500円です。会津の大きな観光ポイントは3つあって、それぞれがかなり離れているので、歩くのが苦手な人は1日券を使うと無理なく回れます。
 会津若松駅=2400m=鶴ヶ城=2300m=会津武家屋敷=2300m=飯盛山=1900m=会津若松駅、といった間隔になっています。ぼくなどは待ち時間の間に歩けてしまうので全く必要とはしませんが。


 踏切から300m先の交差点を右折して南下、次の目的地に向かいます。七日町駅から1200m、しんくみのすぐ先にある交差点が一つのポイントでした。


 本町4丁目の南の端、県道59号の交差点、ここから東へ行くと鶴ヶ城ですが、ぼくはその前に行くところがあるのでそのまま南下します。帰ってから判ったのですが、この交差点から斜めに(南東に)突っ切っている道があって、それを行くと一番の近道だったのですが、この時点では場所は米代2丁目ということしか判っていなくて、西の端からローラーで探すしかなかったので真っ直ぐ南下するしかありません。


 市立第三中学です。この東側が目指す米代2丁目です。


 正門の横にあいづっこ宣言です。


 幟もあります。これは大河ドラマの影響なのでしょうか。


 県道211号に突き当たります。左折して100m行くと米代2丁目の南西の角です。


 米代2丁目の西側の部分をうろうろして会津中央自動車学校の前に出てきました。この前の道があの斜めの道でした。


 自動車学校から斜めの道を200mほど下ってくると、探していたものが突然飛び込んできました。大河ドラマに合わせて作られた新しい解説板のようです。


 解説板の手前は月極駐車場なのですが、八重の桜様っていったいだれが契約しているのでしょう。観光客のためにスペースを確保して解説板を見やすくするために会津若松市が料金を払っているのかもしれません。


 山本家の敷地は500坪あったといいますから、この空き地はその一部、間口も奥行きも倍以上あったと思われます。想像の翼を広げしばしたたずみます。


 山本家邸跡から東へ30m、一般家庭の門先に記念碑はありました。


 戦いの後、八重が詠んだ歌が刻まれています。


 この碑は25年も前に建立されていました。邸跡の解説板は数年前に建てられたはずですから、それ以前はこの記念碑を見ることができても、山本家が実際にあった場所は確認できなかったということになります。


 解説板の横に矢印があったのですが、これは昨年か一昨年に設置されたものでしょう。


 記念碑から東へ150m、国道118号(日光街道)に出てきました。まがり角に分かりやすい道しるべが立っています。お城の方から来ると迷わず山本家までたどり着けるようになっているようです。


 国道に出て150mほど北へ進むと西出丸とお堀が見えてきました。山本家から西出丸の入口まで600m、日新館の正門まで500mくらいです。


 先のまがり角から200mくらい手前にも矢印がありました。1年前には多くの大河ドラマファンがこの道を歩いたのでしょうね。


 矢印から100mほど先に鳥瞰図がありました。こういうのはどうしても見入ってしまいます。


 右下の交差点にある邸の一つ右上にある邸が山本家です。北出丸の北側には西郷(西田敏行)、萱野(柳沢慎吾)、田中(佐藤B作)の三つの家老邸も見えます。萱野の二つ左には山川(玉山鉄二、勝地涼、市川実日子、水原希子)の邸も見えます。


 国道をさらに100mほど北上すると日新館跡の石碑がありました。日新館跡といっても東西240m、南北120mの広大な敷地であったので、ここはその東の端ということになります。




 八重たん。


 左上にある天文台跡に向かいます。


 若松商業高校の北沿いの道を240m、右折して謹教小学校の東沿いの道を120m北上して天文台跡に到着しました。日新館の敷地の南側と西側は学校になって、藩校のあった敷地は普通の住宅や事業所が建っています。昭和になってから新しい日新館が再建されていますが、市街地から大部離れたところにあるので今回は残念ながら行くことはできません。


 ここには天文台の跡だけですが、場所は違っても全部を再建する、そのエネルギーというのは本当に特異であるし、それこそが会津なのだという感じもします。目の前にして直に感じてみたかったのですが、残しておくことはまたここに帰ってくる理由を残しておいたことでもあります。
 日新館の広さも確認して天文台も見たので次はいよいよ鶴ヶ城に向かいます。天文台から北へ140m、お城の北を走る大通りに出て右折、240m東へ行くと国道の交差点ですがその手前に思いがけない解説板がありました。


 今BSプレミアムの大河ドラマの再放送では伊達政宗が葦名氏を破って会津に入ったところですがそれはわずか1年、1589年から1590年。その後蒲生氏郷が入り、上杉景勝は1598年から1601年までこの地を治めたのでした。この解説板が設置されたのは「天地人」の放送が始まる直前だったようです。




 妻夫木くんの屋敷のあった同じ場所で山鹿素行が生まれていました。


会津散歩(2)

2014-09-10 | 14年青春18きっぷ


 12時05分、西出丸の入口が見えてきました。


 英語、中国語、朝鮮の言葉もある見るからに新しい解説板。


 城内、先ず西出丸に入っていきます。


 西出丸は駐車場になっています。地図の下の部分、これから権坂を通っていよいよ本丸です。


 本丸に入って先ず目に留まったのがこれ。


 本物の「八重の桜」に出会うことができて、ちょっと感動です。大河ドラマの収録が全部終わってからまたこちらに来られたようです。昨年来ていたら出会えませんでした。1年遅れでどうかという感じもあったのですが、大正解でした。


 天守は目の前ですが本丸広場には見るものがいろいろあるので、一回りしてから登城します。


 こちらも見上げるほどの立派な碑です。


 昭和9年、会津戦争から66年後です。


 御三階は戦争でも焼けずにきれいに残って阿弥陀寺に移築されているそうです。


 本丸御殿の詳細な図面が残されています。下には図面と解説の付いたパンフレットが5カ国語で用意されています。


 この場所で女優綾瀬はるかさんの2014年版カレンダーが撮影されました。
 この写真は大河ドラマ「八重の桜」で主演された綾瀬はるかさんのご好意により使用させていただいております。
  ポスターの右下に書かれていました。


 本丸広場の南東の角に荒城の月の歌碑があります。


 仙台青葉城の伊達政宗像の近くにも歌碑があります。


 土井晩翠の自筆であるのが値打ちです。


 天守の中は博物館になっていて各階ごとに多くの展示があったのですが、あまりゆっくりできないので、ほとんど立ち止まることなく最上階の展望台に上がってきました。最上階だけは撮影は許されています。本丸広場左端が御三階の跡、正面奥が茶室の麟閣です。


 北東方向、白いポールで区切られている三角の山が飯盛山です。正面奥の高い山が磐梯山です。


 13時07分、北出丸からお城の北側を東西に走る大通りを横断すると、すぐ西郷頼母(西田敏行さんが演じた)家老邸跡の碑がありました。




 なよたけの碑はお城の南東にある善龍寺にありますが、こちらにも宮崎美子さんが演じた千重子の辞世が刻まれています。昭和18年12月に建立されました。


 八重たんの自動販売機、西郷邸跡から北へ向かって最初の信号を右折します。


 西郷邸から北へ100m、東へ160m、酒造組合と森林組合の南にある駐車場が山川兄弟生誕の地です。




 山川大蔵を演じた玉山鉄二さんが「まっさん」になってしまったのはちょっと複雑な心境です。


 山川邸からまた南へ120m、お城の北側の大通りに出てくると、そこが家老萱野権兵衛の邸跡です。西郷邸のお隣、それぞれの間口は80mくらいあったようです。敷地は1500坪。


 その敷地の一部に「かやの」というそば屋さんが入っています。東側部分には市役所の分庁舎が建っています。


 この看板は大河ドラマ以前にはなかったでしょう。見てもよかったのですが、13時27分、食堂があと30分で休憩にはいるので通り過ぎるしかありません。


 萱野権兵衛の邸の東隣は田中土佐(佐藤B作さんが演じた)の邸、現在は税務署と第二中学の一部ですが、解説板はありませんでした。そこから200mほど東へ進むとネットで調べた通りすみれ食堂がありました。旅先では四国と同じで食堂に入ることは全くなくコンビニかスーパーで倹約するのですが、今回は半年以上前から地元のご飯を食べることは決めていました。でないとここに来た意味も甲斐もないというものです。


 ポスターはなかったけれど提灯がありました。こういうのもちょっとうれしい。


 ラーメンミニソース丼セット、850円。このメニューもネットで調べて決めていました。2種類味わえてこの値段だとかなりのお得感があります。ぼくは外でラーメンを食べることがほとんどないので、比較はできないのですが、あっさりしょうゆ味でかなりうまかったです。丼の方になかなか箸が向かないくらい集中してしまいました。ソースカツ丼はご当地名物、これも大満足、ソースの味が何ともいえない深い味わい。


 支払いを終えて食堂を出たのは14時ちょうど。お昼の営業は14時までだからピタリ計算通りでした。
 なぜか「花子とアン」のポスターが、


 食堂から東へ200m、若松小田垣郵便局の交差点を右折、南へ向かいます。


 郵便局から450m、湯川に架かる小田橋を渡ります。湯川といえば、午前中に渡った柳橋も湯川に架かっていたのでした。


 小田橋を渡って100m先の信号を左折、東へ50m入ると右折して細い道を南下します。小田橋から750mほど歩くとようやく左手に善龍寺の山門が見えてきました。


 山門を抜けると先ず案内板がありました。まちがいなくなよたけの碑があります。


 境内に人は見えず、深閑としています。写真では全然伝わりませんが、観音様は相当巨大なものです。中央が奈与竹の碑、小さく見えますがゆうにぼくの背丈の倍はあります。




 なよたけの歌の碑がかたわらにあります。これはぼくの背丈と同じくらいです。


 碑の裏側に回ってきました。この角度だと少しは大きさが伝わるかもしれません。写真では全く分かりませんが、会津戦争で亡くなった婦女子233名の名前が刻まれています。
 この碑が建立されたのは昭和3年12月、鶴ヶ城開城からちょうど60年後のことです。この60年に意味があると最初は思ったのですが、きっかけは別のところにあったのかもしれません。
 鶴ヶ城開城は1868年9月22日でした。そしてその60年と6日後の1928年9月28日に秩父宮やすひと親王(大正天皇の第二皇子)と松平節子(松平容保の孫、結婚後は勢津子)の婚礼が行われました。これにより、会津の朝敵、逆賊という汚名は払拭されたといわれています。この婚礼が先ずきっかけになって、追悼や顕彰の気運が高まっていった、その初めがこのなよたけの碑だったのでしょう。昭和9年に萱野権兵衛殉節碑、昭和13年に中野竹子殉節碑、昭和18年に西郷頼母邸跡の碑。60年間我慢していたものが次々に吹き出したという感じもします。
 それにしても、秩父宮の婚礼が60年と6日後というのは何かしらの意識、意図というものを禁じ得ません。ネットでいろいろ調べてみると、この婚礼を推し勧めたのは大正天皇妃貞明皇后だったようです。貞明皇后の第一皇子昭和天皇の妃香淳皇后は、孝明天皇の補佐官を務め攘夷派の排斥を進めた久邇宮朝彦親王の孫であるし、第三皇子高松宮の妃喜久子は最後の将軍徳川慶喜の孫であったことを考えると、とても偶然とは思えません。
 貞明皇后をウィキで調べてみると、彼女の伯母に当たる人は孝明天皇の女御を務めていたし、華族女学校時代の先生の一人は津田梅子でありました。津田梅子といえば山川咲子(大山捨松)と一緒に留学した無二の親友、会津で起きたことは無関心ではいられなかったはずです。それよりなにより、薩摩長州の陰謀によって作られた明治政府、それに担ぎ出された明治天皇とそれに続く皇族をそのままにしておくことこそ汚名ではないか、会津の濡れ衣を晴らすことは、すなわち今の天皇家の汚名をすすぐことにもなるのではないかと考えたのかもしれません。


 境内から鶴ヶ城を望むことができます。14時33分、次の目標に向かいます。


 小田橋まで来た道をそのまま引き返し、小田橋からは来た道の1本東側の大通りをそのまま北上、お城の北側を東西に走る道との交差点を右折、交差点から1kmほど来たところがこの写真です。右へ行けば東山温泉、直進すれば飯盛山、左折すれば会津若松駅です。ぼくは右折します、といっても温泉に行くわけではありません。


 先の交差点から500m、善龍寺からだと2500m、会津武家屋敷に到着しました。


 西郷頼母邸が完全復元されています。


 いろんな建物があるのですが、先ずは西郷邸です。表門をくぐって表玄関を見て、右の方に回ると御成り御殿です。写真はぐるっと回って裏庭から見た御成り御殿です。お殿様が見えたときにここでお目見えしたり、すごしてもらう部分です。背後には茶室もあります。中には入れないのですが雨戸や障子は開いているので中の様子もよく見えます。最初の部屋にテレビモニターがあって、八重の桜の第1回が流れていました。子供時代の八重(おとくちゃん=鈴木梨央)が木から落ちて演習のじゃまをして西郷に叱られているところでした。容保がやってきて許してやれ、というのを西郷が「ならぬものはなりませぬ、しっぺの罰を与えます」と言うと容保が「それでよい」という。泣けるところです。あんまりしっかり見ていると本当に涙がこぼれそうになったので、ぐっとこらえて歩を進めました。


 左の間が、西郷頼母の家族が自刃した部屋です。いくら復元されたものとはいえ近くで撮影することはできませんでした。大河ドラマで見た感じより一回り狭い感じです。この邸が復元されたのは昭和50年、維新の戦いから107年が経っていました。なのにこれだけ完全な家老邸を復元しようとする、そのエネルギーはどこから来るのか。地元の有志によって、という情報しかないのですが、やはり100年くらいでは忘れ去ることができないほどの屈辱だった、時代が変わっても伝え続けねばならない、そういう思いがこの土地に深く染みついていたということなのかもしれません。
 家老屋敷の裏には藩米精米所と会津歴史資料館があって、こちらは中に入って見学します。歴史資料館はほとんど期待していなかったのですが、素晴らしい展示があってびっくりしました。何と、孝明天皇が松平容保に下賜された「ごしんかん」(このワープロでは変換できない難しい漢字)が展示されていたのです。複製ではないかと、いろいろ見たのですが、間違いなく本物のようでした。昨年、八重の桜特別展で東京、京都、福島、と各地で展示されたようですが、ぼくはそのことを全く知らずに終わっていました。それが思いがけずここで見られてすごく幸運でした。他にも八重の自筆の書や山川大蔵の自筆の掛け軸もありました。2階には肉屋さんにはなかった八重の桜のポスターが3枚ありました。撮影したかったのですが、もちろん不可です。


 歴史資料館を出たところに綾瀬さんのポスターがありました。ここでもカレンダーの撮影が行われたようです。
 会津武家屋敷にはほかにも旧中畑陣屋、茶室、手作り体験館、会津くらしの歴史館など多くの建物見所があるのですが、西郷邸と歴史資料館で十分納得したのであとは軽く流して通り過ぎました。入館料は850円で最初は少し高いと思ったのですが、この二つだけでも、それだけの値打ちが十分あると思いました。会津に来ると先ずは鶴ヶ城と飯盛山というコースになると思いますが、会津武家屋敷だけは絶対はずしてほしくないと思いました。
 50分ほど見学して15時45分に次の目標に向かいます。


 会津武家屋敷から西へ1500m、本日最後の観光スポット、御薬園に到着しました。ここでは綾野剛さんと稲森いずみさんのシーンのロケが行われたことは事前に調べていました。


 ここでも綾瀬さんのカレンダーの撮影が行われたようです。14年カレンダーはすべて会津で行われたようです。ここまで来るとコンプリートしたい気持ちもあるのですが、残念ながら飯盛山と、現在の日新館は今回は行くことはできません。


 何となく記憶に残っている建物と風景。


 池を巡ると、思いがけず与謝野晶子の歌碑がありました。


 実際にここを訪れて詠んだ歌のようです。


 ここに稲森いずみさんがいたのだと思うと、ちょっと不思議な感じもします。


 庭園を一周して池の前の板張りの歩道に腰掛けていたら鴨が目の前にやってきました。手を伸ばせば届きそうなところまで来て、全く臆する素振りも見せません。


 もう見るものも行くところもないので、閉園時間の17時近くまでゆっくりします。彼等をぼんやり眺めているだけで癒されます。


 チケット売り場の側に別のポスターが、この銅像がだれのものかは確認できませんでした。


 八重の桜のポスターもあります。16時45分、旅館に向かいます。


 御薬園から西へ250m、スーパーで夕食を調達します。本当なら旅館でとるつもりだったのですが、楽天トラベルのプランでは朝食付きか素泊まりしかありませんでした。


 スーパーから西へ550m、会津工業高校の北側を通過します。


 会津工業高校からさらに西へ450m、市役所の前に来ました。古くて立派な建物、こういう建物がそのまま使われているところは少ない、姫路も素っ気ないつまらない建物になって、古い市役所は美術館になっています。


 市役所から西へ100m、蒲生氏郷の墓所がありました。ここから北へ少し入るようですが。蒲生氏郷は石田三成に暗殺されたという説があることを今回初めて知りました。


 すぐ国道118号の交差点があり、右折してしばらく国道を北へ向かいます。


 国道に面した空き地に思いがけず松江豊寿の解説板がありました。松江は板東俘虜収容所の所長、「バルトの楽園」で松平健が演じた人です。会津戦争から4年後の生まれですが、この人が会津の人でなかったら楽園は存在しなかったでしょう。徳島で日本最初の第九が演奏されることもなかった。


 国道から1本西の筋に入ってきたところに蒲生氏郷の解説板がありました。何気なく歩いているだけなのに、本当に歴史のあるまちを実感します。


 御薬園から40分、ようやく本日の宿に到着です。歩数計では25km以上になっていますが、実質は22kmくらいだと思われます。


 旅館の踊り場にも「八重の桜」、会津散歩はこれにて終了、きれいに締まりました。


9月9日 広野町にて

2014-09-10 | 14年青春18きっぷ


 会津散歩の翌日は、会津若松駅6時36分発郡山行きの列車に乗り、郡山から磐越東線、いわき駅から常磐線に乗り換えて、11時15分広野駅に到着しました。
 9年ぶりに「汽車」の歌碑が迎えてくれます。


 改札を抜けて先ず目に付いたのが線量計、この数字は会津若松のそれとほとんど変わらない数字です。危険を知らせるためでなく安心を知らせるために設置されているようです。


 駅舎に「とんぼのめがね」のパネルがあります。9年前にはなかったと思います。作曲の平井康三郎は明徳義塾高校校歌の作曲者として知られていますがぼくの高校の校歌の作曲者でもあります。


 サンドウィッチマン、説得力があります。


 かわいい駅舎ですが無人駅ではありません。
 広野町は震災の年4月22日に緊急時避難準備区域に指定され、同年9月に解除されました。町役場は3月15日に小野町に移転、4月15日にいわき市に再度移転、翌年3月1日に広野町に戻ってきました。小学校中学校は12年の8月から再開されました。住民登録は震災前の92%であまり減っていませんが、実際に町内に居住している人は震災前の35%くらいだそうです。


 駅前の自転車置き場、こうして見る限りはごく普通ではありますが。


 駅前広場にある町内地図です。9年前にもあったのですが、その時は「とんぼのめがね」の歌碑、は記されていませんでした。それで結局見られなかったのですが、今回はこの地図を見るまでもなく、きっちり把握しています。


 駅前の県道356号に出てきました。車の通りは少なくなくて、前に来たときよりも多いのではないかと思うほどでした。


 県道沿いに見るからに新しい和菓子屋さんができています。


 ゴミ収集車も来ています。


 クリニックの駐車場もほぼ満車で、とても3割ほどしか戻っていないことが信じられないくらいです。


 クリニックから少し登ると中学校の体育館が見えてきました。体育館のこちら側がちょっとした公園になっているはずです。


 公園の東側、一段低いところを小川が流れています。


 公園に上がっていくと、


 南の端に9年前には見ることのできなかった歌碑が見えてきました。


 植木の手入れが行き届いていなくて、埋もれるような感じです。


 書は作曲者の平井康三郎によるもの、1995年11月の文字が隠れています。ひろの童謡まつりが94年から開催されていて、それを記念して建立されました。とんぼの下の方には楽譜と解説文が記された金属板がはめ込まれています。


 思いの外駅から近くて20分ほどで駅に戻ってきました。おかげで、予定していた列車より1時間以上早い列車に乗ることができました。宿のある小田原にも1時間くらい早く到着しました。小田原駅の近くにあるみやこ旅館はぼくの大好きなタイプの古い旅館で、旧東海道を歩くときには絶対にまた泊まろうと決めました。


9月10日 鈴鹿市にて

2014-09-10 | 14年青春18きっぷ


 4日目は小田原発6時22分の列車に乗り、熱海、浜松、豊橋で乗り換え、名古屋からは関西線です。名古屋から快速で42分、11時52分河曲(かわの)駅に到着しました。


 駅舎らしきものが見あたらない無人駅です。11年ぶりにこのへんぴな駅に降り立ちました。


 11年前はここから北西に2km、東海道の宿場、石薬師の街の中にある佐佐木信綱記念館に行きました。展示の中で印象に残ったのは系図です。佐佐木信綱は近代短歌の重鎮でその弟子の系図が膨大なものでした。弟子の弟子の弟子、ともなると全部合わせると数百人という規模です。その末席に俵万智さんの名前もあり、文庫には彼女の著書も数冊並んでいました。俵さんは信綱の孫佐佐木幸綱(早稲田大学教授)の弟子なのでした。その時はもちろん気がつかなかったのですが、探せば村岡花子の名前があったことは間違いありません。
 今回は全く逆で南の鈴鹿市街地に用事があります。


 駅舎がないものだから、駅前のロータリーの入口に駅名表示がはっきりとあります。こういう駅はあんまりないと思いますが。


 駅前から川沿いの県道115号を東に向かいます。


 駅から500m、右折、木田橋を渡ります。川は鈴鹿川。


 鈴鹿川を渡って700m,JAの前を通過、


 さらに500m行くとファミリーマート、帰りに昼食を買うことにしましょう。


 すぐ近鉄鈴鹿線の踏切です。この踏切を渡ったあとが5差路になっていて、鈴鹿で唯一の迷い所です。


 この道で間違いないとサークルKの前の道を進んだのですが、300mほど行くと何か違うと感じて地図を見直すと、きっちりはずしていました。時間に余裕があったので慌てはしなかったのですが、だれも見ていないのにすっごく恥ずかしいです。


 鈴鹿市の中心、神戸は伊勢街道の宿場町。東海道の宿場、石薬師よりも大部大きな町だったようです。伊勢街道はここから800mほど東、市役所と市民会館の横を走っている県道8号で、南で国道23号に合流します。


 踏切から800m、鈴鹿郵便局の前を通過、ここまで来ればもう大丈夫、すぐ先の信号を左折すれば目的地はまもなくです。


 左折して250m、鈴鹿市文化会館です。目的地はこの南にある図書館です。


 文化会館の正面です。


 市立図書館の前庭に目的の歌碑が見えてきました。



 一  卯の花のにおう垣根に    5,7
     ほととぎす早も来啼きて    5,7
    忍び音もらす夏は来ぬ    7,5
 二  さみだれのそそぐ山田に   5,7
    早乙女が裳裾ぬらして    5.7
    玉苗植うる夏は来ぬ     7,5
 三  橘のかおる軒場の      5,7
    窓近く蛍飛びかい      5,7
    おこたり諫むる夏は来ぬ  8,5
 四  棟ちる川べの宿の     5,7
    門近く水鶏声して      5,7
    夕月すずしき夏は来ぬ   8,5
 五  五月やみ蛍飛びかい    5,7
    水鶏鳴き卯の花咲きて   5,7
    早苗植えわたす夏は来ぬ  8,5

 11年前、佐佐木信綱記念館から河曲駅に向かうとき、首を傾げながら歩きました。近代歌壇の巨星にして万葉集研究の第一人者、定型詩の権化ともいうべき人がどうして、このような詩を書いたのか。三行目だけ5,7が逆になっているのもおかしいし、なにより、三番から五番までは8,5になっているのはあり得ないといってもいいくらいです。
 帰宅してしばらくして、「唱歌・童謡ものがたり」という本を読んでいると、その解答が書かれていました

「今度『国民唱歌集』というのを作ることになって、私も曲を作りました。この曲に日本風の歌詞をつけてもらえませんか?」。小山作之助が佐佐木信綱にこう切り出したのは、1895年の初夏のころだったらしい。
 小山は東京音楽学校の、少壮の助教授。佐佐木も歌人として名が知られ始めていた。特に佐佐木は翌年2月に結婚し、この前後に森鴎外らの文学グループに加わっている。二人にとっても、人生という舞台の初夏を迎えていた。
 「小山先生にお声を掛けられたことが、とてもうれしかったようだった。歌詞ができると、早速、人力車に乗って自分で小山先生のお宅に届けに行ったそうです」。佐佐木の門人にはそんな逸話を証言する人もいる。
       「唱歌・童謡ものがたり」  読売新聞文化部 著  より引用




 これにて今回の旅は終了、何とかすべての予定をこなすことができました。予定にはなかったものもいくつか見ることができて、かなり満足の旅でした。

   宿泊費(全て素泊まり) 12600円
   食費           2023円
   鶴ヶ城           410円
   会津武家屋敷        850円
   御薬園              320円
   青春18きっぷ(4日分) 9480円   合計 26283円


浜松

2014-09-10 | 14年青春18きっぷ

9時23分発、豊橋行きに乗り込んだところです。


熱海

2014-09-10 | 14年青春18きっぷ

 6時49分発、浜松行きに乗り込んだところです。


4日目

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 6時22分発、熱海行きを待っているところです。


平塚

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 17時30分発、小田原行き快速アクティーを待っています。


東京

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 16時22分発、沼津行きに乗り込んだところです。


土浦

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 15時00分発、上野行き特別快速に乗り込んだところです。


水戸

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 14時01分発、土浦行きに乗り込んだところです。


いわき

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 12時09分発、水戸行きに乗り込んだところです。明るい内に宿に入れそうです。


広野

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 予想以上に用事が早く終わって、予定より1時間早い電車に乗ります。


いわき

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 9時38分いわき駅に到着しました。乗り継ぎに1時間以上あるので駅前のスーパーで昼食を調達して来ます。
 常磐線下り広野までだったのが竜田まで伸びたようです。


郡山

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 8時00分発、いわき行きに乗り込んだところです。途中リカちゃんキャッスルのある小野新町には以前降りたことがあります。リカちゃんではなく丘灯至夫記念館に行くためでした。