WALKER’S 

歩く男の日日

宿の予約はいつしたらいいの?

2024-02-28 | 日記

 すねどらさんのライブでこの3月から14日間の区切りで初めての歩き遍路をする女性が、質問を投げかけていた。明確な回答はライブではされなかった。
 初めてのお遍路だとどれくらい歩けるかわからないからどのあたりの宿に予約を入れるかそれすらも見当をつけにくい。でも前日に予約を入れてもめぼしい宿はほとんど満室で取れないであろう。昨年の春はとくにひどかったらしい。41番で会った夫婦遍路さんは3月の徳島の宿は全く取れなかったという。どれくらい前に予約を入れたかは聞かなかったけれど、ことごとく断られたので予定を全く変更するしかなかった。やり直しでは1か月くらい前から予約を入れるようにしてきたと。昨年の春はコロナで待ちかねた外国人お遍路が押し寄せた、徳島の遍路宿では日本人より外国人のほうが多かったとよく聞かされた。コロナ前の一番多かった時の倍くらいの外国人が四国を歩いたという統計もある。
 今年の春も外国人の勢いは衰えていないと思う。外国人がよく利用する1番門前のお遍路ハウスではこの先1か月の予約がほとんど埋まっていて空いているのは3日間だけ、1組しか泊まれない宿だけれど昨年春でもこれだけ埋まることはなかったと記憶している。5番の前の森本屋さんもかなり埋まっているし、ほかのお遍路ハウスも昨年以上の感じがしている。
 だから、どれくらい歩けるかなどと悠長なことを言っている場合ではない。20km平均で歩くのだと決めてかかってできるだけ早く徳島の宿は予約を入れてしまいなさいとぼくはアドバイスする。それほど足が速くも強くもない東生佳子さんでも1日目=安楽寺、2日目=旅館吉野、3日目=すだち庵、4日目=名西旅館花、に泊まった。これくらいはお遍路を始める1か月くらい前に予約を入れておくべきだと思う、特に吉野とすだち庵は3月だとすぐに満室になる可能性が高いから早ければ早いほど良い。宿がないと本当に安心して歩くことすらできないから徳島の宿はまず決めてしまうこと、そしてその宿まで何が何でも歩き切るのだと強い意志を持つこと、歩くのに自信がないという人でも20kmまでなら東生さんのように何とかなるはず。
 初日、安楽寺の宿坊は現在2月28日の時点で3月の予約は7割くらい満室になっている。21日以降は全滅、春休みだし桜も満開だからね。安楽寺に断られた場合5km手前の地蔵寺近くの森本屋、安楽寺の1km半手前の寿食堂、安楽寺の3km先の越久田屋は安楽寺まで送迎してくれる。この3つと十楽寺の宿坊がある。十楽寺は時々休んでいることもあるのであてにしないほうがよい。
 11番の近くの旅館吉野が取れなかった場合、すぐそばに「お宿イレブン」というのができた。ただしこれはドミトリーでシャワーしかない。夕食もない。これが嫌だというならできるだけ早く吉野に電話を入れるしかない。3km手前の鴨島駅の近くにもいっぱい宿はあるけれど山登りの前に3km歩くとかなりの負担になるかもしれない。山登りだけで7時間かかるという人はいっぱいいるからね。
 そして12番の後のすだち庵はメールで予約できるので外国人にすごい人気、知らない外国人はいないといってもいいくらい。10人くらいは泊まれるけれど3月4月の予約は1か月前でも難しいかもしれない。もしすだち庵の予約が取れない場合は「moja house」がある。すだち庵のところまで車で送迎してくれる。ただしこの宿も相部屋オンリーで8人まで泊まれる。宿にあぶれる心配はないけれどそういうハンデを背負うことになるから、くれぐれも予約は早めにしたほうが賢いということ。
 4日目の13番のそばの宿が満室だった場合はそこからバスに乗って徳島の中心部に出るという手があったけれど、13番の前まで戻る朝の早いバスがなくなったのでそれも難しいことになってしまった。結局早め早めに宿に予約を入れることがいかに大事かということ。宿さえ決まればそこまで一生懸命歩くだけでいいんだから。


四万十川手前の遍路道

2024-02-26 | 日記

11版までのへんろ地図にはなかった道が13版では赤点線の遍路道として記載されている。もちろん歩いたことはない。予定を変更して土佐佐賀から古津賀まで鉄道を利用してニュー民宿中村に泊まることにした。おかげで翌日この2本の遍路道を歩く余裕ができた。
 ニュー民宿中村は10年前まで民宿中村新館といっていた。その時に5回お世話になった。その後半は食事をしていなくて素泊まり専用になっていた。それがいつのことか食事ができるようになっていた。そのタイミングがニューに変わった時だったようだ。昨日、伊藤さんの話によると前のオーナーが近くの別の宿で働いている人に「買わないか」と持ち掛けたそう。最初はとてもとてもという感じだったらしいけど、その話が進んでオーナーが変わったということらしい。「民宿中村」の大きな看板が4階建ての上についているから名前を変えるわけにはいかなかったらしい。それで「ニュー」にしたようだ。6年前「ニュー」になってから泊ったというご夫婦に宇和島の宿で同宿になった。新館ではなくニューといわれたので別の宿だと当初勘違いしていたけれど、やっぱり別の宿になっていたことが初めて分かった。昨年松尾峠で会った滋賀の人が食事がすごい宿だと熱弁していた、ぼくは素泊まりばかりだったからもう一度食事付きで泊まってみたいと思った。昨日伊藤さんもすごくいいと言っていた、女将の客あしらいが見事だと、食事以上にそちらを強調していた。18回巡って何百という宿に泊まっている伊藤さんがそれだけ感激する女将にぜひ会ってみたいと思った。

けいほうさんの提案

2024-02-25 | 日記

 お遍路交流サロン関西で先達歴16年の福田恵峰さんがこれからお遍路を始めようとしている女性にアドバイス、先達でありながらけいほうさんは金剛杖を使わない、杖が必要な山道は遍路道全体の5%前後といわれる、平地では金剛杖は持て余すことが多い。伸縮自在の登山ポールを使っていると彼女は言う。それも力が入りやすいT字グリップのポールを使うべきだと。ぼくはT字グリップに近い形の蝙蝠傘を杖代わりに使っているのでその意味をだれよりも認識しているつもり。
 それにしても、お遍路未経験の人を前にして何をアドバイスしていいのかわからなかった。大事なことが多すぎて何が一番大事か何からいうべきか見当もつかなかった。いろんなことを一度に周りから次々言われても覚えきれないのではと思ったり。いったいどれだけの予備知識を身に着ければ良い遍路ができるのだろう。改めて初心を呼び起こされるような感じだった。


外国人が44%

2024-02-19 | 日記

 高松市で開かれた「四国遍路シンポジウム」で百十四経済研究所が報告したものです。

(百十四経済研究所 理事地域振興部/村尾耕太 部長)
「2023年では1543人にのぼり、コロナ禍を上回り、全体の44%を占めています」

 四国霊場11番札所、徳島県の藤井寺近くで行った定点調査によると2023年、歩き遍路をした外国人は1543人で、過去5年間で最も多くなりました。割合も全体の44%を占め、過去5年間で最も高くなりました。


でももちろんその全員が最後まで歩いたわけではない。結願したのは2割から3割の間、87番の近くのほとんどの外国人が泊まるゲストハウスの統計が証明している。徳島の最初の2日目の統計では44%かもしれないけれど途中で区切る人の割合は日本人よりもだいぶ多いようで、ぼくが昨年春逆打ちしたときの割合は24%で、秋に順打ちしたときの割合は35%だった。


ぼくの逆打ち(6年前の投稿再編)

2024-02-17 | 日記

 2年前まで逆打ちをするなど考えたこともありません、逆打ちをするのは御利益3倍などと言われるけれどぼくは御利益を求めて四国を歩いているわけではない、南光坊の納経所で、こうして四国を歩けていることこそが御利益です、と真面目に答えたことがあります。
 2年前、山茶花で知り合いのベテランお遍路さんが、別のベテランさんに一度くらいは逆向きの風景を味わうのもいいものだよと言われた、と聞かされました。知り合いのベテランさんもその時10回目だったのにまだ逆打ちはしていなかったのでした。見たことのない風景を見ながらずっと歩ける、また別の魅力を味わうことができるとその時初めて気づきました。でもその時点ではまだ逆に歩く気はありませんでした。
 その年は閏年、多くの逆打ちの人に出会いました、初めての四国なのに逆打ちをしている人に少なくとも5人出会いました。四国遍路は自由、迷惑をかけなければどんな歩き方をしてもよい、そういう人に対して何も言うことはないけれど、心の中ではそれは違うだろうというのはずっと思っていました、そう考えるのも自由です。その思いが時折頭の中を駆けめぐって、本当の逆打ちをやりたいという気持が盛り上がってきました。まあ、本当の逆打ちというようなものはないのかもしれない、それぞれの人がそれぞれの思いを持って歩けばそれでよい、他人がどうこう言うこともない、
 ぼくの逆打ちは、もちろん御利益を求める旅ではない、逆打ちの起源は衛門三郎がお大師さんに巡り会うために逆に巡ったことによる。ぼくが考えたのは先ずそこにあります。四国を歩く人は皆お大師さんと二人連れ、逆に歩けばより多くのお大師さんに会える。ぼくは順打ちでも300人くらいの歩き遍路さんに出会うけれど、逆に歩けばその3倍以上の人に会えるはず、考えればそれは大きな魅力です。宮崎さんもお遍路の魅力は人との出会いにあると言われた。ぼくは1000人のお大師さんに出会い、もちろん一人残らず挨拶することを目的に逆打ちを始めることにしたのでした。

 ぼくが順打ちで四国を一巡すると、大体300人くらいの歩き遍路さんに出会います。順打ちの人は歩いていてほとんどお遍路さんに出会うことがないと聞きます、逆打ちの人が多いと言う人が何人もいましたが、同じ方向に同じスピードで歩いていれば出会うことがないのはむしろ当たり前。ぼくは普通の人より歩く距離が長いので順打ちでも多くのお遍路さんと出会うことになります。ぼくは30日前後で一巡する、普通の人は40日前後で一巡する人が多いので10日~15日分のお遍路さんに出会うことができる計算です、それで300人ということは1日に20人平均のお遍路さんが旅立つ、逆打ちの場合は70日分のお遍路さんに出会うことになるから1400人の歩き遍路さんに出会えるはず、でもそれは単純計算で、近くの別の宿に泊まる人には会えないし、道が何通りにも分かれている箇所もあるし、食堂や道の駅で食事をとっている場合もあるということで、25%は少なくなるだろうということで1000人には会えると想定しました。昨年出会った外国人は13%、つまり逆打ちだと130人の外国人には会えるという想定で四国に入りました。
 リアルタイムで投稿してきたとおり、実際の数字は880人、内外国人は182人でした。外国人はツアー遍路の2組30人が含まれているので、それを除けばほぼ想定通りの数字でした。ここ数年で急激に増えた外国人遍路も昨年から今年はほぼ横ばいと見ていいのかもしれません。それに対して日本人の数は全く予想をはずれてしまいました。これは歩く人が減少したということではありません。札所間の距離が長いところで電車バスを使う人が想像以上に多かった、サンプルが少ないので断定的なことはいえませんが、ぼくの受けた感じでは少なくとも3割以上の人が乗り物を使っている、もしかしたら全部歩きにこだわっている人は5割に満たないかもという感じすらしました、通しで歩いている人も想像以上に少なかった、これもサンプルは不十分ですが3割以下かもという感じです。もっと多くの人に話を聞ければよかったのですが、すれ違いざまに引き留めて話を聞くというのはなかなかできるものではありませんでした。自分のペースが保てないこともあるし、それ以上に相手の歩きを妨げることにもなるから遠慮しがちにならざるを得ません。そもそもそういうことは本来のお遍路の目的ともはずれているので本当にごくたまに何かの拍子でやっとできるという感じでした。

 順打ちですれ違う何人ものお遍路さんに、逆打ちですかたいへんですね、と声をかけてもらいました。なかには、ぼくなんかとてもできない、という人も。たしかにぼくも5回6回巡っても自信はなかったし、まだ怖いという感じも残っていました。とにかく距離が1200kmだから何回巡ったところで全部の道、全部の分岐やその出口を把握できているわけがないと、ずっと思っていましたし、今回の旅に出る直前まで確かめておかねばならないポイントを選び出すことに疲れて半分ほど地図に書いたり印刷している内にもういいやという感じになって、きっちり最後までできずに出発してしまいました。順打ちの時は地図を持たずに歩いていましたが、今回だけは英語の地図だけでも持ちたかったのですが、納経帳が3冊で、写経も5円玉も削ったので地図を持つわけにはいきませんでした。
 四国に出てからここは調べておきたかったという箇所に気づいて、宿においてある地図や休憩所で出会ったお遍路さんに確認させて貰うことも何度かありました。22番奥の院弥谷観音の入口はそれで迷わず入ることができました、その後の納経してくれる真光寺は全然分からなくて阿波福井駅の近くの理髪店の人に訊いたら丁寧に教えてくれました。これは訊かなかったら絶対辿り着けなかったというくらいの所にありました。結局不在でしてもらえなかったのですが、今年の夏、青春18きっぷで21番太龍寺の奥の院黒滝寺(四国曼陀羅88ヶ所の88番でもある)に行くのでそのついでに行くことができます、へんろ地図にも載っていない奥の院はこの黒滝寺と雲辺寺の奥の院長福寺、そして55番元札所大山祇神社くらいでしょうか、あとは日本語の地図には載っていない所は何ヶ所かありますが英語の地図にはきっちり載っています。33番奥の院の中谷堂もゲストハウス40010においてある英語の地図で確認させて貰いました。そこに英語の地図がなければ今回は諦めているところでした。昨年できたばかりのゲストハウスですが英語の地図も日本語の地図もおいてありました。そしてこのゲストハウスには英語の遍路地図をつくられた松下直行さんも宿泊されています。
 55番元札所大山祇神社はしまなみ海道、橋をいくつか渡った大三島にあります、昔は橋もないし遠すぎるので別宮大山祇神社が南光坊のすぐとなりにつくられた。ぼくは来年この大山祇神社にも行くつもりです、もちろん歩いてでも自転車でもなくバスで行きます。今治駅から急行バスが大山祇神社の前まで通じています。それから別格20番大瀧寺は88番大窪寺の奥の院にもなっています、大窪寺の奥の院は胎蔵峰であることは地図にも出ているのでよく知られていますが、大瀧寺も奥の院、このように複数の奥の院があるところは珍しくありません、ということで来年はさぬき温泉に泊まって翌日大瀧寺と胎蔵峰の両方に登ることになります。

 この表題で皆さんが一番知りたいことを最後に書きます。
 何回くらいどこで道をはずしたか、これから逆打ちをする人のなかには参考にしたいという人もいるかもしれません。
 出会ったお遍路さんの数やお接待して貰った数はきっちり記録していたのですが、はずしたところは記録してこなかったので、記憶の範囲ということになるかもしれません。
 最初にはずしたのが屋島の登り口、最初にして最大のタイムロス、ここは本当ならきっちり調べて地図を作っておくべき箇所でしたが、出発前には気づかないままでした。屋島東小学校を過ぎてまもなく二またを左へ、これは問題なかったのですが、その先560mで左に折れて登っていくところを200mの所で左へ折れてしまいました。これはその日の表題にもしたように本当にトラップのようなものでした。その角に上から下りてきた人のためのように右折れの矢印があったのです。普通もっと向こうで下りてきたのならその地点の矢印は向こう側に直進の矢印を付けるべきでしょう、それを見たものだから迷わず左折してずいぶん登ってうろうろして、結局引き返すはめになりました、30分近いタイムロスだったと思います、動揺してタイムは記録していませんでした。本当の道はもう少し真っ直ぐ行くと神社の鳥居があってちょっと斜め左になって二つ目の左折ポイント(鳥居から120m)が正解です。2日目でこんなに大きくはずしたのでさぞやがっくり落ち込んだと思われるでしょうが、最後屋島に上がっていく直前に歩きの人とすれ違って立ち話を普通にしていたのでそんなに引きずってはいないようでした。お遍路は受け入れるしかないと、常々思いこんでいるので、まあこういうこともあるさと、受け流すことはできていたようです。その日の宿が17時チェックインなのでそれくらいのタイムロスでも余裕がありました。
 2回目にはずしたのはその翌日、鬼無駅の手前のところです。ここは危ないなと初めから思っていて、きっちりその通りになってしまいました。覚悟していたので5分くらいのタイムロス、ここはベテランの人でもかなりの人がはずすような感じです。
 3回目も同じ日、鴨川駅の近くの踏切を渡って300m先の二また、ここは一旦立ち止まって迷いました、迷ったあげく右へ入ってしまいました、ここも5分ほどのタイムロス、
 4回目はその翌日、丸亀の中心部のクランクになっているところ、気をつけながら歩いていたのですが1本早めに右に折れてしまいました。そのまま行って本当の道に合流、タイムロスは1分あるかないか、これは仕方ないかなという感じです、
 5回目は、そのすぐ後、道隆寺のすぐ手前、やっぱり早めに左に折れてしまいました、ベテランはどうしても知ったかぶりで早とちり、ここは2分ほどのタイムロス、
 6回目もそのすぐ後になってしまいます。道隆寺を出て2.7km、神社の中を通るところ、ここも危ないと思っていました、最後のところで右に折れずまっすぐそのまま行って50mほど過ぎて気づいてその先で右に折れて合流できました。1分ほどのロス、ここは誰でも普通に外しそうな感じです。
 7回目も同じ日、弥谷寺の手前、高速道の下を抜けるところ、本来のトンネルの手前のトンネルを抜けました、これはタイムロスなし、それを見ていたすぐ先で出会ったお遍路さんにぼくが来た道は間違いで正しいトンネルを教えました、
 8回目はその翌日、椿堂のすぐ手前、椿堂に上がるところをまっすぐ下へ行きかけました、すぐに気がついたのでロスは1分もありませんでした。
 9回目はその翌日、三角寺からの下り道でした。この古い遍路道はぼくは今まで1回しか登ったことがないので全く記憶に残っていなくてかなり厳しいと思っていました。できれば10回以上登っているいつもの新しい自動車道とその短絡路で行こうかとも思ったのですが、逆打ちの目的は多くのお遍路さんに出会うことなのでメインのルートをはずすわけにはいかない、それで結局はずすべき所ではずしてしまいました。毎回この道を登っていれば問題なかったかもしれませんがなにぶんぼくが登ったのは12年も前の一度きり、15分ほどのタイムロス、引き返さずそのまま違う道で下りてきて戸川公園の下で合流です。
 ここまでで6日間、この割合で行けば50回近くはずす計算ですが、はたしていかに・・・・・

10回目に道をはずしたのは、四国に入って8日目の4月9日でした。54番延命寺の手前、お墓の中へ上がっていく少し手前で変なところに上がってしまいました。すぐに気がついたのでタイムロスは1分ほどでした。普通に真っ直ぐ行けばちゃんと道しるべもあるところでした。
 11回目は6日後の4月15日、龍光寺の裏山に入っていくところ、矢印もないところで先走って左に折れてうろうろ、ここもそのまま普通に行けば矢印がはっきり分かるところでした。5分ほどのタイムロス、
 12回目は11回目から7日後の4月22日、仁淀川大橋を渡って700mほど先、太い舗装道から細い道に入っていくところ、道が分かれていてどちらでもほとんど距離の差はなく、したがってタイムロスもない細かいミスともいえないところでした。
 13回目は2日後の4月24日、1日中雨が降っていた日です。国分寺の手前2.3km地点、四国のみちの木製道しるべがあったのですが、その方角が何度見直しても微妙な角度で、土手の道か下の道か判別がつかなくて、土手に上がってしまいました、合流ポイントで矢印を確認したら下の道が正解でした。タイムロスはありません。
 14回目は同じ日、国分寺を出て2km地点、ファミリーマートの大きな交差点からすぐ先で左折するところを結構行き過ぎてしまいました、分かっていたのですが、その部分拡幅工事で1年前と風景がかなり違っていて何となく見落としてしまいました。傘をさしていて腰から下びしょぬれで疲れていたというのもあったのかもしれません。15分ほどのタイムロス、
 15回目はそれから3日後の4月27日、津照寺の手前1km地点、国道を横断して100m先の二また、これは意識しないと普通に右に行ってしまいます。右の方が道が太い、突き当たってようやく間違いに気づいて左折、すぐ合流できるのでタイムロスは1分もないくらい、
 16回目はその2日後の4月29日、薬王寺から5.8km、山座峠の800mほど先、それが俳句の道だと矢印もないのにまた早とちりして右の方に入ってしまいました、終点の海岸まで下りてまた引き返すはめに、たっぷり20分のタイムロス、上がってきて200mも行かないうちに俳句の道が現れてしかも道しるべもいっぱいでさすがにがっくし、でもそれでいいこともありました。そのあと迷っていなければ会えなかった5人以上に出会えていろいろ立ち話できたのでごきげんでした、真光寺で納経できなくても全然がっかりしませんでした。 
 17回目はそれから3日後の5月2日、結願の前日です。藤井寺を出て500mのところ、ここも屋島のトラップと同じで、矢印があったので早めに左折してしまいました、この道を来たのは過去3回くらいなので仕方のないところでしょう、タイムロスは3分ほど。
 18回目は同じ日、藤井寺から3.2km地点、踏切を渡ったところが二またになっていて何も考えず左へ、というより二またになっていたのも気づいていませんでした。傘で視界が狭くなっていたからかもしれません。国道に出てようやく変だなと気づいてあたりをグルグル15分ほどのロスで赤線に合流しました。
 19回目も同じ日、この日はもう明日が結願で焼山寺も越えてきて余程気が抜けていたのか疲れていたのか。八幡郵便局で翌日のための百円玉を下ろしたその直後、200mほど先で二またになっていたのにまた気づかないまま普通に左の方へ、ただしその後ビジネスホテル八幡に泊まるので、八幡までならどちらも同じくらいの距離でタイムロスは1分あるかないかでした。
 道を外してしまったのは以上で全部、と言いたいところですが、もう1回だけ20分ほど彷徨ってしまった箇所があります。そこは順打ち1回か2回で逆を歩いた人でも絶対間違わないような所です、だからここで公表するのはとても恥ずかしいし情けない、でもそういうひどい思い込みで道を外すということが普通に起こるのが逆打ちというものでしょう。ぼくは20回で済みましたが、回数の少ない人や、地図を読むのが苦手な人は、いったいどこでどれくらい外すのか全く予想も見当もつきません。
 でも思っていた以上に逆打ちの人のための矢印も残っていたし、両方のための道しるべも少なくなかった、地図をしっかり見ていればそんなに苦労したりうろたえたりすることはないのかもしれません。逆打ちをするという人はそういうことを全て受け入れ、それを楽しめるくらいの余裕を持って歩いて欲しいものです。


篠栗タイムメモ

2024-02-17 | 日記
33 本明院              7:05   5
21 高田虚空蔵堂        7:20   1
37 高田阿弥陀堂        7:30   4
69 高田観音堂          7:45   4
32 高田十一面観音堂    8:05   8
 4 金出大日堂          8:25   2
35 珠林寺薬師堂        8:40   1
86 金出観音堂          8:50   5
27 神峯寺              9:05   4
87 弘照院              9:20  10
15 妙音寺              9:40   4
66 観音坂観音堂       10:00  38
49 小松尾山雷音寺     10:50   4
47 萩尾阿弥陀堂       11:10   1
76 萩尾薬師堂         11:20  22
16 呑山観音寺         11:55   4
36 呑山天王院         12:10  47
70 五塔ノ滝           13:10  24
44 慈眼山大宝寺       13:50   6
43 源光山明石寺       14:10   2
82 鳥越観音堂         14:25  22
 7 田ノ浦阿弥陀堂     15:00   7
30 田ノ浦斐玉堂       15:20   1
80 田ノ浦観音堂       15:35   1
59 田ノ浦薬師堂       15:50   1
57 田ノ浦栄福堂       16:05   8
17 山手薬師堂         16:25   2
52 山手観音堂         16:40   1
11 山手薬師堂         16:55   3
25 秀善寺              7:05  10
40 一ノ滝寺            7:25  19
 6 小浦薬師堂          7:55   8
58 大久保観音堂        8:15  14
88 大久保薬師堂        8:40   1
85 祖聖大寺            8:55   1
12 千鶴寺              9:10  10
50 郷ノ原薬師堂        9:35   1
 5 郷ノ原地蔵堂        9:50   5
75 紅葉ヶ谷薬師堂     10:10  14
34 宝山寺             10:40   1
81 二瀬川観音堂       10:55  20
22 桐ノ木谷薬師堂     11:30   2
55 桐ノ木谷大日堂     11:50  13
53 桐ノ木谷阿弥陀堂   12:15  14
56 松ヶ瀨地蔵堂       12:45   1
 2 松ヶ瀨阿弥陀堂     13:00   3
60 神変寺             13:15   3
31 城戸文殊堂         13:30   1
 1 南蔵院             13:45   1
45 城戸ノ滝不動堂     14:00   1
13 城戸大日堂         14:20   1
71 城戸千手観音堂     14:35   3
 3 城戸釈迦堂         14:50   2
74 城戸薬師堂         15:05   1
72 田ノ浦拝師堂       15:15   8
78 山手阿弥陀堂       15:40   9
67 山王薬師堂         16:05   4
77 山王薬師堂         16:25   6
39 篠栗山延命寺 
48 中ノ河内観音堂      7:05   4
20 中ノ河内地蔵堂      7:20   5
14 二ノ滝寺            7:35   2
24 中ノ河内虚空蔵堂    7:50   6
42 中ノ河内仏木寺     8:10   9
83 千手院              8:30   1
65 三角寺              8:40   4
63 天狗山吉祥寺        8:55  16
64 荒田阿弥陀堂        9:20   3
29 荒田観音堂          9:35   4
26 薬師大寺            9:50  30
若杉奥の院            10:35  44
68 岡部神恵院         11:30   1
46 岡部薬師堂         11:40   4
10 切幡寺             11:55   1
 8 金剛ノ滝観音堂     12:05   5
38 丸尾観音堂         12:20  15
41 平原観音堂         12:45   2
23 山王薬師堂         13:00   7
61 山王寺             13:20   1
73 山王釈迦堂         13:30   3
 9 山王釈迦堂         13:45  12
19 篠栗地蔵堂         14:00   3
62 石原山遍照院       14:15   3
18 篠栗恩山寺         14:30   8
28 篠栗公園大日寺     14:50   4
84 中町屋島寺         15:05   4
54 中町延命寺         15:20   4
51 下町薬師堂         15:35   1
79 補陀洛寺           15:50  24

民泊まるたや閉業

2024-02-07 | 日記


東洋町野根のまるたやさんが閉業になりました。実はこの話は1年前に泊まった時に聞いていた。その時は今年の6月までは営業できるという話だった。借家契約が8月に切れてそれでこの地を離れるということだった。家を買うことができれば続けられるけれどとてもそんなお金はない。知り合いのつてで高知の春野に引っ越されると聞いている。香川宇多津の善根宿うたんぐらさんが昨年暮れに閉業されたのも全く同じ理由からだった。


12年前のうるう年の話

2024-02-06 | 日記


 14:47
コミュニティバスは国道をローラーコースターのように飛ばす。大窪寺に着くと、歩き遍路さんが3人乗り込んできた。70歳の女性は神戸の人、60代の男性、20代の男性、いずれも初めてのお遍路だと言っていた。女性は昨日は屋島の宿から長尾寺門前のあづまや旅館まで、距離が短いので13時過ぎに着いてしまった。女将さんに、そのまま入ってもいいけどお遍路交流サロンまで歩いてきたら、と薦められたのでそのとおりにしてバスで旅館に戻ったそうだ。朝早くに宿を出ると交流サロンが開いていないこともあるから充分意味のあることだ。あづまやの女将にはものすごくよくして貰った、と感激していた。そう、ぼくも5年前あづまやでお世話になってとてもいい気持ちだった。これこそがお遍路の醍醐味、その醍醐味を野宿の人は味わうことはできない。お金がかからない分本当のお遍路を味わうこともできない、コスパはとても貧しいとぼくは信じている。
 女性は高速志度バス停で降りていった。男性二人はぼくと同じJR志度駅で降りた。電車で徳島に戻る、オレンジタウン駅で降りればよかったと後悔していた。手前のJR駅にバスが寄ることを分かっていなかったらしい。ぼくは駅には入らず、歩いて「表装の詠智会」に向かう。昨年の日帰りで位置は把握している。駅から8分で到着した。
 詠智会の奥さんは自ら何人かを先導して別格巡りもすると話していた。さっきまで雨の中大瀧寺まで登って下ってきたと言うと、それは値打ちあるわぁ、と感心してくれた。別格だけとなると距離がすごく離れている箇所がいくつもあるから車やバイクで巡る人が多いようだ。実際にバイクで巡っている人には二人会ったし、車で巡っている人も何組も見かけた。念珠の房の色は緑、形は利休梵天でお願いした。木箱にして欲しいと言ったら、使うのだから紙箱にしておきなさいと、全く商売っ気なし。今年の逆打ちツアーの盛況さにも半ば呆れていた。訳も分からず辰年の閏年は御利益が3倍というそのうたい文句だけで参拝者をかき集める旅行社のやり方には否定的だった。何しろ1月から始めて12月に終わるのはまだ分かるとして、6月から始めて12ヶ月で巡るツアーも募集しているのは理解に苦しむと嘆いていた。ぼくも、逆打ちの人には何人もすれ違ったけれど、その半分くらいはこちらから挨拶しても返事すらできない人たちだった。全く逆打ちの意味を分かっていない人たちだ。逆打ちは衛門三郎の故事に始まる。お大師さんに巡り会うために逆に打つ。すれ違う歩き遍路の人は皆同行二人、お大師さんと一緒に歩いている。お大師さんと会うために逆に打っているのにそのお大師さんと会ってなぜ挨拶すらできない。本当に嘆かわしい奴らだ。訳も分からず四国をさまよって真面目なお遍路さんのじゃまをするのは止めて貰いたいものだ。


篠栗マイマップも完成

2024-02-05 | 日記

朱色のマークは墨書のある札所(300円)、エンジのマークは墨書がない札所(100円)。3日間で結願する行程です。
 篠栗マイマップ

NHKこころの時代(2014年放送)より 

2024-02-05 | 日記

山下正樹(歩き遍路の会会長)   ・私のお遍路みち

 
山下正樹(公認先達 歩き遍路の会会長) 私のお遍路みち
弘法大師空海ゆかりの霊場をめぐる人達はお遍路さんと呼ばれています。
山下さんは70歳 これまでに四国88の霊場を全て巡る結願を10回果たし、お遍路の指導者としての役割を担う先達にもなっています。
山下さんがお遍路を始めたのが57歳の時、以来すべての行程を歩いて巡る、歩き遍路を続けています。
ひたすら歩く事で何が見えてきたのか、伺います。

88の札所を一巡りすると1200kmぐらい。
歩く醍醐味もあります。
最初の第一歩がなかなか踏ん切りがつかない、大変だろうとか、しんどいやろうとか、でも最初の一歩が踏み出さない限りは何も始めらない。
私はゆっくり歩くので50日かかります。
「もうちょっと頑張ったらお寺に着く」 「あわてないでいい」とか お大師様の声が聞こえる。
頑張っているから声が聞こえるのではないかと思っている。
ひたすら歩く事で常に自分自身と向き合う事になります。
(人生そのものに通じると山下さんは考えています。)
お遍路文化に触れられると言う事が一番嬉しいです。 地域の人が支えている文化。

①札所寺院 ②お寺とお寺の間を結ぶ遍路道 ③遍路道を支えている地域の方  
④遍路道を歩くお遍路さん 
この四つの要素で成り立っているが、一番大きなものが地域の方がお遍路さんを支えるお接待と言う文化を引き継いでいると言う事。
お接待 無償の行為、お茶を一杯差し上げる、励ましの声をかける。
なじみになって、泊っていきなさいとか言われる。(一般の家なのに)
お爺さんお婆さん、先代を見習って、お遍路さんを接待する、生活の一部になっている、すごい文化だと思う。
心が一緒にお接待として付いている。

12年の前に夏に初めてお遍路しました。(本格的に始めた12年前の時?)
10日間は梅雨の大雨の中で、梅雨が明けてカンカン照りで、高知県焼坂峠から下りて、添蚯蚓(そえみみず)を上がってゆくが(高低差400m)、その前に焼坂峠で全て水を飲みつくしてしまう。 困っていたときに農家のお婆ちゃんが呼んでいる。
死にとうぐらい喉が渇いており水を分けてもらおうかと思っていたら、お婆ちゃんが水を用意して待っていてくれた、本当においしかったですねえ。
一気に飲んだら、怒られる、急に飲んだら身体に悪いと。
家に帰って次の水を持ってきてくれた。
人対人がお遍路道の中につながりができる。(お接待)
人の優しさが身に沁みる。 結願したときには涙がボロボロでました。
「お陰さまで」と言う言葉が本当の意味で感じました。

(昭和19年広島生まれ 高校卒業後、大手都市銀行に就職、支店長を目指して日々励んでいたが、大きな転機が訪れたのは45歳の時でした。 
関連会社への出向、出世の道から外されたこと、慣れない職場でのストレスから50歳の時に尿管結石で1か月入院、この時歩きお遍路の事を知る。)
歩き遍路の体験記の本があった。 
だらだら生きるよりは新しい自分を探さないといけないと思った。
支店長に成れなかったのも、結果的に自分に実力が無かったのだと思った、それまでは人ばっかり恨んでいた。
平成14年6月、57歳で会社を早期退職、お遍路の旅に出る。
会社や仕事中心の生き方とは違う、新しい人生の価値が見つかった。

帰ってきた時に、もっと自分を生かせるところがあるはずだと、納得した仕事ができること、地位とか名誉ではなく、一番大事なのは会社人間は視野が狭いこと。
社会人間になろうとしたら、お互い平等の考え方がいるわけです。
お接待を受けた温かい心が私にそういう風に感じさせたと思います。
旅は甘くはなかった。 道に迷うし、トラブルがあり、足が痛くなったりしたが、その時に出会った地域の方々の温かい励ましの言葉、お接待で自分は生きているのではなく、生かされていると言う事が実感するわけです、それが自分にとって大きな収穫でした。
88番札所で結願して、一番思ったのはもうこれで遍路道を歩かなくていいと言う思いでした。
宿に帰って、朝起きると歩けないと言う寂しさが出てくる、これは不思議な気持ちでした。
お四国病 お遍路の魅力に取り付かれた病気 薬が無くてお遍路に行く事、心が落ち着く。

いろんな方が廻っていて、40~50日で廻っていて頭がクリアになる、一歩離れて自分を見つめることができる。
根底は自分の足で歩くしか解決しない、生かされてると感じた時は、自分も何かでお返ししなければいけない、物ではなく心で、だから私は出来ることで世の中にお返しをしようと思っています。
最初のお遍路を36日間で結願、高知県の島で環境保全、地域振興のNPO法人事務局長を務めることになる。
大月町 柏島 遍路道の資料を見つける。 復元しなさいということかと、直感した。
1200kmの内、土の道は100kmぐらいしかない。  土の道は足が喜ぶ。
地元の人と共に遍路道の復元をして、毎年地元の人が草刈りをしてくれている。
保存会の会長に翌年出会い、お年寄りが元気になったと言う事でした。
お遍路さんのお接待でいろんな話ができて、話題が増えて、元気になった。

今5つ目の古道の復元作業に入っている。
阿南市の山の中に在る道を地元の方と一緒にやっている。
21番札所太龍寺から山の中を抜けて22番札所平等寺に抜ける道6km。
江戸時代の道しるべが残っている。
太龍寺に上がる道、日本最古の遍路道 600年前の南北朝時代の年号の入ったしるべ石がある。
平成22年に遍路道で初めて国の史跡になる。

平成24年から子供達にお遍路の文化を伝えようと、お遍路授業を行っている。
一番嬉しいのは大きくなったら、私もお遍路に行きたいと言ったことです。
おさめ札 自分はどこから来たのかと書いた札を渡す。
旧庄屋(お遍路さんを泊めていた) 屋根裏の俵に1万5000枚のおさめ札が入っていた。
1番から順に廻る順うち 88番から逆に廻る逆うち 2つの廻り方がある。
平成16年 逆うちのお遍路に初めて出会う。
いつまでたってもお大師様にあえないので、反対に回ったらお大師様に会えると言う事で廻る。
反対に回ると全部のお遍路さんに会えることができる。
620人のお遍路さんに会えた。  

今治に59番札所伊予国分寺 58番札所仙遊寺がある。
仙遊寺にむかう逆うちをしていた時、5歳の女の子からわざわざ家から出て来て道が違うよと声をかけてくれた。
説明して納得してもらった、お礼にお接待で貰った飴を「お接待ですよ」と渡した。 
子供も喜んでくれたが私もわざわざ声を掛けてくれた事に感動した。
歩き遍路の魅力を広く伝えることをがライフワークとなる。
平成17年から毎年春に歩き遍路の入門講座を開き、参加者は250人余りになる。
お遍路によって今の自分がある。
文化遺産も沢山あるが、お寺とお寺を結ぶ遍路道、地域の方々 これが歩きお遍路さんを支えていると思います。
その一番大きなものが繋がり、ふれあい、心のやり取り もっと沢山の人に知ってもらいたい。
「お遍路では名刺と時計を置いてきなさい」と言われる。
目標としては88歳までは歩き遍路をしようと思っている。

四国四県に跨がり、札所とも呼ばれる八十八の霊場を結ぶ巡礼の道。弘法大師(こうぼうだいし)空海ゆかりの霊場を辿るこの巡礼道は、平安時代に開かれたと伝えられ、巡礼する人たちは、「お遍路さん」と呼ばれます。お遍路の一人山下正樹さん、七十歳。これまでに八十八の霊場をすべて巡る結願を十回果たし、お遍路の指導者の役割を担う先達(せんだち)にもなっています。山下さんがお遍路さんを始めたのは、今から十二年前の平成十四年、それ以来すべての行程を歩いて巡る「歩き遍路」を続けています(四国八十八の札所一巡り大体千二百キロ位、大体五十日自分の足だけで歩いている)遍路道を歩くことは、自然の営みや人々の暮らしの息づかいを肌で感じることでもある。車で行く情報量と、歩いて行って目に自分の五官で感じる情報全然違う。例えば車でこの道を走ったとしたら、花が咲いているなんて気が付かんですよね。鳥が鳴いているなんてまったく気が付きませんけど、ほんとに自然の中を歩くというのは、それは最高の私は有り難い時間である(歩きやすいのは秋・ただ日暮れは早い)
①毎日我慢の連続でもありますけども、でもその先にはやっぱり最後結願した時の大っきな喜びがある。ひたすら歩くことで常に自分自身と向き合うことになります。それは人生そのものに通じる。一番の目的は地域の方々が支えていられる遍路文化(お接待)に触れられる。そこには身分差別が無く無償(期待がない)支え・支えられる人の平等がある。お遍路は私の心の拠り所ですね。非常に生きがいを感じます。このお遍路に絡むいろんな活動の中で、やはりお遍路することによって、私も新しい自分を発見できました
②山下さんは、昭和十九年に広島県の呉市で生まれました。高校を卒業すると、大手都市銀行に就職。支店長を目指して日々仕事に励んでいましたが、大きな転機が訪れたのは、四十五歳の時でした。関連会社への出向を命じられたのです。出世の道から外されたという失望感と、慣れない職場でのストレスが重なってか、五十歳の時尿管結石を患い、一ヶ月の入院生活を余儀なくされました。この時「歩き遍路」のことを知った。自分の生き方を自分で探さないと、グズグズしておっても人生は自分のもんですから、そういうのがようやくわかってきましてね。もう一つその時に考えたのは、銀行の出世ですから外れるわけですけども、それを人のせいにします―あの上司が何で認めてくれんのやとか、恨み辛みがズッと続くわけです。でも実際その本を読んだり、病院のベッドでいろいろ考えた時に、結果的に自分に実力がなかったということですよね。その支店長になれる力がなかったから外れていく。それがその病院のベッドの上でようやくわかりましてね。それまでは人を恨んでばっかりしておりました。新しい世界がやっぱり、その代わり踏み出すには勇気が要ります。一歩目を出せるかどうかですよね。 「このまんま多分ダラダラ生きるよりは、何かやっぱり新しい自分を探さないかん」ということを考えて平成十四年六月、山下さんは、五十七歳で会社を早期退職し、念願だったお遍路の旅に出ました。この初めてのお遍路で、これまでの会社や仕事を中心とした生き方とは違う、新しい人生の価値が見つかったと言います。 
③五十七歳初めての遍路になって、帰って来た時に、やっぱりもっと自分を生かせるところがある筈や。生かせるというのは、納得した仕事できる。地位とか名誉じゃなしに、あるいは社会に貢献するというのも大事やし、一番大事なのはやっぱり会社人間というのは、会社におる時は当然仕事はするわけですけども、非常に視野が狭いわけですよね。自分の目の前の仕事をこなすことで汲々しています。ところが社会人間という、まったく違った人間になろうとしたら、お互い平等の考え方が要るわけです。そこを一番強く感じましたね。それは各地のお接待して頂いたみなさんの温かい心が、私にそういうふうに感じさせたんやと思うんですけどね。 会社人間から社会人間へ変わった。当然初めてですから道に迷うし、いろんなトラブルもあったし、足が痛くなったりとか、その時に出会った地域の方々のとても温かい励ましの言葉とか、お接待とか、そういうもので、やっぱり自分はほんとに生きているじゃない、いろんな方のお世話で生かされているんだ、というのを、ほんとに実感するわけですね。それが一番自分にとって大きな収穫でしたね。そして最後に八十八番札所大窪寺でまあ結願のお経を読むわけですけども、勿論涙も出たけども、もうこれで遍路道を歩かなくていいと。でも宿に帰って―その近くの民宿に泊まって、朝起きると、今度は歩けないという寂しさが出てくるんです。ああ、これは不思議な気持ちでしたね。昨日まで歩かんでいいんやと思って安心しきるわけですね。夜が明けたら、えっ! もう歩かれんのやと思うわけですね。これはやっぱり何かを感じ取ったと思うんですね。身体は疲れ切っておるけど、心はもっと別のところで、「もっと頑張れ」とこういうているわけですね。まさにこういうのを「お四国病」と言いましてね。 ところがこの病に効く薬がないんですよ。どんな学者が研究しても薬ができあがらない。治すにはまたお遍路に来るしかない。だからお遍路に、次に行く時のことを、「お四国病院に入院する」という言い方をしています。心がやっぱり落ち着くんですね。それがいろんな感動を受けているから。私の場合は、新しい自分を発見できました。やっぱりお遍路というのは、ある意味でいろいろ心の疲れている人とか、行き先で自分の人生を悩んでいる人とか、いろんな方が回っています。でも自分を取り戻す、私は良い機会だと思う。約四十日から五十日歩くわけですから、頭の中は完全にクリアになりますわ。小さなこと、どうでもよくなる、小さな悩みなんかは。で、一歩離れて、自分を見つめることができるんですね。その根底は自分の足で歩くしか解決しない。一生懸命歩いていると、いろんな方の応援・お接待・お寺さんの応援とか、基本は自分が一生懸命歩くということなんです。楽をして回る方法はいくらでもあります。車で廻る。勿論それもお遍路です。事情があって歩けない人もいらっしゃるし、バスで行く人もいらっしゃる。これも遍路。遍路はいろんな形あります。でもやっぱり歩いて自分で苦労して、その遍路道と遍路道の間で出会う地域の方、この人たちとの接点・繋がり、これが私は一番大きな魅力だと思いますね。
④五十八番の仙遊寺のご住職がおっしゃるんですね。「お遍路では、名刺と時計を置いて行きなさい」と。名刺というのは、肩書きとか地位とか、いろんなものを―男は特に名刺の社会ですから、背中で背負っていますね。こんなものをお遍路に出て、例えば宿でこうやって話する。お遍路さんたちご飯食べる時に、「私はどこどこの会社の重役やなんや」と言ったって何の役に立たんわけですよ。お遍路さんみな平等やから。そんな肩書きを一生懸命語る人も中にはおります。ですからお遍路はお互いに平等で、そのためにこの白い白衣を着ておるわけですよね。いつまでも柵(しがらみ)とかせめてお遍路に来た時ぐらいは、そういう重たいものを脱ぎ捨てて、一人の人間としてやっぱり歩いてほしいですね。自分の存在が問われている。 「時計を置いて行きなさい」という言葉は、やはり我々忙しすぎるじゃないですか。せめてお遍路に来た時ぐらいは、時間から解放されて、ゆっくり寄り道しながらでも、許す範囲内で時間を忘れるべきですね
⑤遍路は文化。大月町には江戸時代からのこういう古い遍路道があって、たくさんの人が歩いていた。実は大月町にも、江戸時代からのお遍路さんがお礼に置いていったお札が残っている家がある。農家で屋根裏の俵の中に一万五千枚残っている、そこのお家には。凄いです。私たちが、お遍路に行く時は、「納札(おさめふだ)」と言って、自分は何者ですという書いた札を持っています。このお接待頂いた時も、このお札一枚お渡しするんですね。自分はどこから来ましたと。何のために廻っていますと。
この江戸時代からのこういうお札が残っているのは文化財です。一万五千枚、その俵の中に残っています。そういう旧庄屋さんの家ですけど「善根宿(ぜんこんやど)」、やっぱりお遍路さんを泊めておられたんですね。そういう貴重な文化資料が残っている、この大月の自分たちが住んでいるところにある文化を先ず知って、それによってそこを訪ねて来る人に親切にする。その子たちが大きくなった時に必ず思い出します。多分、そういう子どもたちがたくさん増えるほど、遍路文化は絶対廃れることはないですね
お遍路では、八十八の霊場を一番から番号順に巡る「順打(じゆんう)ち」と、八十八番から逆の順番で巡る「逆打(ぎやくう)ち」の二つの回り方があります。逆打ちは、順打ちに比べて三倍の御利益があると昔から伝えられています。山下さんは、平成十六年、この逆打ちのお遍路に始めて出ました。 昔御大師さまを訪ねて、松山の豪族が、御大師さんに無礼を働いたそのお詫びをするために、御大師さんを一生懸命追い掛けて歩いたけど、いつもまで経っても御大師さんに追いつかない。その男が考えたのは、反対に廻ったら御大師さんに会えるんじゃないかと。それが潤年だったという言い伝えがある。 逆打ちの良さは全部のお遍路さんと会えるということです。
二回目の逆打ちの時、私、秋でしたけど、六百二十人のお遍路さんと会いました。三年に一回ぐらい反対から廻ると、あ、違う景色に見えてくる。新しい発見がたくさんあるんです
⑥焼坂(やきさか)峠という峠―高低差二百メートルぐらいの峠を上がって、そこから下りて、今度は次のそえみみずという遍路道をまた上がって行くんですね。そこは高低差四百メートルぐらいでしょうか、約四キロ。最初の焼坂峠へ上がった時、もう持っているペットボトルの水みな飲み尽くしてしまうんですね、暑くて。これはえいことっちゃなと思って、下って行って、次のそえみみずの遍路道を上がる時に、農家のお婆ちゃん(奥代初子)が、「遍路さん!」私を呼んでいるんですね。
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この時はなんか地獄に仏かと思いました。もう飲みものがなくて、死にそうなぐらい喉が渇いているんですね。そのお婆ちゃんのところでお水を分けて貰おうと。ところが行くと同時にお婆ちゃん用意して待っているんですよ、お水を。美味しかったですね、この一杯の水が。ほんとに普通の水やと思うんですがね、なんとも一気に飲み干したら、今度はお婆さんに怒られるわけですね。「急に飲んだら身体に悪い」と言って。でも飲み干してしまっているんで、お婆ちゃんがすぐまた家へ帰って、次のお水を持って来てくれました。 その時お婆ちゃん確か八十ですね。以後毎年行く度に、私はお婆ちゃんの顔を見るのが楽しみなんですね。あのお婆ちゃん元気にしておるかなというて、その辺に来たら必ず寄ります。その時実は私、お婆ちゃんにこれ最初に頂いた賽銭袋なんです。
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「これを持って行きなさい」というて。 この中になんとビックリしたのは、五円玉が入っている。「ご縁がありますように」と、お婆ちゃんの心ですね

知多四国マイマップ

2024-02-04 | 日記

篠栗の札所地図はWeb上にあったけれど知多四国はないのでガイドブックを見ながら一つ一つ自分でマークを挿入していく。地道な作業、地図もダウンロードしてオフラインで使える。これで道を外すことはあっても迷うことはないと思う。四国でスマホの地図を見ながら歩いている人に冷ややかな眼差しを向けることもあるけれど、知多では完全に逆の立場になる。

 知多四国マイマップ  ルートのラインも引き終わりました。これで迷うことはほぼないでしょう。でも歩きながらスマホを見るのはできるだけ少なくしたい。時間があるので折に触れ道筋を記憶していきたいと思います。