WALKER’S 

歩く男の日日

長坂街道(新高野街道)

2010-07-25 | 新高野街道

 新高野街道は長坂街道とも云われる。紀和鉄道(現在のJR和歌山線)が開通し、高野口駅ができた明治34年(1901年)ころから、この道が盛んに参詣道として使われるようになった。そして、南海高野線が極楽橋まで開通する昭和5年(1930年)以降はほとんど歩く人はなくなったという。わずか30年間ほどの短い期間しか使われなかった。
 順番としては、室町後期から明治まで表参道として使われた京・大坂道(東高野街道)を歩きたかったけれど、梅雨終盤の大雨で流されてしまった。空撮のニュース映像は見たけれど、それがどの位置かいまだにはっきりしない。でも橋本市内の高野橋本線(県道118号)だということははっきりしている。東高野街道の最初の部分はそこを歩くので、今回は諦めざるを得なかった。

7月24日 8:53

15ヶ月ぶりに南海難波駅にやってきた。

7月24日 8:55

上から2番目、橋本行き急行に乗る。特急こうやは特急券が必要なので乗ることはできない。第一ぼくの下りる高野下駅には停まらない。

7月24日 8:57

急行はすでに4番ホームで待っている。乗り込んでまもなく隣のこうやが出発。特急料金は終点の極楽橋までだと500円。リッチな人々を見送る。

7月24日 9:54

橋本駅に到着、極楽橋行き各停は2分後に出る。

7月24日 10:00

紀伊清水駅で上り列車とすれちがう。その先頭に高野線全線開通80周年のプレートがある。つまり、ぼくがこれから登る長坂街道がさびれ始めて80年ということでもある。

10:03

学文路駅に到着、本当ならここから歩き始めるところだった。

10:06

九度山駅、町石道はここから歩き始める。ぼくがこの駅を降りたのはもう2年前のことになる。

10:09

高野下駅で降車、ここから歩き始める。明治から大正時代の参詣者は高野口駅からここまでも歩いたはずだけれど、ぼくはその部分はスキップせざるを得ない。

10:11

高野下はかつて門前町として栄えた所ということもあって無人駅ではなく駅員さんが迎えてくれた。もちろん自動改札機もある。スルッとKANSAIの加盟駅は無人でも必ず自動改札はあるようだ。JR四国ではいまだに車掌さんが改札をする駅が多い。

10:11

駅を出ると目の前の橋を渡る。川は不動谷川、九度山橋の所で紀ノ川に注ぐ。

10:11

橋を渡って右へ折れる。道は国道370号。

10:12

橋を渡って100m、椎出郵便局の前を左に折れて国道を離れる。

10:13

左に折れたところ、600mほど手前で国道に合流した県道118号がまたここから始まる。とても県道という感じではないけどね。

10:15

県道に入って2分で人家は一旦とぎれる。県道というより本当に街道、参詣道の趣がある。

10:15

もし、大した予備知識もなく、この看板を見ていたら、一瞬立ち止まって愕然としていたかもしれない。行き止まりの後、どういう道を行けばいいのか、丁寧な案内サイトを熟読してきたので何の心配もしていない。

10:18

県道を離れ左の道に入る、ここから本格的な登りになるはず。

10:19

写真では坂道は全然その感じが出ない。登り始めるといきなり20度はありそうな急勾配が待っていた。

10:20

右下10mに県道を見下ろす。勾配は全く衰えることなくどんどん高いところへ上っていく。

10:21

きれいに舗装されているし、木陰も十分で、勾配の割には登りやすい。きついといっても太龍寺の山門の手前ほどではない。実際は10度もないのかもしれない。

10:25

やや勾配が緩くなってきた、そろそろ一息つけるのかと期待したけれど、

10:27

少し緩くなったところで、野良仕事に来ていたおじさんに声をかけられた「高野山に行くの?」。はい、と答えるのがやっと、すでに下着はぐっしょりだ。それにしても、ぼくのように、ここを通って山に登る人がたまにはいるようだ。おじさんが生まれたときは極楽橋まで電車が通じていたから、ここがにぎわっていたことは知らないはずだ。

10:31

廃屋の前を行く。こんな山の中にという感じだけど、明治の末から大正にかけてはここが表参道だったから、ここに宿があっても何の不思議もなかっただろう。

10:33

ちょっと緩やかになって、一息つきながら登る。ここまで平坦なところはほとんどなかった。

10:35

県道に合流する。左に折れてしばらくはまた県道を歩くことになる。

10:35

県道に入るとまもなく、今度は右へ大きくUターンする。そのカーブのところから4人のハイカーが現れた。かなり年輩の男女で、ぼくに話しかけてくる。やはり、高野山に行くのかと、まず訊かれた。女性の一人がどれくらいかかるのかと尋ねる。2時間ちょっとで行ければいいなと思っています、と答える。正直なところ距離も時間もほとんど目算をつけずに歩いていた。初めての道だし、どういう坂があるか分からないし、見当をつけるのはほとんど無意味だと思っていた。

10:39

登り始めて21分、ようやく平坦なところに出てきた。そろそろ第一目標が近いかもしれない。

10:41

今度は比較的新しい廃屋、10年くらい前までは人が暮らしていた感じがする。それにしても、こんなに山奥で何にもないところに人が生活する理由が見いだせない。

10:43

最初の道標があった。高野山まで□里、△kmと2種類の表示があるようだけれど肝心の数字ははっきり読みとれない。読みとれたところであまり参考にはならない。脇の大正13年という制作年ははっきり見える。紀伊神谷まで電車が通じたのは昭和3年、終点の極楽橋まで通じたのは昭和4年だから、この道標が役に立ったのはわずか4年くらいだった。

10:44

苅萱堂の前までやってきた。先に見た看板の通りここで県道は行き止まりになっている。グーグルの地図でもそうだ。案内サイトで見たとおり堂は廃屋然としている。ここが参道ではなくなって80年にもなるから自然なことなのかもしれないけれど、

10:44

堂の前へ行って左を見ると、これまた案内サイトに書いてあった通り、何とか歩けそうな道があるようだった。

10:45

堂の左隣の建物もほとんど廃墟と化している。その前の道も荒れていて人通りはほとんどないことを伺わせる。

10:45

歩けそうな道が何とか続いている。幅の広い獣道という感じがしないでもない。

10:47

倒れた木が行く手を阻む。こういう光景は四国の遍路道でも時折遭遇することがある。四国ではたいてい翌年にはきれいに取り除かれている。こちらではそういうことはないのかもしれない。

10:48

今度は本当に道が完全にふさがれている。左側は崖になっているので右側の掘り起こされた根本をよじ登る、最後に1.5m位の高さを飛び降りなければならない。足首に自信がないので飛ぶことはできなかった。仕方ないので引き返して左側の崖側を何とかそろりそろりと越える。一仕事終えた感じだ。

10:51

越えてきた倒木を振り返る。これを越えるだけで3分もかかってしまった。このようにして廃道は自然に帰っていくのだろう。

10:52

高野山まで1里24丁、6600m、と読める。1丁(町)は109m、1里は36丁。

10:54

二つ目の目標、長坂地蔵に到着。野草がちゃんと生けてあることからして、面倒を見ている地元の人がいるのかもしれない。高野古道の看板があるけれど町石道に比べればかなり新しい道ではある。

10:55

長坂地蔵の前を過ぎてまもなく、次の目標である長坂大師の案内板があった。この道が一般の参拝者が往き来しなくなって80年は経つはずなのにこの看板は明らかに新しい。ここ数年ということはないにしても20年以内のものであることは間違いない。高野山ではなくここだけを目当てに訪れる人がいるのだろうかと、意外な感じがした。

10:58

3つ目の目標、長坂弘法大師に到着した。小さな祠があるだけだけれど、苅萱堂とは違って部分的に新しい木材で補修されているようだ。お参りに来る人はどれだけいるか分からないけれど、確実に現代に生きている。

10:59

案内サイトで見たとおり祠の右側を上がっていく道がある。高野古道の矢印もそちらを向いている。でも往時の参道はこの道ではなかったはずだ。弘法大師の前をそのまま行き過ぎる道が本来の参道だったはず。そちらの方に荒れてはいるけれど広い道が続いている。でもその先は自然災害かなんかで行き止まりになってしまったのだろう。それで無理矢理ここから右に折れてこの登る道がつけられたのだと思う。

11:00

山道の脇に高野古道の矢印があさっての方向を向いて転がっていた。正しい方向を向けて分かりやすくしておいた。

11:02

足場が悪く急な山道をたっぷり一汗かきながら登り切って林道に出てきた。

11:03

林道は舗装されていて勾配も緩やか。苅萱堂からここまでの道とは比較にならないほど歩きやすい。この道は江戸時代の絵図面に記録されていて、当時から林業のために利用されていた。明治時代になってから参詣道として使用されるようになったということらしい。

11:05

こういう歩きやすい舗装道がずっと続くのかと思いきや、

11:07

200mで地道が現れる。ぼくの地図では苅萱堂で行き止まりになったはずの県道118号がこの道とつながっていてここも118号と記されている。でも地元の人も参詣者もほとんどこの道を利用することはないから、むしろこういう感じの道が多い方が自然かもしれない。

11:08

と思うとまた舗装道、でもここも長くは続かなかった。

11:11

歩き始めてちょうど1時間になるので休憩を入れる。

11:12

道ばたに荷物を全部放り出して、まずは食塩を取り出す。5回6回と立て続けになめても全然味がしない。想像以上に汗をかいているようだ。スポーツドリンク500ccを一気に飲み干すとようやく人心地ついた感じ。体温が気持ちよく下がって活力がみなぎってくる。こういう感じが今年の焼山寺(柳水庵)で欲しかった。これだけ歩いていても水と塩と食料の理想的な摂り方はよく分からない。立ったまま5分ほど休んで、また歩き始める。

11:16

歩き始めてすぐ右に折れるところが峠のような感じがしたけれど、甘かった。ごく緩やかではあるけれどまだ登りは続く。

11:21

ようやく下り坂にやってきた。でも峠ではないのですぐに登りになってしまった。でも全体に傾斜は緩やかなので気持ちよく歩くことができる。

11:26

三叉路に到着、これは案内サイトで見た光景。林道に上がってきてからここまで、何回か不安におそわれる。一本道で迷いようはないのだけれど、初めての道だし、四国のように道標や案内シールが全くないので、本当に正しい道を歩いている確信が持てなくなってくる。これで一安心。

11:26

三叉路を左折する前に振り返るとこんな看板があった。ぼくはずっと通行止めの道を歩いてきたことになる。

11:26

へんろ石(四国ではないからこういう言い方はしないだろうけれど)があった。刻まれている文字は判別不能だけれど、かつてここが参詣者でにぎわった確かな証拠だといえるかもしれない。

11:27

ようやく本当の峠を越えたようだ。なだらかな下り坂が続いている。

11:28

高野町にはいる。気分的にはもう高野山の中という感じだけれど、とんでもなかった。

11:28

分岐点、右へ行くと紀伊神谷駅、左は極楽橋駅へ至る。もちろん左の道へ進む。

11:30

突き当たりは東高野街道(京ー大坂みち)。ここから女人堂までは江戸時代初期から明治中頃まで表参道として多くの参詣者が踏みしめた歴史のある道を歩く。新高野街道はここまでだけれど、カテゴリーは便宜上そのままにしておきます。

11:30

林道に上がってから全く道標はなかったから、分かっていてもほっとする。でも現代ではこの道標を見る(必要とする)人は滅多にいないかもしれない。

11:30

いかにも街道、参道という雰囲気が濃厚に感じられる。

11:30

このあたりは、明治時代までは門前町として相当栄えた、いくつもの旅館が建ち並んでいたという。

11:31

至高野山、4600m、1里6町。

11:33

至高野山女人堂、4400m、1里4町20間。
反対側には御成婚記念と刻まれている。昭和天皇の御成婚のときに立てられたものらしい。

11:35

東高野街道に入ってからは平坦で歩きやすい道が続く。

11:36

至高野山、4200m、1里2町30間。

11:41

ここは紀伊神谷駅からの道が合流してちょっと複雑な交差点になっている。ここから久々に急な登り坂になる。

11:42

坂を登りきるとこの立て看板があって、一瞬びっくり、でも極楽橋までは行けると書いてあるので胸をなで下ろす。

11:44

切り通しを抜けて南海高野線が走る谷に出てきた。

11:44

眼下に高野線が走る。極楽橋まで、ゆるゆるとあの高さまで下り坂が続いていく。

11:49

高野線の上を渡る。ちょうど上り列車が出発したところ。

11:49

極楽橋へ向かう線路はトンネルへ入る。参道は大きく右へ迂回する。

11:52

1時間40分かかって不動坂の入り口に到着、ここから女人堂までは3年前に歩いたことがある。そのときは冬だった、しかもここから歩き始めた。今回は真夏で、すでにたっぷり汗をかいて体力も使いきっているので絶対同じようには歩けないと確信している。

11:52

正面は極楽橋駅。

11:53

右に折れて極楽橋を渡る。

11:54

橋を渡るといきなり急坂が現れる。すぐに気持ちが萎える。まともに登りきる自信がなくなってくる。

11:54

左手に極楽橋駅、極楽橋駅の標高は538m。女人堂の標高は900mくらいだから350m以上は登らねばならない。距離は2kmほどだけど3年前は40分くらいかかった。今回はとてもそんな速さで登り切れそうにない。

11:57

右に折れてケーブルと平行に登る。

11:58

左折してケーブルの下をくぐる。

11:58

トンネルを抜けると左折してケーブルとは反対の方へ登っていく。ケーブルほどではないけれどかなりの急坂が続く。

11:59

近世の表街道、と書かれていることからして、東高野街道が開かれた江戸時代初期からほとんどの参詣者がこの坂を登ったのだと思いこんでいた。でも案内サイトを詳しく読むと、この坂は大正4年に開かれたもので、それまではいろは坂という急峻な山道があったという。それが現在どうなっているかはよく分からない。


新高野街道 (2)

2010-07-22 | 新高野街道

12:04

距離表示は読みとることはできない。

12:07

腰掛けがあったので倒れ込むように腰を下ろす。足はほとんど動かなくなっていた。1時間前の休憩と同じく塩をなめスポーツドリンクを飲み干したけれど、気力も体力もほとんど回復しなかった。

12:22

10分休んで歩き始めたけれど、足取りは重いまま、今年の柳水庵以降の歩きと同じような感じだ。
至高野山、1400m、12町50間。

12:33

なんとか清不動堂に到着、ここまで来れば先は見えたようなもの、でも3年前の記憶だからあてにはできない。

12:42

ようやくバス道に合流。登りはここまで、思ったより距離はあったけれど勾配は比較的緩やかで歩きやすかった。

12:44

バス道に入って2分、総本山金剛峰寺の入り口、女人堂に到着した。高野下駅から2時間半、休憩時間を除くと2時間20分。距離が分からないから正確な時速は出ないけれど、まずまずの調子ではなかったか。水屋には水道があって止めどなく山の水が溢れている。500のペットボトルで続けざまに2本分飲み干してようやく人心地ついた。やはりここまでの汗の量は半端なものではなかった。2回目の休憩で調子が上がらなかったのもそのせいだった。

12:50

女人堂の前のベンチで一息ついて金剛峰寺へ向かう。かつてはこの山全部が金剛峰寺であった。この門柱を過ぎれば金剛峰寺の中に入ったことになる。ぼくがこれから向かう金剛峰寺は豊臣秀吉が母親の菩提を弔うために建立した青厳寺が、明治維新の折りに新政府の命令によって改名されたものだという。故にこの中には秀次切腹の間が今も公開されている。

12:51

こちらは左側の門柱、ここから結構な下り坂が町の中心部まで続く、いい気持ちで歩いていたら女人堂のベンチにサングラスを置き忘れたことに気がついて無駄な一汗をかく羽目になった。

13:07

金剛峰寺の裏門(東門)の前を通過、最初来たとき何も判らなくてここから入ってしまった。こちらには水屋がないからちょっとしたマナー違反になる。

13:08

金剛峰寺の南側は広大な駐車場、観光バスがずらりと並んでいる。そういえば、ここは四国と違って今頃が一番のシーズンなのかもしれない。

13:09

本日の最終目的地、金剛峰寺に到着。団体さんの横をすり抜けながら水屋を使う。

13:10

1年ぶりに総本山でお参り、昨年は納経してもらったけれど、今回は納経帳は持ってこなかった。本堂の前で般若心経をあげる。本堂は見学コースになっていて、ぼくの目の前を見学者が通り過ぎていくのはちょっと興をそがれる。

13:21

14時13分のバスに乗るので、1時間くらいの余裕がある。奥の院にはとても行けないので壇上伽藍に行くことにした。写真は国宝不動堂、鎌倉後期の建設。

13:25

元はといえばこの金堂(講堂)が金剛峰寺の本堂ではあった。現在の建物は昭和7年に建てられた7代目のもの。だいたい200年おきに火災にあって焼失していることになる。すごいのはその度ごとに再建され続けてきたこと。それこそが空海、弘法大師の力であり、高野山の力なのだろう。

13:25

根本大塔の大きさには毎度のことながら圧倒される。こんな小さな写真ではその迫力の万分の一も伝えられない。この建物も昭和9年に再建された6代目のもの。
この写真が現在PCのデスクトップの壁紙になっている。それまでは大門の写真だった。

13:26

家に到来物の高野山せんべいがあったので持ってきた。これが本日の昼食になる。家で食べたときは美味いとは思わなかったけれど、根本大塔の前でいただくと実に美味い。持ってきた15枚の内12枚をぺろりとたいらげる。

13:58

バス停は壇上伽藍の近くにもあるけれど、路線がいくつか分かれていて、全部が集まってくる警察署の前まで歩いて戻ってきた。

14:00

ちなみにこちらが警察署、いかにもという感じ。でも玄関の上には高野山交番という看板が掲げられていた。どちらが本当なのか未だに判らない。

14:15

土曜日だということもあって、臨時バスが出ていて5分早いバスに乗ることができた。おかげで極楽橋からも予定より1本早い列車に乗ることができそうだ。


 明日から5回目の区切り遍路に出る予定だったけれど、1泊する余裕がなくなったのと、この暑さの中での鶴林寺太龍寺越えは相当厳しいので、区切りは一旦中断して秋から再開することにした。その代わり明後日の月一の休みは高野山に行くことにした。そのために午前中自転車で姫路駅まで3dayチケットを買いに出かけた。姫路はスルッとKANSAIの西の端、高野山は南の端になるので、ものすごくお得になる。ここから極楽橋まで往復で4280円、ケーブルとバスを使えば5000円を超える、それが1666円になる。
 次回高野山に行くことがあれば、学文路から東高野街道(県道118号、高野橋本線)を歩くつもりだった。でも先日の大雨でこの江戸時代の主要登山道のあるポイントが流されて不通になってしまった。仕方がないので明治時代の主要登山道、新高野街道を歩くことにする。


6月26日 

2010-07-08 | 10年日帰り遍路

 般若心経の布団の中での一夜はおかしな感じだった。一晩中半覚醒のような、まどろんでいるような感じでぼんやりした夢が絶え間なく現れたり消えたりした。でもそれが全然不快ではなかった。ゆっくり休めなかったというわけでもなかった。身体の疲れはきっちりとれているし、頭や精神の疲れもとれていてすっきり目覚めることができた。
 昨日の午後から降り始めた雨が絶え間なく、夜が明けるとさらに激しいものになっていた。テレビをつけると、徳島地方には大雨強風波浪注意報が発令されていた。雨は恐くないけれど、傘で歩く者にとっては風は最大の敵だ。現在の傘は四国で使った物だけで6本目になる。前の5本はいずれも風でやられてしまった。この傘も今日が最後のお勤めになるかもしれない。
 7時になったので食堂へ下りていく。朝食は定番ながら、ボリュームもあり全部おいしく頂くことができた。おかずの量があったので御飯は1杯半がやっとだった。食事が終わると女将さんが宿帳(日記帳)を差し出して記帳をお願いされる。お遍路さんだけが記帳しているのかすべての泊まり客が記帳されているのか分からなかったけれど、ぼくの前に書いているのはこの1週間で二人だけだった。梅雨の真っ最中でベストシーズンではないけれど、こんな感じで営業が成り立っているのだろうかとやや心配になる。お昼のおにぎり3個とキャンデイ5個、それに缶入りのお茶をお接待で頂いた。雨が激しいのでお遍路さんに会っても遍路宿情報を手渡すのは難しいと思ったので、全部女将さんに預けてこれから泊まるお遍路さんに配ってくださいとお願いした。
 電車は8時10分、余裕を持って7時40分に宿を発つ。ぼくが府中から電車で来たと言ったら、その近くに宿もあるのにわざわざここまで来たことにおばあちゃん共々大変恐縮感謝された。雨が降っているので駅まで車で送りましょうか、と、最後まで(へんろ特別接待)ぶりだったけれど、それは辞退する。


 8:26
2両編成の穴吹行きが定刻に府中に到着、2日目のお遍路が始まる。


 8:30
歩き始めて2分も経たないところで車に水を引っかけられた。お遍路に怒りは禁物だけど、こういう時だけはどうしようもなく頭に血が上る。左に折れてへんろ道に合流する。


 8:31
へんろ道に合流するとすぐ踏切を渡る。


 8:32
踏切を渡ると直進の1本道なのに、丁寧に新しい矢印が貼ってある。


 8:38
右斜めに折れるところに三角地帯ができている。昔ながらのへんろ道の雰囲気が感じられる所。


 8:39
三角の頂点に古いへんろ石がある。何と書いてあるかは分からないけれど。


 8:41
お墓の手前を右に折れて路地に入っていく。赤い矢印は二つとも新しいタイプ、前はきっとへんろ道保存協力会の赤丸に囲まれたシールが貼ってあったはずだ。


 8:42
左に折れると井戸寺から真南へ下りてくる道に入る。今回はお参りの後またこの地点に戻ってくることになる。


 8:45
府中駅からの1.6kmを17分で到着。雨の中での撮影はより時間がかかるから仕方のない所。まだ風はそれほど吹いていないので影響はほとんどなかった。靴の中はまだ濡れていないけれど、これだけたっぷり降られれば後1時間も持たないだろう。
 井戸寺には、また誰もいなかった。過去5回同じような時間に来たけれど、いずれもかなりにぎわっていた。でも5回とも4月下旬から5月の初めだった。やはり、梅雨の最中は歩きの人にも車の人にもバイクへんろにも、ツアー遍路にとってもオフシーズンということなのだろうか。お参りを終えて山門を出るときにようやく車遍路の3人がやってきた。それまでずっと独り占めだった。


 9:02
9時ちょうどに井戸寺を発つ。今回は5年ぶりに南へ下がる道を行く。東へ出て県道に入る道は昔のへんろ道ではないけれど、近道になるのでついついそちらを選んでしまうことになる。
 お遍路の墓でよく知られているのは、この井戸寺の南と、今治の泰山寺から栄福寺へ向かうへんろ道沿いにあるもの。


 9:03
四つ辻に道しるべ、上の二つは必要とする人はほとんどいないと思うけれど・・・。


 9:05
舗装はされているけれど、この緩やかなカーブは昔ながらのへんろ道を容易に想像させる。


 9:06
田んぼの中を左に右に蛇行しながら進むへんろ道。これ以上はない、へんろ道らしいへんろ道。


 9:12
鎮守の杜の前を右折する。この杜が田んぼの中にぽつんと盛り上がっていてとてもいい雰囲気だったけれど、このすぐ前にミニニュータウンができていた。20軒前後の住宅地だけれど、5年前の景色とは全然違ってしまっていた。


 9:14
再び徳島線の踏切を渡る。


 9:16
国道192号に合流。


 9:17
矢印が完全に消えている。ここまではっきり消えてそのままになっているのは何やらもの悲しい。


 9:18
国道を横断すると新しい矢印が貼ってある。地図を見ていれば矢印がなくても迷い様はないけどね。


 9:24
上鮎喰橋を渡る。井戸寺から2.2km、やはり期待しているほどのスピードは出ていない。そろそろ靴の中が湿ってきた。


 9:29
橋を渡って二つ目の信号の所に右折れの新しい標識がある。

古い標識も右を指している。これらを見ると多くの人が地蔵院から峠越えの道を行くことになる。でもこの道はあまりおすすめできない。峠からの下りの短絡路はちょっと危ない、特に今日のような雨降りの日だとかなり危険なことになっているはずだ。距離は多少短いけれど標高差は140mあるので却って時間はかかるかもしれない。峠越えの道はドライブウェイができた後にできた新しいへんろ道だとぼくは思っている。


 9:33
二つ目の信号をそのまま直進して4つ目の信号、徳島銀行の前を右折する。こちらが本当の古いへんろ道だとぼくは信じている。でも矢印も遍路標識もなかった。


 9:34
徳島銀行から100m、最初の四つ辻を左折する。5年前は地蔵峠を越えたので、この道を行くのは6年ぶり2回目になる。

左折すると幅の狭い道が真っ直ぐ東へ延びている。市内を真っ直ぐ突っ切るこういう道もまさにへんろ道という感じがする。ここにも矢印や遍路標識は見られなかった。地蔵越えだけがへんろ道の扱いを受けているようで納得できない。地図ではこちらにも赤線が引かれているから矢印の一つくらいはあってもいいのにと思う。


 9:40
少し道幅が広い所に出てきた。ここに来て靴の中が湿ってきた。さすがのゴアテックスもこれだけたっぷり降られると1時間が限度。あと5時間グジュグジュのまま歩き続けねばならない。


 9:42
左は蔵本運動公園、野球場が見えている。このすぐ先に東屋があって、二人のお遍路が休んでいた。一人は自転車、一人は歩き、荷物の多さから見て二人とも野宿で巡っているようだ。おそらく昨夜はここで泊まったと思われる。そして今夜もここで泊まるような感じだ。でもおかしな話、雨が降って休むのなら、どうしてこの時季を選んだのだろう。まあ、どんな巡り方をしても他人が口出しすべきことではないけれど。


 9:46
左は徳島大学、歩道の水はけが悪くてすごく歩きにくい。靴の中はもう充分濡れているけれど、それでも水たまりの中をジャブジャブと歩く気にはなれない。


 9:51
突き当たりを左に折れる。やはり矢印はない。100mほど北へ行ったあと右に折れてまた東へ。なぜこういう鍵型の道になったか、たぶん徳島大学ができたときにこの部分だけ10°くらい南へずらされたのではないか。徳島大学の手前の所から真っ直ぐ線を引くと次の右折れの地点にぴったり重なる。


 10:07
恐ろしいほどの急な石段、昨年登った栄福寺(57番)の裏山の神社の石段よりも急勾配だ。この上をずんずん登っていくと眉山山頂に至るようだ。


 10:08
諏訪神社の石段の前でようやく遍路標識を発見。地蔵院への分岐から初めての遍路標識だ。6年前はここから先のへんろ道が道路工事で通行不能になっていた。やむなく川を渡って1本北の筋を行くしかなかった。

8回目にして初めて歩くへんろ道。自分でもこの道を歩き残していたことは忘れていた。


 10:12
高い所にまた遍路標識、ここまであまりになかったので、いちいち嬉しくなってくる。


 10:15
3つ目の道しるべ。諏訪神社までの道に全く見られなかったのが妙な感じがする。6年前は一つや二つ確かに見たような気はするけれど。

県道136号に合流、右折する。


 10:16
ここからは過去6回歩いたなじみの道、大都会の真ん中の大通りでやや味気ない道。


 10:22
徳島駅と眉山ロープウェイを結ぶ駅前大通りを横断していたら途中で見慣れたへんろ小屋の標識があった。今まで何度もこの前を通り過ぎたはずなのに見た記憶は残っていなかった。


 10:23
右手を見ると、たしかに阿波踊り会館の前に二つのへんろ小屋がある。阿波踊り会館はここに来るたび見ていたけれど、その前のへんろ小屋に気づいたことは一度もなかった。


 10:26
県道の反対側に瀬戸内仏具店が見えた。寂聴さんの実家が徳島市内にあることは知っていたけれど、こんな遍路道沿いにあることは知らなかった。今まで4回もこの前を歩いていながら一度も気づかなかった。


 10:27
県道を横切って仏具店の前に行くと、ウインドウに寂聴さんのポスターがあった。


 10:29
ワシントンプラザの前にやってきた。昨年はここからへんろ道を外れて大鶴旅館に向かった。

道しるべは大鶴旅館の方角を指しているけれど、こちらはへんろ道ではなく赤線も引かれていない。もちろん国道に出られるけれど、この先の二軒屋駅の所を左折するより260m長くなる。


 10:44
最初の休憩ポイント、二軒屋駅に到着した。井戸寺から104分もかかってしまった。時速は5.12km。ベストの時速は6.56kmだから、想像以上に雨と水たまりに影響されてしまった。靴下を脱いで絞ると滴がボトボトとしたたり落ちた。家から持ってきたクッキーを食べる。26分の休憩で出発する。


 11:10
二軒屋を出て最初の交差点を左折する。この交差点から国道に入る道が一番近道になるので赤線が引かれている。でも、本当はもう75m近い道がある。この道がいつ頃からへんろ道になったのか、あるいは、元々特定のへんろ道などはなかったのか。


 11:11
左折するとすぐ踏切を渡る。


 11:13
突き当たりを右折、ここまでは問題ないけど、2年前はこの先で道をはずしてしまった。最初に来た4年前はうまくいったので油断してしまった。


 11:14
新しい地図ではこの道を突き当たりまで真っ直ぐ行くように赤線が引かれているけれど、最初の白黒の地図ではそれよりほんの数メートルだけど近道になる方に赤線があった。それは、いくらか手前で左折するのだけれど、今回もその道に入るのを失敗してしまった。4年前はなぜうまくいったのだろうと不思議な感じがする。


 11:21
2年前同様、首をひねりながら何となく国道11号に出て来てしまった。


 11:30
園瀬川を渡る、渡らないで右の方に行くと文化の森に至る。


 11:31
写真ではよく分からないけれど、ものすごい濁流が押し寄せている。帰ってから録画している番組を見て分かったけれど、このころすぐ南の阿南地域には大雨洪水警報が出ていた。雨風共にさらに激しくなってきた。国道の歩道は広くて安全だけれど、時折車が跳ね上げる水しぶきがかかりそうになる。腰から下はもうずぶぬれだけれど、かけられると無駄な怒りがこみ上げるので警戒しながら歩く。


 12:03
地蔵越えの道と合流するポイントにやってきた。1回目から3回目まではこの道を歩いた。3回目の時に靴が合わなくて難儀していて、この少し手前にある荒物屋で中敷きを買って助かった。5年も前のことだけど昨日のことのように思い出す。


 12:07
勝浦川を渡る。渡りきった所に右折れの遍路標識があった。昔はもちろん国道もこの橋もなく、この少し上流に渡しがあったようで、そこから小松島警察に続く古いへんろ道が残っているようだ。地図を見てずっと気になっていたけれど、まだ歩いていない。今日もこういう状態なのでわざわざ遠回りする余裕も気力もない。1km先にある中田のへんろ小屋で昼食休憩をとった。


 12:45
中田のへんろ小屋についたのは12時19分、風が強く、大儀になって写真は撮らなかった。中では二人の男の人が休んでいた。お遍路ではなく地元の人だった。たぶんこの小屋の管理をしている人だろう。大鶴旅館で頂いたおにぎりを食べる。本日のゴール立江駅まであと8kmは歩かねばならない、札所も二つ残っているからそうゆっくりもしていられない。18分の休憩で出発、歩き始めて10分、小松島警察が見えてくる。


 12:47
恩山寺まで2.9km、でもこの距離は全く当てにならない。帰ってから正確に測ってみたら2.4kmだった。


 12:53
ようやく国道を離れる。国道はいつも車の爆音で相当疲れるけれど、今回はそれに加えて雨と風、それでも前へ進むしかない。進むことしか考えられない。


 12:58
この700mはもっと当てにならない。


 13:14
700m地点から16分かかって恩山寺のお大師さんの前に辿り着いた。やはり700mということはあり得ない。少なくとも1100mはある。
 昨年初めて通った山門の手前の歩き道に入れなかった。意識して矢印を探したけれど見つけることができないまま山門まで自動車道を歩くしかなかった。全く腑に落ちなかった。


 13:39
恩山寺は本堂の中にはベンチがあるけれど、それは休憩所ではない。そこ以外に雨の中で休める所はないので、休憩なしで立江寺に向かう。駐車場の前を出たのは13時32分、あと歩く距離は4.8km、電車の時間まで78分。普段のスピードとは違うからあまり余裕があるとはいえない。立江寺までは久々に竹藪の近道ではなく、登り口の所まで引き返す遠回りの道を行くことにする。義経ロードは傘をさしては歩きにくいし、実のところあまり近道にもなっていないようにも思える。下の道まで下りるのは5年ぶりになる。


 13:43
立江寺までの距離はともかく、鶴林寺までの距離は大分違う。歩き道の正確な距離は13.5km。これは自動車道の距離かもしれないけれど、この距離表示が見られるのは歩きの人が大半を占める。


 13:46
古いへんろ石と大きな分かりやすい道しるべ、ここを右に折れると立江の町までほぼ一本道。


 13:48
竹藪の近道との合流ポイント、近道はこんな路地から出てくる。


 13:53
立江寺まで2.5km、でも相変わらず距離表示は信用しない。帰ってから調べたら意外なことにほぼ正確な数字だった。このすぐ先の所で側溝が溢れて道路が川のようになっていた。左端の方だけ何とか浸かっていない所があって無事に通過する。わずかな部分だったけれど確かに大雨洪水警報を実感する。


 14:02
朝から風雨の中を6時間近く歩きっぱなし、腰から下はぐっしょり、靴の中もジャブジャブ。それでもこういう風景には一瞬心和む。ここから少し登って峠を目指す、峠といっても標高差は10mくらい。


 14:05
峠の道しるべ、立江寺まで1.3km。峠から緩やかな坂を下っていく。立江の町の方から強烈な風が吹きつけてくる。へんろ道が風の通り道のようになっているかのようだ。傘をさしていられなくなる。何度も立ち止まらざるを得なくなる。立江川の手前で黄色い合羽を着けた人が歩いている。今日初めて出会う歩きの人だ。合羽でもとても歩きづらそうだ。追い抜いた後ぼくもさすがに風に抗しきれなくて傘をたたむ。風速は15mを超えているはずだ。


 14:21
立江寺まで10m、はたしてこの道しるべが必要なのか。後の石垣は立江寺の塀。見ようによってはおもしろいけどね。


 14:22
恩山寺から50分でようやく立江寺に到着、時速は5.16km。今日は1日を通じてこれくらいの速さだった。雨と風と水たまりと撮影とで、仕方のないところ。今回はかなり余裕を持った計画のつもりだったけれど、結局ほとんどぎりぎりに近い時間になってしまった。
 本堂に上がっていくと迷彩柄のポンチョを着けた若い男性がお参りをしていた。この時間だと金子やまで行くとしたら5時を過ぎてしまう。あるいはこの近くの鮒の里に泊まるのか。あとから追いついてきた黄色の合羽の人はとても金子やまでは無理だろう。


 14:36
山門の前に次の札所へ向かう道しるべがあった。初めての人にとってこれはありがたい。地図を見れば分かりそうなものだけれど、札所の出始めで道をはずすことは珍しくない。栄福寺を出たところで迷った人を見たことがある。


 14:45
鶴林寺と反対の方に進むと立江駅がある。初めて歩く道なので事前に地図を調べてきた。でもそれが間違った思い込みを生んでしまった。ちゃんと駅はこちらの標識があったのに自分の思い込みの方を信用して400m余分に歩いてしまった。やはり思い込みが一番恐い。でも何とか電車の時間には間に合ったので良かった。
 駅前の自転車がことごとく倒れていた。風速15mが証明されたようだった。
 
 1日中雨の中を歩いたのは本当に久しぶりだった。前いつ歩いたか思い出せないくらいだった。へんろ手帳をとりだして調べてみると。過去7巡、200日歩いた中で宿を出てから次の宿に入るまでずっと雨の中だったのは10日だけだった。1年前、3年前は1日もなかった。忘れられないのは最初の時、夜須から高知駅前まで歩いたときのこと。このときは道も分からなかったし、休み所も知らなかった、3つあった札所ではいずれも雨の中では休むところはなかった。本当にきつかったし最悪だった。次にきつかったのは2年前の旧北条市、風がきつくて傘がさせず濡れ鼠のままでバイパスを歩き続けたときは泣きそうになった。6年前の室戸岬も悲惨だった。このときは合羽を着けたけれど、本当着けているのかというくらい中からも濡れてくる。このときの経験から以後は合羽を着けなくなった。でも、それ以外の7日についてはあまり記憶に残っていない。部分的には覚えているけれど、さほどきつかったという感覚ではない。全体として多くはないけれど、雨が降るのは当たり前、天気を選ぶわけにはいかない。雨が降れば傘をさせばいいだけのこと。今回もそういう感じで、大変だった、きつかった、嫌だった、しんどかった、辛かった、やめたかった、運が悪い、というようなことは一度も思わなかった。歩きたくて歩くために四国に来ているのだから、どういう状態でも歩けていることは本当にありがたく嬉しいことだ。札所という目標があるのもありがたいことだし、そのおかげで前を向いて歩くことに集中できることもありがたい。区切りでしか歩けなくなって余計そういう気持ちが強くなった。帰りの電車の中、バスの中では下半身がぐっしょり濡れていて本当に気持ちが悪かったけれど、何とか風邪もひかず帰宅することができた。時間通りの電車バスに乗れれば、事故や怪我がなければ、どんな状態でも100点満点。