京都へ行った2日後、今年の四国の締めくくりとして高野山へ向かいます。
地元飾磨駅6時33分発の直通特急に乗って、尼崎で乗り換え、大阪難波で降車、南海電車まで歩いて、難波から急行に乗って橋本で乗り換えて10時03分、紀伊細川駅に到着しました。普通、二駅先、終点極楽橋まで乗ってケーブルとバスで高野山に向かうのですが、それでは時間が余りすぎるので、ここから歩いて高野山に登ります。町石道を全部歩くのは時間がかかりすぎるしこの暑さでは体力が持たないと思ったので、後半3分の一だけ歩きます。ここから矢立60町石まで3kmほどあるので、距離ではちょうど半分くらい歩くことになります。
山の中の小さな駅ですが無人ではなく自動改札もあります。
出迎えもあります。
左に下りていく階段もあるので、案内板があります。これがないと初めて来た人は迷うかもしれません。
10時06分、駅を出発、いきなりなかなかの下り坂です。山道を歩くのは4ヶ月ぶり、
最後は相当な急坂、花折峠の下りを思い出します。
4分で下り切ってここからは登りになるはずです。左の方に進みます。
近畿自然歩道というだけあって、人も車も全く見かけません。
近畿自然歩道というだけあって人も車も全く通りません。
最初の二股分岐、右に進むことは事前にチェックしています。
高野町立西細川小学校、こんな山の中に立派すぎる校舎ですが、やはり廃校になっていました。
駅から26分、二つ目の分岐、ここも右に進みます。
100m先に道しるべ、
10時38分、国道370号、矢立60町石まで上がってきました。紀伊細川駅から32分、時速は5.5kmでした。
こうやくんのお出迎え、町石道は壇上伽藍まで6.5kmです。
分かりやすい道しるべ、初めて来ても迷う心配はありません。一番上のツキノワグマの注意書きは、ここでは目に留まりませんでした。
しばらくは舗装道が続きます。
地道になってすぐ四国でおなじみ遍路シールがずらり。
地道に入ってしばらく行くと、20人以上の男女が道をふさいでいます。団体で歩いている人たちかと思ったら、町石道の修復保全のために集まったボランティアの方たちでした。挨拶しながら間を抜けていきます。
55町石です。59から56は見落としてしまいました、59は地図にあったから残っていることは確かです。
くぐりませんでした。
これは町石ではないようです。あびらうんけん、だけは読めるのですが、
53町石、54は見逃しました。
確かに普通の岩でははないと言われればそういう感じもします。最御崎寺の参道にも同じような岩がありました。
53町石、なぜに二つ並んでいるのでしょう。
最初の町石は大師が作られた木製のもの、その傷みが激しくなって1266年に石材(花崗岩)で再建された。その町石が崖崩れなどによって失われて、大正時代に新たに再建された。再建された後に前の町石が発見されたので二つ並んでいる、というようなことが書かれています。
52町石、
51町石、
11時00分、50町石、60町から1090mを21分で来ました。時速は3.1kmですが、撮影に時間がかかっているので本気で歩けば4kmは出せると思います。
文字は見えないけど49町石、
はっきり48町石、
きれいな47町石、
46町石、
750年前の町石がこれだけ残っていることもすごいけれど、歩きやすい雰囲気のある山道がきれいに残っていることにも感じ入ります。45町石、
44町石、
43町石、
42町石、
41町石、
11時15分、国道に上がってきました。50町石からここまで15分、時速は4.2kmくらいでした。土曜日ということもあってか車やバイクの往来が激しくてなかなか横断することができません。
矢印がありますがここからしばらくの道は本当の町石道ではないようです。国道ができたときに重なってなくなってしまったか、すぐ脇で歩けなくなってしまったか、国道は歩道がなくて蛇行も激しいのでこちらに仮山道が設けられたようです。
今日のザックは四国で使うものとは違って鈴がついていません。気をつけてといわれても、出てきたらどうしようもないという感じもしますが。
11時20分、国道から2分ほどで休憩所がありました。ちょっとした展望台にもなっていて、天気が良ければ大阪湾まで見えるようです。4分ほど休憩、
休憩所から2分ほどで国道です、迂回路は300m前後でした。国道の向こうに山道が見えますが、紀伊細川の方から登ってくる山道です。国道ができる前はこのあたりが三叉路だったでしょう。
国道の脇を下っていきます。
国道の接点から2分ほどで35町石、帰ってから国道の交差点にあった地図を見返してみると、40から36も国道の脇にちゃんと残っているようです。それが判っていたとしても国道を歩く気にはなれません。
34町石、
33町石、
32町石、
31町石、
11時36分、30町石、矢立からちょうど半分、56分で来ました。時速は3.8km、撮影に時間がかかるので納得の数字です。
29町石、
28町石、
「か」の上の部分が欠けているのも歴史を感じます。
1200年の歴史ですから、真っ平らというわけにはいきません。
すぐ横を沢が流れています。撮影の時に追い抜かれた前を行く人が、この少し先で沢に下りて水を汲み始めたので、ぼくも少なくなった水道の水を捨てて、ペットボトルに詰め直します。全くくせがなくすっきりした飲み心地、もちろん水道よりうまい。
前の人は普通に歩いていますが、ここまで駆け足で登っている人一人、下っている人一人と出会いました。登山マラソンの練習でしょうか、六甲では全山縦走の大会があるから時々出会いますが、こういうところでも走る人がいるのは意外でした。
26町石、
25町石、
24町石、
23町石、
22町石、
半分以上埋まった21町石、二十だけ見えています。750年前とは地形が変わったのでしょうか。
20町石、30町石から17分、この間の時速はやっぱり3.8kmでした。
19町石、
18町石、
17町石、
16町石、橋の手前で女性のジョガーに追い抜かれました。
15町石、
14町石、
13町石、
新しい12町石、
11町石、
12時11分、10町石。20町石から17分、またまた時速は3.8kmでした。
9町石、このあたりから国道へ上がっていく道は昔の道ではないようです。大門の前を国道が横切っていて、その工事の時にいくらかはなくなってしまったでしょう。
1町は109m、何を調べてもそう出てきますが、平安時代の1町は400尺、121mだったようです。だとすればぼくの時速は3.8kmではなくて、4.28kmになります。撮影の回数が多いとしても四国の山道を歩いてきた経験からすると、こちらの方がしっくりきます。
12時18分、国道に上がってきました。矢立から92分、1町=121mで計算すると時速4.1kmでした。
目の前にはもちろん大門、ぎりぎりまで下がっても全景をとらえることはできませんでした。
上がってきたところに地図があって、8町石、7町石、6町石の大体の位置が記されていました、これは8町石、大門に向かって右に50mほど進んだ道路(大門の左は国道ですが右側は国道ではありません、国道は左折して街の方に入ります)脇にありました。おそらく舗装道ができる前の位置とは違って、移されたものだと思います。
7町石はなかなか見あたらなくてうろうろしましたが、弁天岳の登り口にある鳥居の向こうにやっと発見しました。鳥獣保護区の赤い看板のすぐ右側に立っています。
国道に下りてくるとはっきり確認できます。
大門を抜けたわかりやすいところに6町石はあります。
4町石です。5町石のあるべき所は民家商家が建ち並んでいて見あたりませんでした。
交差点に3町石、
垣の中に2町石、立て札もあります。
1町石も垣の中、ここまできっちり見てくると、180から61も放っておく訳にはいかないのですが、こんどいつ来られるかはまだ見当もつきません。
12時38分、紀伊細川駅から2時間半でできたばかりの中門の前までやってきました。
172年ぶりの再建、
こうやくんを入れようと思ったら笠しか入りませんでした。ここまでたくさんの参拝者、観光客と出会っていますが、まだ中国語も韓国語も一度も聞いていません。それだけで何となく心穏やか。
西行桜です。
この少し先の水屋で、電車でいっしょだったアメリカ人の団体12名と再会。電車の中では凄くにぎやかで笑い声が絶えなかったのですが、さすがお山に上がってくると、神妙に水屋の使い方を教えてもらっています。
高野山宿坊協会中央案内所のすぐ横に7町石、ここから中門まで720mだから、奥の院方面からの町石もあったということでしょうか。
10町石もあります、街の中なので全部残っているということではないようです。
分岐点には矢印が、
一の橋、渡ったところに団体さん、ガイドさんの軽妙なしゃべりに耳を傾けています。
何人かは立ち止まって見ていますが、ほとんどの人が気がつかないまま通り過ぎていくようです。
「大門のむこうは、天である。山なみがひくくたたなずき、四季四時の虚空がひどく大きい。大門からそのような虚空を眺めていると、この宗教都市がじつは現実のものではなく、空に架けた幻影ではないかとさえ思えてくる。
まことに、高野山は日本国のさまざまな都鄙のなかで、唯一ともいえる異域ではないか。」
何度読んでも恐れ入る見事な文学です。こういう文章を読むとぼくたちには文章は書けても文学は書けないとつくずく思います。
この先は聖域なのでカメラは終います。
灯籠堂で写経を納め、読経。御廟の前に廻ってさらに読経。長い列ができていたので灯籠堂の地下には入りませんでした。
御朱印をいただいて、これで今年の四国巡りも全て完了したことになります。
13時45分、奥の院前バス停まで戻ってきました。極楽橋まで歩いて下るという選択肢もあったのですが、さすがに疲れてこれ以上歩きたくないという感じです。
14時13分、高野山駅です。何とか無事に全部の目的を果たすことができました。
いよいよ明日、高野山町石道を歩くので、予習として「街道をゆく」のビデオテープを引っ張り出してきた。司馬遼太郎の「街道をゆく」のテレビ版は全部録画して持っている。3倍速で録画してVHS7本になる。
その第27回「高野山みち」は次のようなナレーションで始まる。
『九度山とは町の名で、山ではない。紀伊の国、高野山が北に向かって山々や谷々を重ねようやく紀ノ川に至ろうとする岸辺にある。北方の葛城山脈と南方の高野山を中心とする山塊群の間に挟まって、川がゆうゆうと河原を広げつつ流れている』
司馬さんは町石道に入って数十メートルの所まで行って引き返している。ぼくはそこから20km以上歩き続けることになる。放送では6時間かかるといっていたけれど、ぼくは5時間で踏破したいと思っている。
高野山町石道
高野山町石道は高野七口といわれる高野山の登山道七本のうち、弘法大師空海によって高野山の開創直後に設けられた参詣道で、紀ノ川流域の慈尊院(海抜94m)から高野山壇上伽藍(同815m)を経て高野山奥の院弘法大師御廟に至る高野山への表参道です。
町石道が開かれた当初弘法大師は慈尊院から高野山までの道沿い一町約109mごとに木製の五輪卒塔婆を建立したとされます。文永3年(1266年)以降は、鎌倉幕府の有力御家人、安達泰盛らの尽力で朝廷、貴族、武士などの広範な寄進により朽ちた卒塔婆に代わって石造の五輪卒塔婆が建立され、ほぼ完全な形で今日に遺されています。
町石にはそれぞれ密教の仏尊を示す梵字と高野山に至る残りの町数、そして寄進者の願文が刻んであり、巡礼者や僧侶はこの卒塔婆に礼拝をしながら、全長約23km(うち高野山内4km)、標高差700mの道程を一歩一歩、山上に導かれて行ったのです。
町石道は三十六町一里制にもとづき、古代条里制がほぼ完全な形で遺る遺構であり、聖山・高野山とともに今後も注目を集めることでしょう。
わかやま観光情報、というサイトに分かりやすい解説があったのでそのまま写させて頂きました。
九度山から
四国の巡礼道で一番長い山道は11番藤井寺から12番焼山寺までの12.9km。標高差は660mだけれど、幾度も登り下りを繰り返すので実際はその倍以上は登ることになる。速い人で4時間、遅い人は7時間以上かかることもあるという。
慈尊院から大門までは19.4km、標高差は同じくらいではあるけれど6.5kmも長い。どういう坂があるか、どこに何があるか、分からないことだらけだ。しかも1年前四国から戻って以来一度も山道を歩いていない。太股の裏の筋肉に張りが残っている。靴はおろして5日目、天気は最高によいけれど、不安だらけのまま九度山駅に降り立ったのは10時5分、四国と同じ、ここまで来れば前へ進むしかない。
真田庵
10時12分、真田庵に到着、表通りから少し奥まったところにあった。大きな案内板が出ているので行き過ぎてしまうことはない。写真の長屋門が入り口で、その内部はちょっとしたギャラリーになっていた。その中で目に付いたのは、ずいぶん前のNHKドラマ「真田太平記」のポスターでした。真田幸村役の草刈正雄、その兄の信之役の渡瀬恒彦、女忍者役の遙くらら、そして紺野美沙子(信之正室、本田忠勝の娘)の4人が写っている。ぼくはこのドラマを熱心に見ていたのでとても懐かしい。それにしても直射日光が当たる場所ではないのに、このポスターの色のあせ様は、その月日の長さを思わずにいられないものです。放送されたのは24年前、中村梅之助、中村梅雀親子が、徳川家康、秀忠親子役で出演していました。
慈尊院
先が長いので真田庵の境内には入らなかった。長屋門の中で5分ほどたたずんで庵を後にした。1kmちょっと行くといよいよ町石道の始まりである慈尊院の石垣が見えてくる。先に裏門が見えたのでそちらから入ってしまった。裏門は通用口でその半分は小さな垣根に囲まれたゴールデンワンコの居住地域になっていた。ここから入ってくる参拝者はいないようで、不思議そうにぼくを見上げている。おとなしいワンコで助かった。門をくぐると左手にお大師さんの像、ここはまだ高野山ではない。高野山ではお大師さんは生きておられるから像は一切見当たらない。
弥勒菩薩がまつられた本堂(重要文化財)の手前に深緑色の大きな石碑がある、世界遺産に登録された記念の石碑だ。町石道とともに慈尊院も世界遺産なのだった。写真の鳥居に続く石段が町石道の始まりであり、その途中の右手に180町石が静かにたたずんでいた。いきなりの長い石段に足取りも重い。
柿の里
石段を登りきったところが丹生官省符神社(にゅうかんしょうぶじんじゃ)の境内、慈尊院の守護神が祀られている。境内を抜けて右手の緩い坂を下っていくといよいよ山道が始まる。
『町石というのは一丈一尺の石柱で、山頂まであと何町かを知らせる道しるべなのだが、石柱の頂が五輪の形をなし、石柱の表面に梵字が刻まれ、形は簡素な石の柱ながらも一基ずつがさまざまな菩薩を象徴しているということになっている。
山頂まで180基ある。
旧道を少し辿ってみたが、百歩も行かぬうちに、深山幽谷に紛れ行ってしまいそうで、そのまま引き返して石段の途中に戻った。』
街道をゆく、に記されている旧道の入り口は確かに深山幽谷の趣があった。でも、それはすぐに終わってしまった。舗装された急峻な山道は果樹園に入っていく、背の低い手入れの行き届いた柿の木が一面に植わっている。この時季葉っぱもほとんどつけていないので遠目にははげ山のように見えるかもしれない。日差しが容赦なく照りつける、南へ向かっていた坂道はやがて大きくUターンして北側の尾根の頂を目指す。坂はますます急になる。北に方向を転じると大きく視界が広がってくる、紀ノ川流域の大パノラマが自分だけのものだ。東は橋本あたりから、目の前の高野口町、下流のかつらぎ町までが一望の下にある、もしかしたら笠田のあたりまで見えているかもしれない。笠田というと、釣りきち三平が小鷹網をふるって鮎を捕ったところだ。中州の船岡山が見えているかは確認できなかった。
雨引山分岐
紀ノ川に突き出た山の端の北端をぐるっと巡って南へ転じると右手に展望台が見えた。まだ166町、1.5kmほどしか来ていないので休む訳にはいかない。岬の頂に立っている巨大な電波塔にどんどん近づいていく。この塔は電車の中から見えていた。まさかあんな高いところまでいきなり登ることはないだろうという、希望的観測はいきなり裏切られた。急坂はまっすぐ鉄塔に向かう、少し手前でその右をすり抜けて雨引山の登り口へ向かう、ここまで来ると登りは一段落、そしてようやく林の中へ入って山道らしくなってくる、日差しが遮られて、ようやく歩きに力が入ってくる。分岐点には必ず緑色の標識がある。←慈尊院 大門→、の新しい標識で全く迷う心配はない。四国でおなじみの赤い矢印と遍路人形の遍路シールも見ることができた。まもなく雨引山分岐に到着、153町、展望台から1.4km、登りがほとんどなかったので、あっという間だった。雨引山の標高は477m、ここはまだ300mくらいしかないのかもしれない。舗装道路はここまで、あとは地道が続く。ここまでは柿畑で働く人たちの生活道路なのだろう。
国道を横切って山道に入ってすぐ登ったと思ったら、展望台からは下りになってまた国道により沿う。そこからまた国道を離れ緩い下りになって国道を見上げながら進むことになる。国道はだんだん高くなって、10m以上の高さになっていく。国道が登っているのか町石道が下っているのか、いずれにせよ最終的にはあの高さまで登ることになる。36町石、四里石を過ぎてしばらく行くと有名な鏡石の前に出た。往時は鏡のように光り輝いていたというのだが・・・、ここから緩い登りになっていく。25町石を過ぎると渓流が現れた。そういえばここまで全く水の流れを見ることはなかった。いくつかの木橋を渡る。20町石を過ぎると最後の追い込みで坂はますます急になっていく。10町石を確認、あと300m、9町石も確認したけど、最後の8町石はなかった。大門前の国道を造るときに昔の山道は大きく削られたことだろうから、そのときにどうにかなってしまったものと思われる。国道へ上がってくる階段もそのときに造られたもので往時のものとは違うもののように思われた。大門前の国道に上がってきたのは14時53分、展望台からの3.6kmを43分で来た。この間の平均時速は5.02km、最後の登りは相当こたえた。
慈尊院からの正味の歩行時間は3時間57分、平均時速は4.77km。普通の人は6時間以上かかるというから、いいスピードだとはいえるけれど、あまり納得は行かない。筋肉の痛み、関節の痛みは全くない、靴擦れもなく、足の裏も大丈夫。いうことないといえばいえるけれど、かなり疲れました。もうこれ以上は歩けない、歩きたくないという感じです。九度山から5時間しか経っていない、四国に入るともう2時間以上歩かねばならないから、こんな疲れようではとても安心はできません。
町石道を全部歩くと、これで高野山を全部見たとことになると思いきや、まだまだだということが身にしみました。町石道は中世の表参道と言われている。近世の参詣道が別にある。江戸時代から明治時代にかけての一般的な参道は京・大坂道だといわれる。高野街道が紀見峠を越え、紀ノ川を越える、学文路から九度山へは行かず、そのまま南下して山に入る、河根から桜茶屋を経て紀伊神谷へ、そこから鉄道沿いに極楽橋まで行き不動坂から女人堂へ至る。この道を行くと学文路から壇上伽藍まで14km。町石道は学文路から壇上伽藍まで24km。これだけの近道が開発されると、人気になるのは分からなくもないのですが、昔の人はいつでもどこでも歩きしかないから、京大坂から参詣に来る人も、四国巡りを終えてから来る人でも、最後の10kmの近道がそんなにも魅力的なのだろうかと首を傾げたくもなる。ぼくなら迷わず町石が残っている歴史の道を歩きたいと思う。でも実際はそうならなかったらしい。でも江戸時代以降の道がどれくらい一般的だったのか、そのころでも町石道を歩く人がいたのかどうか、よく分かりません。分からないまま、とりあえず歩いてみなければなりません。まだまだこれで最後ということにはならないみたいです。