駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

細川展裕『演劇プロデューサーという仕事』(小学館)

2019年01月04日 | 乱読記/書名あ行
 第三舞台や劇団☆新感線のプロデューサーをしていた(している?)著者の自伝。鴻上尚史との対談、いのうえひでのり・古田新太との鼎談も収録。

 演劇のプロデュースや制作の仕事を解説したり指南するものではなくて、あくまでほぼたまたまそうやって生きてきたと言う著者の自伝なのですが、おもしろくてほぼ一気読みしてしまいました。ちなみに私は舞台ファンとしては第三舞台も新感線もあまり観ていない方で、でも作品のタイトルくらいは知っているし役者の名前も当時のブームも(ブームは今なお、ですが)知っているので、「へー」とか「さもありなん」とか思えて、楽しく読めたのです。
 チケット代金と客席数の話は出てきますが、それ以上のお金の話は出てきません。もっと興業面のことを語ってもいい気もしますが、それは専門的すぎるとかおもしろくないとか差し障りがあると判断したのかもしれません。劇評が演目や役者しか対象としていない、興業としての側面を批評するものはほぼない、と指摘されているのは確かにそのとおりだと思いましたし、それは片手落ち(今この表現が問題とされているのは知っていますが他にいい言葉を思いつかなかったのでここはあえて。すみません)だとも思いました。だからこそもっとそのあたりを語ってもらいたかった、読んでみたかった気がします。学生演劇がスタートだろうと、お給料が出る、それで食べていける、というのは大事なことですし、劇団は役者だけでなく裏方さん、スタッフさんの技こそが大事であり新感線はそこも素晴らしいのだ、みたいな主張はもっとあってもいいのかなと思ったのです。でもそれこそ著者は俺が俺がと表に出たがるようなタイプの人ではないのだろうし、才能ある脚本家や演出家、役者が友達にいたので、制作面を引き受けた、それができた…というだけのことだと自分の仕事のことをまとめているのかもしれません。今は半引退なようなそうではないような…な状態のようですが、十歳ほど年上であることや両親の看取りの問題などもなかなかに人ごとではなく、そういう意味でもおもしろく読みました。先達の言葉は響きます。エンターテインメントって何か、といったことについても。
 また、劇評について、褒めるかスルーするかにしてくれ、という訴えもなかなかおもしろく感じました。私は評論家ではないし、このブログに書き付けているものはあくまで自分のための備忘録であり、もし読んでくれる人があるとすればそれはその舞台を観た人(ないし書いた人)を想定しているつもりだったのだけれど、この人は「劇評の多くは検証不可能」「観劇できなかった人にとって、劇評を正しく評価する手段はありません」「劇評は言いっ放しになりかねません」という危惧を抱いているのですね。これは「先生方」に「芸術」扱いされなかったことを憤っているのとはまた違う問題かとも思いましたが、何かトラブルがあったのでしょうか…ここまで売れてくればそれこそが評価であり、そうなればむしろ意味があるのは苦言の方だと思うのだけれど、どうなんでしょう?
 演劇のことは好きだけれど演目や脚本の中身に細かく口を出すことはしない、というスタンスの人なだけに、外野がまことしやかにあれこれ言うのが嫌なのかもししれませんね。
「人生は、飲み会・納税・墓参り!」というのは、わかるようなわからないような、です。遊んで、働いて、先祖を大事にする、というのは言われればそのとおりかなと思いますが、三つ目は「恩返し」みたいな言葉に替えたいなと思わなくもないですし、そういうオリジナルの座右の銘を作るためにがんばって生きていくのが人生だ、ということなら私はまだまだ甘ちゃん、駆け出し、素人なのかもしれません。
 そんなこともいろいろ考えさせられた、いい本でした。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする