東京宝塚劇場、2011年8月16日ソワレ、25日マチネ、30日マチネ。
19世紀後半のパリ、オペラ座通り。無邪気で天使のように美しい娘、クリスティーヌ・ダーエ(蘭乃はな)が歌いながら楽譜を売っていると、オペラ座のパトロンのひとりであるフィリップ・ドゥ・シャンドン伯爵(愛音羽麗と朝夏まなとの役替わり)が現れる。クリスティー布歌声に惹かれたフィリップは、彼女がオペラ座で歌のレッスンを受けられるよう取り計らう。一方オペラ座では、支配人のジェラルド・キャリエール(壮一帆)が解任され、文化大臣を買収したと噂されるアラン・ショレ(華形ひかると愛羽音麗の役替わり)が新支配人となっていた。妻でプリマドンナのカルロッタ(桜一花)と就任の挨拶をしていると、ファントム(蘭寿とむ)から一通の手紙が届く…
脚本/アーサー・コピット、作詞・作曲/モーリー・イェストン、潤色・演出/中村一徳、翻訳/青鹿宏二。91年初演、宝塚では04年宙組、06年花組に続く三演目。
宝塚初演は観ていますが、再演は観ていません。
今回の役替わりパターンはA,B,Aと一度ずつ観ました。
意外にBパターンがよかったかな…というか、個人的に、自分はみわっちがどちらかというと苦手でミツルが好きなのかもしれない…と気づかされました。
フィリップというキャラクターは、この物語においてなかなか難しい存在なのだと思うのです。『オペラ座の怪人』のラウルはクリスティーヌと子供のころに出会っているエピソードがあるし、もっとがっつりクリスティーヌと恋愛している感じですよね。
でも『ファントム』ではそういう部分がないし、まして宝塚版ではクリスティーヌの愛情はエリックに向けられているべきだと思うので。
だから、みわっちのなんかとても実がありそうなフィリップより、まぁくんのスコーンと若く明るく何も考えていなさそうな青年伯爵(と私には見えた。本人はなかなか肉食系な青年に作っていたつもりだそうですが)の方が、物語の中で落ち着くんじゃないかなーと思えたのです。
もちろんクリスティーヌにはそれまでの女の子たちとは違う何かを感じてはいたのだと思いますが、本気になる一歩手前くらいだったんじゃないかなと思えたし、あくまで美しいものが大好きな芸術のパトロン…という感じに見えたのがよかった。
つまりあまりにフィリップがきちんとクリスティーヌを愛しているように見えてしまうと、クリスティーヌがその思いを無視したり無意識に利用しているようにも見えてしまうので、ヒロインのあり方として美しくなくなってしまうところが問題なのだと思うのですよ。
このあたりは、役者の演技とか持ち味というより、演出で整理すべき問題だとは思いますが…
演出として整えてもらいたい最大の点は別にあって…
クリスティーヌの方から「素顔を見せて」と言っておきながら、いざエリックが仮面を外すと悲鳴を上げて逃げ出すのは、まあ百歩譲って許しますよ。
クリスティーヌは、耐えられると思ったんだよね。母親ができたなら自分にもできると過信しちゃったんだよね。若い女の子に母親と同じことなんかできるわけないのに。それがわからないくらいクリスティーヌはまだまだ若くてもの知らずなんです。
それを純粋だからと言ってもいいけど、要するに幼くて愚かなのです。それは仕方ないし、だから責めない。自分で言い出したんだから死んでも踏ん張れ、と言いたいけれど、エリックだって許したのだから、許します。
だけど、自分の楽屋に逃げ帰ってフィリップに「助けて」と言うのはいただけない。それじゃ何かに襲われたみたいじゃない。何に襲われたっていうの?
エリックは何もしていないよ? 地下から連れ出そうとしたキャリエールに従わずに居残ったのはクリスティーヌ自身だよ? なのに何から「助けて」なの?
「助けて」なんて言わせて、なのにすぐ「戻らなきゃ、謝らなくちゃ」なんて言わせるから、興ざめするんですよ。ヒロインにそんな行動をさせちゃいけないんです。
エリックの顔を見て、思わず悲鳴を上げて逃げ出してしまって、だけどどこかで息が切れて、立ち止まって、おちついて、自分がしてしまったことに気づいて、戻ろうとして…そこへ、クリスティーヌを探して地下に降りてきていたフィリップに見つかってしまい、いやいや連れ戻されてしまう…というふうにしてほしい。でないと納得しづらいです。
そもそもこの物語は、というかエリック、ファントムの「怪人らしさ」は、舞台で役者が演じたり、まして宝塚歌劇ではトップスターが演じたりするために、せいぜいが痣程度にしか見えない顔の傷で表現されるしかないわけですが、本当はもっと畸形とかそういったものなワケなんですよね。
それは婚外子であるとか、地下で育って教育を受けていない、教会に行っていないつまり洗礼を受けていない、神の恵みを受けていない、というようなこと故のものだとされているわけですよ。
それを、天使のような母性愛の権化のような少女が、愛と救いを与えて終わる、という物語であり、決して恋愛の話ではないわけですよ、そもそもは。
そういう、いかにもカトリック文学な感じって、われわれ日本人にはそのとおりには理解できないと思う。そして宝塚歌劇でやる以上、そういう部分よりなるべくラブロマンスにシフトして作っているんだけれど、それがまだまだ不十分なんじゃないかと思うんですよね。
キャリエールの行動がそもそも諸悪の根源で、観客の大多数である女性にとってはなかなか容認しがたいものだろうし、そこも上手く納得できるよう誘導しきれていないのに、銀橋での親子の名乗りと抱擁でムリヤリ泣かされるから、これも疲れるんですよね…
ベラドーヴァが正気を保っていようがいまいが、母親というものは普通はわが子を美しいと思い愛しいと思うものだと思います。なのにキャリエールに何故あっさりと「それがもっとも耐え難い」なんて言わせてしまうのか。聞いていて不愉快な言葉をこんな主要人物に言わせるべきではない。
またこの時代、歌手といえばオペラ歌手のことで、舞台で歌い演じ踊ることすらするわけで、なのでエリックがどんなに音楽を愛し美しい声をしていて歌が上手かろうと、その体では歌手になれない、と言われてしまうのはわかるのですが、どうしても今の感覚からすると、声さえあれば歌手にはなれるじゃん、声だけあればいいんだからさ、と思えてしまうわけですよ。
なのにキャリエールはあっさりと「なれたはずさ」と言ってしまう。なれるよ、とは言ってあげない。それが悔しくて泣けちゃうんですよね…
親子で語る楽しいジョークの掛け合いなんだけれどね…
ところでエリックが自分の顔に気づいたのは八歳で、仮面を与えたのがキャリエールなら、それ以前にキャリエールが自分の素顔を見ていたことをエリックは覚えていてもいい歳なんじゃないの?
なんかあそこらへんの台詞も事実関係としてスムーズじゃない感じが気になったりはしました。
要するに、『ファントム』も『エリザベート』も、モチーフとしては好みのものを扱っている物語なだけに、きちんと納得して感動した演出のバージョンに出会ったことがないのが残念ではあるのです…
それでも、発表時はニンじゃないとか再演から近すぎるとか悪評ふんぷんだったのが、役者のがんばりで舞台は盛り上がり東宝は満員御礼で、劇団としてはしてやったりなのでしょうね。
いや客が入ることはめでたいことですよ、うん。
でも、近く新作当て書きオリジナル作品を回してあげてください。
カルロッタのイチカはがんばってたよなあ、よかったなあ。
ソレリのきらりは歌をもう少しがんばってほしかったなあ。
それで言うとオペロンで少し歌うだけでも歌が上手いのがわかるだいもんはすばらしいなあ。あきらも楽しそうでよかったなあ。
みつるは愛妻家ショレでもセルジョでも生き生きしていてよかったなあ。
メグの雪ちゃんが可愛くてどこにいても目立っていたなあ。でもゆまちゃん卒業は残念だなあ。
蘭ちゃんは、マイ初日にはこれが天使の歌声とはどんな茶番かと思いましたが、二度目に見たときには二階席だったせいもあって音響が良く声も響いて聞こえたので安心しました。
でもキャリエールの銃弾に倒れたエリックに向かって走り寄るときの、棒立ちのまま手だけ突き出してとととっと進む芸のなさには毎度涙が引っ込んだよ…なんか体の芝居がまだできていないんだよね。贔屓目かもしれないけれど、スミカだったらもっと上手く動いたと思うよ…
まゆたんのエリックは、地下育ちとはいえ母親の愛情を受けてまっすぐに育った気持ちのいい青年で(^^;)、グレてスネてヒネているのではなく、ただ地下を愛し地上の恐ろしさを嫌っているだけなので、本当は外に出たいのに出られない、という屈託がなくて、それはそれでエリックとしてのすがすがしいひとつのあり方かな、と思ってしまいました。
フィナーレは…初見はテレた(^^;)。すぐ慣れたけど。これもバリバリ踊る新作ショーを早く観たいです。
19世紀後半のパリ、オペラ座通り。無邪気で天使のように美しい娘、クリスティーヌ・ダーエ(蘭乃はな)が歌いながら楽譜を売っていると、オペラ座のパトロンのひとりであるフィリップ・ドゥ・シャンドン伯爵(愛音羽麗と朝夏まなとの役替わり)が現れる。クリスティー布歌声に惹かれたフィリップは、彼女がオペラ座で歌のレッスンを受けられるよう取り計らう。一方オペラ座では、支配人のジェラルド・キャリエール(壮一帆)が解任され、文化大臣を買収したと噂されるアラン・ショレ(華形ひかると愛羽音麗の役替わり)が新支配人となっていた。妻でプリマドンナのカルロッタ(桜一花)と就任の挨拶をしていると、ファントム(蘭寿とむ)から一通の手紙が届く…
脚本/アーサー・コピット、作詞・作曲/モーリー・イェストン、潤色・演出/中村一徳、翻訳/青鹿宏二。91年初演、宝塚では04年宙組、06年花組に続く三演目。
宝塚初演は観ていますが、再演は観ていません。
今回の役替わりパターンはA,B,Aと一度ずつ観ました。
意外にBパターンがよかったかな…というか、個人的に、自分はみわっちがどちらかというと苦手でミツルが好きなのかもしれない…と気づかされました。
フィリップというキャラクターは、この物語においてなかなか難しい存在なのだと思うのです。『オペラ座の怪人』のラウルはクリスティーヌと子供のころに出会っているエピソードがあるし、もっとがっつりクリスティーヌと恋愛している感じですよね。
でも『ファントム』ではそういう部分がないし、まして宝塚版ではクリスティーヌの愛情はエリックに向けられているべきだと思うので。
だから、みわっちのなんかとても実がありそうなフィリップより、まぁくんのスコーンと若く明るく何も考えていなさそうな青年伯爵(と私には見えた。本人はなかなか肉食系な青年に作っていたつもりだそうですが)の方が、物語の中で落ち着くんじゃないかなーと思えたのです。
もちろんクリスティーヌにはそれまでの女の子たちとは違う何かを感じてはいたのだと思いますが、本気になる一歩手前くらいだったんじゃないかなと思えたし、あくまで美しいものが大好きな芸術のパトロン…という感じに見えたのがよかった。
つまりあまりにフィリップがきちんとクリスティーヌを愛しているように見えてしまうと、クリスティーヌがその思いを無視したり無意識に利用しているようにも見えてしまうので、ヒロインのあり方として美しくなくなってしまうところが問題なのだと思うのですよ。
このあたりは、役者の演技とか持ち味というより、演出で整理すべき問題だとは思いますが…
演出として整えてもらいたい最大の点は別にあって…
クリスティーヌの方から「素顔を見せて」と言っておきながら、いざエリックが仮面を外すと悲鳴を上げて逃げ出すのは、まあ百歩譲って許しますよ。
クリスティーヌは、耐えられると思ったんだよね。母親ができたなら自分にもできると過信しちゃったんだよね。若い女の子に母親と同じことなんかできるわけないのに。それがわからないくらいクリスティーヌはまだまだ若くてもの知らずなんです。
それを純粋だからと言ってもいいけど、要するに幼くて愚かなのです。それは仕方ないし、だから責めない。自分で言い出したんだから死んでも踏ん張れ、と言いたいけれど、エリックだって許したのだから、許します。
だけど、自分の楽屋に逃げ帰ってフィリップに「助けて」と言うのはいただけない。それじゃ何かに襲われたみたいじゃない。何に襲われたっていうの?
エリックは何もしていないよ? 地下から連れ出そうとしたキャリエールに従わずに居残ったのはクリスティーヌ自身だよ? なのに何から「助けて」なの?
「助けて」なんて言わせて、なのにすぐ「戻らなきゃ、謝らなくちゃ」なんて言わせるから、興ざめするんですよ。ヒロインにそんな行動をさせちゃいけないんです。
エリックの顔を見て、思わず悲鳴を上げて逃げ出してしまって、だけどどこかで息が切れて、立ち止まって、おちついて、自分がしてしまったことに気づいて、戻ろうとして…そこへ、クリスティーヌを探して地下に降りてきていたフィリップに見つかってしまい、いやいや連れ戻されてしまう…というふうにしてほしい。でないと納得しづらいです。
そもそもこの物語は、というかエリック、ファントムの「怪人らしさ」は、舞台で役者が演じたり、まして宝塚歌劇ではトップスターが演じたりするために、せいぜいが痣程度にしか見えない顔の傷で表現されるしかないわけですが、本当はもっと畸形とかそういったものなワケなんですよね。
それは婚外子であるとか、地下で育って教育を受けていない、教会に行っていないつまり洗礼を受けていない、神の恵みを受けていない、というようなこと故のものだとされているわけですよ。
それを、天使のような母性愛の権化のような少女が、愛と救いを与えて終わる、という物語であり、決して恋愛の話ではないわけですよ、そもそもは。
そういう、いかにもカトリック文学な感じって、われわれ日本人にはそのとおりには理解できないと思う。そして宝塚歌劇でやる以上、そういう部分よりなるべくラブロマンスにシフトして作っているんだけれど、それがまだまだ不十分なんじゃないかと思うんですよね。
キャリエールの行動がそもそも諸悪の根源で、観客の大多数である女性にとってはなかなか容認しがたいものだろうし、そこも上手く納得できるよう誘導しきれていないのに、銀橋での親子の名乗りと抱擁でムリヤリ泣かされるから、これも疲れるんですよね…
ベラドーヴァが正気を保っていようがいまいが、母親というものは普通はわが子を美しいと思い愛しいと思うものだと思います。なのにキャリエールに何故あっさりと「それがもっとも耐え難い」なんて言わせてしまうのか。聞いていて不愉快な言葉をこんな主要人物に言わせるべきではない。
またこの時代、歌手といえばオペラ歌手のことで、舞台で歌い演じ踊ることすらするわけで、なのでエリックがどんなに音楽を愛し美しい声をしていて歌が上手かろうと、その体では歌手になれない、と言われてしまうのはわかるのですが、どうしても今の感覚からすると、声さえあれば歌手にはなれるじゃん、声だけあればいいんだからさ、と思えてしまうわけですよ。
なのにキャリエールはあっさりと「なれたはずさ」と言ってしまう。なれるよ、とは言ってあげない。それが悔しくて泣けちゃうんですよね…
親子で語る楽しいジョークの掛け合いなんだけれどね…
ところでエリックが自分の顔に気づいたのは八歳で、仮面を与えたのがキャリエールなら、それ以前にキャリエールが自分の素顔を見ていたことをエリックは覚えていてもいい歳なんじゃないの?
なんかあそこらへんの台詞も事実関係としてスムーズじゃない感じが気になったりはしました。
要するに、『ファントム』も『エリザベート』も、モチーフとしては好みのものを扱っている物語なだけに、きちんと納得して感動した演出のバージョンに出会ったことがないのが残念ではあるのです…
それでも、発表時はニンじゃないとか再演から近すぎるとか悪評ふんぷんだったのが、役者のがんばりで舞台は盛り上がり東宝は満員御礼で、劇団としてはしてやったりなのでしょうね。
いや客が入ることはめでたいことですよ、うん。
でも、近く新作当て書きオリジナル作品を回してあげてください。
カルロッタのイチカはがんばってたよなあ、よかったなあ。
ソレリのきらりは歌をもう少しがんばってほしかったなあ。
それで言うとオペロンで少し歌うだけでも歌が上手いのがわかるだいもんはすばらしいなあ。あきらも楽しそうでよかったなあ。
みつるは愛妻家ショレでもセルジョでも生き生きしていてよかったなあ。
メグの雪ちゃんが可愛くてどこにいても目立っていたなあ。でもゆまちゃん卒業は残念だなあ。
蘭ちゃんは、マイ初日にはこれが天使の歌声とはどんな茶番かと思いましたが、二度目に見たときには二階席だったせいもあって音響が良く声も響いて聞こえたので安心しました。
でもキャリエールの銃弾に倒れたエリックに向かって走り寄るときの、棒立ちのまま手だけ突き出してとととっと進む芸のなさには毎度涙が引っ込んだよ…なんか体の芝居がまだできていないんだよね。贔屓目かもしれないけれど、スミカだったらもっと上手く動いたと思うよ…
まゆたんのエリックは、地下育ちとはいえ母親の愛情を受けてまっすぐに育った気持ちのいい青年で(^^;)、グレてスネてヒネているのではなく、ただ地下を愛し地上の恐ろしさを嫌っているだけなので、本当は外に出たいのに出られない、という屈託がなくて、それはそれでエリックとしてのすがすがしいひとつのあり方かな、と思ってしまいました。
フィナーレは…初見はテレた(^^;)。すぐ慣れたけど。これもバリバリ踊る新作ショーを早く観たいです。