駒子の備忘録

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謹賀新年!『ポーの一族』初日雑感

2018年01月02日 | 観劇記/タイトルは行
 新年あけましておめでとうございます。
 三年連続のムラ年越しから無事に帰宅しまして早速更新しています、今年も良い年になりそうです。
 というワケで花組大劇場公演『ポーの一族』初日と2日11時を観劇してきました。今のこの想いをどう言葉にしていいのか、まだ悩みながら書いています。でもとにかく私はすごくすごく楽しく観てしまいました。わりと暴れる気でいたのに!(笑)
 原作漫画があるものなのでネタバレも何もないとは思いますが、舞台での改変についてやオチの付け方など、いろいろ語っていますので、未見の方で予断を持ちたくないという方は以下ご遠慮ください。
 これからたくさんの意見や感想が出てくると思われますが、広くうかがってみたいなあ。特に漫画を未読で舞台を観られた方の感想が知りたいです。私はもう、そういう立場での感想の持ちようはないのだから…
 というワケで例によって例のごとく、あくまでも私個人の現時点での感想と考察です。でもおつきあいいただけたら嬉しいです。

 ややウザい語りですが、演目発表時の感想についてはこちら。原作漫画との出会いとか心配とか、いろいろウダウダ語っています。今回の舞台化に関してはやはりどうしても不安が先に立ったのでした。
 その後、制作発表などを見ても、みりおエドガーがどんなに美しくてゆきちゃんシーラが素敵でれいちゃんアランがハマってそうでも、
「エドガーが♪我らは一族、ポーの一族~、とか歌っちゃうんだ!? プークスクス」
 とか
「原作漫画のあの独特の、モノローグともナレーションともつかない詩情あふれるネームをそのまま歌詞にしちゃうんだ!? こっ恥ずかしいんですけど!?」
 とかどうしても心が波立ってしまいまして…
 それでも、なるべくフラットに観よう、漫画と舞台は別物なのだし、イケコのこだわりや愛情はきっといい方に出るはず…!と信じて、臨みました。
 ちなみにプログラムの出来は素晴らしくて、並々ならぬ情熱を感じましたね。写真がいいのはもちろん、イケコのコメントも萩尾先生の寄稿も素晴らしかったし、原作イラストのあしらわれ方も素敵でした。ブックインブック写真集みたいな贅沢もすごいし。ただ、場数が多いのが個人的には気になっていて、ちょっと駆け足の、バタバタした展開になるのかな…?という心配はしました。

 プロローグは空港の場面。語り部となる四人のキャラクターたちが語り出す様子が、なんかちょっと『王妃の館』の始まり方を思い出させてニヤニヤしたり。
 で、まずはオールスターによるアバンと主題歌、みたいな展開になるわけですが、みりおエドガーが赤い薔薇を一輪手にしてセリ上がって振り向いてピンスポット当たって拍手、というのはあたりまえですが心地よくまた素晴らしく、全体の色味は明るくて美しいのですが群舞の振りがまさしくゴシックの味わいがあって作品世界を上手く表現していて、引き込まれました。ネームまんまの歌詞もむしろドラマチックに響き、原作漫画のあのポエジーは歌で表現されるとこうなるのか、いいじゃないか!と震撼。グレンスミス(優波慧)のエピソードもさらりと挿入して上手い。まあ映像の鹿はなくてもいいかなと思いましたけどね…
 そこからの、エドガーが銀橋に出て第二の主題歌とも言える「哀しみのバンパネラ」を歌うときにはもう、制作発表を見たときの「エドガーが♪僕はバンパネラ~とか歌うだなんてプークスクス」みたいなのはなくなっちゃっていました。みりおは確かにいつもより若く明るく作った声で、でもここはまだ暗く絶望的になりすぎている感じではなくただ美しくせつせつと歌うのですよ。ぐっときました。
 で、子役になって『メリーベルと銀のばら』冒頭の場面。ここでも映像の馬車はなくても効果音とかで十分わかるよと思いましたが、まあ上手く運んでいて十分。
 で、うなったのがその次、たそのビルおやじ(天真みちる)が歌い出す酒場の場面です。イケコのミュージカル翻案力を思い知りました。酒場で群衆が歌って踊って、というのはミュージカルでは実によくある演出だし、たとえば直近の『AfO』でもあったしイケコには自家薬籠中の定番テクニックなのかもしれません。でも上手い! シリアスなストーリーに歌や踊りを上手く入れるのはなかなか難しいものだと思いますが、こうやって場面を仕立ててたくさんの生徒の出番を作り実力派に歌わせて話を運ばせる…私はここでこの作品の成功を確信してしまったのでした。
 そこからは、いろいろと細かい改変もありましたし、「そこはどうだろう」という引っかかりももちろんいくつかあったのですが、基本的にはノリノリで楽しく観てしまいました。本当に引き込まれていました。
 ただ、初日は二階てっぺんから観ていたため見切れていて気づかなかったのですが、「13年後」という表示はいりませんね、今からでもいいから取りましょう。13歳の少女は小川で水車なんか回しません。何歳であれ一応子供には見えるんだから、ここは触らない方がいいです。
 私が一番懸念していたエドガーの年齢を改変するんじゃなかろうな問題は、エドガーとメリーベル(華優希)の兄妹の年齢差を明示しないことで実はうまくごまかされています。ただ、どうしてもみりおとハナちゃんになってからは四つや五つの子供にはさすがに見えないので、あの子供時代の独特の兄弟の在り方がこれで表現として成立しているのかなーというのが気になるところではあります。原作漫画を知らない人からしたらみりおがただのシスコンに見えちゃったりしちゃうのかな?という心配です。でもエドガーとメリーベルって、そういうことじゃないんです。まして近親相姦めいたものでは全然ない。彼らは少年と少女のころに不死のものに変化して、性とは無縁となった存在なのですが、そのあたりはどうしても生身の役者がやることで違った見え方をしてしまう部分はあるのかもしれないな…と思いました。
 シーラの第一声は原作どおり「おやめなさい!」であってほしかったかなー。特に変える必要ないもん。あとここではエドガーはもう老ハンナ(高翔みず希)を「おばあさま」と呼んでいてほしかった。まあ原作でも実は混在しているんですけれどね。あと、漫画ファンならわかっていただけると思うのですけれど、エドガーがシーラとポーツネル男爵(瀬戸かずや)の結婚を知る「ああ…/ああそう…/…そうなの」というコマ割りはもう本当に至高のものだと私は思っているんですけれど、それがあっさり改変されたことにも私は引っかかりませんでした。これはこれでいい。ここにゆきちゃんのソロをこういう形で入れるのも上手いと思いました。でも欧米ではこういうキスを子供の目から隠したりはしないのではなかろうか…
 水車に関して言えば、オズワルド(冴月瑠那)やユーシス(矢吹世奈)があの程度の登場になるのであればなくしてもいい小道具だとは思うのだけれど、まあイケコこだわりの逸品なのでしょうね…そのいじらしさに免じて認めましょう(エラそうですみません)。
 それからユーシスに関して言えば厳密な意味では自殺だっただけではないのだし、そこからの改変はけっこうキモですが…まあここも私は目をつぶれました。すでにもういろいろ甘い私…どうしたことやら(^^;)。
 ただ、婚約式の場面はもっと暗く怖くしてもいいとは思います。バラの巫女たちもピンクのドレスなんかじゃなくて黒を着るとかさ。もっとおどろおどろしく作っていいと思うんですよね。でないとエドガーが感じる異質さ、人外のものへの恐怖みたいなものが伝わらないのではないかと思いました。メリーベルを人質に取られてエドガーが一族入りを承諾するくだりの台詞や会話も原作どおりにやってほしかった…あそこも漫画としてカンペキだからなー…
 老ハンナの消滅の演出は素晴らしかったです。チリになって消える、なんてことを舞台でやるのは難しいんだけれどこれは見事でした。でも大老ポー(一樹千尋)は死なせちゃダメだろう、最新作の『春の夢』にも出ているのよイケコ!? それともまさかここでは死んでいないとの表現なの? でも違うよね? 以後、バンパネラの消滅は死の天使めいた彼ら異形の「この世ならざる者たち」が出てきて連れ去る、みたいな演出になっていましたがちょっとわかりづらいんじゃないかなあ、そこは心配です。
 馬車、ロンドン市街のミュージカル展開がまたまた素晴らしい。ディリー(音くり寿)は花売り娘に改変されていましたがビジュアルの再現率が素晴らしい。ここで悲鳴を上げる娘役さんはどなたでしょう? これがまた絶品でした。のちのメリーベルといいジェイン(桜咲彩花)といい、今回は悲鳴がどれも劇的に素晴らしく、芝居を盛り上げていました。あ、まひろんバトンがんばってね! てかなんか今回役付き良くて私は嬉しい…顔が好きなんだけどいろいろちょっと下手だよねだから役付き悪いよね、とずっと思っていたので。でも新公アランは来なかったけどね…(ToT)
 そして『ポーの一族』に入って、アランの町はブラックプールということになっていましたが、第二の懸念だったホテルの件は、クリフォード医師(鳳月杏)の診療所がホテル内にあったりポーツネル一家がホテル住まいを続ける設定になっていただけで、ホテル王が出てきて悪役ソングを歌ったり環境破壊を始めたりしなかったので本当にほっとしました…ただなんかここも装置の色味がピンクで全体に可愛らしすぎるというか安っぽいんですよね。もっと全体にグレーとかブルーとかでゴシック感を出してもよかったのではなかろうか…ただ、盆をガンガン回しているのはさすがですイケコ! てかもうこんだけ褒めてるんだからちゃんと小池先生って呼びなさいよって話ですよね(^^;)、すんません。
 ブラヴァツキー(芽吹幸奈)たち降霊術師グループも第三くらいの懸念でしたが、これは『ホームズの帽子』の降霊会のエピソードのイメージを持ち込んでいるのと、中堅生徒たちの役と出番のため、また原作ではおそらくクリフォードの同僚医師だったのであろうバイク(水美舞斗)の役をマック編集長あたりとひとつにして膨らませ、語り部グループの一員にしていることによるもので、なんとか綺麗に収まっていたと思いました。ただマーゴット(城妃美伶)の弟妹の追加は私は気に障ったなー、これまた生徒の役を増やすためにしたかないんだろうけれど…
 エドガーとアランの出会いも、いい。そりゃ落馬は舞台ではさせられませんからね。そしてセント・ウィンザーの制服の再現率の高さには震えましたよ、そしてみりれいが華麗に着こなして似合っちゃっていることにも…!
 一幕ラストはイケコあるあるのオールスター大合唱ですが、これも決まっていて良かったです。いやぁ大満足で幕間に突入しましたねー、初日!

 ジェインは目立つことが嫌いな、でも「器量よし」と歌われる在り方になっていて、でもべーちゃんがやるんだし宝塚歌劇では不美人というのはどうしても扱いづらいので仕方ないんですよね。合わせてクリフォード先生にも、シーラにラブアフェアを仕掛けたり仕掛けられたりしながらも、ロンドンから来た貴族の夫人に対して自分はプレイボーイいうても田舎者ですから…みたいなスタンスになっているのもおもしろいし、ジェインのこともある程度ちゃんと扱っているところも好ましい。ちなっちゃんのいい味が出ていますよね。マーゴットが母親に言われる台詞なんかにも私はニヤリとさせられました。アレはマーゴッとの救いになっていると思ったけれどなあ。現代風というかフェミコードとしてというか、そういう調整が微妙にされていると思うのですよね。
 イケコあるあると言えば二階建てのセットの二階でトップコンビが愛を歌う、というのがあると思うのですが、今回は当然それはみりれいでやることになります。しかも讃美歌、ではなく聖書の言葉を唱える台詞が歌になっちゃってるのでちょっといろいろおもろいんですが、でもときめくし萌えるしせつなく美しい場面に仕上がっていました。
 原作漫画は、当時そんな言葉がなかったからという理由だけでなくまったくもってBLではないのですが、それは先述したようにエドガーやメリーベルなど性の発動の手前の少年期にバンパネラになった者たちは性を超越した存在だからなのですが(だから男爵やシーラたちはバンパネラになってもやることやってると思うし、子供を持たないことの性衝動が誘惑を手段とする狩りに移るような、セクシャルな存在であっていいと思うのですが)、これまた生身の役者が演じると、男性俳優ではなく男役同士であっても、いやだからこそなのか、やはりそういう風味は漂ってしまうな、と思いました。私はそんなにはそういうふうな見方をしない方だと思うのだけれど、それでも。そしてある程度そういうふうに見えるようにしたいという演出の意図も感じますしね。でも原作未読の方がそういうことを期待しすぎてしまったり、あまつさえ観劇のあとに漫画を読んで期待が裏切られたと思ったりしてほしくないなあ…とかはちょっと心配になりました。
 でも、それとは別にしてれいちゃんアランが絶品ですよね! 私は柚香光を今までカレーちゃん呼ばわりしてきましたが改めます。美形なのは知っていたし劇団が押してきたのも知っていた、踊れるのも知っているし芝居も好きでした、わりと好きな生徒さんだしまごう方なきスターです、でもなんというか自分の守備範囲じゃない認定だったんですけど、今回のアランは本当にツボでした。何がどう、とはまだうまく言えないのだけれど…
 エドガーがアランを襲いかけてメリーベルが止める、という改変も私は気になりませんでしたが、「未練」というキーワードにはやや引っかかったかな…そんなダイレクトで単純な言葉にしてしまえる問題ではない気もしたので。あとその前のアランがメリーベルにする求愛の台詞は原作どおりがよかったなー、婚約と結婚は違うもん。
 嵐が来てからの原作漫画の畳みかけるような展開はさすがにそのまま舞台では再現できないんだけれど、慌ただしく盆がガンガン回ってその空気をしっかり作り出していました。男爵の消滅の仕方の変更も致し方ない。
 クレーンについては忘れていたイケコあるあるすぎてもうホントおもしろくなっちゃったんですけれど、でもやりたいことはわかるしやるからにはこうだよね、って感じでした。
 そしてそこで終わりではなくて、ガブリエル・スイス・ギムナジウム場面をつけたのは、まあ『ポーの一族』ラストシーンまんまと言えばそうなんだけれど、イケコとしてはふたりが今もどこかでこうしているかもしれないよ…ということを告げて幕としたかったんだろうな、とその乙女心にきゅんとします。ただもちろん原作ファンとしてはその後アランが消滅しエドガーがひとり残されて全編が終わっている、ということを知ってはいるんですけれどね。一昨年、40年ぶりに描かれた新作『春の雪』に続いて次の新作も初夏から連載予定だそうですが、おそらくそこまでの間のエピソードがまた描かれるのであり、このあとエドガーがまた誰かと出会って…みたいな話にはならないのではないかと思うのですよ。というか私はそう切望しています。エドガーがひとりぼっちなままだなんてそれはそれはかわいそうで悲しいけれどでも、それこそ40年前にその結末を受け止めた読者として、安易な続編には反対したいし『春の夢』はそういうものではなかったからこそ素晴らしいのだし、だから次の新作にもそうしたものを求めます。そこには今まで描かれなかった新たなエドガーとアランの姿があることでしょう。アランは確かにエドガーが持った唯一無二の相手なのです。

 そういう本編の終わり方だから、イケコあるあるのフィナーレとっぱし二番手セリ上がりからの銀橋で主題歌リプライズ、はゆきちゃんが担うことになり、なんかれいちゃんの二番手お披露目公演というよりはトップ娘役就任お披露目でしたかねみたいにちょっと思えちゃうんだけれど、ちゃんとみりゆきデュエダンはあったし男役群舞ではみりおもれいちゃんも男臭くキレキレにバリバリ踊ってくれているので、最終的にはバランスも良く、よかったのかなと思いました。あ、娘役ちゃんに囲まれて踊るときのみりおのピンクの変わり燕尾が、裾のフリルと材質のせいでなんかちょっとネグリジェチックだったけれどね…(^^;)あとパレード、ゆきちゃんにもれいちゃんにも大羽根背負わせてよかったと思うんですけれどね!?

 …というワケで本当に自分でも意外なのですが、本当に本当に楽しく観てしまいました。あとは東京で二回しか観る予定がないのですが、早くも寂しいです。でももっと深く考察したいから観たいとかいうより、単に美しいものが観たいから、美しい世界にたゆたっていたいからまた観たい…という感じかなあ。
 確かに今の布陣だからこそできた演目なのかもしれません。みりおとれいちゃんはもちろん、ゆきちゃんをシーラに回せるということも大きいかと。たとえばチギみゆみたいなトップコンビだったら、ふたりがラブラブしていない話なんて容認されがたかったと思うのですよ。でもゆきちゃんはみりおの相手役としてもう三人目だしけっこう上級生だし…というのはあったかな、と。まあそういうトップ娘役でない場合は普通にメリーベルに回ればいいのかな、とも思いますが。
 しかし結局のところイケコが『ポーの一族』を舞台化したかったポイントというのはどこにあったのだろう、とはちょっと考えてしまいました。同伴した親友と語ったところ、いいものを見たり読んだりしたときに舞台関係者ならそれを舞台で再現したいと思うもので、特に舞台ならではの斬新なアイディアとかがなくてもやってしまうものなのではないか、と彼女は言っていたのですが…正直、とてもうまくミュージカル化していたとは思いますし、原作を損なっていないとも思うのでいいとは思うのだけれど、当然のことかもしれませんが原作を超えることはできていないし、舞台でしかできない、舞台ならではの演出があった、とも言いきれない気が私はしたのです。音楽で詩情を表現できる、のはミュージカルの強みかな、とは思いましたけれどね。
 みりおやれいちゃん始めキャラクターの三次元化が素晴らしいとかビジュアルがすごいとかは生徒の殊勲であって舞台演出とはちょっと違う問題だろうしなあ…と。でもたとえば私は『カサブランカ』は映画ももちろん不朽の名作だけれどイケコ版も素晴らしいと思っているし、『銀英伝』なんかも舞台ならではのことができていてすごいと思い、舞台化には意味があったと評価しているのですよ。そこまでには思えないのは…私が原作漫画を愛しすぎているからなのか、それとも? …このあたり、考えていきたいです。
 一幕ラストらへんとか、ちょっと家族愛にまとめかかっているようにも見えて、いやいやこれはそんな話じゃないよイケコ、とちょっとヒヤリとしたんですけれど、最終的にはちゃんとエドガーの孤独と彼の愛、のお話になっていたかと思うので、それはいいのですが…だとしたらイケコはこの題材を通して何がしたかったのかな、何を描きたかったのかな、と思ってしまいまして。全部原作にあるなら二次展開する意味ないじゃん、という身も蓋もない話なんですけれどね。
 でも漫画をまんまやってるだけだとも思わなくて、たとえば私は『はいからさんが通る』が意外にダメで、単に漫画をまんまやってるだけの低レベルな2.5次元ミュージカルに見えてしまって、宝塚歌劇としていかがなものかと思ったんですけれど、たとえば今回そのメンバーが半分を務めているんですけれどそれは何が違ったんでしょうかね?とか、ね。自分で疑問なのですよ。そもそも私は2.5次元ミュージカルをそんなにたくさん観ていないし、何をもって「2.5っぽい」と言っているのか自分でも謎なところはあるので、まだちょっと不毛な議論ではあるのですが…青年館は盆やセリがあるわけではないから舞台として平板だった、というのはあるかもしれません。あとはやはり、舞台らしさというか、現実の空間で生の役者がリアルにいてやるからこそ逆説的に生まれるはずのファンタジーがないように見えた、のが引っかかったのかなあ、とか…
 題材としては『はいからさん』みたいなタイプの少女漫画の方が宝塚歌劇とは親和性が高いはずなんですよね。たとえば『伯爵令嬢』とか。ヒロイン視点の物語を男役主人公の物語にどうスライドさせるか、という難点はあるにせよ、宝塚歌劇はトップトリオが三角関係メロドラマを演じてこそ、だと私は考えているので。というか宝塚歌劇のトップコンビが異性愛を演じなくなったらもうこの世は終わりですよ。そのときこそたとえ幻であれ夢であれ理想であれ、女が男を愛さなくなるということなのですから。
 それからすると『ポーの一族』というのはもちろんイレギュラーなんだけれど、ギリギリでアリだなと思えるのはこれが人間の物語ではないからです。トップコンビは養子と養母という関係だけれど、人間ではなくバンパネラだから男女ですらない、と思えるし、トップスターが愛するキャラクターを演じているのは二番手男役なんだけれど、ふたりともバンパネラの話だから、と逃げられる。これはみりおが初日のあいさつで奇しくも言ったとおり「ポーの一族と人間ども」の物語であり、観客は人間で、バンパネラにはなれず、永遠の時を孤独を抱えて生きていくふたりを見送ることだけしかできなくて、残された人間たちはまた男女で愛し合い傷つけ合い日々の営みを続けていくのだ…と思うしかないからです。トートは自身が人外でも人間の女を愛したので、半分こちらの人でした。エドガーは違う。そこが新しいしイレギュラーなのですが、人間パートは、まあクリフォードは亡くなってしまったけれど、たとえばそれこそルイス(綺城ひか理)のすこやかさとか、そうしたものに託していくしかないのでしょう。

 ともあれそんなわけで今は、イケコにお手紙書かないとな、となっています。改変や、そもそも舞台化に関してなのか「萩尾望都が許しても私が許さない」ってな手紙も来たとイケコは言っていましたが、私もそこまでではなくとも「14歳でないエドガーはエドガーではない」程度は書いて送りましたからね(^^;)。今はとりあえず、心配は杞憂でした、おもしろかったです良かったですと素直に伝えたい。その上で、アランの「もっといい子がいたんだ!」というトンデモ台詞だけは少しも早く改善してくれとだけは言いたいです(笑)。
 はあ、今度は時系列順収録のコミックスを再読しよう。扉も入っているので切れ目に新鮮に驚けるんだよね…舞台きっかけで、この漫画がより広く深く愛されることを願っています。
 とりいそぎ今日はこのへんで…


 


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