駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

宝塚歌劇雪組『双曲線上のカルテ』

2012年08月12日 | 観劇記/タイトルさ行
 日本青年館、2012年8月10日マチネ。

 イタリアのナポリ近郊にあるメルチーノ・メデイカル・ホスピタルは富裕層の要望に応えた医療サービスを提供することで好調な経営状態を保っていた。だが院内では、たとえマフィアであっても患者として受け入れる外科医フェルナンド=デ・ロッシ(早霧せいな)のやり方に非難の声が上がっていた。夜勤中の飲酒や女性との火遊びを繰り返すフェルナンドに不快感を示す者も多く、特に医師としての理想に燃えるランベルト・ヴァレンテノ(夢乃聖夏)は彼に反発し、何かと衝突していたが…
 原作/渡辺淳一、脚本・演出/石田昌也、作曲・編曲/手島恭子、中尾太郎。

 中居くんがテレビドラマ『白い影』をやったときに原作小説の『無影燈』も読んだ気がするのですが…あまり細かくは覚えていませんでした。
 病気で死期が迫っていてややニヒルになっているお医者さんの話だよね、くらいのイメージでした。

 しかし…『ダンセレ』でハリー老いたな、と思った私ですが、今回同じようにダーイシ老いたな、と思いましたよ…
 いや、石田先生らしい、不必要で意味不明な寒いギャグとか下品な台詞とかセクハラシーンとかはちょいちょいあるし、またいかにもなショーアップ場面もあるのですが(早めにチャリティ・ショーだと明かしてくれないと、寒い幻想なのか夢オチなのかハラハラして観ているのがつらいのでなんとかしてください)、なんかパワーダウンしている感じがしたし、あと、全体に、それだけ、なんですよね。
 お話は原作を追いかけるのに精一杯でエピソード盛りすぎ、細切れの暗転で場面をつなぐだけで舞台としての流れはブツ切れ、そして何よりキャラクターが弱い。
 ヘンに類型的にしすぎるのも考えものですが、ある程度のキャラクター付けはしないと、観客はその人をどう捕らえていいのかわからなくて混乱します。
 でも、たとえばフェルナンドはクールでランベルトはホット、みたいなわかりやすいキャラクター設定にしていないんですよね。それはナチュラルでいいとも言えるし現実の人間ってそんなにバッキリ色が分かれているものでもないからこれで正しい、とも言えるのだけれど、なんかとても石田先生らしくなく感じてしまって…
 丸くなったのではなく、老いた、老けた、情熱がなくなった、つまらなくなった…?みたいな印象を受けてしまったのです、私は。

 フェルナンドとランベルトがわかりやすく対立しすぎていなかったり、逆にがっつり親友同士!みたいな感じでもない、というところはなんかよかったんだけれどなあ。
 クラリーチェ(大湖せしる。立派な肩幅だが綺麗な女役に変身していて感心)の扱いをヘンに湿っぽくしなかったところとかもよかった。でも彼女とモニカ(星乃あんり)との対決シーンとかはホント女性観客からしたら興醒めだと思うんだけどなー。なんでこう作るのかなー…
 そのヒロインのモニカですが、天使のような清純無垢な天真爛漫な、薔薇よりひまわりといったイメージの少女…としたかったんでしょうけれど、要するに白痴美人ってことだよね、とヒヤヒヤしました。演じ手が、わかってやっているんだかただひたむきにやっているだけなのかよくわからなかっただけに…
 モニカがフェルナンドに対してクラリーチェのことを気にしていない、と言うくだりの嘘寒さったらなかったわ…モニカという女性をどういう人間だと捉えたらああいう台詞が書けるのか、ああいう演出ができるのか、ああいう演技ができるのか一体。怖い…

 まあ、ニヒルになって世を捨てかけている人間だって、ギリギリまで仕事はしたいと思っているくらいには情熱が残っているのだし、どんなに自分を律して「もう恋する資格なんかない」と思っていたとしても恋に落ちることはあるわけで止められるものでもないし、その相手がどんなタイプでもありえるので別にいいんですけれど…
 天使のような女に救われたい、みたいな男の願望が私という女にはよく理解できないのは、まあ仕方ないよね。

 ただ、こんなあれこれエピソードで手一杯になっちゃうくらいなら、原作なんか取らずに、「死病にかかっている医師」という設定だけ使ってオリジナルのドラマ、物語を作ればいいのに、それだけの力はあるはずじゃん石田先生、と思ったのは確かなんですよ。
 中心の登場人物にキャラクター性が希薄で、キャラクター同士のドラマも希薄に見えちゃったんですもん。もっと友情とか反発とか三角関係とか四角関係とかの暑苦しいドラマを書いてくる人だったんじゃないのかなー、と思ってしまったのです。
 もしかして私は意外に石田先生が好きで、買いかぶっていたのか…!?

 希薄って言うかザルって言うか流しすぎだろともう怒る気もうせたのが、ラストの院長(夏美よう)の隠し子騒動(?)ですよ…
 まずもって院長夫人(五峰亜季)のキャラが完全に謎で完全にマユミさんの無駄遣いって感じなのが許しがたかったのは百歩くらい譲って棚上げしてもいいけれど、愛人の産んだ子がいて自分の子供と骨髄の型が合ったから移植できてよかったね、みたいな話でまとめていいと思ってんの?
 あんなギャグみたいな家庭争議ですませていい問題だと思ってんの?
 そもそも冒頭でナイトクラブのママ・アニータ(夢華あみ。さすがにナギショーの母親というのには驚いたが、基本的には女役が上手い下級生だし、フィナーレのエトワールといい、正しい使われ方だったと思う。いろいろ問題はあると考えつつも、簡単に辞めちゃわないでほしいとは思っています)が愛人関係にあるのであろう院長を「パパ」と呼んだその昭和キャバレー感にぞっとしたのですが、よもや本当に間に子供を作っていてそのパパという意味でもあったのか、でも子供の存在を知らせていないのか、それは何故なのか、相手に迷惑だと思うから、相手のことを本当に愛しているからなのか、だったら潔く別れそうなものだが今でもずるずる付き合っていて、養育費はもらっていないが店の運転資金はせびっていたりして、合いなのか打算なのか全然わからない気持ち悪い関係なのがイヤ。
 息子アントニーオ(彩凪翔)は何故か健やかにまっとうに育ちあがったわけですが、腹違いの妹であるクラリーチェとの相克をいい話にしたいのかなんなのかも全然わからない。
 院長は入り婿で院長夫人に頭が上がらないということらしいけれど、婦長(麻樹ゆめみ。あんなしっかりして賢い女がこんな関係を結ぶとはとても思えないのですが…)ともよろしくやっているわけで、楽しんでるじゃん、同情の余地なんかないじゃん。
 院長夫人がアニータに頭を下げるのはいい場面として見せたいと思っているの? 冗談でしょう? ああ気持ち悪かった…

 さらにラストにもっとどっと疲れる展開が待っていようとはさすがの私も思っていませんでしたよ…
 天国のチェーザレ(朝風れい)とかはちょっといいエピソードだったんだけれどねえ…
 あの男の子はつまり、モニカが産んだ子で、フェルナンドの子供ってことなんですよね?
 たとえば『TRAFALGAR』のラストの演出が私はけっこう好きで、幻想の中で死んだ親が子供のもとを訪れて愛を伝える、というのには感動するんですけれど…今回もやっていることは同じことなんだけれど…
 私は、この子供がいることでモニカの後半生がフェルナンドに縛り付けられちゃったじゃん、としか思えなくて、ショックだったんですよ。
 フェルナンドは自分の死期を知っていた、だから恋を禁じていた。相手を泣かせるだけだから。でも恋に落ちてしまった。それはいい。仕方ない。
 でも、末期ガン患者に恋をする権利はないとは言わないが、子供を作る権利はないんじゃないかとは言いたいワケですよ。少なくとも避妊する義務がある。それでもできてしまうのが子供というものだけれど、それでも。
 もちろんモニカが望んだのかもしれないし、モニカは子供が持てて幸せなのかもしれないけれど。でも。子供が成人するまで生きられないのにさ、無責任だよね。そしてモニカに対しても無責任だと思うのですよ、全部押し付けて去るワケだしさ。
 モニカは何も知らずに恋をして、恋人を失って、それでも恋そのものを悔やむことはなかったろうし、これからも強く生きていく。魅力のある女性なんだろうし、いつかまた別の出会いに恵まれて恋をすることもあるだろう。そして幸せになるだろう。
 それが残された者の、生きていく者の人生というものですよ。彼女の後半生にフェルナンドはいない。
 なのに子供が残されたら…たとえば次の恋の障害になりがちでしょ? 彼女の残りの人生までもをフェルナンドは奪おうと言うの? そんなわがままが許されるの?
 そうやって女をいつまでも解放せず縛り付けて自分の種を残そうとする男の妄執がもう耐えがたかった、私は…
 どっと疲れたラストでした…

 フィナーレはなかなか素敵だったけれど、チギちゃんは髪型を変えるべきじゃなかったかなー。長髪は本編で堪能したので、ちがうものが見たかった。
 あと、えりたんの返り咲きが決まって待たされる形になったチギちゃんですが、充実した二番手時期というのは絶対に必要なので、ここで踏ん張ってがんばってほしいのですが、この作品はとりあえず彼女の鍛錬の場にはなっていない気がしたのが気になりましたねえ…
 逆転のともみんってのもあるんじゃないの?とかちょっと思ってしまいましたよ…育てる側ががんばらないと大変だぞ!

 あ、最後になりましたが、タイトルは素敵だと思いました。







コメント (2)
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