映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

愛に関する短いフィルム(1988年)

2017-06-06 | 【あ】




以下、Movie Walkerよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 19歳の郵便局員トメク(オラフ・ルバシェンク)は、毎晩8時半に、盗品の望遠鏡で向いのアパートに住む女流画家マグダ(グラジーナ・ジャポロフスカ)の部屋を覗き見ていた。次々と違う男を部屋に連れこむマグダに、トメクは執拗に無言電話をかけ続ける。それは、出征中の友人の母親(ステファニア・イヴァンスカ)のアパートに間借りする孤独な少年の、屈折した愛情表現だった。

 彼女に逢うために、トメクは、牛乳配達のバイトを始める。そしてある晩、恋人と別れて一人で泣くマグダを見たトメクは、翌朝、偽の為替通知を彼女のポストに届けた。郵便局に為替を受け取りに来て責任者に罵られた彼女に、トメクは駆け寄って初めて声をかけた。

 「昨日君は泣いていた」。

 彼のしたことを告白されて、マグダは「人でなし!」と叫んだ。その夜彼女は少年を挑発するように男を連れ込んだ。覗き見されていることを彼女に知らされ、男はトメクを呼び出して殴り倒した。翌朝、牛乳を届けに来たトメクに、マグダは「どうしてつけまわすの?」と聞いた。トメクは「愛しているから」と答えた。

 そして、初めてのデート。しかし、マグダの部屋で、トメクはマグダの言う〈世間でいう愛の正体〉を見せつけられ、絶望して部屋を飛び出していった。後悔したマグダは彼に詫びようとするが、少年は手首を切って病院にかつぎこまれていた。彼を住まわせていた老婦人は、「あなたは笑うでしょうが、恋の病です」と言ったきり彼の行方を教えようとはしない。

 その日から、今度は彼女がオペラグラスで向いのトメクの部屋を見つめ、彼からの電話を待つ夜が続いた。そしてある晩、とうとうトメクが退院したことを知ったマグダは、トメクの部屋を訪れた。眠っているトメクと老婦人の傍らから望遠鏡で自分の部屋を覗いたマグダは、泣いている自分と、その肩に少年の手がそっと置かれるのを見た。

====コピペ終わり。

 愛って、、、何なのだろうか???

   
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 しばらくポーランド映画が続きます。

 本作は、「十戒」をモチーフとした、クシシュトフ・キェシロフスキ監督のTVシリーズ『デカローグ』(全10作)のうちの、第6作。ドラマ版は1時間ものだったようだけど、本作は、87分。ドラマ版は未見。噂(?)によると、ラストがドラマ版と本作ではゼンゼン違うとのこと。


◆愛についての短くない観念話。

 上記、あらすじを読んでいただければ分かる様に、本作のメインストーリーは、“覗き”&“ストーカー”。

 で、本作を見て、同じポーランド映画ということで、イヤでも頭に浮かんでしまうのが、2008年公開のイエジー・スコリモフスキ監督『アンナと過ごした4日間』。みんシネではあんまし評判良くなかったけれど、私は結構気に入ってしまった。主人公の男が、ある女性にストーカーするオハナシなんだけれども、これが痛いながらも愛すべき作品になっていて(詳細は忘れている部分も多いが)、あれもまさしく“愛”を描いていたのだと思う。おそらく、スコリモフスキは、本作にインスパイアされている部分が多いのだろうと思われる。

 で、本作で描かれている“愛”なのだが、、、。覗きから始まる愛、ストーカーから始まる愛、、、。

 愛に正しい定義などはないので、別にこれが愛だと言われれば否定する気はさらさらありません。しかし、もし私がマグダだったら、覗いていた若い男を愛しいと思えるか、と想像すると、答えはどうしたって“NO”なんだよねぇ。

 とはいえ、一方で覗きたくなる気持ちも分かる。好きな人の知られざる一面を見たい、と思うのは、人として自然な感情でもあると思う。

 でも、好きだからこそ見たくない、ってのもあるわよね。私は、まあ、こっちだけれど。好きな人の日記が、見てくれと言わんばかりに机上に置かれていたとしても、私は、怖ろしくて見られない。だから、配偶者や恋人のケータイを見てしまう人の心理が分からない。何でそんな怖ろしいことができるのか、、、。そこに、何が書いてあっても受け入れられる自信、、、、私にはナイ。見たくないわけじゃないのだろうけど、それ以上に怖ろしい。

 それに、いたって現実的な感想になってしまって恐縮だけど、やはり、現実にストーカー被害に遭って殺されている人がいることを思うと、トメクの行動を“愛だわ~”と肯定する気にもなれないし、終盤、マグダとトメクの立場が逆転するのも、あれが“愛”だとか言われても、あまりにファンタジーな感じがして、正直なところ、これはいささか脳内で考えただけの観念的に過ぎるオハナシじゃない? と白けてしまう。


◆見返りを求めてはいけません。

 覗きにしても、ストーカーにしても、まあ、感情の一方通行ってやつで、相手の気持ちは度外視している行為だよね。

 この、相手の気持ちを度外視した独り善がりが、相手の気持ちを動かすことになる、という誤ったメッセージを本作から読み取る人もいるんじゃないかしらん。私は、ストーカーではないものの一方的に感情を押し付けられた経験があるので、こういうのを愛だとか描かれるのは、ちょっと受け容れ難いものがある。

 本作で、トメクが覗きからストーカーに転じたきっかけは、マグダがある晩、哀しみに暮れてミルクを瓶からこぼして(覆水盆に返らず)、そのミルクを拭きもせずに指で撫でながら泣いている姿を覗き見したことだ。それから、直接的にマグダに働き掛ける。そこから、話は一気に展開し、マグダがトメクを自室に招き入れ、「愛とはこういうものよ」と言って、トメクに自分の身体に触れさせるだけでセックスもしないまま射精させる。これに傷つくトメクは、自宅に逃げ帰り、手首を切って自殺を図る、、、。

 覗き、ストーカー、セックス、、、。キェシロフスキは、こういった敢えてインモラルなことで、愛を描こうとしたのは分かるけれど、、、うぅむ、という感じ。確かに、愛なんて独善的なものだし、美しいものでも崇高なものでもない。だから、インモラルは良いのだけど、やっぱり、愛ってのは対象があって、双方向性も、ある程度は大事なんじゃないかと。独善的だから一方通行で良い、ってのは、、、なんだかなぁ、と。

 でもって、一方通行が、逆方向に向いてまた一方通行で、交わらないんだよね、本作では。それが愛なんだ、と言われりゃ、まあ確かにそうかも知れない、と言う気もするが、、、。

 ただ、昔、瀬戸内寂聴氏(個人的にはあんまし好きじゃないが)が言っていたけど、愛ってのは、“渇愛”(見返りを求める愛のこと)ではダメである、とか。双方向性は、愛には求めてはいけない、つまり、ひたすら与えるのが愛だ、ということ。

 その説から言えば、ひたすら一方通行な覗きは、まさに、“真の愛”ともいえるかも、、、(!!!)。ストーカーは見返りを求めているからダメだけど。


◆求めよ、されど与えられぬ……それが愛!?

 ……と、下世話なことばかり書いてしまったけれど、本作では、最初は、一方的なトメクの覗きの“愛”に始まって、“愛=セックス”だと思い込んでいたマグダが、トメクの思いに触れて“本当に自分が求めていた愛”を見出す、という、マグダから見た“愛”で終わっている。

 トメクもマグダも、非常に孤独な者同士、傷をなめ合っている感がないでもない。そういうところも、ちょっとイヤかも。それに、マグダの求めていた愛ってのは、詰まるところ、癒やしじゃないか。インモラル全開で来たのに、ラストはあまりにも凡庸じゃない? それも不満かな。

 愛って、何だろう?? そもそも、愛って本当にあるものなのか。見えないけれどあるんだよ、って、金子みすずみたいだ。そういうもの?

 もしかしたら、愛なんて、所詮は全て“自己愛”に帰結するんじゃないか、という気も正直してしまう。

 そういう意味では、私自身、愛など語る資格はそもそもないわけで。

 ただ、ストーカーでもずっとやってりゃ、いつかは相手に思いが通じる、とか勘違いしている人がいたら、それは大間違いだよと言っておきたい。覗きも然り。

 この後、トメクとマグダはどうなるのか。彼らが愛し合う、ということにはならないだろうと思う。トメクもマグダも、それまでとは愛に対する向き合い方は変わるんだろうか。トメクは変わるかな。ドラマ版では、郵便局で働くトメクをマグダが訪ねたところ、トメクが冷たく突き放すというオチだそうだが、まあ、その方が、私的には腑に落ちる展開の様に思う。

 でも、マグダは、、、。余計に辛いその後が待っているようにも思う。セックスにも愛を感じられず、ますます愛に懐疑的になるだけ、、、とか。

 “求めよ、さらば与えられん”とは言うけれど、愛に限っては、あまり当てはまらないような。






覗きは犯罪です。




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