今日はくじらとキウイの相席教室。ではくじらから・・・。ここは作品作りが目的では無くて、作家katsuと会話するって事だけでも良い人なのね。そう言うと勘違いされそうだけれど、くじらは俳人なのね。だから常に考える・・・って事と向き合っている人なのね。だから分野は違えど、やっている事は俺と何も変わらないのね。
要するに俳句は17文字の中で、表現をしなければならないのと、俺はその下地の大きさの中で、どう作ろうか?と考える。その時に、恐らく情緒なんてもんを入れ込もうとするのね。そうね、何でも話題のきっかけなんて良いんだけれど、小さな財布で何千円分かの支払いをする人がいて、その財布では、きっと支払額にはどう考えても届かない・・・。
それを財布をひっくり返して、いち、にーって数えて、やっぱり足りないんで、後で良いですか・・・みたいな話だったのね。そうね、こんな他愛も無い話をね、例えば俺なら、ひっくり返した途端、コロコロって転がって行って、あっ・・・って追い掛けて行くと、カッコいい男の人が拾ってくれて、出会いの始まり・・・なんて事になれば、昭和の恋愛ドラマ。
とか、コロコロって転がって穴に落ちると、イタタタた、何しやがるんだよ・・・おや?見慣れない顔だな・・・さてはお前人間だな?ってモグラ叔父さんに合えば、ファンタジーの始まりだったり、こうした話を膨らませる事で、例えば薔薇のモチーフで・・・なんて依頼を何かお客さんの情報を踏まえて、それを薔薇だけじゃ無いものに変えて行くのね。
それをくじらは17文字に落とし込む。こんな違いはあれど、要するにそう来たか・・・みたいなお互いに発見があるのね。何しろ俺は膨らますってプラスさせるんだけど、くじらは必要最低限の文字数で、読み手の想像力に期待する感じになるから、想像力の乏しい人には、何を言っているか伝わらないだろうし、逆に判る人には、たった17文字なのに、
受け取り方で、大きく変化したりもする。逆に俺の場合、今の金魚の壁画にしても、頼まれたのは金魚なのに、金魚のスペースよりもバックの方が多い。例えばそれを1匹大きくして、後はバックとする。そうしたら約束通りにはなるけれど、恐らく金魚屋さんの看板みたいにも見えるかも知れない。果たしてそれが俺に作って欲しいのかな?
それなら俺じゃ無くても良いし、ただ金魚にソックリってだけなら、絵描きに頼めばもっと早く終ると思うのね。その典型的なものが、銭湯の壁画。休みの間に描き終わるスタイル。それをモザイクでやっていた銭湯もある。お金も時間も掛かるのにね。同じモチーフだとしても、見え方は違うもので・・・話は戻して、要するに考え方なのね。
17文字しか無いじゃん・・・って考え方だと、思いを削って削って、落とし込むって引き算的な考え方になり、俺はいかに足し算して、モチーフのみにならないか?なんて考え方が支流だとしたら、くじらの引き算を俺が手に入れて、俺の足し算みたいな考え方を取り入れる事が出来たのなら、新境地みたいな感覚になるのね・・・。
まぁ何しろこっちはとても勉強になる。まぁくじらも何らかを得る事があるんだろうが・・・とは言え、一応モザイク教室なんで、タイルは切って帰ってくれよ・・・とは頼んでいるんで、ちょこっとやって行くのね。でもね、ちょこっとやって行く・・・ってだけでも、これだけの作品になるのだから、時間は掛かるけれど継続は力なりの証明でもある。
ではキウイ。
いよいよリボンに入ったのね。そうね、単純に色だけの話なら、今まで使った色では無い色・・・って事で、後は好みになるけれど、どう見せたいの?の質問に、大人可愛いって言うんで、今の段階でどう見えているか?なのね。もし大人寄りに見えていたのなら、子供テイストが足りないだろうし、子供っぽく見えているのなら、大人テイストが足らないってね。
その時に常に作り手は、自分の作品だから、自分の好みだけで作りがちなんだけれど、折角相席なんて場合は、それをどっちに見える?とか、どう見える?とか質問して感想を聞くなんて事をお勧めしているのね。これは五感の話で、聞く相手が自分よりも上手い人なら参考になるが・・・なんて考え方になりがちだが、では俺は一体誰に聞くんだろうか?
要するに五感って言うのは誰にでもあって、出来なくても感じる事は出来るのね。しかもくじらの場合、その感じるって部分が、俺のような知覚過敏的な感じ方だから、人よりも大きく感じるだろうし・・・しかも、その上、この作品を作れる腕もあってだから、かなり信憑性があるのね。こうした目や感じ方なんて言うのを借りない手は無いのね。
あぁそう感じるんだぁ・・・って思えたのなら、自分とニュアンスの違いを確認出来るし、逆に同じ事を思っていたのなら、あぁ自分の思っていた事は、思い込みじゃ無くて、賛同に1票入った・・・みたいな感覚。大きく反れてはいないかぁ・・・の確認だったりね。こうした気付きは大事なのね。ただそれが相席の良さなら、逆に同じような人の相席だと、
もし労作展の子供達だったら、先生、先生の呼び合い合戦になったら、呼んだもん勝ちみたいになったらね・・・こっちも困るのね。だから相席にはしないのね。これが同じもの、つまりサンプル通りなら、聞かなくても進められる人も出て来るから、均等に回れたりもするのね。まっそれはそうと、どちらも終盤って感じなのね。
そんなこんな後は、少しだけ金魚の壁画。
やっぱりね、繋ぎ目は立てて一緒にバランスを見ないと、テーブルに乗せたままの作成は難しいのね・・・だからまた立て掛けてみたりして・・・。だからちょこっと・・・。
要するに俳句は17文字の中で、表現をしなければならないのと、俺はその下地の大きさの中で、どう作ろうか?と考える。その時に、恐らく情緒なんてもんを入れ込もうとするのね。そうね、何でも話題のきっかけなんて良いんだけれど、小さな財布で何千円分かの支払いをする人がいて、その財布では、きっと支払額にはどう考えても届かない・・・。
それを財布をひっくり返して、いち、にーって数えて、やっぱり足りないんで、後で良いですか・・・みたいな話だったのね。そうね、こんな他愛も無い話をね、例えば俺なら、ひっくり返した途端、コロコロって転がって行って、あっ・・・って追い掛けて行くと、カッコいい男の人が拾ってくれて、出会いの始まり・・・なんて事になれば、昭和の恋愛ドラマ。
とか、コロコロって転がって穴に落ちると、イタタタた、何しやがるんだよ・・・おや?見慣れない顔だな・・・さてはお前人間だな?ってモグラ叔父さんに合えば、ファンタジーの始まりだったり、こうした話を膨らませる事で、例えば薔薇のモチーフで・・・なんて依頼を何かお客さんの情報を踏まえて、それを薔薇だけじゃ無いものに変えて行くのね。
それをくじらは17文字に落とし込む。こんな違いはあれど、要するにそう来たか・・・みたいなお互いに発見があるのね。何しろ俺は膨らますってプラスさせるんだけど、くじらは必要最低限の文字数で、読み手の想像力に期待する感じになるから、想像力の乏しい人には、何を言っているか伝わらないだろうし、逆に判る人には、たった17文字なのに、
受け取り方で、大きく変化したりもする。逆に俺の場合、今の金魚の壁画にしても、頼まれたのは金魚なのに、金魚のスペースよりもバックの方が多い。例えばそれを1匹大きくして、後はバックとする。そうしたら約束通りにはなるけれど、恐らく金魚屋さんの看板みたいにも見えるかも知れない。果たしてそれが俺に作って欲しいのかな?
それなら俺じゃ無くても良いし、ただ金魚にソックリってだけなら、絵描きに頼めばもっと早く終ると思うのね。その典型的なものが、銭湯の壁画。休みの間に描き終わるスタイル。それをモザイクでやっていた銭湯もある。お金も時間も掛かるのにね。同じモチーフだとしても、見え方は違うもので・・・話は戻して、要するに考え方なのね。
17文字しか無いじゃん・・・って考え方だと、思いを削って削って、落とし込むって引き算的な考え方になり、俺はいかに足し算して、モチーフのみにならないか?なんて考え方が支流だとしたら、くじらの引き算を俺が手に入れて、俺の足し算みたいな考え方を取り入れる事が出来たのなら、新境地みたいな感覚になるのね・・・。
まぁ何しろこっちはとても勉強になる。まぁくじらも何らかを得る事があるんだろうが・・・とは言え、一応モザイク教室なんで、タイルは切って帰ってくれよ・・・とは頼んでいるんで、ちょこっとやって行くのね。でもね、ちょこっとやって行く・・・ってだけでも、これだけの作品になるのだから、時間は掛かるけれど継続は力なりの証明でもある。
ではキウイ。
いよいよリボンに入ったのね。そうね、単純に色だけの話なら、今まで使った色では無い色・・・って事で、後は好みになるけれど、どう見せたいの?の質問に、大人可愛いって言うんで、今の段階でどう見えているか?なのね。もし大人寄りに見えていたのなら、子供テイストが足りないだろうし、子供っぽく見えているのなら、大人テイストが足らないってね。
その時に常に作り手は、自分の作品だから、自分の好みだけで作りがちなんだけれど、折角相席なんて場合は、それをどっちに見える?とか、どう見える?とか質問して感想を聞くなんて事をお勧めしているのね。これは五感の話で、聞く相手が自分よりも上手い人なら参考になるが・・・なんて考え方になりがちだが、では俺は一体誰に聞くんだろうか?
要するに五感って言うのは誰にでもあって、出来なくても感じる事は出来るのね。しかもくじらの場合、その感じるって部分が、俺のような知覚過敏的な感じ方だから、人よりも大きく感じるだろうし・・・しかも、その上、この作品を作れる腕もあってだから、かなり信憑性があるのね。こうした目や感じ方なんて言うのを借りない手は無いのね。
あぁそう感じるんだぁ・・・って思えたのなら、自分とニュアンスの違いを確認出来るし、逆に同じ事を思っていたのなら、あぁ自分の思っていた事は、思い込みじゃ無くて、賛同に1票入った・・・みたいな感覚。大きく反れてはいないかぁ・・・の確認だったりね。こうした気付きは大事なのね。ただそれが相席の良さなら、逆に同じような人の相席だと、
もし労作展の子供達だったら、先生、先生の呼び合い合戦になったら、呼んだもん勝ちみたいになったらね・・・こっちも困るのね。だから相席にはしないのね。これが同じもの、つまりサンプル通りなら、聞かなくても進められる人も出て来るから、均等に回れたりもするのね。まっそれはそうと、どちらも終盤って感じなのね。
そんなこんな後は、少しだけ金魚の壁画。
やっぱりね、繋ぎ目は立てて一緒にバランスを見ないと、テーブルに乗せたままの作成は難しいのね・・・だからまた立て掛けてみたりして・・・。だからちょこっと・・・。