katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

さくら教室とDucatiのモザイク

2020-06-20 07:46:11 | モザイク教室

今日は午後からさくら教室。って事で、その合間にいくらかDucatiのモザイク。

微妙に進んではいるのね。さてそんな中、さくらは新作に取り掛かるんだけれど、フクロウを作りたいって事なんだけれど、指先が相変わらず調子が悪い事で、上手く切れないんじゃないか?果たして出来るのだろうか?って一番のワードが、

大作として自分と向き合うような事はしたくない・・・まぁこれだけあれば、何が良いか?って提案は十分だったのね。つまり、牛では無く牛肉、カンガルーじゃ無くて、オーストリッチ・・・単純にこんな感じになると思うのね。

本来、大作を作るって言うのは、長丁場になり、しかも表現をするって言うのは、自己表現なんて言う事を考えれば、長い時間掛ける自己表現の事を大作って呼ぶみたいになると思うのね。所がそれをしたく無いけれど大作を作りたい・・・

正直、矛盾しているように思えるが、例えば家族の分のおにぎりを作るとする。まぁ10個をちょっと超える程度・・・勿論、初めて握る人では、どうやるの?から始まり、単なる塩握りだとしても塩の分量は?大きさは?みたいな事にもなる。

そこに具材となれば、例えば梅干しなら、大体同じ大きさだから入れる時、気を付けるのは数のみ。まぁ数も1個だけどね。でももし鮭なら?分量もさることながら、部位で味だって違うだろうね。それがフレーク状なら、分量だけで済むけど

・・・。テーマをおにぎりって事にしても、初めてなら塩の分量と大きさで済むが、中に入れるモノ1つで、更にハードルが上がる事になる。更に数となった時、いつもの家族の数なら、常に作れば慣れて来る。慣れれば普通になる。

でも大作は何度もやったさくらでは、それを作る為の難易度など経験がある。つまり知っているから、それをやりたくない・・・って事に繋がったと思われるのね。つまり今までの大作の作り方と向き合う事が嫌なのは、もしかすると、技術

の不安では無くて、心の部分だったとしたら?思い入れを一切無くす・・・それなら向き合うのは技術のみになる。さくらが思う技術の不安と考える事が、実は自分の心と向き合う事と勘違いしているとしたら?

って仮定して、おにぎりの話に戻ると、そもそもおにぎりを作りたくないのなら、作品を作る所から否定になるから、この話は終わりになる。しかし、大作を作りたい・・って事は、自ら大変な事を知ってて選んだ事になる。

けれど、知っているが故に不安になる。あの時出来ても今の自分で出来るかな?と。そして出来れば向き合いたくない・・・けれど、大作は出来無いものか?って話になる。じゃ全部満たされれば良いのね・・・もはや一休さんのトンチ。

そうじゃ無きゃ良いだけ。そもそも料理がしたく無いって人は、おにぎりも嫌なはず。それなのに大作。そこでまたおにぎりに戻って、子供でも安心して大丈夫な事なら、上手く行くか?どうかは別にしてカッコにはなる。それを大きさや形、

具などを均等にする事で、上手さの差を付ける。段々判って来たと思うけれど、つまり難しい事は考えずに繰り返す。体に沁み込ませる・・・それが慣れるって事なのね。それが技術。でも自分と向き合うって言うのは技術とは違う部分。

その時にどうしたい?と自分と相談する事になるのね。でもね、大抵何と無く・・・なのね。つまりさくらの場合なら、フクロウが作りたい、大作作りたい、でも不安があるから向き合いたくない・・・まぁこんなとこ。それを踏まえた答えが

一休さんのトンチで、そうじゃ無きゃ良いのね・・・じゃあ、フクロウを作りましょう、大作にしましょう、不安があるから向き合うの辞めましょう・・・これで出来るのねって事になる。だから難しい料理じゃ無くておにぎり。何個握るか?

果てしなく・・・家族分なんて量では無くて、おにぎりセンターくらい。果てしなく。でも余計な事は考えなくて良い。ただ握れ・・・なんで、ひたすら切るだけ。でもそれにもルールはあるのね。何故なら考えるな・・と言われると、不安

が増すのね。大丈夫だから・・でやれるのは、愛に包まれた子供だけ。大人はそんな簡単じゃ無いのね。増してさくら。謙虚は通り過ぎて卑屈の極み。そんな人に何をどう言っても無理だから、おにぎりルールの元、今度は最初の牛では無く

て牛肉とか、カンガルーじゃ無くてオーストリッチ的な話で、牛を食べるのに頭を取って血だらけになったモノを、血を抜いて・・・牛肉って死んだ肉の事だよ・・・とか、オーストリッチって、中身よりも皮を大事に丁寧な仕上げ・・って

考える?って事になると、それじゃ食べられないし、使えない。つまり考えていない事になる。しかしながら、本当の達人レベルなら、命を頂きます・・であり、私が生きる為、幸せの為であったりする訳で・・・かなりのエゴ。

でも、普通は考えないでしょ?だから、さくらも達人じゃなくて良いから、考えずに行きましょうって事にする。って言っても、きっと考えちゃうと思うのね。そこでフクロウを作るのでは無くて、フクロウに見えたら良いねを作る発想。

普通はフクロウに見えるように、これでもか、これでもか・・・と見えるようにとプラスする考え方をする。そこをマイナス的に、これが無くてもフクロウに見えるかな?これも無くてもフクロウに見えるかな?と削り落とす、マイナスの考え

にして、落とし過ぎるとフクロウに見えない・・・それでは本末転倒。その時に、いつもなら、実物よりもなるべく大きめで・・・となるべくなのね。そして結果の出た人達は?となると、7.8.90cm級になる。全体で・・。

じゃフクロウをそんな巨大に作りたい?となると、物理的に無理だから、発想の転換で、フクロウに見えたら良いね、のマイナス的な考えで、眼は口ほどにモノを言うのだから、眼付近だけでフクロウに見せちゃえよになる。

更にそれを巨大化させちゃえよ・・・となれば、顔だけ60cmってどう?しかも、そこから削り落として・・・そうなると、フクロウなのにフクロウを作る感覚では無くて、模様を正確に切る事になる。つまり牛では無く牛肉感覚。

単なるパーツの繰返し。ただおにぎり作りと同じで、何しろ精密になら均等に、けれど元々生き物・・・均等とも限らない。何しろ考える事無く、ひたすら良く見て、あるものを正確にまずは写す。出来るか?出来無いか?切れるか?

切れないか?は別にして。そして写し終わったら、次に切る段階で、どの線が大事で、どの線が切れて・・・とやれる事と、やれない事を分ける。その時に1番大事な事だけを選んで行く。あれもこれもと選ばないでね。

スーパーの買い物みたいな・・・大事なモノを買ってからの余力や、カゴの余白、持って帰れるか?は、車の人、自転車、歩きと様々で、人それぞれ。であっても、大事なモノを1つだけ・・・なら、何とかなるもので。大事なモノはどれ?

って1つ。それが出来たら余力で2番目。あれもこれもじゃ無く、全て順位。本来ならいつもなら、丸く切るんじゃ無くて、眼を作っている・・・何を作っているか意識を持つって教えるのに、向き合いたくないのだから、いつもとは違う。

だから、いつもとは矛盾が起きる。でも簡単に言えば、まるで何々のように・・・みたいに見たもののまんまじゃ無くて、その人その人の作り手の思いや感覚が個性って事に繋がり、昇華すると美術、芸術になるのなら、その反対の作り方

は、模写的に、そのまんま、見たまんま、聞いたまんま、食べた通り・・・全てそこにある通りであって、作り手はそれに従えば良いので、一切考えるな・・・それが自由演技と規定演技の違いだと思うのね。

今のさくらは考える事が嫌だって言うのなら、規定演技が良いんじゃないかな?って。でもいつも通りって言うのもなんなんで、やった事の無い刺激も必要だろうって事になると、こうなると思うのね。そしてこの作品を作り終えた時に、額を

焼いた木でくるむと、大木の木の隙間から、エサのネズミを昼間の間、確認をしている鋭い眼光のフクロウが完成するはずなのね・・・。リアルって言うのはそう言うものなのね・・・。しかも本人の意識無く。

いずれにせよ、進んで行けば意味が判るとは思うのね。

 

 


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