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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

志村和久 『漢文早わかり』

2016年07月27日 | 人文科学
 〔88〕の④「A――之謂B――。A――を之れB――と謂ふ。〈A――をB――という。BとはAのことである。〉」(170頁)。この文型がいまだによくわからない。通常はBが主語、Aが目的語とされるが(つまり倒置であると)、本当にそうか。主語・述語ではなく、主題語・説明語の概念で考えれば、どちらが主題語でどちらが説明語なのであろう。

 A之謂Bを、「B也者A之謂(也)」の倒置(という言葉は使っていないが)と主張した先人の一人に戴震がいる。

  古人言辭,「之謂」「謂之」有異:凡曰「之謂」,以上所稱解下,如中庸「天命之謂性,率性之謂道,脩道之謂教」,此為性、道、教言之,若曰性也者 天命之謂也,道也者率性之謂也,教也者脩道之謂也;易「一陰一陽之謂道」,則為天道言之,若曰道也者一陰一陽之謂也。凡曰「謂之」者,以下所稱之名辨上之實,如中庸「自誠明謂之性,自明誠謂之教」,此非為性教言之,以性教區別「自誠明」「自明誠」二者耳。
 (『孟子字義疏証』「巻中 天道四条」。テキストは中國哲學書電子化計劃のそれによる)

 だが私には「之謂」の“以上所稱解下”と、「謂之」 の“以下所稱之名辨上之實”の区別がよくわからない。いや、わかるのだが、それほど大きな違いがあるとは思えないのだ。だがそのどちらも、下が説明されるべき名であり上がその説明(一歩踏みこんで言えば定義)であることだけは確かである。つまり主題語は両者ともに説明語の後に置かれている。

(學燈社 1982年12月)

魚返善雄 『漢文入門』

2016年07月27日 | 人文科学
 白話文(中国語・現代漢語)を英文とすれば漢文(文言文・古代漢語)はラテン文に相当し、両者は「別もの」と、はっきり断ってある。

 おなじローマ字で書いてありますが、だからとてラテン文と英文とを同時に、おなじ方法で学ぼうとするのはムチャでしょう。 (17頁)

 この本、漢文の文法構造を大づかみに「主題語(主体語)」と「説明語」とに二分してみせたのは、とてもとっつきやすい全体図の提示だと思う。

 〔「主題語」と「説明語」は〕英語その他の『主語・述語』とくらべて、役わりは大体おなじであるが、内容はかなりちがっている。 (170頁)

 あとはその「かなりちがっている」ところを、実例を挙げつつ説明すればよいのであり、実際、ほぼそうなっている。

 つけたり。

 「論語」は、たしかにむずかしい。はじめの二、三章からとった、わずかな文例からでも、そのことがしみじみと感じられる。「論語は孔子の時代の口語体だからやさしい」などというもは、とんでもない考えちがいだ。口語体どころか、すこぶるヤッカイな文語体である
(208頁)

 興味深い意見。口語でも、いったん筆記されれば意識的無意識的に整理が行われて、もとの口語(体)そのままではなくなる。あるのは口語的な要素の多い文語(体)である。筆者はそのことを言っておられるのかどうか。それとも別の意味で(だとすればこれは『論語』という書物の成立にも関わってくる問題になるが)を、示唆しておられるのか。

(社会思想社 1966年12月)

加々美光行 『未完の中国 課題としての民主化』

2016年07月22日 | 抜き書き
 「第2章 直視されない挫折――天安門事件」より。

 一九八一年以来の党中央の考え方がこの『中体西用』論的なものに近似していたことは明らかだろう。問題はかつて『中体西用』論が破産したように、党中央の考え方もまた破産を強いられたのかという点である。 (「何が挫折したのか――中国・政治改革論者の提起したもの」、同書140頁。もと『世界』1987年3月号掲載)

(岩波書店 2016年3月)

坪井善明 「ヴェトナム阮朝(一八〇二―一九四五)の世界観 その論理と独自性」

2016年07月22日 | 地域研究
 『國家學會雑誌』96-9・10、1983年10月掲載、同誌149-165頁。

 〔阮朝は〕外交関係に於いては、中国に対しては清国を宗主国とし、「越南国王」冊封を受け、朝貢施設を原則として四年に一度北京に派遣した。〔中略〕他方、中国以外の諸外国に対しては、「大南国大皇帝」と称し、多くの国を朝貢国として扱った。
 (152頁)

 「大南国大皇帝」という名乗りは、越南が法ったはずの中華思想および冊封体制に照らすとおかしい。“国”の主は王である。「越南国王」の如くに。そこへさらに“大”を“皇帝”の前に付けるからますますおかしくなる。そもそも皇帝は諸国の王の上、天下(全世界もしくは宇宙)を統べる存在である。そして唯一の存在である。だからそもそも二人を想定しているところから論理が破綻している。しかし逆に言えば「ヴェトナム阮朝の世界観の独自性はそこにあるといえる。
 もっともお手本となった清も、満洲語やモンゴル語の世界ではロシア皇帝を皇帝(ハン)として、清朝皇帝(ハン)と、権威において差はあれ同格の存在として認めていたが、漢語世界ではそのことは知られていなかった。

峰岸明 『変体漢文』

2016年07月21日 | 日本史
 「第1章 変体漢文の概要」によると、変体漢文は以下の三種に類別できるという。

 ①漢文を書くべく書かれた、漢文体の文章であるが、作成者の能力不足によって、なかに和習を含むもの、
 ②漢文様式を用いて日本語の文章を作成するという作成者の意図のもと書かれたもの、
 ③当初から完成形としての仮名文・漢字仮名交じり文が作成者の脳裏に想定されており、そのための手段として漢文体で記したもの。 (以上、同書16-17頁を要約)

 つまり①は作成者が漢文(中国語)を書くつもりで書いたものであるのに対し、②と③はそうではなく、あくまで日本語として認識され書かれたものだということである。

(東京堂出版 1986年5月)

八尾隆生 「黎朝聖宗の目指したもの 十五世紀大越ヴェトナムの対外政策」

2016年07月21日 | 地域研究
 『東洋史研究』74-1、2015年6月掲載、同誌39-75頁。原文旧漢字。

 途中引かれる「裴氏戯墓誌」の文章で、漢語なら「碑文前面(また後面)」とすべきところが、「前面(また後面)碑文」と、ヴェトナム語の「被修飾語+修飾語」の、順行構造の語順になっている(注)ことが、注12で指摘されている。墓誌原文は48-49頁、注12は68頁。

 。『越南漢文小説集成』巻1に「檳榔傳」(『嶺南摭怪』所収)という作品が収録されているが、文中、「國王賜名高,因以高爲姓」というくだりがある(同巻159-160頁)。“名高” は“高名”の逆立ちではないか。訓読すれば、以下の意味となるとすればである。

  国王、「高」の名を賜えば、因りて高を以て姓と為せり。

 ベトナム語は修飾語が被修飾語の後から掛かる、完全な順行構造だから、いま指摘したこの倒置も、ベトナム語の語順にひきずられた結果ではないか。
 ちなみに維基文庫に「檳榔傳」は収録されているが、問題の箇所「國王賜名高」は、「國有賜高侯」と文字に異同がある。だが「國に高(の)侯を賜う有りて」(?)は、文意がよく解せないけれど、「名+高」が「高+侯」と順行構造から漢語本来の逆行構造へと直されていることはわかる。

聶長順 「中日間におけるRevolutionの訳語の一考察」

2016年07月21日 | 東洋史
 『創大中国論集』18、2015年3月掲載、同誌85-110頁。

 中国(19世紀の清)では、「(大)変」「顛覆」「起義」「(大)乱」ひいては「叛(乱)」と、よからぬ価値判断の語が当てられているのに対し、幕末の日本では英和辞書での「回転」「政治ノ改革」あるいは「循環」というおおむね価値中立的な訳語群をへて、やがて元来の意味から違えた――望ましい、積極的に善きものへと――「革命」という訳語があらわれる。この訳語を創りだしたのは1867年の『西洋事情外編』における福澤諭吉であると筆者は指摘する。

西英昭 「中華民国諸法の欧米語への翻訳について 法律顧問・法学者とその活動」

2016年07月21日 | 社会科学
 『法政研究』82-1、2015年7月掲載、同誌256-208頁。

 『大清律例』をはじめ、諸法の翻訳に誤訳はなかったのか、あるいは異言語へ翻訳するにあたってのやむを得ざる語句・概念の追加/省略や、もしくは両言語の語彙や表現の差異による、翻訳後の文全体の意味の変容はなかったのか、という観点からの考察は見いだせなかった。

イワン・コワレンコ著 清田彰訳 『対日工作の回想』

2016年07月21日 | 現代史
 加藤昭監修。(同氏は巻末の解説文も担当。)
 立花隆『ぼくが読んだ面白い本・ダメな本 そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術』(文藝春秋、2001年4月)に推されて。ソ連の目的は日本の中立化だったという点を含め、その内容の巨細にはどの程度信がおけるのであろう。

(文藝春秋 1996年12月)

リチャード・パイプス著 西山克典訳 『ロシア革命史』

2016年07月21日 | 抜き書き
 科学の方法は人間事象の行為に適用できないということを示すことに加え、ロシア革命は、政治の本質についてきわめて深刻な道義的な問題を提起してきた。すなわち、政府が人間という存在を作り変え、社会を改造することを、その委任もなく、その意思に反してさえ、試みる権限があるかという問題であり、言い換えれば、初期の共産主義の「我々は力づくで人類を幸福へと駆り立てよう」というスローガンの正当性である。  (「第16章 ロシア革命への省察」 本書407頁)

 レーニンを親しく知っていたゴーリキーは、レーニンが人間という存在を、金属労働者が鉱石を見るように見ていたということでは、ムッソリーニと意見が一致していた。 (同上)

(成文社 2000年6月)