書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

源了圓 『徳川思想小史』 

2005年04月02日 | 日本史
 同じ著者による『徳川合理思想の系譜』(中央公論社 1972年6月)を読む前の準備。

“彼(佐久間象山)が「(世界を支配するものとしての)力」というとき、その力は軍事力だけではなく、究極的には智力・学力であり、その具体的内容をなすものは科学であり、そこに流れる窮理の精神であったこと、しかも諸科学の基礎になるものは数学(詳証術)である、と彼が考えていたことは見落とさるべきではない” (第九章「幕末志士の悲願」 229頁)

“否定と破壊(明治維新)のあとで、国家という規模で一つの新しいかたちをつくることは、エリートたちの集団をつくることよりも、はるかに困難な仕事であった。というのは、合理的思惟、実証や実験にもとづく実学、経済合理主義、個人主義的意識、そしてその底にある世界史的視野は、徳川思想のすべてを覆うものではなかった” (終章「幕末から明治へ」 254頁)

“明治の近代化過程は、一面西欧化過程であったとともに、それはたんなる西欧化ではなく、徳川時代に形成された伝統の上に生かされた近代化であった。それは徳川時代に形成された伝統を利用するとともに、また伝統によって制約された近代化であった” (同 255頁)

“明治の日本は、帝国主義という世界史的状況の中で「国家の独立」という目的合理性を貫徹するのに、これらの伝統を充分に配慮することを通じて、最も抵抗の少ない道を選んだといえる。それは最も効率の高い、プラグマティックな近代化の道であったが、同時にまた多くの問題をのちに残した「愛憎並存」の近代化への道であった。このとき西欧思想と伝統的な思想や感情とが、どのような手を繋ぎ、あるいはどのように反撥しながら、明治の思想を形成していったか、それは明治思想史の中心的課題である” (同 255頁)

(中央公論社 1984年8月12版)

▲今では不満がある内容だが、以前この欄に書いた源了圓『実学思想の系譜』のメモを自分の手控えとしてここに並べて再録しておく。この本もいずれ再読する。

◆源了圓 『実学思想の系譜』 

 「実学」というものが何を指すのか、案外はっきりしないらしい。
 「実証性と合理性に裏づけられて、われわれの実際生活の役に立つ学問」と一応の定義は出来るとはいえ、ではその“実証性”と“合理性”とは何かということが、今度は問題となってくる。
 著者によれば、日本の「実学」という言葉は、歴史的には、「人間的真実追究の学問、道徳的実践の学問、政治的実践を旨とする学問、実理に裏づけられた実用的な経世済民の学問」(41-42頁)などの多種多様な意味に使われてきたという。
 しかし、と著者は続ける。
“それは雑多な概念の集合かというと、そうでもありません。一見雑多にみえるこれらの概念を貫く一本の糸があります。(略)実に対する虚、偽という概念を対置するときにもっとも明らかになると考えます。実学の実は、虚なるもの、偽なるものにたいする実であり、realとかtrueという意味を内包しております” (42頁)
 ややこしい。読んだだけではよく理解できない。
 要約してみる。
 1.宗教世界から人間世界へと実在観が移ったときに――中国で朱子による新儒学が興った時に――、世俗的な人倫の学として「実学」が発生した。現実の社会における人倫のあり方を、存在論を基礎にして、理論的・実践的に究明する学の体系として再編成されたのが「実学」としての儒教・朱子学だった。つまり、彼岸こそを実在として現世を虚とみる仏教や、現実逃避を旨とする道教とはことなり、現実世界の人倫を重んずるという意味で、「実」学だったのである。朱子学を排撃した陽明学においても、みずからを「実学」と称する立場は変わらない。この「実学」概念が日本へそのままもちこまれる。
 2.のち、これが実証の実の意味に変わってゆく。さらには、実証性と合理性の拠りどころが、儒教のイデオロギーではなく、西洋科学の観察と論理に取って代わられる。
 3.しかし「実学」の意味内容の変遷のなかで一貫しているのは、「有用性」の重視である。実証性・合理性の追求というものが徹底的であれば、結果的には実用性がもっとも高いという、暗黙の前提があった。
 4.この「有用性」にはふたつの捉え方があり、ひとつは有用性とは人間的真実の本質的追求の自然的な結果として到来するものとする考え方である。いまひとつは、有用性そのものを目的とする考え方である。前者は朱子学者、陽明学者、古学者、後者は荻生徂徠の徂徠学派が、これに当たる。
 5.「驚き」というものを学問の動機として「観想(テオリア)」と「実践(プラクシス)」とを峻別し、観想に学問成立の根拠を求めたアリストテレス以来の西洋の哲学的な学問観というものは、日本あるいは東洋の実学思想のなかにはなかった。 
 6.江戸時代中期以降、朱子学およびそこから派生した陽明学の思弁的合理主義ではなく、西洋科学の影響によって現実観察に立脚した実証的・実験的態度と合理的思考態度が現れてくるが、それらは、朱子学が思弁的でありながらもその性格として有していた究理・格物致知といった合理性と実証性を読みかえることで受容されたものである。三浦梅園・山片蟠桃・横井小楠はこのタイプである。幕末にいたっても、佐久間象山のような蘭学者でさえそうであった。
 7.海保青陵になると、儒教イデオロギーを換骨奪胎して現実理解にあてはめることに留まらず、イデオロギーが現実に明らかに適合しないときは、現実を優先させる態度が現れてくる。同時に、海保青陵は、自然法則と人間の倫理規範が結合している朱子学の「理」観念から脱却して、純粋な因果関係の法則としての理を打ち出す。
 8.だが基本的には、江戸時代末まで、日本における実学者の合理性・実証性への関心は、大体において実用的もしくは社会科学的方面に偏っていた。自然科学方面に知的関心を向け、自然観・自然哲学において完全に朱子学的思弁性と決別するのは、福沢諭吉をはじめとする幕末の洋学者になってからである。

(講談社 1986年6月)