書籍之海 漂流記

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小泉仰 「西周の現代的意義」

2013年03月04日 | 日本史
 『アジア文化研究』38、2012、61-74頁所収。
 西が英語superstitionの訳語に惑溺を当てたのは『百学連環』(明治3・1870)においてだったことを知る。福澤諭吉の『文明論之概略』は明治8・1875年、「物理学の要用」は明治15・1882年だから、福澤がこれら(特に後者において)、西の語法に従っていることは当然と言える。
 もともと「惑溺」という言葉は、『世説新語』第三十五の題名である。これは女色に溺れて理性を失った人物の逸話が集められている巻だから、そういう意味なのだろう。少なくともここではその意味で使われているはずである。
 それを日本ではより一般的に、何かに惑わされ、それに溺れて冷静な判断を失うこと(=耽溺)と同様の意味の漢語となった(頼山陽『日本政記』等・『大漢和辞典』「惑溺」によって用例を知る)。さらにこれが明治後になると、上述の西周によって「迷信=信仰・信条によって理性的な判断を失うこと」という意味が付け加わった。
 福澤の使う「惑溺」は、西周の意味に従う場合もあるが(「物理学の要用」)、独自の用法として「現在の社会秩序がアプリオリに正しいと信じ、その『空気』に同調することが倫理的に正しいと思い込むこと」という意味で使うこともある(『文明論之概略』巻之一 第三章「文明の本旨を論ず」。「現在の社会秩序が・・・」の表現は、」池田信夫氏のそれを借りた)。