溝口雄三『中国の公と私』所収「中国における公・私概念の展開」を読んで、黄宗羲『明夷待訪録』にあたる。
“有生之初、人各自私也、人各自利也、天下有公利而莫或興之、有公害而莫或除之。
有人者出、不以一己之利爲利、而使天下受其利、不以一己之害爲害、而使天下釋其害。此其人之勤勞必千萬於天下之人。夫以千萬倍之勤勞而己又不享其利、必非天下之人情所欲居也。故古之人君、量而不欲入者、許由・務光是也。入而又去之者、堯・舜是也。初不欲入而不得去者、禹是也。豈古之人有所異哉。好逸惡勞、亦猶夫人之情也。
後之爲人君者不然、以爲天下利害之權皆出於我、我以天下之利盡歸於己、以天下之害盡歸於人、亦無不可。使天下之人不敢自私、不敢自利、以我之大私爲天下之大公。始而慚焉、久而安焉、視天下爲莫大之產業、傳之子孫、受享無窮。漢高帝所謂「某業所就、孰與仲多」者、其逐利之情不覺溢之於辭矣。
此無他、古者以天下爲主、君爲客、凡君之所畢世而經營者、爲天下也。今也以君爲主、天下爲客、凡天下之無地而得安寧者、爲君也。是以其未得之也、屠毒天下之肝腦、離散天下之子女、以博我一人之產業、曾不慘然曰、「我固爲子孫創業也」。其既得之也、敲剝天下之骨髓、離散天下之子女、以奉我一人之淫樂、視爲當然、曰、「此我產業之花息也」。然則爲天下之大害者、君而已矣。向使無君、人各得自私也、人各得自利也。鳴呼、豈設君之道固如是乎。” (「原君」)
中国人の「公平」とは「皆が平等に利益を得る(得をする)こと」であって、「皆が平等に負担する(損をする)こと」の意味はないのかもしれないと思っていたが、そうでもないようだ。少なくとも理念型としてはこの考え方は存在するらしい。
“有生之初、人各自私也、人各自利也、天下有公利而莫或興之、有公害而莫或除之。
有人者出、不以一己之利爲利、而使天下受其利、不以一己之害爲害、而使天下釋其害。此其人之勤勞必千萬於天下之人。夫以千萬倍之勤勞而己又不享其利、必非天下之人情所欲居也。故古之人君、量而不欲入者、許由・務光是也。入而又去之者、堯・舜是也。初不欲入而不得去者、禹是也。豈古之人有所異哉。好逸惡勞、亦猶夫人之情也。
後之爲人君者不然、以爲天下利害之權皆出於我、我以天下之利盡歸於己、以天下之害盡歸於人、亦無不可。使天下之人不敢自私、不敢自利、以我之大私爲天下之大公。始而慚焉、久而安焉、視天下爲莫大之產業、傳之子孫、受享無窮。漢高帝所謂「某業所就、孰與仲多」者、其逐利之情不覺溢之於辭矣。
此無他、古者以天下爲主、君爲客、凡君之所畢世而經營者、爲天下也。今也以君爲主、天下爲客、凡天下之無地而得安寧者、爲君也。是以其未得之也、屠毒天下之肝腦、離散天下之子女、以博我一人之產業、曾不慘然曰、「我固爲子孫創業也」。其既得之也、敲剝天下之骨髓、離散天下之子女、以奉我一人之淫樂、視爲當然、曰、「此我產業之花息也」。然則爲天下之大害者、君而已矣。向使無君、人各得自私也、人各得自利也。鳴呼、豈設君之道固如是乎。” (「原君」)
中国人の「公平」とは「皆が平等に利益を得る(得をする)こと」であって、「皆が平等に負担する(損をする)こと」の意味はないのかもしれないと思っていたが、そうでもないようだ。少なくとも理念型としてはこの考え方は存在するらしい。