書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

デヴィッド・フィンチャー監督 『エイリアン3』 (1992年)

2010年11月24日 | 映画
 決して嫌いではないのだが、シリーズ4本の中では一番再見の回数が少ない。いかにもイギリス的な、画面の湿度の高さと暗さが、そうそう頻繁に見直そうという気にならない。そんな世界だからと理屈ではわかっているのだが、やはり鬱陶しくて厭になる。
 今回、見直してみて、この第三作が冒頭やはり設定上致命的なミスを犯していることを確認した。今作でとうとうリプリーに取り付くエイリアンのフェイスハガーが生まれてくる卵は、絶対そこ(スラコ号の中)にはありえないのである。
 今作では、前作『エイリアン2』でドロップ・シップの着陸脚格納部に潜んでいっしょにやってきたエイリアン・クイーンが、実は船のどこかにひそかに産みつけていたいうことになっている。しかしエイリアン・クイーンは、到着するとすぐビショップとリプリーに襲いかかったから、そんなことをしている暇はない。よしんば時間があったとしても、あの大気浄化施設から脱出するときに、排卵機能を担っていた下腹部を切り棄ててきたのだから、もはや卵を産むことは生理的に不可能だったはずである。
 それを『エイリアン3』では、産めたことにしてしまった。つまり作品世界のルールを破ったことになる。
 作品を続けるために作品そのものを成り立たせている約束事を曲げるという反則行為(つまりご都合主義)をやられると――しかもここまであからさまに――、あとのストーリーがいくら良くできていても(犬に寄生して犬の遺伝子を取り込んだ犬型エイリアンというのは奇抜で秀逸である)、観る方は醒めてしまって、作品に完全にはコミットできなくなってしまう。

(20世紀フォックス・ホームエンターテイメント 2000年6月)