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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

タキトゥス著 國原吉之助訳 「皇帝ネロ」

2010年05月30日 | 西洋史
 『世界ノンフィクション全集』第29巻所収。

 今と昔とを比較して暇をつぶす老人たちは、次のことに気づいた。国家を統治した歴代の皇帝のうちで、他人の雄弁術を必要としたのはネロが最初である、と。(略)ネロは幼年時代から早々と、彼の活発な精神を、雄弁術とは別な方面に向け、彫刻、絵画、詩歌、馬術の腕をみがいた。ときおり物した詩には詩才の兆が見られた。 (同書16-17頁)

 タキトゥスは、だからどうだとは言わない。彼は、説明ではなく描写に徹している。だから、面白いし再読に耐える。
 ただしこの「老人」たちは、「国家を統治した歴代の皇帝のうちで、他人の雄弁術を必要としたのはネロが最初である」という著者の見識を代弁させるための、もちろん架空の存在であろう。

(筑摩書房 1962年5月)

辻静雄 『フランス料理を築いた人びと』

2010年05月26日 | 西洋史
 エスコフィエとカレーム(キャレーム)についてはむろん詳細に紹介されるが(それからユルバン・デユボワとエドゥワール・ニニョンと)、タイユヴァン Taillevent (ギヨーム・ティレル Guillaume Tirel )のことは、あまり出てこない。14世紀の人だから、古すぎる?
 料理人は料理を作ってそれで終わりではなく、作った料理を盛る皿や、客に食べさせるナイフフォークの類にまで気を配るべきだというのは、その通りだと思う。器で食わせるというのではなく、美味しい料理を作るために注ぐべき精魂は、それに相応しい食器を選ぶところまで及んではじめて完結するということなのだろう。

(中公文庫BIBLIO 2004年4月 もと鎌倉書房 1975年5月)

Thaden 『Russia's Western Borderlands, 1710-1870』

2010年05月19日 | 西洋史
 著者は Thaden, Edward C. (字数超過でタイトル欄に入りきらなかった。)
 志田恭子『ロシア帝国の膨張と統合 ポスト・ビザンツ空間としてのベッサラビア』は、この書をもって、「ロシアにおける民族地域の統合・ロシア化が非抑圧的だったとする理解が一般的となっている」証拠のひとつとする。たしかに、たしかに冒頭近く、これら西部諸県に対する統治政策がロシア帝国全体の辺境政策のモデルになったと概説めいて書いてある。しかしこの書の真骨頂はそれから後、これも志田氏の引くセオドア・ウィークスと同様、西部諸県つまりバルト・白ロシア・ウクライナ東部に限った具体的・実証的研究であるところにある。
 私の見るところ、この書はいわば事例集のようなもので、著者はロシア帝国の民族政策について、あまり一般化・理論化することにはあまり関心がないと見受けられた。「現在もロシア政府があらゆる非ロシア文化を一掃し、ロシア文化や正教に取って替えようとしていたという粗野な説を支持している研究者もわずかにいるが、今やこのような議論は非専門家によって行われる場合が多い。確かに文化的発展能力を直接阻害する差別的な法令を被った民族も存在したが、革命前のロシア政府が、あらゆる非ロシア言語、文化、宗教を根絶するような手段など持っておらず、その願望すら抱いていなかったことは明らかである」とか、「一九世紀の西部および東部辺境に対するロシアの帝国の政策が、首尾一貫し、周到に概念化された民族政策ではなかったという見解は、いまや歴史家たちの間で広く認められているように思われる」といった類の抽象的な結論は提示されていない。

(Princeton University Press: New Jersey, 1984)

「How Russia really won」

2010年04月26日 | 西洋史
▲「Economist.com」Apr 15th 2010 | From The Economist print edition.(部分)
 〈http://www.economist.com/culture/displaystory.cfm?story_id=15905807&source=most_commented

 Russia Against Napoleon: The True Story of the Campaigns of War and Peace (By Dominic Lieven. Viking; 618 pages; $35.95. Allen Lane; £30)の書評。

 うろ覚えだが、萩原延壽氏の『遠い崖―サトウ日記抄』によれば、アーネスト・サトウは晩年、たしか70歳をすぎてからロシア語の学習を始め、約2年後には毎日の時間と分量を決めてトルストイの『戦争と平和』を読み始め、これもまた2年ほどで終了したという。サトウの母語は英語で、英語とロシア語はおなじヨーロッパ言語といってもあまり親近性はないから、2年かそこらでトルストイを読むというのは、70すぎてという点を除いても、超人的といっていい。
 ただいま、そのサトウの顰みにならったというわけではないが、『戦争と平和』を原語で通読中。これまで最後まで読み通したことがなかったので、今度こそはと発願したのである。
 そんななか、なんたる偶然か、この実に面白そうな本のことを知った。本読みには、時々こういう偶然が起こるらしい。他の人にも似たような例を聞く。

  As he pursued his empire’s geopolitical interests, Alexander I managed to rally support from Prussia and Austria, presenting Russia’s invasion of Europe as liberation. In creating this favourable impression of the campaign, the tsar was helped not only by propaganda but by the remarkably disciplined behaviour of his troops who neither stole nor marauded as they advanced through Europe.

  The central point made by Mr Lieven’s witty and impeccably scholarly book is that Russia owed its victory not to the courage of its national spirit or to the coldness of the 1812 winter, as some French sources have argued, but to its military excellence, superior cavalry, the high standards of Russia’s diplomatic and intelligence services and the quality of its European elite. Thanks to the intelligence he obtained, Alexander was able to outwit Napoleon, anticipating his invasion.

  Napoleon’s intention was not to occupy Russia or overthrow Alexander by stirring a domestic revolt against him. He was counting on his superior force and his own military genius to destroy the Russian army swiftly and force the tsar to accept his peace terms. Alexander’s intention, on the other hand, was to destroy Napoleon and break his Grand Armée. Mikhail Barclay de Tolly, his war minister, devised and implemented the strategy of drawing Napoleon deep inside Russia, away from his supply base, exhausting his army by defensive war and then attacking.

 面白そうだ。

R.J.クランプトン著 高田有現/久原寛子訳 『ブルガリアの歴史』

2010年04月11日 | 西洋史
 「ケンブリッジ版世界各国史」シリーズの一つ。

 この本によればブルガリア人とよべる実体が成立したのは10世紀、テュルク系遊牧民の征服者ブルガール人と先住民のスラヴ人が融合した結果だという。時期は第一次ブルガリア帝国(681年-1018年)、彼ら二つの民族を一つに結びつけたのはキリスト教(東方正教会)だった。先にキリスト教を受け入れていた下層の被征服民のスラヴ人に倣うかたちで征服者のブルガール人は改宗した由。
 改宗と共に、支配者の称号も変わった。テュルク系遊牧民らしくそれまで「ハーン」を名乗っていたブルガリア王は、「ツァール」となった(896年、シメオン1世)。
 なお上流階級はテュルク系、下層階級はスラヴ系という同国の複雑な国民構成を繁栄して、ブルガリアでは9世紀頃まで、前者はブルガール語、後者はスラヴ語と、階級によって別々の言語が話されていた。しかし9世紀になって両者の共通語スラヴォ・ブルガリア語が成立する。893年に国家とブルガリア教会の公式言語であることが定められるという形をとってである。ちなみに「ハーン」はブルガール語である。スラヴ語では「クニャーシ」(公)と呼んでいた。
 ここで思い出すのは同時期のロシア(ルーシ)である。キエフ大公国(882年-924年)の支配者も「クニャーシ」と名乗っていた。
 キエフ大公国のクニャーシも、本を辿ればやはりハーンだったのかもしれない。→2009年12月07日「伊東孝之/井内敏夫/中井和夫編 『世界各国史』 20 「ポーランド・ウクライナ・バルト史」 から
 そう思わせる話である。

(創土社 2004年2月)

木村崇/鈴木董/篠野志郎/早坂眞理編 『カフカース 二つの文明が交差する境界』

2010年04月05日 | 西洋史
 中国におけるウイグル人とロシアにおけるチェルケス人は似ている。民族としての実体が明らかでないところ、支配民族から弾圧を受けたところがよく似ている。「ウイグル人」は天山南部のオアシス地帯の定住イスラム教徒の総称、「チェルケス人」は北西カフカース山岳地帯のイスラム教徒の総称である。それが自称ではなく元来他称であるところも同じである。さらには自らの受難を「虐殺(ジェノサイド)」「ディアスポラ」と呼ぶところも似ている。もっともチェルケス人の「虐殺」と「ディアスポラ」は18世紀から始まっているから、こちらのほうが本家なのかもしれない。ちなみにチェルケス人のそれは、規模も、ウイグル人のそれよりも比較にならないほど大きいらしい。宮澤栄司執筆「Ⅰ オスマン帝国の黒海支配とスラヴ世界 第3章 知られざる悲劇の歴史と記憶のはざまで チェルケス人の大追放」、本書81-105頁。

(彩流社 2006年11月)

アレクサンドル・ソルジェニーツィン著 木村浩訳 『収容所群島』 1

2010年02月09日 | 西洋史
 仕事の関係で全巻を通読する必要が生じた。じつに30年振りの通読になる。そこでふと思い立って、現在はどんな評価を受けているのだろうと『ウィキペディア』で調べてみたら、「小説」と形容してあった。これはソルジェニーツィン自身および同じく主としてスターリン時代の強制収容所送りとなったソ連内外の諸民族の回想の集積である。同じく『ウィキペディア』のロシア語版では“文学・歴史的な調査記録”、英語版では "a massive narrative relying on eyewitness testimony and primary research material, as well as the author's own experiences as a prisoner in a Gulag labor camp" としてある。それを“小説”とするのはどういう料簡だろうか。とうに崩壊したソ連に義理立てして、その敵に対する隠微な誹謗中傷工作をまだ行っているのだろうか。スターリンは批判しても良いがレーニンは不可という、頭の中の時計の針が止まった輩の仕業であろうか。今日のロシアでは『収容所群島』は中・高等教育課程の必須教材となっているというのに。
 もちろんこの著作の内容がすべて信用できるわけではなく、たとえばソルジェニーツィン自身が計算した、収容所送りになった人間の数については、多すぎるというボッファの『ソ連邦史』(全4巻、大月書店、1979年11月ほか)の批判がある。また回想につきものの思い違い、記憶の再構成、あるいは明らかな嘘もあるはずである。それを知りたいのだが、こっちは。

(新潮文庫 1975年2月 1981年7月13刷)

H. カレール=ダンコース著 谷口侑訳 『甦るニコライ二世 中断されたロシア近代化への道』

2010年01月07日 | 西洋史
 ロシア帝国は19世紀後半の中央アジア征服およびそれにともなう1895年に英国と妥結したパミール高原南部の国境確定交渉によって、ユーラシア大陸国家としての領土拡大は限界に達していたという観点。本書31-34頁(「第一章 遺産」)。
 ではその後の中国(満洲)への進出は何であったか? 
 どちらかといえば聡明とはいえない優柔不断な皇帝の私利私欲だけの取り巻きが引き起こした、目先の思案だけで結局は国家の大船を覆した愚行だったということだろうか。なぜならそれは、世界の海洋帝国イギリスと競い、その勢力圏を侵す行いだったから。中央アジアでは、ロシアはアフガニスタンは英国のものとして賢明にもひきさがったというのに。

(藤原書店 2001年5月)