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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

王泰平著 福岡愛子監訳  『「日中国交回復」日記 外交部の「特派員」が見た日本』

2013年01月19日 | 政治
 「米国が海外派兵するほうが日本がするよりまし」などという根拠もない思いこみを持った人間は、当時でも特派員、しかも外交部のそれとしては、失格だろう。文革中だからそれでも通ったのかしらん。時代の一証言としては価値があるが、私にはおなじテーマでも先に読むべきものがほかにある。

 (勉誠出版 2012年9月)

金熙徳/林治波 『日中「新思考」とは何か 馬立誠・時殷弘論文への批判』

2012年12月31日 | 政治
 いまとなってはほとんどトンデモ本である。「〔日本では〕むき出しの『中国叩き』が日常的に行われているのと比べ、中国の民族主義はむしろ遙かに穏やかなものである」(金熙徳、23頁)や、日中関係の目指すところは「善隣関係」であり、それは「『不再戦』を具体化しかつ現実化にする〔ママ〕こと」(同、143頁)であるやら、「同じ侵略者であるドイツが侵略の犯罪行為を心から反省できたのだから、日本も当然そうできるはずだ」(林治波、45頁)やら、2012年の大晦日の目で眺めると、噴飯ものである。
 金熙徳・中国社会科学院日本研究所教授(当時)は、結局学匪でその報いがきていまは塀の中(の筈)だし、林治波・「人民日報」評論員(論説委員)(当時)は阿呆の癖に人に上から説教を垂れたがるたわけだからどうでもいいのだが。

(日本僑報社 2003年9月)

汪暉著 石井剛/羽根次郎訳 『世界史のなかの中国 文革・琉球・チベット』

2012年11月21日 | 政治
 再度挑戦、やはりよく分からない。文体も晦渋だし、論旨もよく把握できない。そもそも文革・琉球・チベットというバラバラのテーマが一冊に纏められた理由と三題噺として相互の論理的連関が不明である。それ以前に、中国国内で暮らす中国人に、公の場でこんな“敏感な”問題を語らせても仕方がないと思うのだが。

(青土社 2011年1月)

福澤諭吉 「痩我慢の説」 再読

2012年08月04日 | 政治
 テキストは、『明治十年丁丑公論 痩我慢の説』(講談社学術文庫 1985年3月第1刷 1993年6月第6刷)を使用。

 本文は、有田芳生氏の以下の発言に触発されて書かれたものである。

 「内に痩我慢なきものは、外に対しても亦然らざるを得ず」。福沢諭吉の「痩我慢の説」を読む。維新に当っての勝海舟と榎本武揚の出処進退を批判した論説。勝は答えた。「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候」。福沢が主張した「士風」の保持は現代政治においても重要だ。 (同氏 ‏@aritayoshifu のツイートから

「痩我慢の説」の勝とのやりとりは、六四、ひょっとしたら七三の割合で、福澤が負けていると思う。
 勝は政治家でやるべきことをやり、結果を出した。福澤は言論人で、しかもそれを自覚してのことだが幕末実際運動にはいっさい関わらなかった。元来の土俵が違うから、本当は議論にはならぬのである。
 譬えて言えば今日の池田信夫氏と橋下徹氏の論争のようなものだ。ある地点までくると、話がかみ合わなくなる。

 勝は、明治後もまだやるべきことがあったから新政府に仕えた。それだけのことである。そのためには二君に仕えるなど些事であったと思われる。もっとも将軍は天朝の家来であったのだから二君に仕えるわけではないと、一面ひどく横着なこの人物は、そういう風に割り切っていたかも知れない。
 だが榎本は違う。「飽くまでも徳川の政府を維持せんとして力を尽し、政府の軍艦数艘を率いて箱館に脱走し、西軍に抗して奮戦したれども、ついに窮して降参したる者なり」(「痩我慢の説」)。それだけならよいが、敵の黒田清隆が助命を運動したおかげで赦免されて、それを恥じるところがない。少なくとも福澤はそう見た。
 勝の場合、敵からも味方からも裏切者扱いされた。身辺に危険がせまったこともある。

 そもそも福澤がこの「痩我慢の説」をなぜ書く気になったかといえば、静岡清水興津に明治20年に建立された『咸臨艦殉難諸氏紀念碑』に榎本が寄せた、「食人之食者死人之事」の揮毫である。この碑を見た福澤が、主の仇に助命されておめおめと生きているどころかその仇に仕えた榎本のような人間が、「人の禄を食む者は人の事に死す」などとよくも言えたものだと激怒したのが執筆の動機だった。要は榎本個人に対する怒りであり、さらにはっきり言えば個人攻撃である。勝とは本来関係がない。福澤はなぜ勝まで批判の対象したのであろう。
 或いは、感情に任せて筆を執ったはいいが、考え直してより広い視野から、国家への忠誠という問題の文脈のなかで論じることにしたのかもしれない。この辺りはいかにも福澤らしい、自制心の勝った、理性的なところである。
 だからこそ「立国は私なり、公にあらざるなり」という劈頭言が出てくるわけである。忠君愛国を「痩我慢」と称するユーモアも此処から生まれて来くるのだろう。
 そして、この感覚は、勝海舟の「人民を離れて尊王を説くのはそもそも末だワイ」(『氷川清話』)と同一である。ならば何故勝を?と、疑問はいや益さざるを得ない。
 
 もっとも事情は簡単な事で、榎本を忠君愛国の価値で公正に批判する為には、公平の為に勝を取り上げざるを得なかったのかもしれない。確かに、この基準で計れば、二人は“同罪”である。だが先にも触れたように、この基準はあまりにも目の粗いもので、二人の違いを為す決定的な所以を取りこぼしている。

 福澤の批判に対し榎本が「昨今別而多忙に付いづれ其中愚見可申述候」といわば逃げたのに対し、勝が「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存じ候」と正面からたたき返したのは有名な話である。これはもともとお互い土俵が違うのだという意識の現れであったろう。
 しかし勝のこの返事は、いわば武士の情けで、これ以上は福澤に敢えて言わぬという気分が籠められていると見えなくもない。「立国は私なり、公にあらざるなり」、まことに仰せの通りだ、なんとなれば「人民を離れて尊王を説くのは、そもそも末」だからね。ならば公のために働く者が、私にかかずらって忠君愛国、痩我慢する必要がどこにあるのかいお前さん、福澤先生、と。

安田浩一 『ネットと愛国』

2012年05月11日 | 政治
 著者の型どおりの結論はべつとして、著者の取材とそこから浮かび上がってくる材料から判断するに、彼らは幕末なら足利将軍の木像を梟首して気勢を揚げてみたり、京都守護職本陣となっていた黒谷金戒光明寺の門前で会津藩の名前が記された看板を見て、「クァイヅ?クァイヅとはどこの藩じゃ」などと徳川家の親藩御家門に向かって騒いでいた草莽の志士になっていただろうという感想。あるいは司馬遼太郎『花神』に出てくる大楽源太郎や神代直人の類。彼らに会いに行った安田氏はさしづめ村田蔵六であろう。だから氏の判断とはべつに、私の感想は蔵六と同じ。ざっとあんなものか。

(講談社 2012年4月)

「私を誹謗中傷する怪文書が流れ出した(笑)」

2012年02月15日 | 政治
▲「有田芳生の『酔醒漫録』」2012/02/15。
 〈http://saeaki.blog.ocn.ne.jp/arita/2012/02/post_89ea.html

 ブログには問題の怪文書のファクス原本がそのままアップロードされている。“ある言い回しや文体もふくめどんな組織が送っているかが容易に推測できる”と氏は言われるが、私には不敏にしてわからない。ただこの怪文書の末尾ちかく(3枚目)、「このような人物をオウム事件のコメンテーターとして用いる事に多くの国民が不快感を持ち、怒りさえ感じています」とあるのには、それこそ激しく不快感を覚える。“多くの”と限定はつけてあるものの、勝手に他人を代表するな。私も貴方も、代表できるのは自分だけだ。学校教育のすべてとはいわないが、もっとも大切なことは、この「自分は自分、他人は他人」ということを教えることではないか。そして「他人は他人、自分は自分」とひっくりかえして併せたこの二つの自覚で、「個性尊重」あるいは「個人主義」の半分は完成する。あとの半分は「私と貴方は違うからこそ、社会共通のルールをまもって、お互いに迷惑をかけないようにしよう」だ。

トロツキイ著 桑野隆訳 『文学と革命』 上下

2012年01月22日 | 政治
 トロツキーというのは精神が痩せた人だったようだ。昆虫のような印象を受ける。精神のふくらみのなさは、いくら知識があっても、文章やレトリックを飾っても、変わるものではない。この人は革命は語っても文学を語るべきではなかった。文学はまず味わうべきもので、最初からピンセットで分類するべきものではない。

(岩波書店 1993年6月)

「防衛相『年内』一転修正 『期限設けぬ』」

2012年01月17日 | 政治
▲「沖縄タイムス」2012年1月17日 09時47分。
 〈http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-01-17_28605/

 どんなことを言っても“修正”すればナシになるというルールがわからない。これは政治の世界だけでなく、一般人の世界でもそうだ。とくに会社関係。私にはご都合主義、嘘、ズルとしか思えない。わからないから私は一人で仕事をしている。向こうもこんな奴が入ってきたら迷惑するだろう。

「石垣2市議ら尖閣上陸『国に問題提起』」

2012年01月04日 | 政治
▲「沖縄タイムス 」2012年1月4日 09時31分。
 〈http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-01-04_28102

 国が、争う余地のない自国領土と認めている以上、上陸しても何ら問題はないと私は思う。ただ隣国との外交(軍事)関係上まずいからそれは禁止としているだけという、まさに理屈の上ではおかしな話だからである。ただ、国と国民には確かにそのおかしさを突いて問題提起にはなったかと思うが、中国との関係においては波風を立てたのも否めない。それもまた目的だったのかもしれないけれど。時を同じくして中国側からも同様の船があたかも出ようとしていたのだし(あちら側の当局に阻止されたが)。意地悪く観察すれば、そうほう気勢だけ上げさせて実際には行動させないことで痛み分けしようとしていたのに、こちら側だけやった、紳士協定破りだと、あちらを怒らせた、そしてそれを望む向きがもしかしてあったか、と。