山口恭弘先生

2015-09-25 19:49:30 | 塾あれこれ
私が30を過ぎて山口塾にお世話になった頃
塾長は50代、広島市では超有名な進学塾を
一人で「経営」されておいででした。

もちろんサポート役は何人もおられます。

でも、あのワンマンは筋金入りでしたね。

皆がピリピリしていました。
「今日は己斐教室に行ってるから、楽」なんてね。

私が存じ上げているだけでも十数年間はそうだった様です。
その後、かなり柔らかくなられてから「教育とは」などと、
似合わない言が増えたように思います。←失礼

それまでは、進学請負、専門でしたから。

もちろん、学校教育には大変な目配りもされていましたが
受験の方で手いっぱい、というのが正直なところでしょう。
休みの日がないのです。

われわれは週1で休みを戴いていましたが
塾長は休日一切なし。年中無休。

ワンマンでなけりゃやってられませんね。

バイト時代から始まって長い間講師を続けた方がおられます。
塾長をよく知るその方がぽつりと
「こんなに大きくしたのは塾長の本意じゃなかった。
 できれば小さな規模で教えるだけ、が良かったのでは」

会社経営なんて好きじゃなかった、しかしいつの間にか
それをしなければならない大きな塾になっていた、ようです。

五日市の昔を知る人は、塾長と奥さまの強烈な
ラブストーリーをご存じです。
塾の歴史もそれと並んで始まったのです。

後年の「固い」イメージとは正反対ですね。
ともかく情の篤い方でした。

「情」は会社経営には邪魔になることがあります。

経営上の決断で、Aを採りBを切り捨てる事があります。
本来はしたくないことをする必要に迫られるのです。

私はその「切り捨て」が大嫌いです。
つまり会社には一番向かないタイプですね。

塾長が、泣く泣くではあれ決断されたBの切り捨てが
私には気にいりません。
山口塾の講師で、たぶんただ一人、目立って反抗しました。

「情」の塾長はご機嫌斜め。
イタイところでしたから。
「分かってて反抗してる」のも分かるから余計に腹がたつ。

(もし私自身が塾長の立場にあれば同じことをするのに)


けれども馘首にはなりませんでした。
そこも「情」なんでしょうね。

「そこまで仰るんならクビにされたらどうですか」
「で、キミはどうするんだ」
「目の前に対抗塾を開きます」
「そこまで言わなくても」
「じゃあどうしろと仰るんですか」
「君が自分で考えてくれ」

中学部で、塾内塾のような進学クラスを設けたのも
そんなイキサツからでした。

体力と知力の一番高い時期をそこで費やしました。
早く独立していたら、と考えることもあります。
塾の他の講師は喜んだと思います。


塾を辞めてからの方が、しばしばお話をできました。

電車の中、などでばったり出会うのです。
すっきりとお話が出来ました。

(こちらが本当の塾長なんだ)・・ホントもウソもないけど。

一年ほど前、広電の宮島線でお会いしました。

「お久しぶりです。お元気そうで」
から始まる15分ほどの会話、終わる辺りになって私に向かい
「ところで、お名前は何と言われましたっけ。
 最近、物忘れが強くて。申し訳ないです。」

病気が進んでおられたのです。

絶句しました。
とっさに反応したとは思いますが絶句の修正は難しい。

でも、お嫌いな井上も消えてしまったので
それはそれで、どこかホっとしてます。
「あいつは嫌じゃった」とお思いになってたら、ね。

病気には勝てません。

人間関係の良い認知症のようでした。
やはり人間の根幹が出るのでしょうか。

山口恭弘氏死去

2015-09-25 09:41:42 | 塾あれこれ
山口恭弘、初代山口塾長が8月に亡くなられました。

葬儀はごく身内で行われ、49日が過ぎたので
連絡を頂戴しました。

静かにご冥福をお祈りしたいと思います。

ご高齢ゆえ、いつかはと思う事も失礼ながら
ありましたが、それにしても突然です。

長い間、認知症の傾向がおありでしたが
それ以外は病気もなく、亡くなられる直前まで
しっかりされていたそうです。

大往生ですね。


お線香は手向けたいと思いますが
ばらばらに来客や電話があるのも申し訳ないし
かといって世話になった講師が纏まってというのも
それはそれで故人の遺志に反する気がします。

香典などもご遠慮されるでしょう。
葬儀をされなければ実際問題としても、そうです。

だけれどもこちらの気持ちとしては
ではどうすべきか、難しいところです。


長いようで、あっという間の人生。

お世話になったことなど、しみじみ思いだしています。