私が30を過ぎて山口塾にお世話になった頃
塾長は50代、広島市では超有名な進学塾を
一人で「経営」されておいででした。
もちろんサポート役は何人もおられます。
でも、あのワンマンは筋金入りでしたね。
皆がピリピリしていました。
「今日は己斐教室に行ってるから、楽」なんてね。
私が存じ上げているだけでも十数年間はそうだった様です。
その後、かなり柔らかくなられてから「教育とは」などと、
似合わない言が増えたように思います。←失礼
それまでは、進学請負、専門でしたから。
もちろん、学校教育には大変な目配りもされていましたが
受験の方で手いっぱい、というのが正直なところでしょう。
休みの日がないのです。
われわれは週1で休みを戴いていましたが
塾長は休日一切なし。年中無休。
ワンマンでなけりゃやってられませんね。
バイト時代から始まって長い間講師を続けた方がおられます。
塾長をよく知るその方がぽつりと
「こんなに大きくしたのは塾長の本意じゃなかった。
できれば小さな規模で教えるだけ、が良かったのでは」
会社経営なんて好きじゃなかった、しかしいつの間にか
それをしなければならない大きな塾になっていた、ようです。
☆
五日市の昔を知る人は、塾長と奥さまの強烈な
ラブストーリーをご存じです。
塾の歴史もそれと並んで始まったのです。
後年の「固い」イメージとは正反対ですね。
ともかく情の篤い方でした。
「情」は会社経営には邪魔になることがあります。
経営上の決断で、Aを採りBを切り捨てる事があります。
本来はしたくないことをする必要に迫られるのです。
私はその「切り捨て」が大嫌いです。
つまり会社には一番向かないタイプですね。
塾長が、泣く泣くではあれ決断されたBの切り捨てが
私には気にいりません。
山口塾の講師で、たぶんただ一人、目立って反抗しました。
「情」の塾長はご機嫌斜め。
イタイところでしたから。
「分かってて反抗してる」のも分かるから余計に腹がたつ。
(もし私自身が塾長の立場にあれば同じことをするのに)
○
けれども馘首にはなりませんでした。
そこも「情」なんでしょうね。
「そこまで仰るんならクビにされたらどうですか」
「で、キミはどうするんだ」
「目の前に対抗塾を開きます」
「そこまで言わなくても」
「じゃあどうしろと仰るんですか」
「君が自分で考えてくれ」
中学部で、塾内塾のような進学クラスを設けたのも
そんなイキサツからでした。
体力と知力の一番高い時期をそこで費やしました。
早く独立していたら、と考えることもあります。
塾の他の講師は喜んだと思います。
○
塾を辞めてからの方が、しばしばお話をできました。
電車の中、などでばったり出会うのです。
すっきりとお話が出来ました。
(こちらが本当の塾長なんだ)・・ホントもウソもないけど。
一年ほど前、広電の宮島線でお会いしました。
「お久しぶりです。お元気そうで」
から始まる15分ほどの会話、終わる辺りになって私に向かい
「ところで、お名前は何と言われましたっけ。
最近、物忘れが強くて。申し訳ないです。」
病気が進んでおられたのです。
絶句しました。
とっさに反応したとは思いますが絶句の修正は難しい。
でも、お嫌いな井上も消えてしまったので
それはそれで、どこかホっとしてます。
「あいつは嫌じゃった」とお思いになってたら、ね。
病気には勝てません。
人間関係の良い認知症のようでした。
やはり人間の根幹が出るのでしょうか。