朝日新聞に中西寛氏へのインタビュー記事が
載っていました。
多量の活字を消費しながら内容のないものでしたね。
現在は幕末や明治のとある時期と似ているのだそうです。
笑っちゃいますよね。
マジ?
似ている点をいくつか挙げればよいわけかな。
こういうのには気を附けないといけません。
偉い方が上から目線で「~なのだよ」
我々素人は反論のしようがありません。
で、独自の解釈が続くのです。
小説家のエッセイならまだしも学者でこれですか・・・
○
巧妙なレッテルを貼っています。
「感情論ではなく現実を見て議論を」だって。
安保法制に反対する側は、感情的だとのレッテル。
根拠は、ご自分の意見とは違うから、らしいのです。
随分とエライ先生なのですね。
根拠のない分析はどこから来るのでしょう。
調べもせずに断じていると思われます。
そもそも、「自分は論理的だから正しい」
「反対意見は感情的で相手にならない」という考え自体が
ずいぶんと御粗末なものです。
しかし根拠のない悪口としてのインパクトはあります。
中学生や高校生の議論のレベルを思わせますね。
○
論理と感情は相反するものではありません。
論理の出発点には感情があるのですから。
民主主義は良し、これも感情が裏打ちしています。
国を語るには国際政治を知るべき、
「べき」、これも感情的ですよね。
価値感の出発点は、感情に基盤があります。
そこから論理が働くのですが、その路みちも
価値感、感情、が支えます。
だからこそお互いの考えが理解しあえるのです。
○
国際政治の現状をルル述べておられますが
それも一定の視線からです。
パワーポリティクスの分析と、危機感を吹聴するのとは
細心の注意を働かせて区分せねばならないのです。
過度の隣国警戒説は国内のファッショ主義者に利するだけ。
日本の外交官僚の無能をこそチェックすべきでしょう。
もちろんクールな分析も必要です。
ただ「平和」と唱えていれば何とかなる、とは言えません。
しかし、片方の目に理想を捉えておくのも国際政治では
大切なことです。
人間に関わることだから。
載っていました。
多量の活字を消費しながら内容のないものでしたね。
現在は幕末や明治のとある時期と似ているのだそうです。
笑っちゃいますよね。
マジ?
似ている点をいくつか挙げればよいわけかな。
こういうのには気を附けないといけません。
偉い方が上から目線で「~なのだよ」
我々素人は反論のしようがありません。
で、独自の解釈が続くのです。
小説家のエッセイならまだしも学者でこれですか・・・
○
巧妙なレッテルを貼っています。
「感情論ではなく現実を見て議論を」だって。
安保法制に反対する側は、感情的だとのレッテル。
根拠は、ご自分の意見とは違うから、らしいのです。
随分とエライ先生なのですね。
根拠のない分析はどこから来るのでしょう。
調べもせずに断じていると思われます。
そもそも、「自分は論理的だから正しい」
「反対意見は感情的で相手にならない」という考え自体が
ずいぶんと御粗末なものです。
しかし根拠のない悪口としてのインパクトはあります。
中学生や高校生の議論のレベルを思わせますね。
○
論理と感情は相反するものではありません。
論理の出発点には感情があるのですから。
民主主義は良し、これも感情が裏打ちしています。
国を語るには国際政治を知るべき、
「べき」、これも感情的ですよね。
価値感の出発点は、感情に基盤があります。
そこから論理が働くのですが、その路みちも
価値感、感情、が支えます。
だからこそお互いの考えが理解しあえるのです。
○
国際政治の現状をルル述べておられますが
それも一定の視線からです。
パワーポリティクスの分析と、危機感を吹聴するのとは
細心の注意を働かせて区分せねばならないのです。
過度の隣国警戒説は国内のファッショ主義者に利するだけ。
日本の外交官僚の無能をこそチェックすべきでしょう。
もちろんクールな分析も必要です。
ただ「平和」と唱えていれば何とかなる、とは言えません。
しかし、片方の目に理想を捉えておくのも国際政治では
大切なことです。
人間に関わることだから。