青池寛一『シベリア抑留記』

2010-12-28 15:27:03 | 塾あれこれ
青池寛一さん、どのような方か存じません。

マル3年前の12月、母が急死し遺品の整理を
していたところ10頁ほどのコピーが出てきました。

それが上記の青池寛一『シベリア抑留記』です。

想像するに、デイケアか、老人クラブの知人の中に
シベリア抑留をされた方がおられたのでしょう。
或時にスケッチを御持ちと聞き、それをコピーさせて
もらったのではないでしょうか。

ご覧のように簡単な線画と薄い彩色です。
かえって当時の空気が伝わるような気がします。

父も長生をできていれば何か語ったでしょうか。


家族だからあえて言いますがトンデモナイ父親でした。
特に酒に酔うとヒドイ。

いつも夫婦喧嘩をしていましたね。
子供はみんな母の味方です。

シベリアの体験、体の不調、没落しかかった家系の重圧
などから、酒に逃避していたのでしょう。
大人になってからは多少分からなくもないのですが
実に嫌なものでした。

私自身が還暦を過ぎて改めて思うのですが
一番嫌だと思っていたのは父自身でしょう。


大変に厳しい人間でしたが、その父から暴力を振るわれた
ことは一度もありません。
他の兄弟も同様でしょう。母にもなかったはず。

一度、軍隊のひどさを語ったことがありましたから
その非人間性を否定し、自分で暴力をふるうことを
禁じたのでしょう。

中学では野球部、軍隊では下士官でしたから、暴力とは
「縁がある」世界にいたはずですが。

そのような人間が極限状況を体験すればどうなるか。
3度シベリアの冬を越し、体調を崩し帰国できたわけです。

それだけでは済まず、死ぬまで引きずっていた。

こんなことは人間世界から永遠に追放したいものですが
国際社会の様子を見ると、逆の方向に進んでいるようです。


父が亡くなる半年前くらいに、ほぼ離婚に近い別居となり
サラリーマンになっていた私は東京で
「それもやむをえないか」と思っていました。

あっけなく亡くなった後
葬式だの仏壇だの、予想もつかなかった母の行動に
夫婦とは子供からは分からないものだと思いました。

何十年もたって遺品からコピーをみつけ、改めて

「分からないもんだなあ、あれだけ喧嘩してたのに」


もっと話を聞いておけばよかった。