日本の学力は訓練したりマル覚えに頼ることで
支えられているようです。
自分の頭で考えるということが今一つ。
自由に発想させ(手前勝手ともいいます)独創的な
世界を作り上げることは挑戦されることも多そう。
・・ですが、キチンと読みとり・考え・表現することは
どうも苦手なようです。
そこでこれからの学校ではディベートをさせようという
考えもあるようです。
ただ、現状のままディベートの形をとらせても感情的な
世界が渦巻くだけになりはしないでしょうか。
なにしろ大人の世界でも、他人の言うことに習い
世間でどう言われているか、ランキングがどうか、に
ばかり関心が向いているのですから。
・・子供も同じ。
○
考えるには、論理が大切です。
正しさの裏付けになるからです。
論理的であればそれだけで正しいとは言えません。
でも、論理が狂っていれば正しいとはみなせないので
どうしても必要な力になるのです。
中学の時だったか「逆は必ずしも真ではない」と習い
感動したものです。
けれどもそれから先の論理学の世界にはとても入れ
ませんでした。
難しいですよね。
論理的であるためには論理学は必ずしも必要ではない
ような気もします。(←シロート考えですが)
話はずれますが
論理で進む世界でも、例えば学者の世界では皆さんが
論理的であろうとされているハズです。
そこはでしばしば論争が起きています。
片側が正しければ反対側は間違っている衝突も多い。
ということは論理的であってもそれだけでは正しいと
言えないと云うことの証明になりますね。
論理的であるだけではダメなのです。
ただ、だから論理は不必要とは言えません。
正しさのよりどころの一つだから。
○
ついでに言っておきますと、論理的であるかどうかに
引っ張られすぎますとモノが見えなくなることもあり
ますから、注意が必要です。
直観も大切。
人間の感性もバカになりませんし
悪賢い奴らに言い含められることもありません。
官僚などの言うことはマユツバが多いですよね。
論理の暴力に負けないようにしなくてはなりません。
○
論理力を高めるためには日々の生き方が大切です。
親が論理的であろうとすれば子供へ教育できます。
反対に「どこかで勉強して来な」で論理から離れた
日常を続けていては子供に力がつくものではない!
日本人は感性が豊かだし、ギスギスした感情を避け
たがりますから、論理づくめということが難しい
のではありますが。
○
それにしても、普通に考えることができない。
できないのではなくてサボっているような感じ?
皆と同じことを言っていれば失敗が少ないのです。
ケンカも避けられます。
楽ですよね。
新聞が云う通り。TVで誰それが云った通り。
一種の権威付けがあるのですから。
でもね、論理的であると云うことは、まず自分自身に
向かって納得がないと成立しないことなのです。
自分が満足しない論理というものはありえません。
他人の論理の破綻に気付きやすいのは、そこに自分の
納得が存在していないからです。
新聞の言う通りしゃべっても形式的であるならばそれは
論理的ではありません。
形だけのものだから。
論拠の奥には自分自身の存在が必要なのですね。
いや、ご心配なく。
だれにでも自分はありますから、それを認識すればよい
だけの話です。
そうして日々、論理的であろうと意識し始めれば
自分と言うものが見えてきます。
難しいことを考える必要はありません。
普通に思い、淡々と考えを巡らせればよいのです。
情報や知識、目配りの広さは後からついてきます。
身の丈だけの論理性があればよいのです。
次第にレベルは上がってきます。
別にインテリが独占する特別なものではないのです。
○
論理的であるためにはリスクをとる必要があります。
自分で考えたことの多くには破綻もあるはずです。
「改むるに憚ることなかれ」
細かく恥をかけばよいのです。
しばしばチェックしてみればよいのです。
間違えていたら素直に直せば宜しい。
人さまを頼ることは止めましょう。
孤立を恐れてはなりません。
だって、自分で考えてたら、ある部分はウヨクになり
ある部分はサヨクになり、宗教的になったり
冷淡になったり、自分が奇妙な寄せ集め細工になる
恐れが強いからです。
逆にそういう人は自分を探している方であることが
多いでしょうね。
考えている証拠とまでは言いませんけれども。
世間の意見と自分のそれが同じ場合は要注意です。
あえて反対の意見や極論を考えてみましょう。
気に入らない人の意見も聞きましょう。
ハラたつけれどね、その人を説得論破するには
何をどう云えばよいか考えるのです。
テレビに向かってブツブツ言う自分は気持ち良い
ものではありませんが、ねえ。。。。
支えられているようです。
自分の頭で考えるということが今一つ。
自由に発想させ(手前勝手ともいいます)独創的な
世界を作り上げることは挑戦されることも多そう。
・・ですが、キチンと読みとり・考え・表現することは
どうも苦手なようです。
そこでこれからの学校ではディベートをさせようという
考えもあるようです。
ただ、現状のままディベートの形をとらせても感情的な
世界が渦巻くだけになりはしないでしょうか。
なにしろ大人の世界でも、他人の言うことに習い
世間でどう言われているか、ランキングがどうか、に
ばかり関心が向いているのですから。
・・子供も同じ。
○
考えるには、論理が大切です。
正しさの裏付けになるからです。
論理的であればそれだけで正しいとは言えません。
でも、論理が狂っていれば正しいとはみなせないので
どうしても必要な力になるのです。
中学の時だったか「逆は必ずしも真ではない」と習い
感動したものです。
けれどもそれから先の論理学の世界にはとても入れ
ませんでした。
難しいですよね。
論理的であるためには論理学は必ずしも必要ではない
ような気もします。(←シロート考えですが)
話はずれますが
論理で進む世界でも、例えば学者の世界では皆さんが
論理的であろうとされているハズです。
そこはでしばしば論争が起きています。
片側が正しければ反対側は間違っている衝突も多い。
ということは論理的であってもそれだけでは正しいと
言えないと云うことの証明になりますね。
論理的であるだけではダメなのです。
ただ、だから論理は不必要とは言えません。
正しさのよりどころの一つだから。
○
ついでに言っておきますと、論理的であるかどうかに
引っ張られすぎますとモノが見えなくなることもあり
ますから、注意が必要です。
直観も大切。
人間の感性もバカになりませんし
悪賢い奴らに言い含められることもありません。
官僚などの言うことはマユツバが多いですよね。
論理の暴力に負けないようにしなくてはなりません。
○
論理力を高めるためには日々の生き方が大切です。
親が論理的であろうとすれば子供へ教育できます。
反対に「どこかで勉強して来な」で論理から離れた
日常を続けていては子供に力がつくものではない!
日本人は感性が豊かだし、ギスギスした感情を避け
たがりますから、論理づくめということが難しい
のではありますが。
○
それにしても、普通に考えることができない。
できないのではなくてサボっているような感じ?
皆と同じことを言っていれば失敗が少ないのです。
ケンカも避けられます。
楽ですよね。
新聞が云う通り。TVで誰それが云った通り。
一種の権威付けがあるのですから。
でもね、論理的であると云うことは、まず自分自身に
向かって納得がないと成立しないことなのです。
自分が満足しない論理というものはありえません。
他人の論理の破綻に気付きやすいのは、そこに自分の
納得が存在していないからです。
新聞の言う通りしゃべっても形式的であるならばそれは
論理的ではありません。
形だけのものだから。
論拠の奥には自分自身の存在が必要なのですね。
いや、ご心配なく。
だれにでも自分はありますから、それを認識すればよい
だけの話です。
そうして日々、論理的であろうと意識し始めれば
自分と言うものが見えてきます。
難しいことを考える必要はありません。
普通に思い、淡々と考えを巡らせればよいのです。
情報や知識、目配りの広さは後からついてきます。
身の丈だけの論理性があればよいのです。
次第にレベルは上がってきます。
別にインテリが独占する特別なものではないのです。
○
論理的であるためにはリスクをとる必要があります。
自分で考えたことの多くには破綻もあるはずです。
「改むるに憚ることなかれ」
細かく恥をかけばよいのです。
しばしばチェックしてみればよいのです。
間違えていたら素直に直せば宜しい。
人さまを頼ることは止めましょう。
孤立を恐れてはなりません。
だって、自分で考えてたら、ある部分はウヨクになり
ある部分はサヨクになり、宗教的になったり
冷淡になったり、自分が奇妙な寄せ集め細工になる
恐れが強いからです。
逆にそういう人は自分を探している方であることが
多いでしょうね。
考えている証拠とまでは言いませんけれども。
世間の意見と自分のそれが同じ場合は要注意です。
あえて反対の意見や極論を考えてみましょう。
気に入らない人の意見も聞きましょう。
ハラたつけれどね、その人を説得論破するには
何をどう云えばよいか考えるのです。
テレビに向かってブツブツ言う自分は気持ち良い
ものではありませんが、ねえ。。。。